昼下がりのコーヒー豆のあくび アーリーアフタヌーンコーヒー日記

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コーヒー豆屋のちょっとだけゆっくり流れる時間

死後の世界の有無

2024-10-11 07:50:50 | 日記
オカルトブーム只中だった小学生の頃から数えて、おそらく100回以上は答えているんじゃないかと思う話題、その個人的最新版。毎回回答が微妙に変化してる気がします。

実はどこから見てるかの違いだけだったりするのですが、今回の答えは「有るのも無いのも同じ事」。3つの根拠を提示しました。

1,わからないから・・・確かめようが無い事に、有無などつけられない。
2,唯識あるいは唯心的・・・人は世界の全てを自我というフィルターを通し情報を得、また主観によって交流を直流に変換して思考する以上、全ては物語。有無の定義さえ各人事、異なる可能性があるから有る人には有るし、無い人には無い。

以上は定番。そして今回初登場の3,唯物的(New!)・・・構造的に可能性があるという程度の相対性的?

コイルに電流を流した時、定点から観察する者から見れば、空間に磁場は発生しますが、電流はコイルの中だけで電場が空間には現れない。しかし、電流とともに移動する観察者には、地場と同時に空間の電場を確認できる(バークレイ電磁気学上巻?また聞きです)とか。

ならば、死を見送る側からすれば確認できないことが、死を迎える者には物理的に感知できるのかもしれないという飛躍し過ぎ感のある空想です。思い付きですし。まあ、有るも無いも、どっちも物理的にも間違ってないってことで。

こうして人生最後まで楽しみは残るわけですが、秩序維持の前提は判りますし、人心掌握の手段であることも理解しますが、自由であるはずの思考において、不明なことまで、或は一視点からの実験結果をもって断定的に権威者に語られるのは、些か面白くありません。