おれおれ日記

平成の快楽主義者な管理者による酒の話、現代美術の話、音楽の話、世間話をただただ垂れ流す日記。

佐藤可士和と美術教育

2006-02-23 00:50:35 | Weblog
佐藤可士和(字あってるかな?)が先日NHKにでてた。
その中で彼は「一切文字を載せないイメージのみのミニマルな広告」(説明が難しい。宣伝物がフォルムがすっきりしているデザイン重視の新機種携帯だからそういった広告になったのであろう。)をドコモだかどっかのお偉いさん数十人にプレゼンしていた。

とっさに俺は俺自信の体験とそれをリンクさせたのだが、、、

中学校、高校の頃の俺は、臆面もなく言うが、美術に関してはミニマルなものを比較的愛好していた(そしてそれは今もそう変わらない)。例えば浮世絵の間。スペース。水墨画の間。スペース。室町時代の茶室。など・・・・。

そこで俺自信の美術、図画工作の授業での作品製作にもそれは顕著に表れ、いわゆる「ミニマルアート」的な作品ばかり作っていた(書いていて恥ずかしいが、便宜上こう著述する。)。まあ、かわいげのない作品を作っていたようにも思う。
そんでもってそんな(ある意味)渾身の作品に美術教師は
「もうちょっと飾り付けすれば?」とか
「んーーーーー、もうちょっと手を加えよう!」とか
「・・・・・・・。」とか
さまざまな評価を下した。

そのころにも常々思っていたのだが、今でも変わらず思う・・・。
「あのー、すいません。凝ってりゃいいんですか?子供らしく賑やかな作品ならいいんですか?俺自信は考えに考えてこういった世間的に見たら味気ない作品を作ってるんです。」

加えて、思う・・・。
「あんた達美術教師は、やれ「締め切りを守りなさい!」と居残りで作品製作をさせたり、「こうしたほうがいいんじゃない?」なんて言って人の作品に勝手に手を入れたりなんだーかんだー人の作品に口答えするけど、言わせてもらう。さいてーーーーーーだよ、あんたたち。ちゃんと美術学んだことあんの?ええ?俺、家庭科の先生に美術習ってたことあるけど(勘違いして欲しくないのは別に家庭科の先生が美術を教えているという実情が悪いのではなく(双方の授業が充実していれば問題無い)、そういった教育上適当な場所に「美術」という授業が置かれていたことが腹立たしい)、さいてーな授業だったよ。締め切り守るのってそんなに大事なことなんだ。写生会ではなんか写実的な作品ばかり評価を得るけど、そんなのがいいんだ。ふーん。そんでもって「宗像志功」(漢字微妙)について教えられてもさっぱりだよ。」などなど・・・。

まあ、話しは戻るが佐藤可士和。
まあ、技術はどうあれコンセプト的には同じような作品を俺も昔作っていた、とこれもまた臆面も無く言える。中学や高校の時ね。
ただ、美術教師にはことごとく批判された。
やっぱり学校教育というものは矯正機関としてまだまだうまく機能しているんじゃないかと思う。極端な思想の矯正。くっだらねーくっだらねーくっだらねー。

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まあ、包括的に言って、時の人森永卓郎氏の言ってることは正しい。と思う。
「年収300万でも豊かに暮らせるなんちゃらかんちゃら」
って言ってる人。
まあ、本人がこの発言で売れちゃって300万のんー倍もの年収を手にしているという実情は皮肉だが・・・。

まあ、正しいよ。

ほんとに正しい。

年収3000万でも不幸な人間はいる。逆に・・・と。

まあ、そういうこと。↓のような音を聴いているとよく思う。

こういう音楽を一生聴けるなら貧乏でもいいや、と思える曲:
サイモン&ガーファンクル「アメリカ」
(最近ランチを食べに行った先で偶然かかり、再び聴くようになった。同時に「水曜日午前3時」も聴いている。)