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奈良の名所・古跡

行ってみたい所があるといいのですが・・・古墳とか建物とか巨樹とかいろいろ・・・

大田皇女墓

2009年09月24日 | 
 皇極・斉明天皇陵から少し石段を下ったところに有ります 撮影日;2009.9.7 

 大田皇女越智岡上墓です

 大田皇女(おおたのひめみこ)
 生年不詳ですが、天智天皇6年(667)2月頃とされます

 菟野讃良皇女(天武天皇皇后・持統天皇)の同母姉にあたります
 父は天智天皇で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘
 同母妹に鸕野讚良皇女、同母弟に建皇子がいます
 天武天皇の妃となり、大伯皇女、大津皇子を生むが、夫の即位を見ずに若くして亡くなりました
 当時大伯皇女は7歳、大津皇子は5歳で、母方の祖父である天智天皇に引き取られたようです

 祖母の斉明天皇、叔母の間人皇女とともに葬られました

★所在地;高市郡高取町大字越智
★交通;JR掖上駅より 徒歩10分
★駐車場;光雲寺に有ります
★入場料;参拝自由
★問合せ;0744-52-3334(高取町役場)



 大田皇女:よろパラ ~文学歴史の10~ 萬葉人物列伝のページ

皇極・斉明天皇陵

2009年09月23日 | 
 光雲禅寺の南側丘陵上に有ります 撮影日;2009.9.7

 <車木ケンノウ古墳>(円墳、直径約45m)は皇極・斉明天皇陵に比定されています 

 正確には、「斉明天皇・孝徳天皇皇后間人皇女越智崗上陵(おちおかのへのみささぎ)・天智天皇皇子健王墓」です

 この陵は斉明天皇と孝徳天皇の皇后・間人皇后を埋葬した越智岡上陵と天智天皇の皇子・建王墓となっています
 (皇極・斉明天皇、娘の間人皇女、孫である健王の合葬墓)

 石段を少し下りたところに天智天皇の皇女で天武天皇妃の大田皇女の墓もあります

 研究者の間では岩屋山古墳牽牛子塚古墳小谷古墳も陵墓の候補としてあげられています

 皇極天皇は推古天皇から一代おいて即位した女帝です
 和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
 敏達天皇の子・押坂彦人大兄皇子の子・茅渟王(ちぬのおおきみ)の第一皇女
 母は吉備姫王(きびひめのおおきみ)です
 はじめ高向王と結婚して、漢皇子を産んでいます
 後に舒明天皇の皇后として、中大兄皇子(天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(天武天皇)を産みます
 舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、皇極天皇として即位
 大化の改新後に同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲りました
 孝徳天皇の死後、655年に再び皇位に就き(斉明天皇)、661年に崩御しました

★所在地;高市郡高取町大字越智
★交通;JR掖上駅より 徒歩10分
★駐車場;光雲禅寺に有ります
★入場料;参拝自由
★問合せ;0744-52-3334(高取町役場)


春日宮天皇妃陵

2009年05月20日 | 
 こんなに山の中にある陵ははじめてです 撮影日;2009.5.9

 紀橡姫(きのとちひめ)吉隠陵「春日宮天皇妃陵」です

 紀橡姫は光仁天皇の母で、志貴皇子(しきのみこ)(追尊して御春日宮天皇という)の妃
 和銅2年(709)吉隠の地で崩ぜられ、ここに葬られたと伝えられています

 明治27年12月に橡姫吉隠陵ときめられました

★所在地;桜井市吉隠(よなばり)・宇陀市榛原区角柄(つのがわら)
★交通;近鉄榛原駅より 徒歩40分
    バスで角柄下車 徒歩20分
★駐車場;有りません
★入場料;参拝自由
★問合せ;

 国道165号線から800mほど登っていくとあります 
 桧の木立の間に、251段の石段が真っ直ぐに伸びています



 毎年10月12日に祭典がおこなわれています



孝霊天皇陵

2009年03月30日 | 
 王寺の町を見下ろす丘陵上に有ります 撮影日;2009.3.15 

 陵形は山形
 御陵名は片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)です

 南向きに拝所があり、御陵の周りを一周できます

★所在地;北葛城郡王寺町本町3
★交通;JR・近鉄王寺駅より 徒歩15分
★駐車場;
★入場料;参拝自由
★問合せ;0745-73-2001(王寺町役場)

 孝霊天皇は第7代の天皇です
 紀元前290年2月19日~前215年3月27日の76年間在位したことになっています
 日本書紀には大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)と記されます
 欠史八代の一人で、実在しない天皇と捉える見方が一般的
 稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に次代孝元天皇の第一皇子大彦命の実在を示す系譜が刻まれていたことから、孝元天皇及びその父である孝霊天皇も実在の人物とみなす見方も出てきているそうです
 都は黒田庵戸宮(くろだのいおとのみや):黒田の法楽寺が伝承地です


 南東側に放光寺片岡神社達磨寺などが有ります

金鳥塚古墳「吉備姫王墓」

2009年03月14日 | 
 柵内に4体の猿石が置かれています

 欽明天皇陵の南隣に接する丘陵上にあり、直径8m程度の円墳 

 宮内庁は『檜隈墓』と呼び吉備姫王の陵墓として管理しています

★所在地;高市郡明日香村平田
★交通;近鉄飛鳥駅下車 徒歩10分
★駐車場;有ります
★入場料;参拝自由
★問合せ;0744-54-2001(明日香村役場)

 吉備姫王は欽明天皇の孫で、皇極天皇、孝徳天皇の母、天智・天武天皇の祖母です
 「書紀」には「檀弓岡(まゆみのおか)に葬る」とあり、この場所が該当するかどうかは疑問のようです



枡山古墳「身狭桃花鳥坂墓」

2009年02月13日 | 
 我が国最大規模を誇る方墳とされます 撮影日;2009.1.29

 倭彦命(やまとひこのみこと)は、崇神天皇と皇后・御間城姫の第三皇子
 その「身狭桃花鳥坂墓」に治定されています

 古墳時代中期の築造
 96m×90mの方墳です

★所在地;橿原市鳥屋町
★交通;近鉄「橿原神宮前」駅より 徒歩20分
★駐車場;有りません
★入場料;参拝自由
★問合せ;07442-2-3338(畝傍陵墓監区事務所)

 文久年間の修陵で、前方後円墳形に外形が改変がされています

 【埴輪の始め】
 倭彦命は垂仁天皇28年に亡くなり身狭(むさ)の桃花鳥坂に葬られました
 そのとき陪臣も御陵の周囲に首を出して生き埋めにされ、数日昼夜泣きうめく声が聞こえ、終に亡くなって腐敗し、犬猫烏に食われ、目も当てられない惨状で、天皇は痛く悲しまれた
 後に皇后の日葉酢媛命が亡くなった時、野見宿禰の進言により殉死を禁じ、陪臣の代わりに埴輪を作って並べました



 近くに鳥屋ミサンザイ古墳「宣化天皇陵」が有ります

崇峻天皇陵

2009年01月05日 | 
 唯一、臣下により暗殺された天皇の御陵です 撮影日;2008.12.20

 第32代崇峻天皇の倉梯岡上陵に治定される約15mの小円墳です

 崇峻天皇の位牌を祀っていた柴山山「金福寺」の地を倉梯柴垣宮跡とし
 小字名が「天皇屋敷」だったことから、安政2年(1855)に、祟峻陵に比定
 文久2年(1862)に修陵
 明治22年(1889)に宮内省が陵地に比定しました 

★所在地;桜井市倉橋
★交通;近鉄桜井駅より 談山神社行きバスで倉橋下車 徒歩1分
★駐車場;有ります(無料15台程度)
★入場料;参拝自由
★問合せ;0744-42-9111(桜井市観光課)

 泊瀬部皇子(はつせべのみこ)は用明天皇の2年(587)、敏達天皇の皇后・炊屋姫(かしきやひめ、後の推古天皇)や蘇我馬子らに擁立されて皇位につきました

 592年に蘇我馬子の指示で東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺されます
 その日の内に倉梯岡陵に葬られたそうです
 延喜諸陵式には「陵地ならびに無し」と記載されています

 赤坂天王山古墳を崇峻陵とする説が現在も有力視されています
 藤ノ木古墳の被葬者を崇峻天皇とする説も有るそうです



聖徳太子御廟

2008年07月18日 | 
 『三骨一廟』と呼ばれています 撮影日;2008.6.13

 「叡福寺」境内の北側にあり、磯長山の丘陵を利用した円墳です
 叡福寺北古墳とも呼ばれ、高さ7.2mで経54.3mあります

 推古28年(620)に聖徳太子自ら墓所を造営(47歳の時)
 翌年、太子の母=穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后が葬られ
 さらに翌年、太子と妃の膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)とが同時期に亡くなり、この同じ墓に葬られました 

★所在地;南河内郡太子町太子2146
★交通;近鉄上ノ太子駅より 徒歩30分
    バスで太子前下車 すぐ
★駐車場;有ります(無料)
★入場料;参拝自由
★問合せ;072-955-1115(宮内庁書陵部古市陵墓監区事務所)、0721-98-0019(叡福寺)

 鎌倉時代の記録では、横穴式石室には三つの棺が収められているそうです
 明治12年の修復調査が実施された際に、横穴入口をコンクリートで埋めてしまい
 石室は見れないそうです

 観音の梵字が刻まれている結界石(聖地と俗界をへだてる)が490体あります
 弘法太子が築いたと伝わりますが
 内側の凝灰石製のものは鎌倉時代以降、外側の花崗岩製のものは江戸時代に築かれたものだそうです

 聖徳太子の命日にちなんで4月11日と12日の両日に大乗会式が行われます



春日向山古墳「用明天皇陵」

2008年07月16日 | 
 聖徳太子のお父さんの御陵です 撮影日;2008.6.13

 第31代・用明天皇の河内磯長原陵(かうちのしながのはらのみささぎ)に治定されています

 東西65m、南北60m、高さ10mの方墳
 周囲には幅7mの空濠を巡らします 

★所在地;南河内郡太子町春日
★交通;近鉄上ノ太子駅より徒歩40分
★駐車場;10台程度可能
★入場料;参拝自由
★問合せ;072-955-1115(宮内庁書陵部古市陵墓監区事務所)、0721-98-0300(太子町役場)

 用明天皇は、古事記では最初磐余池上陵(いわれのいけのうえのみささぎ)に葬られ、その後河内磯長原陵(かうちのしながのはらのみささぎ)に改葬されたと記録されています

 欽明天皇の第4子、推古天皇の兄、聖徳太子の父
 在位は敏達14年(585)9月5日~用明2年(587)4月9日



山田高塚古墳「推古天皇陵」

2008年07月15日 | 
 「王陵の谷」で最も美しい盟主といえる古墳です 撮影日;2008.6.13

 推古天皇と竹田皇子の合葬陵とされます
 古い記録によると石室内に二つの石棺が安置されているそうです

 三段築成の方墳
 東西61m、南北55m、高さ12m
 周囲に幅7mの空濠を巡らします  

★所在地;南河内郡太子町山田
★交通;近鉄上ノ太子駅より 徒歩50分
★駐車場;有りません
★入場料;参拝自由
★問合せ;072-955-1115(宮内庁書陵部古市陵墓監区事務所)、0721-98-0300(太子町役場)

 第33代推古天皇は日本で最初の女帝とされます
 第29代欽明天皇の皇女で、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)
 第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟、蘇我馬子は母方の叔父

 推古天皇は628年に75才でこの世を去ります
 諡名は豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)

 628年9月24日、子の竹田皇子(たけだのみこ)が眠る陵に葬られます
 (その陵は五条野植山古墳とされています)
 後に、母子の遺骸は現在の「河内国磯長山田陵」に改葬されたようです
 (改葬の時期は不明です)