天地を 照らす日月の 極みなく あるべきものを 何をか思はむ 

わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても あはむとぞ思う

秋の彼岸に

2009年09月22日 | Weblog

 「秋風一夜百千年」 ( 秋風のなかあなたと共にいる。それは百年にも千年の歳月にも値するものだ。 )  

17歳で自殺未遂、88歳臨終には「死にとうない」と一休さん 

他に、「釈迦といふ いたづらものが 世にいでて おほくの人を まよはすかな」

「唐土の むさむさ坊主 髭入道 さしたる事は 言はじとぞ思ふ」 

「女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む」

 「南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ」

「花は桜木 人は武士 柱は桧 魚は鯛 小袖はもみじ 花はみよしの」

「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(狂雲集)

  

「本尊は 釈迦か阿弥陀か 紅葉かな」紅葉の名所攝津の禅昌寺にて、滝野瓢水 

他に、母の喪に墓へ詣でて 「さればとて 石にふとんも 着せられず」

 瓢水が薬を買いに行った留守に訪ねた禅僧が「死ぬのが怖いようでは本物ではない」に応えて 「磯までは 海女も蓑着る 時雨かな」 

大坂の知己が気乗りせぬ遊女を身請するというのを諫めて 「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」 

俳諧に没頭して家業を怠り身代を潰してしまい、最後の蔵を売ったとき 「蔵売って 日当たりのよき 牡丹かな」  

そして、知己の見舞いにむかう途中、落命を知らされ 「嘘にして いで逢ふまでの 片時雨」