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南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆16歳の誕生日

2012-08-21 22:14:27 | 思い出

 1314 1996年8月20日今から16年前にインドネシアに生まれました。独立記念日看板が沢山あちこちの掲げられていて、あれはいったい何ですかと、時のインドネシア人通訳に聞いて、独立記念日が17日だということを知った。折しも昨日がイスラムの元旦でした。私が初めて、ラマダン、レバランを迎えたのは1997年1月から2月の中頃だったと思います。約、半年、移動したことになります。

16年前の今日、朝、名古屋の小牧を7人で飛び立って、バリ経由でジャカルタに着いたのが既に暗くなっていた。そのまま、訳もわからず、リッポチカランのクラウンコートに送り届けられた。社長はブカシバラットのフィラヅアラトス、私を含めた出向の三人はクラウンコート、出張の三人はチトラインでした。

インドネシアでの私の仕事というか、やり遂げたいことが、いつまでたっても、未完成で、満足できないのです。それをやるために、その場所で、自分なりにやろうとしたのですが、数々の障害が私の前にはだかり、なかなか進まなかったのが、16年もインドネシアに係わってしまった原因でした。また、今は、新しい場所で、仕事をするための準備中です。

当時のリッポチカランの様子を振り返ります。直進がタナーアバン方面で500mほど行くと右がイジップの裏口、左がヒュンダイの裏口の変則四差路を通る。右はイジップとデルタシリコンの工業団地へ直接入る。ヤンマーの看板は当時から、つい最近までサンヨーでした。正面右に見えるちょっとしたビルがチトラインです。地下の日本食レストランで時々、出張者と一緒に食事をした。

この交差点は当時、ロータリーになっていて、1998年、大暴動の折には、戦車が二台、一週間ほど警備をしていた。

左に曲がると、リッポチカランの新興都市になっていた。と言っても、目立った建物はホテル サヒッドリッポとその裏のクラウンコート アパートメント向かい側にモール リッポチカランだけでした。その他にはバスターミナルとそれに隣接した消防所、ルコタムリンのルコは一棟だけあった。会社での仕事が終わって各部屋に戻る前にシルクスでも食事をした覚えがある。モールの真ん中の二階にあるフードコートでは休日の昼食や夕食を皆で食べた。モールも裏の二階のハイパーマートは無かった。できる前は、モールの右端にあった、スーパー ヘローで良く買い物をした。今はない。

分譲住宅地のメドグリーンは既にあって、日本人も住み始めていた。奥のガソリンスタンド辺りが開発地の端だった。その向こうは、舗装をされていない、一車線の道があったが、数年前までその奥へいった事は無かったが、日本人の友人を訪ねて行ってみたら、果てしなく奥が深く、どこまでも、分譲住宅地が開発されていた。チカラン以東の高速道路沿いの工業団地に勤める人はこの街に住む傾向になっている・ジャカルタじゃ、大変です。

 

私は赴任して半年でクラウンコートから出てしまって、ずっと、北のルマーアバンと言う町、ジャバベカゴルフやプレジデント大学方面のグラハチカランという分譲地に引っ越した。その時に、車を一台私のために手配してもらうわけにいかないので、買ってしまって運転も自分ですることにした。それ以来、運転手を使ったことが無い。また、ゴルフ場が近いから、暴動のあとメンバーにもなってしまった。時々、ベチャでゴルフ場を往復したくらいに近かった。

 

今また、タマンセントサに住んでいるし、買い物や日本人との食事はリッポチカランが多いので、生活のベースの街になっている。私はインドネシアに生まれたのはこの町でした。長くても数年でしょうから、別の場所に移り住むことは考えられない。

 

生活 地元 継続


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