100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「出会いふれあい」編 オーストリア人の親切

2024年07月27日 07時52分48秒 | 出会いふれあい

 2001年のオーストリアのグラーツでの午後が自由時間でした。グラーツから列車で3つ目の駅シュツビングというところにあるオーストリア野外博物館に出かけることにしました。まず切符を買うのに一苦労。時間がよくわからないので通りかかりの日本人に助けを求めましたが掲示板を見ればわかるでしょう、とさっさと行ってしまいました。プラットホームにいた実直そうな家族に尋ねて自分の理解していた時刻とは違っていたことに気付き博物館の入場時間に間に合わないことが分かりました。しかし博物館の外観だけでもと長時間待って列車に乗り込みました。降りるのを間違わないようにとこの家族に頼むと降り口まで案内してくれました。降り口のドアーは自動でなく手動でした。降りた駅は無人駅でした。帰りの列車で切符を買おうとしましたが車掌が来ないのでそのまま改札口がないので無賃乗車でした。実はイタリアでもありました。アッピアを自由時間で出かけ帰りのバスを切符なしで降りたことがありました。
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「奇跡!90歳になります」

2024年07月24日 07時52分31秒 | エンディングノート

 明日25日に90歳になります。幼少時より病弱(小1年腎盂炎、小3年肋膜炎)18歳で発病今日まで悩まされているリュウマチ。その後、盲腸炎、扁桃腺炎、胆嚢炎、白内障、脊椎管狭窄症、大腸がんを発症、現在肺がんの疑い(精密検査拒否)、などに悩まされ90歳まで生きてきました。
  3か所の職場を転々としました。そのうち2つの職場で労働組合を結成しました。そのうち1つの職場で解雇されました。お節介労働組合結成は3回。
 兄弟姉妹なしの90年間の内66年は全くの一人生活、結婚生活は6年子供は1人、しかし、チェコのプラハで30歳で自殺。現在、音信のある親族知人は皆無。どう考えても幸せの一生とは言えません。しかし本人は「自分は意外にラッキーな人生だったかも」とも思うことがあります。
 何はともあれ、60歳から85歳にかけての103ヶ国53回の海外旅行は最大の幸福の時間でした。
 昨年末から老化が急速に深化して自転車には乗れなくなり歩行もかなり困難になり、ゴミ捨て場への往復100mがかなりの重労働です。食事は自分で料理しますが台所に立つことがかなり苦痛になっています。材料は生協に1週間に1度電話をして配達してもらっています。
 要介護1の認定を受け、訪問介護で週に1度1時間で掃除などと、生協で購入できないものなどを買ってきてもらっています。そして「予防型通所介護サービス」に週2回(1回3時間)通っています。
 暇つぶしはこのブログと日本棋院のネットでの碁打ち。以前は4段〰5段、今は3段。仲邑菫ちゃんを応援しています。山下敬吾9段の幼少時代の可愛い面影を忘れることができません。
読書は極度に減少。1年ほど前までは1年70冊前後(最近では小説類はあまり読まない)
晩酌は毎日。週3回日本酒(1回360㏄)週4回ワイン(1回2分の1ボトル)
 冒頭写真は生後32日体重1貫5匁の私です。
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「出会いふれあい」編 ネパールのポカラにて

2024年07月21日 07時50分50秒 | 出会いふれあい

ポカラ(ポカラは本当にのんびりできるところ「地球の歩き方p143」)のシャングリラ・ビレッジホテル(ナチョラル志向のしゃれたインテリア「地球の歩き方p151」)で昼食。ホテルの近くでゲームしている人に出会いました。(写真上)わたくしはなぜかこのような風景(万国共通?)に出会うと何となく郷愁(?)を覚えます。というわけで世界各地で見かけたゲームを撮影しいくつか紹介しています。もちろんその名前もルールも知りません。時にゲームの名前、ルールをご存じの方がいらっしゃってコメントをいただくこともあります。今回もこのネパールのゲームの名前をご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。
 このホテルの土産物店で店の若者と仲良くなりました。後日この写真を送りました。この若者がわたくしの腕時計と自分の腕時計を交換してくれといい交換しました。わたくしの腕時計は1000円の安物で彼の方が高価のようでしたが。今でもちょっと良心が痛む感じです。
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「出会いふれあい」編 ネパール学校訪問

2024年07月18日 07時52分56秒 | 出会いふれあい

 前回紹介した若夫婦から別れたのちまた街中をぶらついていたら学校がありその校門に“ESHABLISHED2017” (創立2017年)とあり”??“(当時西暦2001年)なんとなく興味がわき非礼だとは思ったのですが、訪問しました。日本では不法侵入者として警察沙汰になるところでした。しかし大歓迎を受けました。どうもこの学校は外国からの援助で出来ているようで、外国人は歓迎という様子でした。校長先生まで出てきて色々説明を受けましたが、英語なので殆ど分かりませんでした。小学生たちは起立して歓迎?をしてくれました。職員室にまでお邪魔しました。
ESHABLISHED2017” の謎ですが、これはネパールの公式暦ヴィクラムの暦の年号で当時(西暦2001年)は2057年とのことでした。というわけで創立は40年前ということでした。以前この暦はインドとも共通だったそうです。起源を少し調べてみたのですがよくわかりませんでした。
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「出会いふれあい」編 ネパールの若夫婦の愛

2024年07月15日 07時54分13秒 | 出会いふれあい

  2001年ヒマラヤを見ようとネパールへ出かけました。ところがネパールへ行けば必ず何時でも、何処からでもヒマラヤが見えるというわけにはまいりませんでした。
 ツアーの予定では6箇所の地点と遊覧飛行(オプションで140ドル、以前墜落事故がありました)で見られるはずでした。結果は地上では3勝3敗、空からは天候回復を待つためかなり遅れての見学でした。 
さて1敗のドリケルでまる1日暇になり町?の中心街のお寺などを見学してまだ時間があるので、郊外?の方へ散歩に出かけました。そのときと出会ったのが写真の若夫婦でした。ご覧の通り、奥さん(ハニカミがなんともいえないかわいいですね 往年の日本女性?)が重い荷物を持ち、彼のほうは手ぶらです。ここからが私の悪い癖です。身振り手振りと片言の英語(彼らのほうが上手)で「女に重いものを持たして男が何も持たないのは良くない」説教をたれました。どうやら通じたようで、彼の方が胃が悪くて今、町の医者に診てもらいその後買い物をしての帰り道だとのことでした。そして彼は私に家まで来ないかと招待してくれました。いったんは快諾したのですが、かなりの距離のようなので途中で失礼しました。今になっては彼らの家まで行くべきだったと後悔しています。彼の健康が回復していることを願っています。
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「出会いふれあい」トルコのコンヤで

2024年07月12日 07時54分17秒 | 出会いふれあい

写真上はコンヤで早朝の散歩をしていた時に出会った子供たちです。朝食のパンを売っていた青年?にも出会いました(写真中)。メルハバ(今日は)というトルコ語の挨拶をしてその後無言の会話?をしました。そこへ弟らしき中学生が現れました(写真下)。彼は弟にお茶を持ってくるように指示したようでした。香草が入ったお茶を勧めてくれました。大変おいしくいただきました。彼らも商売だろうと思い代金を支払おうとしましたが受け取りませんでした。海外旅行中に出会った忘れられない人物の一人です。
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「出会いふれあい」編 フランス人の傲慢さ

2024年07月09日 07時51分51秒 | 出会いふれあい

  イギリスに反してフランスの現地ガイドの傲慢無礼さにはまったく不愉快でした。添乗員に英語で説明した後、いかにも小馬鹿した発音で“understand?”(分かったか) を繰り返しました。27年経過したいまもこの不愉快なアンダースタンドの声が耳から消えません。また ガイド中に他国人ツアーの悪口を盛んに言ったガイドもいました。
 別れ際に私に次回はフランス語を勉強してフランスへ来てくださいと言ったガイドもいました。フランス語帝国主義メ!
 フランスでは犬の散歩の時糞の始末をしないようです。あちらこちらに糞が放置したままで、たびたびフンづけをしました。というわけでこの犬の糞ともに食べ物を除いてフランス(イタリア料理の方が好き)に私は良い想い出はありません。美人にもあまり出会いませんでした。 
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「出会いふれあい」編 イギリス人の親切

2024年07月06日 07時51分49秒 | 出会いふれあい

海外に出かける時その目的地について濃淡はありますがある程度のイメージは持って行きます。そのイメージどおりの時は「やっぱりそうか」と思い、違っていれば「ヘエー ホントー」となり、それが旅行の楽しみの一つでもあります。
 イギリスではその二つがはっきりした楽しい旅でした。
 まず「やっぱり」の方はやっぱり食べ物でした。まずいです。食べ物のうまい、まずいは個人の好みの問題で個人差がありますが、この国は私のような味痴でもわかる「まずい国」です。特にこの年(1997年)は狂牛病が問題になっていて肉類は七面鳥だけでした。これはまたまずい。皆さんイギリスにお出かけの際は、醤油、マヨネーズ、ドレッシング、味噌などの持参を勧めします。今から135年ほど前に欧米を視察した久米邦武が「諺ニ曰ク、倫敦(ロンドン)ノ食倒レ、巴里(パリ)ノ衣倒レ」(「米欧回覧実記3」岩波文庫 p53)と書いているのは不可解です。
 「ヘエー」のほうです。イギリス人は個人主義が徹底して冷たい人だというイメージを待っていました。ところがこれはまったく間違っていました。親切で、暖かい人たちでした。(特に女性)自由時間にロンドンのハイドパークを散歩して方向音痴の私は帰り道がわからなくなって地図を見ながらキョロキョロとしていると30代くらいの女性が寄ってきて何処へ行くのか尋ねてくれました。ホテルの名前を言うと親切に教えてくれました。本当を言うと英語なので半分ぐらいしか分からなかったのですが。私の最大限の英語力で“Thank you very much for your kindness” と言うと、バスに乗り込もうとしていた彼女はこちらを向いてにっこりと微笑んでくれました。旅行中に方向音痴の私はキョロキョロすることが多いのですがこんなことは初めてでした。
 イギリスのスコットランド、エディンバラでのことです。1人でお店の準備をしていた50代くらいの女性に両替所を尋ねました。私の唐人ぶりをすばやく察知したのか、お店をそのままにして両替所の所まで手をとるようにして連れて行ってくれました。
 イギリスでの現地ガイド(女性)も親切でやさしくてわかりやすい英語での案内でした。なぜか、男性の英語はむずかしかったです。Later(後で)をラターと発音した男性運転手がいました。日本からの留学生に偶然カフェで出会いそのことを話すと、同感との返事でした。

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「出会い・ふれあい」アルメニア人のおもてなし

2024年07月03日 07時49分37秒 | 出会いふれあい

2003年のコーカサス旅行で出会ったアルメニア人の「おもてなし」にも感激しました。生贄の儀式が現在も残っているという古いアルメニアのゲガルド修道院で子供づれの生贄の羊のバーベキューパーティーに出会い大歓迎を受けました。自家製のワイン、焼肉などご馳走になり土産まで持たされました。我々のバスにはいつも周辺の人々が手を振って歓迎してくれました。このような歓迎をうけた国としては私の乏しい海外旅行の中ではルーマニア、トルコがありました。なぜこのようにアルメニアの人々は他国の人にこれほど親切なのでしょうか。
    
アルメニア人はユダヤ人についでディアスポラ、世界に離散した人々が多いのです。ヨーロッパ各地を旅行していると各地にアルメニア教会を見ることができます。この地域は古くから東西交流の接点でもあり言葉を代えれば東西の強国にはさまれ双方から強奪にあった地域です。その証拠は各地の破壊された遺跡に残っています。最近では19世紀の後半から20世紀の初頭にかけてのトルコによる百万とも二百万とも言われる大虐殺があります。なおこのときにもクルド人の悲劇がありました。アルメニア人を殺せばクルドの独立を認めるというトルコ政府の扇動に乗ってこの虐殺にクルド人も一役買ったのでした。(この部分の説明は私の質問に現地ガイドが答えたもの)しかしトルコはいまだにその事実を認めようとせずしたがって謝罪もしていません。現地のガイドは虐殺博物館で事実を述べただけでしたが、夕食時での私との個人的な話のとき(英語ですからほとんどわかりませんでしたが)apologize(謝罪)という言葉が強く私に迫ってきて日本政府のことを思い出していました。
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「出会いふれあい」編 ルーマニアの手編みセーター

2024年06月30日 07時53分20秒 | 出会いふれあい

 ルーマニアで吸血鬼ドラキュラーの舞台となったブラン城を訪れたとき、ご婦人たちがセーターを編んでいました。私は旅ではめったに物は買わないのですが、このときはなぜか血を吸われる心配よりはルーマニアのおもてなしと家庭を持たない私はアットホームを感じて8ドルで購入しました。25年たった今もセーターとともに懐かしい思い出のシーンです。齢を重ねるごとに冬の寒さが身にしみてきます。そしてこの手編み純毛セーターのありがたみを感じます。しかし、この冬はこのセーターを着られる可能性はかなり低いようです(地獄では着られません)

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「出会い・ふれあい」編 ルーマニア人のおもてなし

2024年06月27日 07時57分28秒 | 出会いふれあい

お金がなく、ケチで、外国語がダメで、体に少し障害があり、年寄りで、そのうえ稀代の方向音痴の私にとって外国旅行はパックツァーでしかありません。パックツアーの最大の欠点は決められたところを現地ガイドの説明(日本語のガイドでない場合は添乗員の日本語訳で)を受け多人数の時は質問もできなく時間に縛られて急いで次の観光場所へ移動の繰り返しでその土地の人との「出会い・ふれ合い」はほとんどないことです。その数少ない貴重な「出会い・ふれあい」のいくつかを以下紹介します。
ルーマニアにはブルガリアからドナウ河国境を越えたのですが、入管事務所の役人の威張った態度に一同憤慨してこの先の旅に不安を覚えました。当日ブルガリアからルーマニア入国までの現地美人ガイド、テオドラさんが念入りにお化粧した意味はこれにあったようです。(考えてください)     
 ところが入国してみてルーマニア人の温かいもてなしには感激しました。ビカズという町のガソリンスタンドでトイレ休憩の時でした。私は用がなかったので向かい側で果樹園の手入れをしている母子の写真を無断で撮影しました(冒頭写真)。それを感知した息子さん(30歳くらい)がこちらに向かって来ました。てっきり叱られるものと思っていたら手招きして中に入れといっているようでした。家の中まで案内されブドウとクルミをご馳走になりました。お母さんはデカンターにワインを入れて持ってこようとしていました。その間、トイレを済ました同行の人たちは私のいないのに気づき騒ぎになっていました。探し出されてバスに戻りました。そのときお母さんはたくさんのブドウを持たせてくれました。
 皆さんにお詫びを言いながらそのブドウを配りました。そのとき名古屋の人に「トイレ休憩はトイレ休憩だけにしてチョ」と叱られたのも想い出の一つです。 いまどき見知らぬ人、それも外国人を家の中まで案内し、ワインまでご馳走しようとする人がこの地球上に存在していたことに感激でした。
自由時間にキオスクみたいなところでビールを求めそこのテーブルで一人飲んでいました。そこのテーブルは空きが沢山あったにもかかわらず若い男女がわたくしのテーブルに向かい合って座りました。彼らは私がつまみなしにビールを飲んでいるのを見て彼らのつまみを勧めてくれました。何でもないようですが旅人の私には寂寥感もあったので大感激でした。写真がないのが残念。  
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「ツアーコースにない所」チェルニフィツイのユダヤ人

2024年06月24日 07時56分07秒 | ツアーコースにないところ

チェルニフィツイはルーマニア、モルドヴァに近い国境の街です。歴史的には沢山の国がこの地を支配しました。(モルダヴィア公国→オスマン帝国→ポーランド共和国→ハプスブルク帝国→ルーマニア王国→ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国→1991年ウクライナ)
 したがって2001年の統計では65の民族の都市です。1930年の統計ではユダヤ人が最大で29%、ルーマニア人23%、ドイツ人21%、ウクライナ人19%の人口構成でしたが、現在(2012年)はウクライナ人80%、ロシア人11%になっており、Lonely planetの表現によればユダヤ人、ルーマニア人、ドイツ人の社会は今やghostly presence (幽霊のような存在?)になってしまいました。
 そのghostly presenceの一つがかつてのシナゴーグで1954年劇場になりました(冒頭の写真)。私には全然理解できませんがlonely planetによればアフリカ・中近東様式の建物だそうです。
 Lonely planetにも記載がありませんが、街でこのような建物を見ました。この地のユダヤ人の歴史・文化博物館と表示されています。中に入って見学をしたかったー!
 1908年に第1回イディッシュ世界会議が開かれていることからもこの地のユダヤ人の重要性は見てとれます。
 世界的に有名な詩人Paul Celan というドイツ系ユダヤ人の出生地です。私はこの人物を全然知りませんが、興味ある人がいらっしゃる、かもと言うことで紹介します。彼の記念館もあるようです。
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「ツアーコースにない所」リヴィウのユダヤ人

2024年06月21日 07時53分08秒 | ツアーコースにないところ

  リヴィウはポーランドに近いところに位置していていますが、現在ウクライナ民族意識の強い地域です。このリヴィウには第2次世界大戦以前には10万人のユダヤ人が住んでいました。大戦中にはドイツ、ポーランドからナチスに追われポーランド地域も含めてリヴィウ近郊のユダヤ人人口は60万になりました。そしてここに侵攻したナチスによって虐殺され生き残ったのは2名だけでした。(ウクライナ全体では90万人がナチスドイツに虐殺されました)現在のリヴィウのユダヤ人は約2000人です。
現在リヴィウには多くのユダヤ人に関係するところが残っていますが、訪れることができたのは市の中心部に残されていた14世紀(lonely  planetでは16世紀後半)に建設され1941年にナチスよって破壊されたGolden Rose Synagogueと呼ばれているシナゴーグ廃墟跡でした。繁華街の中心部にあり隣はレストランのオープンカフェで200坪ぐらいのフェンスで囲まれた廃墟でした。この地域のユダヤ人によるシナゴーグのレプリカ再建計画はあるとはLonely planet の記述です。ここでもその存在を知らない人が多くて同じ路を何度も行ったり来たりして尋ね歩き、歴史の移ろいを感じました。
 フェンスにはその歴史と往年の写真が置かれていました。
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「ツアーコースにない所」キエフのユダヤ人2

2024年06月18日 08時01分52秒 | ツアーコースにないところ

 冒頭の写真は玄関から入ったところです。ホロコーストで多くの人が殺害されましたがキエフでは現在6万人のユダヤ人が生活しています(2012年現在)。
 2階からの写真です。1階の大広間(?)は暗いので私のカメラでは撮影できませんでした。
  席にはこのようにキルル文字(ロシア語?ウクライナ語?)とヘブライ文字での聖書が置かれていました。各冊ともかなり読み込まれているようで汚れて?いました。
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「ツアーコースにない所」キエフのユダヤ人1

2024年06月15日 07時55分01秒 | ツアーコースにないところ
 
 ウクライナのゼレンスキー大統領はユダヤ系であることをご存じの方は多いいと思います。
 ウクライナは古くから多くの民族が通過し、定住した地域です。その中でもユダヤ人は政治・経済・文化的にも世界史に多くの影響を与えてきました。しかし現在はポグロム、ホロコーストなどと呼ばれている虐殺などでその多くはアメリカ合州国、イスラエルなどに移住してその数は非常に少なくなっています。
たとえばオデッサでは20世紀初頭、市の人口の3分の1を数えるまでになっていました。ところがポグロム(1905年)、ホロコースト(1941年―ナチ)により10万人のユダヤ人はアメリカ合州国ニューヨークなどに移住しました。現在ニューヨークには“Little Odessa”(小オデッサ)と呼ばれている街があります。
そこでこの地のユダヤ人の痕跡を訪ねてみようと思いましたが、このツアーのコースには入っていませんし、日本で最も読まれているガイドブック「地球の歩き方」にはユダヤ人についての記述は全くありません。したがって?日本人観光者には興味がない人が多いようです。Lonely planet“Ukraine “ にシナゴーグ(ユダヤ教の教会)などがキエフ、リヴィウ、チェルノフッイにあると記述されていました。
そこであらかじめ添乗員の堤さんにlonely planet にある地図のコピーを渡して見学可能性を確かめてもらいました。そして幸いにも3か所とも見学できました。
キエフではホテルの近くにシナゴーグがあり見学できました。冒頭写真のように立派なシナゴーグでした。しかし、方向音痴のわたくしはこのシナゴーグにたどり着くまでは一苦労でした。「シナゴーグ。」と言って訪ね歩きましたが多くの人が首を振るだけでした。
最後に出会ったのが写真の人でした。道路の掃除をしていた彼は掃除道具をその場に放置したまま足早にシナゴーグまで連れて行ってくれました。ユダヤ人ですかと尋ねるとそうだと答えてくれました。
 写真はこのシナゴーグの標識です。キエフユダヤ人共同体センターと書かれていますね


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