国家間の合意。強力な制度。人権の保護。開発への投資。これらすべてが、ケネディ大統領が言及した進化をもたらすのに極めて重要な要素です。しかし、私たちがこの作業を完遂するための意志、持続力を持つためには、何かが足りません。それは、道徳的想像力の継続的拡大、すなわち、全人類が共有し、減ずることができない何かがあるという強い主張です。
世界がより小さくなるにつれ、人間がいかに似通っているかということを認識しやすくなるだろうと思うかもしれません。人間は基本的に同じものを求めていること、すなわち、自分自身と家族にとっての幾ばくかの幸福感や充足感を持って人生を全うする機会を望んでいると理解することは、人間にとってだんだん容易になるだろうと、皆さんは思うかもしれません。しかし、目まいがするほどのスピードでのグローバル化、現代の文化的平準化の中でも、人々がとても大事にしている自分ら特有のアイデンティティー、すなわち人種、部族、そして恐らく最も力強いものであろう宗教といったものの喪失を恐れることは、驚くに値しません。いくつかの場所では、この恐怖が紛争に発展しました。時には、自分たちは逆戻りしているのではないかと感じることもあります。こうした状況は、中東でアラブ人とユダヤ人の間の紛争が激化する中に見られます。部族同士が離反した国家においてみられます。最も危険なのは、偉大な宗教であるイスラム教を歪曲し、汚し、アフガニスタンからわが国を攻撃した者によって、宗教が罪なき者の殺害を正当化するために利用されるそのやり方です。これらの過激主義者は、神の名において殺人を犯した最初の人間ではありません。十字軍による残虐行為は詳細に記録されています。しかし、こうした者たちは、私たちにいかなる聖戦も正しい戦争とはなり得ないことを思い出させます。もし、心から神聖な意志を実行していると信じるなら、抑制する必要などないでしょう。妊娠している母親や医療関係者、赤十字職員、さらに自らと同じ信仰を持つ人の命を容赦する理由などないはずです。
そうしたねじ曲がった宗教の考え方は、平和の概念と両立しないだけでなく、信仰の目的とも矛盾します。なぜなら、すべての主要な宗教の中心にあるただ一つのルールは、自分がするように、人にもしなさい、ということだからです。こうした慈愛の法則に従うことは、常に人間としての努力やあがきの核心を占めてきました。私たちは誤りに陥りがちであり、間違いも犯します。自尊心や権力、そして時には悪がもたらす誘惑の犠牲ともなります。どんなに素晴らしい意図を抱いていても、時に自分たちの誤りを直すことに失敗することがあります。しかし人類の状態を完成させることが可能であると、信じるためにも、人間性が完全であると考える必要はないのです。また世界をより良くする理想に近づくために、理想化された世界に住む必要はないのです。
ガンジーやキング師らの人々が実践した非暴力主義は、いかなる場合でも現実的で可能性を秘めていたわけではありません。しかし彼らが唱えた愛、そして人類の進歩にかけた彼らの信念は、どんな時も私たちの旅を導く北極星でなければなりません。なぜならもし私たちがその信念を失い、ばかばかしい、甘いと言って退けたり、戦争や平和に関する決定を下す際に無視したりするなら、人間性の最も優れた部分を失うことになります。可能性にかける思いを失うことになります。倫理的な指針を失うことになります。私たちの先人の幾世代もがそうだったように、私たちはそんな未来は拒否しなければなりません。
キング師は何年も前にこの場で次のように語りました。「私はあいまいな歴史への最終回答として絶望を受け入れることを拒否する。私はまた、人間が現在『そうである』性質が、永遠の課題である『そうであるべき』姿に近づくことを不可能にしているとの考えにはくみしない」だから、あるべき世界に到達するよう努力しよう、私たちの心の中をかき立てる神聖な輝きの世界へと。(Applause)
今日、世界のどこかに、戦闘で不利になりながらも毅然と平和を守る兵士がいます。今日、世界のどこかに、残虐な政府に対し勇気をもって行進を続ける女性がいます。今日、世界のどこかに、極貧にあえぎながらも子供に教える時間を取り、この残酷な世界でも子供の夢が実現する余地がどこかにあると信じる母親がいます。こうした手本を見習いましょう。この世界に抑圧はいつも存在することを認めながらも正義に向かって進むこともできます。腐敗が手に負えないことを認めながらも尊厳を追求し、戦争がこれからもあると知りつつも、平和への努力を続けることができます。私たちにはそれが可能です。なぜならそれこそが人間の進歩の物語であり、全世界の希望であり、この困難な時代にあって私たちが地上で果たすべき仕事であるからです。(Applause)
世界がより小さくなるにつれ、人間がいかに似通っているかということを認識しやすくなるだろうと思うかもしれません。人間は基本的に同じものを求めていること、すなわち、自分自身と家族にとっての幾ばくかの幸福感や充足感を持って人生を全うする機会を望んでいると理解することは、人間にとってだんだん容易になるだろうと、皆さんは思うかもしれません。しかし、目まいがするほどのスピードでのグローバル化、現代の文化的平準化の中でも、人々がとても大事にしている自分ら特有のアイデンティティー、すなわち人種、部族、そして恐らく最も力強いものであろう宗教といったものの喪失を恐れることは、驚くに値しません。いくつかの場所では、この恐怖が紛争に発展しました。時には、自分たちは逆戻りしているのではないかと感じることもあります。こうした状況は、中東でアラブ人とユダヤ人の間の紛争が激化する中に見られます。部族同士が離反した国家においてみられます。最も危険なのは、偉大な宗教であるイスラム教を歪曲し、汚し、アフガニスタンからわが国を攻撃した者によって、宗教が罪なき者の殺害を正当化するために利用されるそのやり方です。これらの過激主義者は、神の名において殺人を犯した最初の人間ではありません。十字軍による残虐行為は詳細に記録されています。しかし、こうした者たちは、私たちにいかなる聖戦も正しい戦争とはなり得ないことを思い出させます。もし、心から神聖な意志を実行していると信じるなら、抑制する必要などないでしょう。妊娠している母親や医療関係者、赤十字職員、さらに自らと同じ信仰を持つ人の命を容赦する理由などないはずです。
そうしたねじ曲がった宗教の考え方は、平和の概念と両立しないだけでなく、信仰の目的とも矛盾します。なぜなら、すべての主要な宗教の中心にあるただ一つのルールは、自分がするように、人にもしなさい、ということだからです。こうした慈愛の法則に従うことは、常に人間としての努力やあがきの核心を占めてきました。私たちは誤りに陥りがちであり、間違いも犯します。自尊心や権力、そして時には悪がもたらす誘惑の犠牲ともなります。どんなに素晴らしい意図を抱いていても、時に自分たちの誤りを直すことに失敗することがあります。しかし人類の状態を完成させることが可能であると、信じるためにも、人間性が完全であると考える必要はないのです。また世界をより良くする理想に近づくために、理想化された世界に住む必要はないのです。
ガンジーやキング師らの人々が実践した非暴力主義は、いかなる場合でも現実的で可能性を秘めていたわけではありません。しかし彼らが唱えた愛、そして人類の進歩にかけた彼らの信念は、どんな時も私たちの旅を導く北極星でなければなりません。なぜならもし私たちがその信念を失い、ばかばかしい、甘いと言って退けたり、戦争や平和に関する決定を下す際に無視したりするなら、人間性の最も優れた部分を失うことになります。可能性にかける思いを失うことになります。倫理的な指針を失うことになります。私たちの先人の幾世代もがそうだったように、私たちはそんな未来は拒否しなければなりません。
キング師は何年も前にこの場で次のように語りました。「私はあいまいな歴史への最終回答として絶望を受け入れることを拒否する。私はまた、人間が現在『そうである』性質が、永遠の課題である『そうであるべき』姿に近づくことを不可能にしているとの考えにはくみしない」だから、あるべき世界に到達するよう努力しよう、私たちの心の中をかき立てる神聖な輝きの世界へと。(Applause)
今日、世界のどこかに、戦闘で不利になりながらも毅然と平和を守る兵士がいます。今日、世界のどこかに、残虐な政府に対し勇気をもって行進を続ける女性がいます。今日、世界のどこかに、極貧にあえぎながらも子供に教える時間を取り、この残酷な世界でも子供の夢が実現する余地がどこかにあると信じる母親がいます。こうした手本を見習いましょう。この世界に抑圧はいつも存在することを認めながらも正義に向かって進むこともできます。腐敗が手に負えないことを認めながらも尊厳を追求し、戦争がこれからもあると知りつつも、平和への努力を続けることができます。私たちにはそれが可能です。なぜならそれこそが人間の進歩の物語であり、全世界の希望であり、この困難な時代にあって私たちが地上で果たすべき仕事であるからです。(Applause)