第1章 フィジーのプロフィール
≪フィジーの歩み:イギリス植民地時代≫
以上述べてきた内容と、若干の重複するが、フィジーの歩みについて「イギリス植民地時代」に触れておきたい。ヨーロッパ人がフィジー諸島に移住するようになったのは周辺の島嶼諸国に比べて遅かった。その理由は、フィジー人が凶暴だと、探検家の中で噂されていたのでタスマン(Abel Janszoon Tasman:1603-1659)も島を発見したが、フィジー諸島に上陸しなかったのではないかと考えられている。それから130年も後のことだが、J.C.ビーグルホール(John Cawte Beaglehole :1901-1971)の編集したクックの航海誌によると、彼が「かめ島」と呼んだフィジー諸島の南西部の島ヴァトァをごく短い時間ではあるが1774年に踏査したとある。
J.C.ビーグルホール(は、「この島は、クックが見たフィジー諸島(メラネシアに属する)唯一つの島である」1)、と言っている。クックの1774年7月3日(日)の日誌には、「あまりたいしたこともない一つの島に一日の残りの時間を費やすよりは、夜になる前にそこを探検しようと思った」、と記して早々に出港したい様子が窺える。
したがって、クックが「あまりたいしたこともない一つの島(ヴァトァ島)」2)を踏査しているのは事実だが、しかし、そこに何日間も滞留して探検した記録はない。
フィジーは1874年、イギリスの植民地支配を受けることになった。19世紀後半から20世紀に入ると、太平洋を米英独仏等欧米列強国の艦船が遊弋するようになり、島嶼諸国はどこも大きな脅威に曝された。それは欧米による南太平洋地域に対する植民地支配の拡大の始まりだった。
そして19世紀に入ると欧米列強は,産業革命とともに発展する工業への原料供給地として太平洋の諸島を支配し、新たな商品を売り込む市場として占有を試みたものと考えられる。巨大な軍事力、さまざまな機動力を生かして太平洋地域の支配に力を入れていた。
19世紀の第3四半世紀はまさにイギリスの軍事力が圧倒的に優位な時代だった。
その後、国力を増してきたドイツ、フランス、スペインそして米国等の欧米列強に加えて日本が植民地支配に力を入れるようになり,太平洋地域における19世紀末の植民地の争奪戦が展開されたのである。それゆえ、島嶼国の多くが 武力制圧を受けることなく、特定列強国の保護領的な植民地支配を受入れることになったのである。
1854年、フィジーは それまで同国を支配していた大酋長トゥイ・ラキラキが死んだことで、大きく変わったと言われている。それが初めてフィジー全土をほぼ掌握し、統一したと言われたザコンバウ(Seru Cako-bau:1817?-82)首長(国王)の台頭につながった3)。彼はフィジー史上最大の王と言われている。彼はまたいち早く洗礼を受けてキリスト教に改宗し、キリスト教の布教にも大きな力となったことで、後にイギリス政府から「フィジー王」の称号を授けられた。
フィジーが1874年にイギリス直轄の植民地となってから、イギリス政府は1879年から1916年までさとうきびのプランテーションで働かせるために、英領インドから大勢の労働者をフィジーに年季契約で移民させる政策を取った。インド人移民の多くが契約の年季が明けてからもフィジーに定住した。そのことによって、フィジーの社会的構造を大きく変化させることになった。
すなわち、フィジーは先住していたフィジアン、それを統治したイギリス人、そしてさとうきびのプランテーションに雇われたインド人契約労働者の集合的社会構造を持つことになったが、それが1970年のイギリス連邦内で立憲君主国として独立するまでのフィジーだった4)。
(注)
1)J.C.ビーグルホール編『クック・太平洋探検』(下)・岩波書店(1994)、367ページの注の(1)参照。
2)J.C.ビーグルホール編『前掲書』、312ページ。
3)石川栄吉・越智道雄・小林泉・百々佑里子監修『オセアニアを知る事典』・平凡社・1990、119ページによると、通常は 「ザコンバウ(Seru Cakobau:1817?-1882)」と呼ばれているが、「ザコムバウ」と表記することもある。なお、Epnisa Seru Cakobau, Rutu,と表記することもある。また、生存期間については、1815年から1883年とした記事も見受けられる。たとえば、Wikipedia, the free encyclopedia.参照。
4)石川栄吉・越智道雄・小林泉・百々佑里子監修『前掲書』、246-247ページ。
再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える(5)