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天地を 照らす日月の 極みなく あるべきものを 何をか思はむ 

わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても あはむとぞ思う

問題解決を基準に 加藤良三

2009年03月28日 | Weblog

アメリカの日本に対する評価は非常に高い。外交政策が、一定の価値観に基づいて、安定的に発動されるからだ。その日本の中で、オプティミズムがちょっと足りない。いわゆる「縮み思考」といわれる点だ。

ペシミズムには容易に陥り、それは問題解決の意思の放棄である。オプティミズムは、そこに自分の決断、決意の要素が入る。ここが基本的に違う。日本には、自分自身が決意をもってこうするのだというエネルギー「アドレナリン」が走っていない。

「後々省みられることのない情報が大量生産されている。インフォよりエンタを提供することに狂奔している。」これは、アメリカの元記者が自国のメディアを評して語った言葉だが、日本国内のメディア、役人等においても同じことが言え、日本という国が強くなるためには、まずこれを断ち切る必要がある。このことが部分的にせよ達成できれば、そのときオプティミズムの要素が増して日本国全体にオプティミズムが走ると思う。

問題解決ということに基準をあわせて世の中を見ないと、非現実的な論理に得てしてなってしまう。一定の価値観を堅持しながら、変革する能力というものを、世界に自ら示していく必要がある。

元駐米大使加藤良三プロ野球コミッショナー(67)の’08.6.25日本記者クラブでの会見


ES細胞

2009年03月13日 | Weblog

オバマ米大統領は9日、ヒト胚(はい)性幹細胞(ES細胞)研究への連邦予算支出を解禁する大統領令に署名した。

オバマ大統領は「研究に取り組む科学者を積極的に支援する」と表明。保守派の反対論に対し「健全な科学と道徳的価値観は矛盾しない」と反論する一方、実施にあたり「厳格な指針」を策定する考えを示した。

皮膚からES細胞に近い性質を持つiPS細胞を作製した、山中伸弥・京都大教授も署名式典に招かれた。

「ES細胞の研究は、生命の破壊につながるが、そうではないiPS細胞の研究には絶対必要」と山中教授。厳格な指針となっていただくことを望む。


命ある限り

2009年03月11日 | Weblog

「命ある限り」の著書がある河野義行さん。「私は、麻原被告も、オウム真理教の実行犯の人たちも、恨んでいない。恨むなどという無駄なエネルギーをつかって、限りある自分の人生を無駄にしたくないのである。」と。

罪を認め、刑を終えた人を受け入れ、著書の中で、麻原彰晃のことを「さん」付けで呼び「教えは間違っていた」と声明を出してほしいと訴えている。罪を認めないまま死刑にすれば、殉教者。  

光市での事件。本村洋さんは「最も尊ぶべきは、過去の判例にとらわれることなく、個別の事案をきちんと審査したこと。(’06.6.20最高裁第3小法廷、浜田邦夫裁判長は、ただ自らと法に従い、無期懲役判決を差し戻した。’08.4.22差し戻し審、死刑判決)社会は正義を再認識し司法が威厳を保つことで、民主主義、法治国家は維持される。

 人の命を最も大事だと想って尊ぶからこそ、死刑がある。刑法は、社会秩序を維持するための手段。死刑というものがあって、人の命を、どうこの国が、社会が、法が、判断するかを考えていくことに意味がある。一つのけじめがついた。 

 惜しむらくは、最後まで事実を認識し、誠心誠意反省すれば、死刑を回避できたかもしれないこと。被告人は、納得して、死ななければならない。納得してはじめて、偶然は必然になり、死は、生は意味をもつ。まだ、発言の機会を奪われたわけでははない。」と。

加害者は、自分のしたことを認識し、さらに「間違っていました」と伝えなければならない。それをしないで死んではいけない。社会は、それをさせないで死刑にしてはいけない。


日本の芽生え

2009年03月09日 | Weblog

「古代、中国と主従関係を結んだ周辺国は、貢ぎ物を贈り、中国の暦を使っていた。5世紀の日本も倭国王として朝貢していた記録が中国にある。日本の天体観測は620年にオーロラが記録されたのが最初で、それ以前には天文記録がないこと、620年以降には日本でしか観測できない現象が見られることから、620年ごろから継続的な天文観測が始まったと想われる。そして日本に律令制が芽生えた680年ごろから天文や占いをつかさどる役所「陰陽寮」が置かれ、専門職の天文博士、暦博士が天文観測と暦づくりを担当するようになった。」と、国立天文台が日本書紀(日本最古の書、漢字)を紐解き、推測した。

600年、派遣された使者に対し、高祖は所司を通じて倭國の風俗を尋ねさせた。使者は「倭王はアメタラシヒコ(天より垂下した彦、天に出自をもつ尊い男)、オホキミ(大王)である。天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く跏趺(かふ)して座す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬ」と。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。高祖は「これは道理に反したもの、改めるように」と訓令した。

607年、小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと「日本書紀」に記されている。倭王から隋皇帝煬帝(ようだい)に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳倭國傳」にも「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」とある。これを見た煬帝は、未だ倭王が改めていないことに立腹し、外交担当官に「無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな」と命じたという。しかし、小野妹子とともに倭国にきた斐世清が持参した書には「皇帝、倭王に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、自らの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したいという心に、遠い近いの区別はない。倭王は海の彼方にいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗は穏やかだということを知った。心栄えを至誠に、遠く朝献してきたねんごろな心を、朕はうれしく思う。」とある。

小野妹子ら遣隋使を派遣したのは、聖徳太子の飛鳥時代。
用明天皇の皇子で、母が宮中の馬小屋の前に来たとき生まれたとされ、廐戸皇子(うまやどのおうじ)とも呼ばれていた。593年、20歳でおばの推古天皇の摂政(天皇の代理)となり、大臣(おおおみ)の蘇我馬子(そがのうまこ)と協調しながら政治を行った。そして仏教興隆の詔(594年)を出し、法隆寺を建立するなど、都のあった飛鳥地方(奈良盆地の南部)を中心に、すぐれた仏教文化を栄えさせた。太子の願いは、豪族たちの争いをやめさせて天皇中心の強力な国家をつくることにあり、冠位十二階(603年)を定めて有能な人材を役人に登用したり、十七条の憲法(604年)で豪族や役人の心がまえを説いた。

聖徳太子の小野妹子ら遣隋使派遣は、607年。ジョン万次郎の日米和親条約は、1854年。全権林大学頭、十三代将軍家定、孝明天皇。林大学頭は朱子学者の家に生まれ、儒学者。米側は厳粛で控えめな人物と評している。

家定に子はなく十四代将軍家茂は紀州から、家茂にも子はなく十五代将軍慶喜は一橋から。1867年大政奉還。


椿と花水木

2009年03月06日 | Weblog

ジョン万次郎の生涯を描いた津本陽の小説の題名。嘉永七年三月三日、日米和親条約締結。それまで江戸幕府のもと鎖国政策をとっていた日本は、それによってはじめて開国した。

土佐(現在の高知県)の漁村に住む十四歳の少年、万次郎は漁の最中嵐に遭い、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に助けられる。熱心なクリスチャンであった捕鯨船のホイットフィールド船長は、故郷マサチューセッツ州フェアへブンに戻り、万次郎を教会に連れて行く。有色人種の同席を拒否された正義感の強い船長は、その教会を脱会し、受け入れてくれた宗派に教会を変える。それほど船長に気に入られた万次郎は、自らも航海術を実践で学びつつ、英語、数学、測量、造船技術などを習得後、望郷とホイットフィールド船長への報恩の念から「日米の架け橋にならん」と、アメリカに暮らして八年、帰国を決意する。

「鎖国」を続ける日本に外国から戻れば、獄門打ち首は必至。それでも万次郎は日本に戻り、お互いの人々の誤解を解こう。どんな苦難が待ちかまえていたとしても国を開かなくてはならないのだと決意したのです。そんな万次郎に、ホイットフィールド船長は、国だけでなく「人の心」も開いて欲しいと言います。開国することもたいせつなこと。けれどももっと大事なのは人々が世界に目を向けて大きく心を開くことだ、と。万次郎は船長に宛てた手紙で「私は 船乗りたちが保護されるよう日本を開港させるつもりです」 「私はこの世界が変わりうることを信じています。そしてこの世界には人間の善意があることも信じています」と。

日本に帰ってきた万次郎を待ち受けていたのは厳しい取り調べでしたが、時は折しも、アメリカから黒船が来航、幕府に開国を要求していた頃。通訳・米国事情を知るものとして重用された万次郎は、林大学頭とペリーの交渉直前「アメリカでは どこの国の人でも困っている時には手を差し伸べるべきだと考えられています。遭難した人さえ助けない日本のやり方は大変不快に思われており、それを改めるよう求めているのです」と進言。それによって、ついに日本は港を開いたのです。

 万次郎は、開明的指導者達にも米国事情を伝え、河田小龍を通して坂本竜馬の思想や「船中八策」にも影響を与え、岩崎弥太郎も海運や造船、保険などの知識を学びました。開国後、咸臨丸にて遣米使節の一人として、勝海舟や福沢諭吉に随行した際、船長を訪問し抱き合って感涙したということです。

日米開戦間近の頃、フランクリン・ルーズベルト大統領は、万次郎の子孫宛てに手紙を書いている。「親愛なる中浜博士 私は、あなたの父上をフェアヘブンにお連れした捕鯨船の株主の一人の孫であります。私のまだ幼かった頃、祖父は、日本の少年がフェアヘブンの学校に通ったことや、私の家族といっしょに教会に行ったことをよく話していました。もしあなたかあなたのご家族がアメリカを訪問されることがあれば、お目にかかれる日を楽しみにしています。」ルーズベルト大統領のおじいさんがジョン万次郎を知り、その謙虚さ、適応力、人柄をいたく気に入り、よく、ルーズベルトにジョン万次郎の話をしていたということです。緊迫した日米関係を憂慮し、そのような縁のある国と血を流すことを避けたいという思いを万次郎の子孫に託したのです。残念ながらこの思いは叶いませんでしたが、万次郎が国を変えたといっても過言ではありません。

万次郎は、最愛のキャサリンに「もし男の子が生まれたらドッグウッド(花水木)、女の子が生まれたらカメリア(椿)と名付けよう」と言っていたという。日米和親条約が結ばれた春三月のことだろうか。