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南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆また、パンガンダラン

2011-06-03 23:13:37 | 旅行

朝06:00に家を出て、パンガンダランへ向かった。途中、バンドンのバイパスを降りて、タフスメダンの店を過ぎたあたりから渋滞が始まった。とにかく二車線が三車線や四車線になっているので、進まない。この渋滞の手前までが2時間の08:00渋滞を抜けたのが、タシクマラヤ県の入口の門辺り、その前で、コンクリート舗装をしていて二車線が一車線になっていたのが原因でした。たったの5km程を一時間掛ってしまった。

後は順調に流れて、13:00に目的のパンガンダラン、西海岸のウミおばさんのワルンへ到着した。途中、速度的にはそう落ちなかったが、バンジーャルサリというバンジャールの南の町の道路が完全に壊れてしまっていて、未だ、雨季の名残で頻繁に雨が降るらしく、車の道は水が10cmほど溜まってしまっていた。両側の歩道はちょっと高いので冠水していない、排水が出来ないので、水の蒸発を待つばかりの様で、手の打ちようが無いらしい。そこで、車がくしゃくしゃの汚れてしまった。

待ちあわせの其のワルンで食事をし、14:00に半島のジャングル(チャガールアラム)へ出発、今日の私の付き添いはイワン君とアア君の兄弟、オーストラリアへ二年の契約で英語の勉強をしにいっているラシッド(元、私のガイド)君の弟たちで、ウミさんの息子達です。彼らに初めて会ったのが、14年ほど前ですから、その時は小学校の低学年で可愛い男の子たちだったのが、今は、いかつい顔をし、色も黒い、サーファーになっていて、ガイドとサーフィンのインストラクターをしている。主に欧米やオーストラリア人が彼らの相手です。私が来た時だけ、日本人の相手、かと、思っていたら、先週一週間ほど日本人の若者が一人で来ていて、今朝、ジャクジャカルタへ出発していたという。その相手も、イワン君がしたとか。皆、自立ができて、立派になってきたと思う。この家族、子供が11人、ウミさんが、皆、生んだのです。子供たちに私のガイドをしてもらって、その報酬をガイドをした子供たちに渡すのでは無く、ウミさんに渡すならわしになっている。子供たちに渡すと、ガイドをした子だけが貰えて、貰った子たちは自分の為だけに使ってしまう。だから、皆に、ウミさんに渡すからウミさんは当然、全員の為に使うから、という話をして、そうしている。今もそうだ。

 

ところで、残念ながら、パチャール サヤ(私の恋人)に会うことが出来なかった。蕾は沢山あったが、開いているラフレシアが無かった。最近は、私がジャングル入る時は必ず開いている恋人に会えていたのに、今日が落胆でした。

5日にもう一度ジャングルへ入るが、その前日に、ウミさんの今ここにいる息子達、全員の四人で、ジャングルの中へ入って手わけをして、ラフレシアを探して置いてくれること云っていた。期待をしたい。

今回は一人で来ているが、ここにいると、常に数人が集まるところに私はいることになる。ウミさんの子供たちだけでは無く、ガイド仲間やライフガードの連中がウミさんのワルンへ集まってくる。

 GOA JEPANゴアジャパンと云って、インドネシア中至る所にある日本兵の隠れ家というか陣地になっていたほら穴がジャングルの入口近くいにある。その地下道の上にそびえている大木。

 パンガンダラン 一人 ラフレシア

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(^_-)-☆昔ながらの部落

2011-05-17 22:34:10 | 旅行

 04:00起き04:30出発でクリムトゥの日の出を見に行く。駐車場から30分ほどで展望台に付く05:45ころサンサイズ、水色の水がある火口のちょっと左から登る。二回目の経験である。欧米人がほとんど、インドネシア人がちらほら、日本人は私一人でした。やはり息苦しい、前回もそうだったが、毒ガスとは思えないが、上昇してくるガスによって酸素の%が少なくなっているのだろうと思う。今回も、インドネシア人が最近四人亡くなったという話を聞かされた。それでも、入山を禁止しないのがインドネシアです。

 

サンライズは前回同様、天気に恵まれてすばらしかった。日の出に手を合せて拝むのは万国共通の様で、カソリックもイスラムもブッディストも太陽に向かって手を合わせていた。ブロモの時も同じです。

結局、一時間待ったが、奥の黒の火口に霧が晴れず、見ることなく下山をした。途中、これも前回と同じで、コカコーラ色の火口を覗いた。これがコカコーラ色ではなく、水色に変わっていた。流石、色が変わる火口湖だと納得した。

 

 08:00にはモニのバンガローへ戻って軽い朝食、08:30チェックアウト、エンデに戻り、海岸沿いを西に戻った。昨日と逆である。昨日と打って変って、体調は回復、車酔いなど誰のこと?状態の快適さでした。

 また、ひたすら車を走らせ、バジャワに入るちょっと手前を左に曲がって伝統的な生活をしているカンプンアダット(昔ながらの)ウバーとベナを訪ねた。その前に展望台から見下ろすと数か所以上のそういうを見おろすことが出来た。うちの二か所に行ってみた。ここも大変よい天気に恵まれた。これがもし、天気が悪かったり、霧に閉ざされていたりしたら、どこへ何を見に来たのか分からなくなるでしょう。

ガルットのカンプンナガより遥かに田舎の町からは遠い山の中に住んでいるが、電気は使えるようになっている。燃料は枯れ木でLPGは使っていなかった。

インドネシアにはこういう場所が、数え切れないほどある。現代文化と云うか弁明と云うか、そういうものを拒否して、ひたすら昔のままの生活をしているのには十分な理由があってのことだと思うが、彼らの生活を見ていると、子供達が可哀そうな気がする。

 

バジャワのホテルにいる。今日もつかれた。

 

 隔離 火口湖

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(^_-)-☆車酔いの恐怖

2011-05-16 19:35:24 | 旅行

07:00ホテルから出発、東へ向かった。直線距離は350kmくらいだが、曲がりくねった山道がほとんどで、多分550kmくらい走った。エンデへ着いたのが、20:00夕食を取ってクリムトゥのベースになるモニの安宿に就いたのが21:00を回っていた。それだけでも、相当疲れる行程だったが、それはそれでいいのだが、今回はそれ以外に、車酔いがきつかった。いつも自分で運転している私が、こんなに長い時間他人の運転だけで旅をしたことが無かったことに加え、今朝の食事がいけなかった。ご飯を一杯食べた上に、美味しそうだったので、パンケーキを頬張ってしまった。

一時間ほど走った頃から、例の甘いもの食べてしまった時の胆汁が上がってきて吐き気がひどくなってしまい、それを暫くこらえていたら、頭がくらくらしてきて、吐き気がどんどんひどくなってきた。運転を止めてもらっていつものように水をがぶがぶ飲んで吐き出す物を全てはいてしまった。いつもならこれですっきりするのだが今日は違った。

聞いてはいたが、道の状態のヒドイことこの上なし、大型同士がすれ違うのはどけで出来るのだろうかと思うくらいの道の狭さ、曲がりくねりも相当なもの前が見えない状態でくねくね曲がっている。登り下りも激しい、登りの先の道の状態がみえない坂道の連続、ヘアーピンカーブはいろは坂の100倍以上である。完全に車酔いの状態になってしまった。今まで、船酔いも車酔いもしたことが無かった私だが、67年生きていて始めて経験することだった。辛い辛い、とにかく目的地まで速くいかなければならないが、何度も、車から降ろしてもらって吐く物が無いにも関わらず水を飲んで吐いた。私は食事をまったくとらなかったが、二人の運転手には途中、ワルンによって簡単な食事を取ってもらった。私も車から降りで二人が食べている間、テーブルに臥して寝ていた。支払いは私。酒を飲んで気持ちが悪くなったことは数え切れないほどある。しかし、30年以上アルコール類を飲んでいないので、そのつらさも忘れてしまっていた。

景色どころでは無かったし、写真どころでは無かった。ただひたすら車酔いの中にどっぷりつかっていた。

只、一か所、ちょっとした丘の上から見下ろした田圃の風景が素晴らしかった。インドネシアでは当り前の広大な棚田のことではなく、放射状に田んぼのあぜ道を作ってあって底の人は蜘蛛の巣田圃と云っていた。なぜ、そうしたのかを聞き忘れた。でも、この状態の田圃は世界でここだけでしょうと、自慢げに土地の人が云っていた。

 

ここ、モニは二回目である。6年ほど前に来ている。真っ暗で何も見えない。明日にならないと、の様子は分からない。

車酔い 初体験 参った

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(^_-)-☆南の天国と恐怖

2011-05-15 23:09:11 | 旅行

お話は、別の世界に変わります。また、旅に出ました。どこへかというと、フローレス島の西の端、プラブハンバジョという町にいる。何故ここかと云うと、すでに行ったことがあるフローレスのクリムトゥとコモド島の両方に行ってみたかったし、その間のフローレス島の雰囲気もこの目で確かめたかったからです。

 あさ、05:00に家を出てスカルノハッタへ、08:30発ウングラライ(バリ)行きのライオンエラーでジャカルタヲでた。ボーイング737、満席で400人以上は乗っていたと思う。バリから13:00発の、機体を見てびょっとした。例のムルパティがパプアに南の海についらくして25人全員亡くなったという事故があったばかり、同じ機種Xian MA-60だった。新しい、多分2008年ごろのものだと推測する。ブラックボックスが回収されたのは知っているが、大統領が事故の原因究明を急ぐようにと云ったばかり、まだ、原因がわかっていなし、事故がインドネシアだけではなく、他の国でも起きているから、この機種では無いことを願っていた、ライオンよ、お前もこの機種を買っていたのかと思った。

 数え切れない回数、飛行機に乗っているが、落ちるのを心配たことはなかったが、今回は、落ちないことを願った。そして、今日ほど真剣にキャビンアテンダントの説明を真剣に聞いたことはなかった。そして、直ぐそばの非常飛びだし口の扉の開け方を読んだ。もっとも、今日のアテンダントの女性は秀逸だった。2番に座った私のすぐ前いて、私と目が合うことが多かった。飛んでいる最中は危険な飛行機ということを忘れてしまっていた。それほどが高くない飛行なので、下の景色も良く見えた。スンバワから東は多くの島が点在していて、これも、危険を忘れる条件の一つだった。

 無事に着陸してほっとしたプラブハンバジョ空港の名前はコモド空港でした。丘の上にあるが、本当に島の西の端から二三百Mにあった。街は車で10分ほど丘から下りて海沿いの港町。本当に田舎の町である。それでも、コモド島への出発港なので、欧米人の姿が目に付く、また、観光ガイドの店も多かったし、ダイビングの店も多かった。

 

 町はずれのジャヤカルタというホテルに今いる。今日一日はただホテルに到着しただけで、ほかのどこにも行っていない。テレビではムルパティ墜落機の残骸を何度も写しだしているし、パイロットの葬式の様子も流していた。帰りに、また、同じ機種に乗ることになると思うと、気が重くなる。

  流石にホテルからのサンセットは美しかった。沖の三角おにぎりの島々も一興だ。

 

天国 憩い 気楽

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(^_-)-☆旅をする分け、魅力

2011-04-27 23:54:28 | 旅行

何故 旅が好きなのか。旅行会社が進める場所が無くなるほどインドネシアの中のめぼしい場所は全て訪問した。その理由は色々あるが、一般的には素晴らしい景色や環境を見たいから、地方々々の人々と接してみたいから、土地々々のおいしい食べ物に接したいから、珍しい植物や動物に会いたいから、現実の生活環境から離れてストレスから解放されたいから、乗り物が好きだから、写真を残したいから、などなど、人によって、一つの理由でなく、いくつかが重複し、濃淡もあるでしょう。

 私が旅を好きな理由は多分多くの人と違うと思う。準備から帰宅まで、そして記録まで、自分が全てコーディネート出来て、それを実行できるからです。勿論、コーディネートの中には他人に頼むことはあります。そこには費用を払います。それぞれが、私が出来ないこと、あるいは、私より知識や技術が明らかに上と認めてお願いして任せるのです。それを決めるのも、選ぶのも私です。こうして、先に書いた様々な旅に求める理由をそれぞれの旅で満足できるのです。得る物の大きさや費用や所要時間自分で全部決めるのですから、結果についても自分の責任です。

 ツアーにくっついてゆくなどと云うことは旅だと思っていない。会社などの行事で付き合うのは、付き合いだから仕方がないと参加するだけです。楽しむことはない。

 

 重要なことは躊躇しないで素早く決める、手配することです。私より明らかに能力が低い人に頼むことはないので、待つことはない。私がやるより早くやってくれる。

 

 旅でなくても、出来ることは全て自分でやること、頼むのは明らかに自分では結果も速度もかなわないという人にだけで、程度に合わせて報酬を払う。そういう対象ならなんでも好きになるし、やるでしょう。だから、上手な人に助けてもらう必要はないし、下手上手は関係なしに個人スポーツは好きです。囲碁や将棋も大好きです。

 

バンダアチェの町の中にいくつかある避難用のビル。国際友好住宅地、高台に建てられた仮設住宅、一家族の住宅になっている。冷蔵庫、テレビ、エアコンなどは勿論なしだが、立派なもので一般の田舎でインドネシア人が住むより程度は良いい。7年ほど過ぎるが出ていく家族はいないそうだ。追い出すわけにもいかないので、成り行きに任すしかないそうだ。 

待つ 待てない 相違

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(^_-)-☆Kota Solo~Prambanan

2011-03-06 23:36:54 | 旅行

ソロの町からプランバナン寺院。

ネットのダウンロードが速いのは本当にうれしい。遅いとイライラ、ストレスがたまる。このイビスはケーブルランが有って、早い、ところが隣のノボテルのワイアレスランはそれ以上に強烈、ユーザーネームもパスワードもいらない。

 

 今回はブンガワンソロなどの作曲者グサンさんの記念公園へは行っていない。町のあちこちにグサンさんの顔がある。独特のメロディ、クロンチョン アスリの本場です。彼本人が歌っている数々の歌のCDDVDを手に入れた。

 朝から、ベチャをチャーターして、昨日の夜、回ったコースをそのままなぞるように回った。当然、それぞれの個所に長くいたので、ホテルへもどったのは4時間後の12:00頃でした。その間にクラトンへ行ったり、パサール グデ(食料品)へ行ったり、骨董品店が沢山入っている建物へ行ったりした。オランマルにこだわるようですが、ここにも正面にオランマルが置いてあった。サイズはバリと同じだった。ここの人にこれは何という名前か、聞いたら、即座にオランマルと言っていた。いつごろからかと聞いたら、ずっと前で、いつごろからかは知らなかった。多分、バリから仕入れてきたソロの人が、感じてそう言ったのでしょう。私と同じ印象だったのでしょう。

 

 ソロは平坦な町なので、ベチャがすたれないのでしょう。スマトラ北部のようなバイクベチャ(ベモ、ベチャモートル)は全く見当たらなかった。ベチャの数はすごい。どこへ行っても、ベチャが客待ちをしている。私も今日昨日だけで6時間以上使った。値段がお手頃、一時間、観光ガイドも兼ねて600円位でした。町中が、いかにも古都、古い家並みが多く、高い白い壁の塀で囲われ、昔は、塀に囲まれた町だったのでしょう。西洋の城町のようです。町中のあちこちに道の門がある。門の向こうにまた門が見えるというように、である。ジョクジャカルタの王宮や水の宮殿付近の白い壁の道に似ている。というより、ソロの方が、エリアが数倍広いし、ソロの方が古いと思う。この町作りはソロの方がずっと先のように思う。 KOTA SOLOというより古都 SOLOと言った感じで、おそらく、インドネシアでの王さまが支配して一種の城下町としては一番早くできた街ではないかと思う。

 今回、ソロへ降り立ってソロを主体に見て回ったことは良かったと思う。狭い街なので、ざっと見るだけなら、一日あれば十分だが、伝統的な催しが沢山あって、それを見たり体験したりするには夜の催しが多いので、何日も夜、町のあちこちへ行く必要がある。最低一週間はかかりそうだ。

 ジョクジャルタの先輩街なので、ジョクジャに今ある伝統工芸品は全てこちらが先という感じで揃っている。そのよい例がバティックです。パサールへ行けば、土産物という店ではなく、これでもかというくらいの小さな店が沢山あって、一般市民がバティックを普段の服として愛用していることが分かる。

 午後からはタクシーでCandi Prambananへ行ってきた。ヒンドゥー正月のヌピなので、何か催しものがあるかと思ったからでした。処が、何もない。場内の案内で、今晩7時から野外劇場でラマヤナの劇あると案内していたが、そこまで、付き合えない16:00過ぎにはソロへ向かった。

 その前に、いつものチャンディ プランバナンだけでは意味がないので、奥の三つの遺跡、一番の奥がセウ寺院で三つの仏教の寺院へ行ってみた。歩いて行ったら後ろから汽車のような感じの乗り物が勢いよく迫ってきてあっという間に抜き去られた。私がセウへ着いた時、それに乗ってきていた人たちが降りて写真を撮っていたりした。運転手にここから乗ってもいいかと聞いたら、どうぞ、だった。いつ出発するか聞いたら、5分後だという。あわてて、写真を撮っていたら、運転手が笛を吹いて乗客を戻していた。私も乗るために、運転手にいくらかと聞いたらグラティス(無料)だと、笑いながら言っていた。乗って、出口まであっという間のことだった。知っていれば最初から使っていた。しかし、この奥の方へはこの乗り物がなければ行く人は全然ないと思う。

 ところで、仏教の遺跡の三つだが、純然たる仏教遺跡とは思えない、ヒンドゥーとかなり混じっている、そういう時代だったのでしょう。

 そういえば、ソロの王様の屋敷はイスラム様式とヒンドゥー様式が混ざっていた。そういう時代に王は生まれたのでしょう。

 プランバナンを離れたころ、嵐のような滝のような雨に見舞われた。昨日といい、今日といい、見たいところを見ているときは晴天で、そこを離れた直後は大雨になっていた。ラッキー(Nasib baik)だと思う。

Puro Mangkunegaran現在も住んでいる王様の屋敷で見つけた“花嫁の涙”という花とホテルから出たところにあった蘭、薄紫色が美しかった。

ソロだけでなく、プランバナンも混じった写真ページです。

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage104.html

堪能 節約 安い

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(^_-)-☆またちょっと遠出

2011-03-05 23:37:02 | 旅行

金型は作りなおし、来週の火曜日に出来上がる予定で、それまで、何もできない。何故作り直しかと言うと、図面に承認サインをした人が私では無かったからです。私の失敗でした。大ベテランでも疑って、私が目を通さなければいけなかった。反省。約、10日のロスになってしまった。

ということで何もすることが無くなってしまったので、また、旅に出た。車は疲れるし、ヒンドゥーのヌピなので、ゆかりの地という意味で、ジョクジャ辺りにしたが、ジョクジャへは何度も来ているがソロはブンガワンソロを見ただけで、町は通過していた。始めて、今回、直接ソロ空港を選んだ、そして、コタソロを見て回ることにした。そして、今、どこにいるかと言うと、Kota Soloの中心に近い、Novotelが満杯で、となりのIbis(トゥウィンベッドで4000円くらい)にいる。午前中はCandi Cetoへ行ってきた。先日、車でこの近くまで来て、Candi Sukuhへ寄って、紹介済みです。今回は先日あきらめた、山の上でもっと奥のヒンドゥー寺院を訪ねてみた。Solo空港からタクシーで往復50万Rp片道一時間半、強烈な急坂、急カーブで道も凸凹、前回私の運転の時にここまで来なくてよかったと思うくらい、険しい山道、これでは観光客が来るわけがない。他に誰もいない。独占観光である。バリ島では、空港も港も閉鎖するくらいのそこまでもやらなくてもいいんじゃないのというくらいの行事があるが、この山の中の寺院は、信徒が何かする風もないし、観光客はいないし、寂しい限りだった。もっとも、私にとってはこういうのが良い。その寺院の裏側の寺院跡にも登ってみた。環境抜群、景色抜群、見渡す限りの茶畑、プンチャックやスバンの茶畑は山にあるが、丘という感じ、こちらは本当に山の上まで、一面、茶畑、Dienのジャガイモ畑のように、見渡す限りの茶畑である。

こういうところへ住んでみたいなと思う。こんな山の中にいつ作ったのでしょうか、ヒンドゥーの昔の信者もすごいパワーを持っていたと思う。

約5000円使って行った甲斐があったと思う。

今日、午前中は天候に恵まれた。しかし、ホテルへ入った午後には大雨で外出できず、夕方、18:00頃からBecaで外へ出て見た。Jl.selamet RiyadiからPasar TriwinduPuro Mangkunegaranへいってみた。雨がきつくなってきたし、暗くなってしまって、何も見えない。それでも、中に入ることはできて、明日の予定を聞くことが出来た。それだけでは、帰る気がしなかったので、ホテルを通り過ぎて、Taman Sriwedariへ行ってもらった。20:00からWayan orangが有ると聞いていたからだ。直ぐに出てくるつもりが、入っていきなり、終わるまで帰ってはならないという張り紙が有って、本当かと聞いたら、入口の扉を閉めてしまって、緊急の時、以外は、終わるまで開けないと言われた。仕方がないから22:30の終焉まで半分寝ながら耐えた。30円弱で二時間半は安いと思うが、飽きたら出てもいいということにしてほしい。この劇場は日本の援助で作られ、何度も改造されているそうで、私を見るなり、そこの人が、親しげに、日本人か、ここは云々という話をしてきた。Tokang Becaに最期まで付き合ってもらった。18:00~22:40までで600円くらいだった。

イスラムのお祈りがスピーカーから聞こえてこない場所がうれしいのは私だけでは無いと思う。聞こえてくると、うるさいと思う。聞こえてこないこところでは何とも思わない。シンガポールの町中にムスジッドが点在している。しかし、スピーカーからの祈りの声は無い。日本でも同じでしょう。それが、宗教以前の人間としてもモラルというものです。単に、それだけのことと思うのですが、宗教というものは面倒なもので、スピーカーから大声で祈りの声を流したい。それが、認められない場所は気に入らない人もいる。なんとか、勢力を広げて、認められようとする人たちがでてきて、周囲と争いが起きる。争いの原因は、宗教があるからです。宗教がこの世に無い時代は、宗教に関する争うは無いのだし、宗教戦争などというものは無い。単に人間の欲望での争いだけだったはず。宗教の争いは一番始末が悪い。洗脳されている集団同士の争いなので、収束場所がない。とことん、争う。

ということで、スカルノハッタ空港まで向かったので、ジャカルタ方面の高速道路料金の事が分かった。ポンドックグデティムールはゲートではなくなった。通過するだけである。だから、チカラン辺りから支払ってジャカルタまでの料金は大幅値下げになっていたのでした。各インターから入る時に支払い途中で出ても、ジャカルタへ入るまでは均一料金です。ジャカルタ高速道路へ入るときには従来通りに6500Rp払います。

Solo到着する直前にDienの北側上空を通過、スンビン、スンドロ山。また、ムラピ山もかすめ通った。

ソロ 古都 寺院

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(^_-)-☆また旅先です

2011-02-13 23:16:48 | 旅行

   例の鉄板の最低数量が、2トンでいいことになった。そりゃそうでしょう、5トンでは計画の3年分以上になってしまう。こういうことを、最初感じることが出来ないのです。言われて初めて、考えるから、言われなければ、後で、トンデモナイことになってしまう。若干1M単価は高くなったが、OKし、サンプルを手に入れる故障を頼んだ。今月中に手に入れることが出来ればいいと言っておいた。どうなるでしょうか。

 

トランスジャカルタの関連する死亡事故が頻発している。中央高速道路沿いのガトゥットゥスグロト通りもやっとトランスジャカルタの運航が始まった。ところが、毎日に様に事故死のニュースがある。原因は広い通りを横断しようとして跳ねられているのです。高速道路とバス通りを横断しようとすると50mくらいは車やバスに引かれる可能性が在る。女性に死亡が多い。引かれると、身内や近い人が、バス通りを閉鎖して、葬儀の行列を始める。相当長い時間バス通りが使えなくなるし、周辺の一般道の渋滞が、もっともっとひどくなる。

 

 今朝、08:00過ぎに家を出て、空港に向かい、今は、バリのクタビーチにいる。土壇場でエアーティケットを頼んだので、ライオンエアーしか空いていなかった。帰りはバタビアアだけでした。4連休の始まりの日ですから混みようは仕方が無いし、価格は二倍も時間がかかるバンダアチェより高かった。

ウングラライ空港へ着いてインフォメーションでホテルのブッキングをしようとしたら、満員のホテルが多く、三日同じホテルに滞在尾することはできなかった。一日目と二、三日目は別のホテルになった。バタビアエアーのリコンフォームを空港でして、タクシーでホテルに向かった。クタまで5百円でした。ここ二日雨が降っていないそうです。夕方、まっ正面のサンセットを見ながら、海岸を散策した。マニキュアのおばさんとか、足裏マッサージのおばさんや飲み物専門に売っているおばさんと世間話をしながら時間を過ごした。

 海岸の様子は先週行っていたパンガンダランと全然違う。サンセットとそれを見ている人々です。ボオディーボードは全然ない。レンタルサーフボードに変わっている。ブレが三分の一くらい、だから、殆どブレしかいないように見える。水着については言うまでもない。それでも、ジルバブの女性がわずかだがいることはいる。

 今夜、これから、真夜中、23:00過ぎに出発してアグン山のサンライズを目的に山登りに向かう。

 落日 ビキニ 違い

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(^_-)-☆つらかった幻の滝

2011-02-05 22:16:13 | 旅行

   08:00から行動して、半島の中、チャガールアラムへ行ってきた。先端のチュルッグ、パナンジュンという滝の滝つぼまで降りてきた。ま、行けばいつも殆ど同じコースです。ご存知ラフレシアに会うためである。とにかく、会うことはできました。大満足です。12:00前に出てきた。 

そこまでは、心地良い疲れで、申し分は無かったが、その後が、休養どころか、とことん疲れさせられた。グリンキャニオン方面の途中にチトマンという場所がある。そっち行けば、高さが低い滝に会える。そこへは以前行ったことがあるので、今回は、ガイドの勧めによって、グヌンチィガという滝まで行くことにした。車で直ぐ近くまで行けるので駐車してから、ちょっと下るだけだと聞かされていたが、行ってみたら。とんでもない。殆ど道が無いような雑草で覆われた、また、その山は全体が石灰岩でできているので、急激な下りの三つはごつごつとしている上に滑りやすい。滝つぼまで降りることが出来るというので、信じて、帰りの登りのことは考えずに、恐る恐る降りて行った。急に小さい面積の田んぼが出てきた。その向こうだというので、その狭い畦道を、バランスを取りながら、なお降りる道を捜した。私の勧めたガイドが迷っているので、以前、いつ来たのかと聞いたら、4年前だという。四年前にここにあったはずの道が無くなっている、といいながら、あきらめたようだ。滝は直ぐ横に見え隠れしているが、全体は見えない。滝つぼへも道が無いので降りられない。どうするのか、と聞いたら、来た道を登って帰ろう、という。あればけ、しんどい思いをして、すぐ近くまで来ているのにこっちはあきらめきれない。ガイドが、帰ろうとしているが、私は、滝の下にでる道が無いなら、滝の上に出る道があるはずだと思い、横から見え隠れしていた滝の上の項の回ってみた。すると、道がある、滝に上に出てその向こう側に道があり、向こう側から滝壺へ下りることが出来たのです。しかし、その道も、殆ど見えない道で、相当長い間、人が通っていないと思う。ガイドを呼んだら、思い出したという。遅いよ。帰るところだったじゃないか。

その滝は、今まで、見た滝の中では一番姿が良かった。大変な思いをして見つけた滝なので、ひとしおでした。帰りはまた、ずっと登り。足がつってしまって、何回、途中で、休憩したでしょうか。上の道に出た時は足がもうふらふらだったし、息も絶え絶えだった。チュルッグ(滝)グヌン ティガという名前でした。達成感はひとしおです。この滝は、聞いたところに依ると地元の人も行ったことが無いらしい。それほど、近づくのも大変な場所のようです。

パンガンダランは万人にお勧めしますが、この滝は決してお勧めしません。美しいが大変すぎます。

ナンカの実とブレのベチャ乗り。普通の人は二人掛けだが、彼らは、大きいので一人一人でした。

幻 滝 達成感

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(^_-)-☆インド洋に再び

2011-02-04 21:29:01 | 旅行

   春節、チャイニーズ ニュー イヤーである。GONG XI FA CHAIというし、イムレックともいう。ハリラヤ(ナショナルホリデー)である。

どいうわけか、一年半ぶりのパンガンダランである。雨季の真っ最中なので、晴天は期待できないが、取りあえず、海岸でのんびり休養が目的です。昔に比べると、半分の時間で着いてしまうので、運転もずいぶん楽です。チカランから6時間で着いてしまう。

バンジャールからパンガンダランへ来る途中広大な水田が広がっているが、今回はその水田が水没してしまっていて、広大な湖と化していた。田んぼ仕事の休憩に使う屋根だけの小さな小屋がその水のあちこちに浮かんでいるように点在している。かなりの被害だと思う。当分水は引きそうにないように見えた。

 

パンガンダランの東海岸には竹で組んだ桟橋のようなものが三か所出来ていて、それは、バナナボートの乗り場になっていた。何箇所かに防波用にテトラポットのように大きな岩が積まれてもいた。津波依頼、パンガンダランの首に当たる東海岸の砂浜は消滅していたが、少しだけ再生している。もともと、肩の部分は広い海岸が残っていて、こちらは、観光客の海岸では無く、地元の漁師の海岸で、漁船がぎっしりと並べられている。毎朝、そこから日の出とともに一斉に沖合へ出漁するのです。それは、壮観です。

また、東海岸道路の海岸と反対側沿いには、軒並み、ホテルが並ぶようになった。以前はパンタイインダーなど数か所で、パサールイカンまで空き地が多かったが、今は、びっしりとホテルが並んでいて、道から空き地を見ることは無くなってしまった。中央通りにも新築のホテルがいくつかオープンしていて、首根っこ子部分はびっしりとホテルやロスメンで埋め尽くされているようだ、車が入れない小道があみだくじの横線のようにあるが、それらの小道沿いもロスメンだらけである。これだけ、パンガンダランへ来る人が増えているということでしょう。大型バスの駐車場と同じ場所の強制的に移動させられていた土産物屋も、許可されていなかった西海岸にドンドン復活していて、西海岸通り沿いに線であったものが、今はその後ろの海岸に広がっていて面になっている。ますます、来訪者が増えているようです。日本人には全く会わないし、来たという話も非常に少ない、だから、日本人が来た時には何人かの名前を覚えていて、私に、誰々という人が来たと教えてくれるが、私が知るわけが無い。ブレとインドネシア人が言っている欧米系の訪問者は多い。私が来たときに必ず二十人や三十人には会う。サーファーが多いが、リタイヤ者の団体旅行も多い。今日も多くのブレに会っている。

長年、私を手伝ってくれていたラシッド君がオーストラリアへ去年の6月から留学しているので、その弟のアウェン君にガイドを頼んだ。彼らは、国立の自然保護地区になっている半島のジャングル内のガイド資格を持っている。

私の孫もインドネシア人に見せるとブレと言われる。

休養 リラックス 羽伸ばし

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage%20top%203.html

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage229.html

旅行記とフォトアルバムのパンガンダランの項を参考にしてください。

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(^_-)-☆インドネシアの西端

2011-01-23 17:35:22 | 旅行

    正真正銘の最西端の島ウエーに来ている。北はマラッカ海峡の西の入口、対岸のちょっと南はマレー半島のペナン辺りである。

 10:00発のスピードボートで約1時間、ウエー島に到着、欧米人の客が目立つが日本人らしき人とは一人も会わなかった。聞く処に依ると、シンガポールやマレーシアから釣りのツアーで日本人が来るらしい。

 早速、タクシーを借り切って、ホテルに向かいブッキングし、その後13:00には島の観光に出かけた。タクシーの費用は、今日の6時間余りと、明日の朝、ホテルから港までの合計で、50万Rp(4千5百円位)、小さな島で、海岸は殆ど無く、海から直ぐ山になっている、その関係で、津波の被害は1000人程度であったらしく、アチェに比べれば微小扱いで、援助はほとんど入らなかったという。

 

 海はあくまでも澄んでいて綺麗、インドネシアで行ったことがある中で、トップクラス美しい海だと思う。ここまで来る目的はやはりこの海だと思う、ダイビングやシュノーケリングや読書(欧米人のスタイル)で何日も過ごしたい人には快適で、日本人の観光スタイルでは不向きだとお思う。

 

 日本軍が築いたトーチカに先ず、案内された。サバンという一番大きな(といっても小さい)街を通って西へ向かって、いちばん最初の観光地がそこだった。マラッカ海峡を見下ろす高台に、たったの一か所だけ残っていた。錆びた大砲が寂しかった。こんなところまで日本軍が来ていたのかと呆れてしまうが、そんなことを言ったら、ここまでやってきた日本兵に悪いような気がする。彼らが望んできたわけではないはずだから。それにしても、無駄なことがここまで及んでいたのかともったいないと思う。

 

 インドネシアの西の端、1997年にモニュメントが作られた。当時は、訪れる人も多く観光地として賑やかだったろうが、今は、ムニュメントの崩れも激しく、修復もしないのでしょう。肝心な中心に壊れた跡があり、何があったのか想像できない。地球儀でも有ったのでしょうか。この場所の西は、あの2004年12月26日のインド洋の大地震の震源地があるはずだ。

 島全体は勿論、インドネシアならどこにでもあるバナナとヤシは自然のままジャングルのようになっている場所もあるが、この島の主な産物はピナンのようだ。例の口に放り込んでムシャムシャしてから、ペッと吐き捨てる赤い木の実である。ヤシの木に似ているようで似ていない。実は、ジャヤプラのように口にすることは無いらしくて何倍も大きい。赤の染料の原料になると聞いた。

 滝があったり湖があったり、近場でちょっとした観光地があるが、これも、聞く処に依ると地震と津波の後、湖の水が濁ってしまい、以前は飲み水に使ったり、綺麗な観光地だったが今は、閑散としていた。

 この島の売りはやはり素晴らしい海である。

 東の端に殆ど近い、パプアのジャヤプラはだいぶ前に行っているので、これで、インドネシアの東西の端へ行ったことになった。

 

 両端、紺碧、ジャングル

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(^_-)-☆タンクバンプラフ

2010-12-20 23:27:26 | 旅行

   雨季で朝から雨が降ることが普通でしたが、例外的に朝から快晴でした。其の中で、腰の痛みが完全には消えていない状態でのゴルフでした。久しぶりに爽快な気分でした。

タンクバンプラフへはジャカルタからなら、チカンペックへ向かう、カラワン ティムールを過ぎて、チカンペック手前数キロmのところにバンドゥン方面は左車線という看板が出てくる。左車線に入り、すぐ、右カーブになり高速道路をまたいで南に向かう。一つ目の出口サダン、スバン方面で出る。直進(東向き)でサダンの町を過ぎスバンを目指す。いくつかのゴムのプランテーションを通り過ぎる、道は狭いが交通量は多く、遅いトラックが多いので、盛んに無理な追い越しを掛けてくる車が前方から来るし、こちらも、次々と追い越しをかける、追い越しを掛けないと後ろの車から、催促のクラクションを鳴らされる。かなり、危険な道だと思う。順調なら、サダンまで一時間、スバンまでまた一時間くらい。スバンの町へ入る前に一方通行になり大きく迂回して街へ入る、看板に従ってバンドゥン方面を目指す。間違いないかどうかは、スバンの町を出てすぐ(南向き500mくらい)のところから急な上りになり中央分離帯のある登り下りとも二車線の道になる。

道なりに登り下り右往左往した道を進むと間もなく道の両側が広大な茶畑になる。木の高さは日本と同じだが、平らである。この近くではジャカルタから南のボゴール方面のプンチャックの茶畑も有名だが、ここの方がはるかに広い。

茶畑ばかりかと思って見ているとパナップル畑も混じっている、道の両脇にパイナップルの直売所が並び出す。その店の後ろ側に近い方がパイナップル畑で、その向こうが茶畑という分布になっている。カカオの木も茶畑の中に植えられている。

間もなく、右側にチアトルの入り口になる。温泉で有名な観光地で、多くの人が服を着たまま温泉に浸かっている。遊園地のようなものもあり家族ずれでにぎわう。この辺りに馬事公苑もあり、そこから馬に揺られて周囲を散策することも出来る。滝を眺めたり、茶畑の中を進んだりで、天気が良ければ、お勧めです。爽快な気分になるでしょう。

こことセットで観光する人もおおいタンクバンプラフへはなおバンドン方面へ向かいレンバンの直前(峠)までかなり急な上りが続く、両側の景色は言いが運転者は見ていられない。危険な道である。登りきったところで右折し、タンクバンプラフの入り口になる。車と人数分で内訳は分からないが、49000Rp払った。

急な上りがなお続く、途中、バスの駐車場が左なってバスできた人たちはここからミニバスに乗り換えて火口へ向かう、一般の車は火口の回りの駐車場まで直接行く、駐車場で車から出ると数歩で火口を見下ろせる場所になる。

今朝のチカランの空

火山  温泉卵  近い

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(^_-)-☆ムラピの噴火後

2010-12-07 15:56:33 | 旅行

   無事に家へ戻ったが、疲労困憊、家に着くなり横になったら眠ってしまった。ボロブドゥールから07:30に出発して17:30に戻った。これがまた、10時間しかかからなかった、マリオボロからの時間を足すと、11時間30分くらい、南からの時間とほぼ、同じになった。というのは、チレボンのバイパス高速道路が20km以上延長されていたことと、インドラマユ辺りのバイパスも延長されていて街の中を通らなくなったことが大きい。

三日間で30時間以上運転していたが、知らなかった道は二日目のソロとスクー間だけだったので緊張して運転しているつもりは無かったが、やはり、疲れた超だった、帰りテガル、チレボン辺りは二時間ほど半分、眠りながら運転していたように思う。危ない、危ない。

サンライズとムラピ山を見ることが目的でした。ボロブドゥールへは何回目でしょうか、忘れた。今回は、ムラピの火山灰が降り注いだ結果、それを洗い落とす作業をしている関係で、寺院に登ることは禁止されていた。

目的達成は全くできなかった。ムラピ山は雲の中、三日間とも、雨模様でムラピ山の東、南、西を巡ってみたが、どちらからもムラピ山を見ることはできなかった。残念!!!

ボロブドゥールへ行く途中ムラピ山からの泥流の被災地を何箇所も通過、また、広い範囲でヤシの木の歯が下向きに垂れ下がった状態になっていた、降灰によって、傘が閉じてしまったようになっていた。ボロブイドゥール周辺のヤシの木の葉も同様でした。

チャンディ プランバナンへの降灰は無かったのに比べ、風向きにせいなのでしょう。ボロブドゥール方面(ムラピ山から西)の降灰はひどかったようです。ボロブドゥールがムラピ山からの降灰で埋もれてしまっていたという話、納得できます。

 

立ち入り禁止になっている登り口、ヤシの木に葉が傘が閉じたように垂れ下がっているし、葉の色が緑では無く灰色に変わってしまっている。川には灰の泥が堆積している。

活火山  ムラピ山  世界遺産

 

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(^_-)-☆ジョクジャカルタから

2010-12-05 23:58:49 | 旅行

 昨日ペーテーパラマウントベッドの2011年のカレンダーを頂きに上がった。20部とTシャツを頂いた。言うまでも無く、このカレンダーの毎月の写真の内8カ月以上は私が提供した写真が使われている。来年のカレンダーにも数多く使われている。その中で私が一番気に入っているのは、ロンボクのヤシの木です。一人で運転しロンボクまで行きリンジャニ山へ登った後、帰路に就き途中、北の海岸へ山から下りてギリ三島を
右に眺めスンギギを通り過ぎたあたりのヤシの林でした。
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/page0406.html
タイマーで自分を一緒に撮った写真もあります。何の変哲もないヤシの林ですが、私にとっては貴重な思い出の写真です。

一応、やっておかなければならないこと殆どが終わった。私が今直ぐやらなければならないことは無くなった。
そこで、三連休を利用し、旅先にいる。予ねて計画していたこと実行している。早朝04;00に出発した。去年のムディックに便乗してロンボクまで行った時以来、一年三カ月ぶりに、一路東に向かいバンドン、タシク、チアミス経由でジョクジャカルタ方面に入った。何度も通った、知っている道である。北回りでなく、南に下ってからジョクジャの西側から入った。いつもの逆回りをしてみた。こちらの方がはるかいに早く到着する。15:30にマリオボロのムティアラホテルへ着いてしまった。
 山の中の道が多いし、雨季の真っ最中で陥没したアスファルトも多く、何箇所かで地滑りの後、応急修復した場所もありの、結構、徐行運転を余儀なくさせられた場所もあったが、パンク修理15分、ガソリン給油やトイレ休憩30分を含めて、11時間30分でついた。北回りだと順調に来て13時間である。
 今いるホテルは、マリオボロの道に面した高級ホテルです。私のウェブサイトhttp://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
の表紙の右側に昔の写真を載せてあります。今も同じです。
 一人でブッ続けの運転で流石に疲れた。
 先ほど、ほかホカのマリオボロとジャカルタへ入る手前の道案内板、チラチャップやソロ、プロワカルト、バンジャルネガラなどの町の名前がある。
 慣れ, 運転, 旅

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(^_-)-☆インドネシアぶらり旅

2010-12-01 22:27:39 | 旅行

   坂の上の雲、第三部を見た。私が二十八の時、全巻一気に読んで大感動し、直後、会社に辞表を出した。という思い出がある。

下調べをしません。私の旅の仕方は全くいい加減と言っていいと思う。だから、他人を誘うことはできない。どういう旅をする予定なのか、分からなくて、他人を誘えない。景色と人との出会いを求めて旅に出るのです。行く場所をどこにするかは、今となっては、殆ど行ったことがあるので、決めるのが大変です。車で行ける範囲は殆ど全て言っているので、二回目以上になります。その目的地で、前に行っていない場所を探します。エアーを使うならまだまだ残っていると思いますが、情報が殆ど無いので、どこか決めかねます。テレビの旅情報番組をたまたま見た時に、そこが、行っていない場所なら、そこにします。

旅先が決まれば、エアーチケットだけ手配します。目的地の空港へ着いたら、タクシーの運転手に、その土地の見どころを聞きます。海でも山でも景色が良いところ、遺跡や伝統的な建物の集落があるか、農作物一大産地や鉱物資源が取れる場所があるか、その近くに宿泊場所があるか、そこら辺に行くには何時間程度かかるか、それと、肝心なことは、タクシーを一日チャーターしていくらくらい掛るか、などを確認します。

それらを聞いて、其の旅の最終日、空港へ戻るまでの行動予定を決めてしまいます。決めてしまえば、後は、気楽なもの、それぞれの目的地を楽しむだけです。

 

インドネシアのどこの島へ行っても、何百年か前からの伝統的な集落があります。建物はかなりユニークなデザインになっていて、合理的なのか、不合理なのか良く分からない、不思議なデザインが多い。タナロラジャ辺りの屋根がそっくりかえっているようなデザインにはあまりびっくりしない。

ニアスの住宅、これにはびっくりである。こんな頑丈な建物を誰が提案して、材料をどういう方法で集めてきて、どんな方法で組み合わせて家に作り上げたのか、全く、想像が出来ない。無駄が多くて、過剰品質で、近代建築のデザイナーでは全く思い付かない建築部いつだと思う。ニアスの大地震の時もこの家屋群だけはびくともしなかった。そりゃそうでしょう。地面が陥没しない限り、マグニチュード8や9でもびくともしないと思う。

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage%20top%203.html

てなわけで、思いもよらない出会いがある。

その土地の人々との接触が面白い。インドネシア語を普通に喋る変な日本人が突然現れるのですから、そこの、人たちにとっても、興味深々、多くの人々が集まってくる、子供は特に人懐こく付きまとってくる。彼らをからかいながら、こちらがからかわれているかのような錯覚をする。こういう状態は一種の酔いの心地でドラッグ中毒はかくやと思う感覚もする。

 

MM2100の片隅のベアチュカイ(税務、税関)の建物と隣接するインドネシア料理のフードコート、この反対側の並びにファミリーという自動車修理、点検会社と郵便局がある。

気まま  準備なし  出会い

 

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