絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔 ゾウの楽園だった
日本列島ー(8)
第Ⅱ部 ナウマンゾウの聖地、横須賀白仙山
(2)ナウマンは日本のゾウ研究の草分け
1)話が大分横道に逸れましたが、ナウマンは、内務省で地質調査をする傍ら横須賀製鉄所のドック等造船施設拡張のために、隣接していた丘陵「白仙山」の開鑿後の地中から発見された大型獣の化石についても研究し、それがゾウの化石であることを明らかにしました。
ナウマンは、研究したゾウの化石を題材に、「先史時代の日本の象について」( Ueber japanische Elephanten der Vorzeit,1881.)と題する論文を作成し、くり返しになりますが1881年6月にドイツの『古生物学報』(Palaeontographica 28: 1-39)に掲載しています。
兎に角、ナウマンという人は、前述の地質調査でも窺えることですが、ハードな仕事を迅速に熟せる有能な人だったことが分かります。
ナウマンは1881年の論文の中で、「この下顎はおよそ14年前、横須賀で発見された。大きなドックの掘削にあたって、(一つの)丘が取り除かれた。この丘を取り除いたとき、半分埋まった窪みが現れ、その中にこの象の骨があった」と述べています。
2)以上のようにナウマンは、1881年の彼の論文の中で言及していますが、横須賀で「ゾウの顎」の化石や臼歯の化石が発見されたのは「14年ほど前」と記しています。
彼が論文(1881)を書き上げたのは1880年11月のことですから、それから遡って、横須賀の化石が発見されたのは1866年11月ということになりますが、杓子定規といいますか、四角四面に考えなければ、「14年ほど前」とありますので、1867年と見なしてもそれほど問題はないでしょう。
最近のことですが、この発見年次を裏付ける史料がわれわれ素人にも手に入れることができるようになりました。その一つが、2015年10月31日から2016年1月31日まで開催された横須賀製鉄所(造船所)創設150周年記念展を機に発行された『すべては製鉄所から始まった―Made in Japan の原点―』(横須賀市自然・人文博物館、2015)がその史料集です。
その第3編図版編Ⅰ〔ヴエルニー本家伝来の資料〕1-1「ヴェルニー本家伝来の横須賀製鉄所公式写真アルバム」127頁、図108には、「西暦千八百六十七年第十一月六日 古象骨ノ真図」として「化石化した象のあごの骨」の写真が掲載されています。
その写真の説明として「化石化した象のあごの骨、1867年11月6日。この化石はナウマンによって初めて科学的に研究され、のちに『ナウマンゾウ』と名付けられた」、と説明が付してあります。これは大変重要な資料であるといえます。
「西暦千八百六十七年第十一月六日 古象骨ノ真図」こそが1881年、ナウマンが「先史時代の日本の象について」(Ueber Japaniche Elephanten der Vorzeit.)を書き下ろすに当たって研究の対象としたゾウの顎の骨の化石であったと考えられます。
その化石が発見されたのが、ナウマンが論文(1881)に書いていますように、「14年ほど前、云々」とありますから起算しますと、最初に発見された年と同じ1867年になります。
3)以上のことから、ナウマンゾウの化石が初めて発見されたのは、横須賀製鉄所の用地造成工事中のことで、1867年11月6日であったことが明らかになりました。その化石を日本で初めて本格的に研究したのが、東京大学地質学教室初代教授ナウマンだったのです。
なお、ここで間違えてはいけないことは、ナウマンはゾウの化石を発見した最初の人ではなく、横須賀の白仙山が開鑿(かいさく)され、造成中の土地の窪みの中から発見された大型獣の化石を初めて研究し、それがゾウの化石であることを明らかにしたのがナウマンその人だったのです。いわば日本に生息していたゾウの化石研究の草分けというわけです。
日本列島ー(8)
第Ⅱ部 ナウマンゾウの聖地、横須賀白仙山
(2)ナウマンは日本のゾウ研究の草分け
1)話が大分横道に逸れましたが、ナウマンは、内務省で地質調査をする傍ら横須賀製鉄所のドック等造船施設拡張のために、隣接していた丘陵「白仙山」の開鑿後の地中から発見された大型獣の化石についても研究し、それがゾウの化石であることを明らかにしました。
ナウマンは、研究したゾウの化石を題材に、「先史時代の日本の象について」( Ueber japanische Elephanten der Vorzeit,1881.)と題する論文を作成し、くり返しになりますが1881年6月にドイツの『古生物学報』(Palaeontographica 28: 1-39)に掲載しています。
兎に角、ナウマンという人は、前述の地質調査でも窺えることですが、ハードな仕事を迅速に熟せる有能な人だったことが分かります。
ナウマンは1881年の論文の中で、「この下顎はおよそ14年前、横須賀で発見された。大きなドックの掘削にあたって、(一つの)丘が取り除かれた。この丘を取り除いたとき、半分埋まった窪みが現れ、その中にこの象の骨があった」と述べています。
2)以上のようにナウマンは、1881年の彼の論文の中で言及していますが、横須賀で「ゾウの顎」の化石や臼歯の化石が発見されたのは「14年ほど前」と記しています。
彼が論文(1881)を書き上げたのは1880年11月のことですから、それから遡って、横須賀の化石が発見されたのは1866年11月ということになりますが、杓子定規といいますか、四角四面に考えなければ、「14年ほど前」とありますので、1867年と見なしてもそれほど問題はないでしょう。
最近のことですが、この発見年次を裏付ける史料がわれわれ素人にも手に入れることができるようになりました。その一つが、2015年10月31日から2016年1月31日まで開催された横須賀製鉄所(造船所)創設150周年記念展を機に発行された『すべては製鉄所から始まった―Made in Japan の原点―』(横須賀市自然・人文博物館、2015)がその史料集です。
その第3編図版編Ⅰ〔ヴエルニー本家伝来の資料〕1-1「ヴェルニー本家伝来の横須賀製鉄所公式写真アルバム」127頁、図108には、「西暦千八百六十七年第十一月六日 古象骨ノ真図」として「化石化した象のあごの骨」の写真が掲載されています。
その写真の説明として「化石化した象のあごの骨、1867年11月6日。この化石はナウマンによって初めて科学的に研究され、のちに『ナウマンゾウ』と名付けられた」、と説明が付してあります。これは大変重要な資料であるといえます。
「西暦千八百六十七年第十一月六日 古象骨ノ真図」こそが1881年、ナウマンが「先史時代の日本の象について」(Ueber Japaniche Elephanten der Vorzeit.)を書き下ろすに当たって研究の対象としたゾウの顎の骨の化石であったと考えられます。
その化石が発見されたのが、ナウマンが論文(1881)に書いていますように、「14年ほど前、云々」とありますから起算しますと、最初に発見された年と同じ1867年になります。
3)以上のことから、ナウマンゾウの化石が初めて発見されたのは、横須賀製鉄所の用地造成工事中のことで、1867年11月6日であったことが明らかになりました。その化石を日本で初めて本格的に研究したのが、東京大学地質学教室初代教授ナウマンだったのです。
なお、ここで間違えてはいけないことは、ナウマンはゾウの化石を発見した最初の人ではなく、横須賀の白仙山が開鑿(かいさく)され、造成中の土地の窪みの中から発見された大型獣の化石を初めて研究し、それがゾウの化石であることを明らかにしたのがナウマンその人だったのです。いわば日本に生息していたゾウの化石研究の草分けというわけです。