日課の朝の自転車ぶらぶら散歩。
6時過ぎから近くの漁川の堤防道路と農道を昔の職場の先輩であるAさんと1時間ほど走る。
今年も4月1日から始めた。
なかなか暖かくならない。いまだに手袋を履いている。
時々暖かい川面の温度と地上の冷たい空気の微妙な差が朝霧を発生させる。
太陽の上昇とともに直ぐに消える束の間の幻想的な景色だ。(2021.5.14 6:25)
コロナ、オリンピック、デジタル庁、政治疑惑、改憲・・・etc。
ニュースを聴く度に霞が関(中央省庁)そして地方自治体の凄じい勤務状況が浮かんで昔を想い出し身が縮む。
ただでさえ昼夜を分かたず多忙を極めているのに半ば思いつきのような政策の体裁を整える仕事が重なり、これまでの人員削減で手が回らないのが実態だろう。
結果、広告代理店やIT関連の企業、さらには自衛隊、地方自治体にまで丸投げしてトラブルが続発している。
人事院のデータによれば、霞が関で2017年度にうつ病などの精神疾患で長期病休をした人の数は3,841人。
これは、全職員の1. 4%を占める。民間企業ではこれが0.4%だというから、いかに霞が関が過酷な職場になっているかということだ。
今はもっと比率に差が生じているかもしれない。若手職員の退職が増加し、志望者が激減しているのも当たり前だ。
ワクチン担当が目立つ河野太郎行政改革担当相だがこのことについての発信が無い。就任直後に「官僚の働き方改革」をぶち上げたものの今のところハンコの廃止くらいで終わっている。
勤務環境の改善は半年か1年くらいはかかる。それを数週間から1か月で答えを出すことを求められ、本来の仕事に加えて大量の残業が発生するという何とも笑えないことになっているらしい。
霞が関国家公務員労働組合共闘会議というところが毎年勤務実態を調査している。それによると、2015年は9.0%が過労死ラインで働いていて、死の危険を感じた者が27.6%いるという。体調が悪くても休めない。
死亡率も民間企業の約3倍。ガンについで自殺が死因の2番目というのも異常だ。
コロナ禍で医療現場をはじめ、どこの職場も厳しい環境に置かれている。これまで「公務員は暇だ」といったステレオタイプの批評が多かったが、マンパワーは先進国の中で決して多くはない。
新型コロナウイルスの感染という新たな危機管理上の課題に対して、国会で本筋の議論が無い。やがて喉元過ぎれば・・・にならないために。ハンコ大臣の出番だ。
《庭に春 紫はシラネアオイ、白はオオバナノエンレイソウ 2021.5.13》
オリンピックで海外の選手が選手村に入れるのは競技の5日前というから時差調整のためには日本国内での事前合宿が重要な役割を持っている。
ところがコロナ感染拡大で既に10カ所以上が辞退しているという。これからも続出するだろう。
受け入れ態勢によって、国毎に不平等は起きないものか、来日する選手達は見通しの甘い日本の対応にどのような印象を持つのだろうか、素朴に思う。
“アスリートファースト”もまた嘘であるということがはっきりした。開会式のお歴々の挨拶は歴史的な白々しいものになるだろう。
東京都の今の1日当たりPCR検査数は1万件以下。オリンピックが開かれると選手、コーチなどの競技関係者だけで少なくとも1日3万件程度になると見込まれている。
先の国会審議では医療関係者の確保も目途が立っていないようだ。そもそも来日する関係者が何人くらいになるのかさえ掴めていない。
大会を縁の下で支えるボランティアについても追加募集をかけているが確保されていないという。
数枚のマスクと消毒液と1日1,000円の交通費でこのコロナ禍の中をどれだけの人が来てくれるのだろうか。コロナ感染対策も特になく、無防備な状態に置かれる。
管首相は国会で質問に答えられず論理は破綻しているし、統治能力を超えた局面に入っている。このままIOCとチキンレースのようなことを続けて「何とかなる」と大会に突入するのは危険だと感じた。
殆ど議論されないが、「開催都市契約」71条で「予見できなかった不当な困難が生じた場合、組織委員会 はその状況において合理的な変更を考慮するように IOC に要求できる。」との規定がある。
実質的にはIOCに首根っこを抑えられているザル規定のようにもみえるが、東京都、組織委員会、政府に残されている責任ある態度はこの規定に基づく「中止・延期」の申し出について東京都が切り出して真剣に検討を始めることではないか。
たった1日の国会集中審議で終わりにする問題では無い。
気温の上がった6日に近郊をドライブした。
砂川の牧場レストランに寄って、上砂川の「チロルの湯」に入りに行くと奈井江町の『桜のトンネル』の案内図が廊下に貼られていた。
奈井江は小さい頃に住んだことがあるので何度も訪ねているが、『桜のトンネ
ル』は知らなかった。
急坂の山道の両脇に満開の見事な桜林が広がっていた。
山の名前は何と言ったか・・・。
道は曲がりくねって狭いけれど登りと下りが一方通行になっているので対向車を気にすることはない。
山の頂上の展望台の周辺も桜、桜・・・。
雪の残るピンネシリの下に水の入り始めた水田が光っていた。
新型コロナウィルスがなければトップニュースだろう。
森友学園の国有地払い下げを巡る公文書の改竄を苦にして自殺した近畿財務局の赤木俊夫さんの奥さんが国などに損害賠償を求めている裁判で動きがあった。
赤木さんが文書改ざんの過程を書き残したとされる「ファイル」の存在を国側がやっと認めた。
国は裁判では「裁判の結果(勝敗や事実認定)に影響しない」ので有無も含めて回答は必要ないとの主張を続け、国会では「裁判に不当な影響を及ぼすから提出を控える」と答弁してきた。明らかに矛盾していた。
当たり前と言えば当たり前の結果だが、赤木さんの奥さんの「何故、夫が命を絶ったのか、真実を知りたい」という一念が膠着状態の裁判を突き動かした。
安倍政権の悪事を白日の下に晒す第一歩になって欲しい。
赤木さんは旧国鉄が民営化するときに官公庁に新たな職場を求めた人だ。自分の周りにも2名の優秀な若い人が来て、一緒に農業の仕事をしたことがある。
慣れない中で“会社文化”の違いもあってご苦労もあったと思う。他人事に思えない。
命を絶つということは余程のことだ。正義感の強い人が「おかしい」とも言えず、日々膨大な文書から「安倍昭恵」の文字が含まれる箇所を削除し、辻褄を合わせる将に砂を噛むような仕事に従事させられた苦痛は想像に余りある。
そして、赤木さんだけを残して上司らは一斉に転勤していなくなった。
安倍前首相が恥知らずの復権に蠢いている。安倍政権が数々の不正に蓋をしてやり過ごそうとしたことを許してしまったことが今日の政治腐敗を生んだ。
ファイル文書をどこまで開示するか、今再び財務省の職員が作業をしている。社会はこれ以上の不毛な時間を使ってはいけない。
「赤木ファイル」は安倍復権阻止の盾。裁判所は公正で的確な訴訟指揮で赤木さんの奥さんと社会が求める正義に応えて欲しい。
海外メディアが「東京オリンピックは中止すべき」と報じ始めている。
米・ニューヨーク・タイムスは「一大感染イベント」、英・ガーディアンは「間違っている」、米・ワシントンポストはト-マス・バッハ会長を「ぼったくり男爵」と表現。「パンデミック中の開催は非合理的」と既に報じている。
3日には米紙サンフランシスコ・クロニクル(電子版)が世界各地で新型コロナウイルスの影響が長期化する中、今夏の東京五輪は「開催されるべきではない」とする同紙スポーツコラムニストの記事を掲載した。
新型コロナ禍の教訓を求めるとすれば、人々の健康より経済を優先してはならないということだとし、それに沿わない方策は「期待に反する結果を招く」と警鐘を鳴らした。共同電を東京新聞などが報じている。
サンフランシスコ・クロニクルはアメリカのメディア企業としては世界最大級の企業グループの一つであるハースト社とスポーツ局を共同所有しており、スポーツ関係に影響力のあるメディアとのこと。
片や日本のメディアは相変わらず「どうなるのでしょう」「なかなか厳しいですね」的な他人事だ。東京医師会の幹部が「非常に難しい」との意見を明確にしているくらいではないだろうか。
「決定権はIOC」の逃げの菅首相、何を聞かれても「安全・安心な大会をめざす」としか答えられない組織委員会橋本会長、鈴木北海道知事はマラソンのテスト大会が終わってから「蔓延防止措置」を国に要請するスタンスだった。
このまま突入すると世界中に変異型コロナウイルスを拡散し、国内では疲れ切った医療従事者に更に耐え難い負担をかけることになる。
17日に“ぼったくり男爵”が来日予定だ。日本は主権国家ではなくなったことを海外メディアが一斉に報じることでしか暴走は止められない。
・10/ 3 恵庭(JR)→苫小牧市(バス)→苫小牧東港(フェリー)23:30→
・10/ 4 敦賀港着 20:30(船員会館)
・10/ 5 敦賀港→坂井市 120Km(Yさん宅)
・10/ 6 滞在;永平寺、丸岡城、越前竹人形館など
・10/ 7 坂井市(JR)→羽咋ハクイ市(民宿)
・10/ 8 羽咋市→輪島 90Km(民宿)
・10/ 9 輪島→能登町 85Km(Y.H)
・10/10 能登町→能登島→七尾市・和倉温泉 75Km(旅館)
・10/11 和倉温泉→45Km 氷見市(JR)→出雲崎(旅館)
・10/12 出雲崎→新潟港 65Km(フェリー)23:30→
・10/13 苫小牧東港着 17:20(車)→恵庭市
10月12日-13日
福井県の友人を訪ね、能登半島を一周し、行きたかった良寛の故郷出雲崎を散策する11日間の旅も残すは新潟港までの65Kmになった。
午前中は出雲崎の街をポタリングし、新潟港に向かうことにした。
《良寛堂》;良寛の生家橘屋の屋敷跡。道路側(堂の裏)に佐渡ヶ島を見つめる良寛の座像があった。
《良寛記念館》
良寛(1758~1831)は、江戸後期の歌人、漢詩人。出雲崎の名主兼神職の長子として生まれた。号は大愚、幼名は山本栄蔵る。
18歳のときに家を継いだが、突如、隣町の曹洞宗光照寺の徒弟となり出家して良寛と称した。
その時に出会った岡山県倉敷市の円通寺の国仙和尚に心酔し、以後20年間師事し、40歳を過ぎて越後に帰った。
故郷の国上山の「五合庵」に一人で暮らし、老いてから長岡市の豪商能登屋の庵に移るが、出入りしていた若い貞心尼と没するまで親密な交流をした。
良寛は無欲恬淡な性格で、寺を持たず、難しい説法を行わず、「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子供達を愛し積極的に遊んだ姿が今に伝わっている。
子供達から凧に文字を書いて欲しいと頼まれた時には喜んで『天井大風』と書いたと云われている。
すべての生きものに愛情を注ぎ、老若男女、富者貧者を問わず等しく交流し、人としてどうあるべきかを常に問いかけた人生だった。
良寛の密かな好物だったという『白雪こう』というお菓子を売っている「大黑屋」の店主は良寛の研究家だった。“らくがん”のような素朴でほんのり甘い味だった。
『良寛記念館』に行と、「釧雲水」なる人物の墓碑銘があった。説明文によると、長崎県島原の南画家で、出雲崎の蕎麦屋で酒に酔い頓死したとあった。享年53歳だった。
良寛や釧雲泉と交友のあった江戸の書家で儒学者の亀田鵬齊の書による。内容についての解説が無かったのが残念だった。
《出雲崎の街並み》;切妻家屋の三角形の壁面に出入り口を設ける「妻入り建築」が連なる。間口が狭く奥行きがある。
出雲崎は、佐渡の金銀が陸揚げされ、江戸へと運ぶ「北国街道」の宿場町として栄える一方、佐渡への罪人送り、処刑の場でもあった。
良寛が仏門に入ったのは金銀を巡る争いや名主見習いとして処刑に立ち会わなければならないことからの逃避だったという説もある。
処刑場の跡地に小さな仏像が幾つも立てられ、秋の草花が供えられていた。
-良寛の歌から-
淡雪の中にたちたる三千大千界(みちあふち)またその中にあわ雪ぞ降る
盗人にとり残されし窓の月
うらをみせおもてをみせて散るもみじ
佐渡は荒海。全く見えず。新潟港へ向かった。
砂浜と防風林の日本海沿いを北上して新潟市内に入ると偶然に横田めぐみさんの拉致現場の看板が目に飛び込んできた。護国神社の傍だった。
報道されているとおり、辺りは海の直ぐ近くの住宅街。暫し佇み、忌まわしい事件の解決を願った。
一旦フェリー乗り場に自転車を置きに行った。バスで市内に戻り、狸小路のような繁華街を歩いていると酒場詩人吉田類氏のトークショーに人が集まっていた。
テーブルの上には地酒、ワインが数本立っていて、少々ろれつが・・・。
こちらも居酒屋でほろ酔いになって、23:30発の苫小牧東港行きのフェリーに乗って無事自宅へと戻った。妻に感謝だ。
温かくなったら旅に出たいものだがコロナ禍が続きそうなのでまた旅の回想を楽しむことにしよう。2021.5.6
・10/11 和倉温泉→45Km 氷見市(JR)→出雲崎(旅館)
・10/12 出雲崎→新潟市港 65Km(フェリー)23:30→
・10/13 苫小牧東港着 17:20(車)→恵庭市
10/11
《和倉温泉 『金波荘』旅館の朝風呂で能登島を望む》
和倉温泉の朝風呂に入ってからJR氷見駅に向かった。七尾南湾沿いの国道から沢の地区の小さな山道を抜けて富山湾に出た。天気は再び雨模様になった。
JR氷見駅についた。漫画を題材にした映画『ほしのふるまち』(2011年)のロケ地になったことを駅舎のポスターで知った。ストーリーは知らない。
駅のトイレでずぶ濡れのウエァを交換して鈍行で出雲崎へ輪行。乗り換えが多く、先ずは氷見線だった。
JR出雲崎駅に到着。氷見線、北陸線、信越線、越後線を乗り継ぐ5時間の旅だった。
出雲崎の宿は決めていなかったので役場の観光課に電話して旅館『佐平次』を紹介して貰った。〝お一人様〟だった。
兎に角荷物を降ろし、濡れた衣服を乾燥室に吊り下げた。
ひと風呂浴びて〝私のためだけ〟の贅沢な夕食。そして朝食。
館内には先日亡くなった日本料理の神田川俊夫さんの色紙と写真、佐田の山、北の富士らを育て、時津風の前任の日本相撲協会理事長を務めた横綱常ノ花(出羽の海)の書(左)があった。
常ノ花は岡山県出身の力士なので巡業で泊まったのだろうか。
出雲崎は良寛の生誕地。名主の跡取りに生まれたが突然仏門に入った人生は多くの研究者を惹きつけている。
翌日、「妻入り造り」の街並みを巡って新潟港へ向かった。 (つづく)
・10/10 能登町→能登島→七尾市・和倉温泉 75Km(旅館)
・10/11 和倉温泉→45Km 氷見市(JR)→出雲崎(旅館)
・10/12 出雲崎→新潟港 65Km(フェリー)23:30→
・10/13 苫小牧東港着 17:20(車)→恵庭市
10月10日
輪島からずっと台風24号に追いかけられ、上時国家を観てから入った山道で追い越され、富山湾に面した能登町の「漁り火ユースホステル」に着いた。
途中の海岸は強風が吹き、何度か国道で止まった。大型トラックが通りかかったら乗せて貰おうとしたが悪天候で車も走っていなかった。
ユースの夕食で今回の旅で只一人の青年・旅人に出会った。春に就職が決まっていたが気が進まず断ったという。アルバイトをしては車の旅を続けていた。「モチベーションが大事だよね」と話して別れた。笑顔が良かった。
ユースを出発して間もなく「縄文真脇遺跡」があった。早朝で資料館などは閉まっていたが戻って調べてみると北陸最大級の縄文時代遺跡で、国の重要文化財に指定されている。
大量のイルカの骨やトーテムポールのような木柱が出土しており、4,000年に亘って人々が暮らしていたらしい。
個性的な山の稜線は古代人も眺めていたのかな。すり鉢のような地形から竈の煙が立っているようで、縄文人が住み着いたのが分かるような何か落ち着いた気分になった。
九十九湾に面した矢波地区に開店1週間目のパン屋があった。久し振りのコーヒーと手作りパン屋で朝食を摂った。ずっとコンビニの無い道が続き腹が空いていたので旨かった。
穴水町のボラ漁の櫓(展示施設)。江戸時代には日がな一日櫓の上にいて、周りに沈めた網を適当にロープで引き上げるという何ともノンビリした漁が行われていたという。
旅の始まりは歩くということだろうけれど、自転車旅も景色の流れと気持ちの流れがほど良く重なって心地よい。
《富山湾に浮かぶ「能登島」への大橋》
七尾市から能登島に大橋を渡って行ってみた。地元の人が特製の長い棹で「アケビ」を採っていた。初めて食べたがライチのような食感のほんのりと甘い味がした。
その人に和倉温泉のお勧めの旅館を教えて貰って七尾市に戻った。
かの有名な「加賀屋」をはじめ、高級旅館が並ぶ和倉温泉。「金波荘」は手頃な値段で泊まることが出来た。地元の人に聞くに限る。
「加賀屋」よりも海に近く、波音のする露天風呂に大満足した。
能登一周も残り少なくなった。富山県の“親知らず海岸”を満喫出来る旧道はトンネルも多く、狭くて事故も多いと聞いていたので、和倉温泉から氷見市まで45Kmほどを走って、良寛の生誕地の新潟県・出雲崎までは一気にJR輪行することにした。
(つづく)