素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

素人の考古学:抄録・人の移動、その先史を考える(その5)

2015年05月12日 08時28分38秒 | 人類の移動と移住
抄録・人の移動、その先史を考える(その5)



〔以下の記事は、小生がこれまで扱ってきた「人の移動史」(日本人の出移民小史)から、ふとしたことで、人の移動、その先史 を専門家の孫引き・後追いで考え るようになり、ノートを作成する気になったもので、老化予防のために「80過ぎての手習い」といったものです。〕  



(1)人は移動する生き物

4)農耕民の移動性と定住性

農耕文化の歴史は、およそ1万年前アジア大陸の西と東に拡散した現生人の祖先たちにその起源を求めることができるが、それまでの現生人の生活は狩猟採取に拠っていた。最近の考古学の成果によると、狩猟採取民の生活は飢えの恐怖にさらされながらの暮らしではなかった、との見方がなされている。

クライブ・ポンティング(Clive Ponting)によれば、「広範囲の食料資源から、栄養的にも優れた食事をしているのである。そしてこの変化に富んだ豊かな食物そのものが、その環境にある潜在的な食料資源全体から見ればごく一部であるというのが通例である。彼らにとって、食糧を集めたりそのほかの生きるための労働に費やさなければならない時間は一日のうちのほんのわずかにすぎず、遊びに費やす時間や祭祀に充てる時間はふんだんにある」(『緑の世界史〈上〉』・朝日選書503・1994年、38頁。)のだと述べている。

確かに自然に生えている草木の芽や実を収穫して食糧として食すのであれば、それに費やす時間は少なくて済むかもしれないが野生の動物を狩猟するには、すべて狙いを定めた狩りが成功するわけではないであろうから相当の時間を費やしていたようにも考えられるが、いろいろ調べてみるとそうでもないようである。狩猟採取時代に生きた人類は、25~50人程度の集団で暮らし、狩猟の場合はもっと少ないグループで獲物を追い効率的に狩りを成功させて、狩猟採取の可能な地域に移動し、生きる術を得ていたものと考えられる。

狩猟採取民は、国立民族学博物館先端民族学研究部の岸上伸啓氏によると、今日では狩猟採集民社会における食物分配に関してはさまざまな研究がなされているとのこだ。岸上氏は、社会・文化人類学的な立場から狩猟採取民社会の食物分配に言及した興味深い論文を多数発表されている。

(注)『カナダ・イヌイットの食物分配に関する文化人類学的研究:先住民社会の変容と再生産』(国立国会図書館所蔵、2006)は、氏の博士論文である。

ただ、しっかり受け止めておかなくてはならないのは、狩猟採取民社会の食物分配関係が必ずしも旧石器時代に野生の動植物の狩猟や採取を生活基盤とする狩猟採取民に焦点を合わせた考古学上の検証研究ではなく、今日でも北極圏から熱帯雨林地帯、そして砂漠地帯の地球上いたるところに存在している狩猟採集社会の実証研究から得られた成果に依存したものであることも多いということである。

それは兎も角として、狩猟民にとっての必需品は野生の動物の群れを追い捕獲するために必要となる道具、つまり長い柄の付いた槍などもあり、また石斧など打製石器が作られた。捕獲した大型動物を解体する道具も発明されるようになった。鋭利な斧なども考え出された。2万年~1万年前になると、矢、投げ槍の矢じりなども鋭利で薄片の打製石器が多くなった。道具はそれだけではなかった。移動のための手段も必要になるのである。

必ずしも明確な証拠があるわけではないのだが、クライブ・ポンティングの説くところによると、最終氷期であっても地球上のどこかに人類にとつて生活基盤の面から住みやすい地域は存在していたという。たとえば、サフル大陸の中でもオーストラリアの東部は、現生人類が狩猟採取するには比較的気候が温和で住やすかった。最初にやってきたのは25人程度の小集団だった。

「約1万年前、人類大移動の波が南北アメリカ大陸を北から南に渡り終えたころには、地球のほぼ全域に人類が定住した。そして最終的に、かなり遅れて太平洋およびインド洋への進出によって締めくくられた」(クライブ・ポンティング、56頁。)が、彼らはそれまでの移住者とは違っていた。純粋の狩猟採取民ではなく、極めて原始的な手法ではあったが食料を自分たちの手で得る知恵を有していた。

農耕する技術も持ち合わせていた最初の人類であり、われわれの地球に農耕文化を誕生させたのだ。農耕文化は、現生人の祖先(新人)たちのそれまでの社会行動に大きな転機をもたらすことになった。