素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

絶滅したナウマンゾウのはなし(6)

2022年01月18日 13時39分56秒 | 絶滅した日本列島のゾウたち
       絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔 ゾウの楽園だった

       日本列島―(6)



 (6)ナウマンゾウ、半世紀ぶり忠類へ

 1)忠類晩成の道路工事の現場で発見されてから半世紀もの間、京都の伏見で復元されたナウマンゾウの全身骨格標本は、忠類の地を見ることなく、札幌の北海道博物館に展示されていました。
その忠類産標本(原本)が、2019(令和元)年10月5日から11月4日まで、50年ぶりの忠類に里帰りしたことが、幕別町の人びとの間では大きな話題になりました。

「忠類で発見された化石たち〜忠類ナウマン象化石の里帰り〜」を謳い文句に、発見50周年の記念事業として「特別展」が、国道236号線際にある「忠類ナウマン象記念館」で開催されました。

少なくとも数万年~12,3万年前、否30万年前の太古の昔、北の大地忠類に生息していたであろうナウマンゾウの全身骨格が標本として復元されて半世紀、原標本は初めての里帰りになりました。

9月27日の『十勝毎日新聞(電子版)』によりますと、同日の午後4時頃、札幌の北海道博物館から、化石骨を載せたトラックが到着し、1メートル四方の木箱が次々と忠類ナウマン象記念館の展示室に運び込まれた、とあります。

 専門業者に加え、記念事業担当の幕別町教育委員会の職員はもちろん、町の職員も職員研修の一環として荷下ろし作業に携わったそうです。

 展示作業を手伝った職員の誰もが、「右尺骨」「左寛骨」などと記された木箱や2メートル以上の切歯(牙)が収められた段ボールを慎重に開けて、全47個の化石骨を自分たちの目で確認し、太古の化石との対面を果たしたとき、感動のあまり一斉に大きな歓声が上がったそうです。
展示された本物の標本から、これまでに22体ものレプリカが複製されており、国内の多くの博物館で今も展示されています。

 2)忠類ナウマン象記念館の1階中央に、現在も展示されているナウマンゾウの全身骨格標本も実はレプリカなのです。したがって、本物の標本は、忠類ナウマン象記念館がオープンして今回の特別展まで、一度も忠類では人目に触れることはありませんでした。

 それだけに幕別の人びと誰もが里帰りした、本物のナウマンゾウの全身骨格化石標本に感動を覚えたようです。幕別町教育委員会で忠類ナウマン象記念館担当職員の鎌田浩さんは、50周年記念事業を終えて、その感想を感慨深か気に、次のように語っています。

 「発見当初、私は10歳、発掘現場の鮮明な記憶、骨格復元の感動、日本中に知れ渡った〔ナウマン・忠類村〕、ナウマンと共に歩み、見つめ、親近感をもち、シンボルとして誇りに思い、そして職として数度関わり、この事業を最高の喜びとして、来春(2020年)定年退職を迎えます。ナウマン象と一緒に素晴らしい〔One Team〕を体験できたことは生涯忘れられません」、と。


(注)
 (1)中新世とは、地質時代の区分の一つ。新生代第三紀の最後から2番目の世で,約2500万年前から500万年前までの時代をいいます。この時代は世界中で海が広がった海進期で,化石の多い海成層が各地に広く分布しています。イラン,米国カリフォルニア,日本などの石油はこの地層中に含まれるものです。中新世には現代の哺乳類に近縁なものが急激にふえ,大型の有蹄類や食肉類が出現しました。中新世初期の短期間に,著しい温暖期があったが,その後の気候は現在とほぼ同様とされています。

(2)地質時代区分で表しますと更新世は、前期、中期、後期と三つに分けられています。ただ、前期は、180万6000年前~78万1000年前のカラブリアン期と258万8000年前~180万6000年前のジェラシアン期の2期に分けられています。

(3) ヤベオオツノジカ(Sinomegaceros yabei)は、オオツノジカの別属で日本列島に生息していたのはおよそ30万年前~1.5万年前で、ナウマンゾウが日本列島に生息した時代とほぼ同時期と見られています。
 ヤベオオツノジカもナウマンゾウも日本列島第四紀更新世中期の中間期~後期を代表する大型哺乳動物であり、日本では最大のシカ類です。特徴は、巨大な角(megaceros)が前後に伸び、その長さ3.6mもある。肩までの高さ2.3m、体長は3.1mもあったであろうと推測されています。
 また、野尻湖の湖底で発掘された化石は、ナウマンゾウの化石と同じ地層から発見されることが多いこともあって、ヤベオオツノジカとナウマンゾウは同時期、同地域に生息していたのではないかとみられています。

(4) 野尻湖の湖底がナウマンゾウやヤベオオツノジカの化石や狩りの道具に使われたと思われる石器、骨器がまとまって発見されているので、野尻湖に追い込んで狩りをしていた人類(野尻湖人)がいたのではないかと考える専門家もいます。湖底から多くのナウマンゾウやヤベオオツノジカの化石が見つかるのは、湖畔がキルサイト(狩り場、狩猟した大動物の解体場)になっていた時代があった証左ではないか、という説もあります。発掘された狩人たちの生活の遺物にその手がかりを求めて調査が行われています。野尻湖は7万年前に出来た堰止湖で、東の斑尾山と西の黒姫山の噴火により発生した泥流によって川が堰き止められて出来た堰止湖であるといわれています。また、野尻湖は古くは信濃尻湖とも呼ばれていた時代があります。湖の周囲は16㎞、面積は4.45㎞2 、最大水深は39.1m、水面の標高は657mです。

(5)菊池勝広(編集・執筆)『すべては製鉄所から始まった―Made in Japanの原点-』・横須賀製鉄所(造船所)創設150周年記念展特別展示解説書・横須賀市自然・人文博物館、2015年10月、10-11頁。


(文献)
(1)赤松守雄・奥村晃史「十勝平野忠類におけるナウマン象の化石産出地点」・『第四紀露頭集ー日本のテフラ』・119・日本第四紀学会、1996年。
(2)高橋啓一・北川博通ほか「北海道、忠類産ナウマンゾウの再検討」『化石』・84・74-80ページ、2008年。
(3) 小西省吾・吉川周作「トウヨウゾウ・ナウマンゾウの日本列島への移入時期と陸橋形成」・『地球科学』(53巻)125-134ページ、1999年。
(4)河村善也「第四紀における日本列島への哺乳類の移動」『第四紀研究』・37(3)251-257ページ、1998年7月。
(5) 糸魚川淳二 「槇山次郎先生を悼む」・『化石』・46-47ページ、1987年。
(6)横須賀市編『横須賀市史(施政施行80周年記念)〈別巻〉・横須賀市発行、1988(昭和63)年。
(7)亀井節夫『日本に象がいたころ』・岩波新書645、1967年。
(8)亀井節夫『象のきた道』・中公新書514、1978(昭和53)年。
(9) 北海道開拓記念館『ナウマン象化石発掘調査報告書』・北海道開拓記念館報告第1号、1971年。
(10) 北海道開拓記念館資料解説シリーズNo.1『忠類産ナウマン象―その発見から復原まで―』・北海道開拓記念館、1972年。
(11)十勝毎日新聞(電子版)「ナウマン化石骨里帰り―半世紀ぶりに忠類へ」、2019年9月27日。