第Ⅲ章 ナウマンゾウの旅路、北の大地へ
(5)ナウマンは第三紀末「鮮新世の時代」というが
ⅲ)ダーフィト・ブラウンス博士の批判的見解
ナウマンの後任の教授として1879年に着任、1880年1月から1881年12月まで東京大学教授を務め、1882年帰国したドイツ人地質学者ダーフィト・ブラウンス(David August Brauns : 1827-1893)は、ナウマンが研究したものと同じ化石を使って研究しましたが、その結果として、日本で出土しているナウマンゾウの化石は第四紀洪積世のもので、時代はもっと新しいものだ、とナウマン博士の見立てとはかなり違う見解を示しました。
しかしながら、ブラウンスの鑑定について、ナウマン研究で知られる山下昇(1922-1996)は、かつてブラウンスの“Geology of the Environs of Tokyo”(『東京近郊の地質』、1881)を取り上げて、「あたかもこれが関東平野研究の最初、あるいは日本の第四紀研究の始まりであるかのように紹介されることがある。
ところが、この論文をちょっとのぞいてみれば分かることであるが、これは第四紀層ではなく、第三紀層についても、というより量的には彼(ブラウンス)のいう第三紀層のほうがより多く扱われている」(『地質学雑誌』・第96巻第12号・981-982ページ、1990)と指摘していますし、またブラウンスが東京近郊だけでなく、「秩父・信濃・美濃から時には九州天草」に至るまで広く扱っていますが、それにもかかわらず「古期岩類」には全く言及されていないとも批判しています。
小生はこの東京大学『科学論集4』(1881)に掲載されたブラウンスの論文は読んでいませんので内容は全く分りませんが、山下昇の1990年の論文「ナウマンの関東平野研究-ナウマンの日本地質への貢献3-」(『地質雑誌』・第96巻第12号)によりますと、ブラウンスは前述の論文(1881)で、日本産のゾウ化石にも言及していることが紹介されています。
しかし、ブラウンスが論文で扱っている材料(ゾウ化石)は、ナウマンが1881年の論文で扱った材料と同じもであったと指摘し、「ブラウンスの記述が簡単で、曖昧なところが多いので、標本によっては、完全に同じものかどうか、判断の難しいものがある」、とまで述べています。さらに山下は、「それにしても、同じ標本を扱いながら、その鑑定はナウマンの鑑定とまったく異なっている」として、ブラウンスの鑑定にいい印象を示していないのです。
また、山下は1992年の論文(『地質雑誌』・第98巻第8号、803ページ)で、ブラウンスが「洪積世の時期に、日本に旧北区第四紀型に属する象がいたことは、確からしい」、と結論づけていたことを明らかにしています。
ブラウンスは、1883年の論文「日本の洪積世の哺乳動物について」をドイツ地質学会誌に発表しています。その中でブラウンスは、日本の哺乳動物の化石からいえることは、東日本の沖積地域と若い第三紀層との層序から例外なく第四紀層に属するものであることを明らかにしています。
このように、ナウマンとブラウンスの見方は異なっていますが、ナウマンが「日本の化石動物を旧北区などのものと区別して、旧北区のものが東方へ移動して変異した」、とみなしていますが、実は日本の象の化石には、そのような区別はないというのが亀井節夫など日本の象の化石研究の専門家たちの見方なのです。
本当のところ、日本にはいつ頃からナウマンゾウがが生息していたのだろうか。この問題も大変興味のあるところですが、亀井は、第四紀の地層の研究が進むにしたがって、ナウマンゾウが日本に棲み着いたのは思ったよりも新しいのではないかと述べています。
横須賀製鉄所の敷地造成工事中の1867年に発見された大型哺乳動物の化石骨もナウマンによってゾウの下顎の化石と判明したのですが、ゾウが日本列島に渡来したのは陸橋などを考慮しますとリス氷期前と考えられます。
それから最終氷期の絶滅期の1万数千年前頃までは、列島の北から南まで至る所に生息していたとする見解が多くのゾウ化石研究者といいますか古生物学者の支持を得ているようです。