ま、いいか

日々の徒然を思いつくままに。

「われわれはなぜ死ぬのか 死の生命科学」

2018-04-22 19:44:51 | 

 

「われわれはなぜ死ぬのか 死の生命科学」

柳澤桂子 草思社 1991.6.5

 

上橋さんが「鹿の王」を著すときに触発されたという本。

 

私たちは、生まれ、成長したあと、老いて死んでゆくものだと思っている。

けれどDNAは受精の瞬間から、死に向けて時を刻み始めている。

産声をあげる10カ月も前から、私たちは死に始めているのだ。

生命が36億年の時を経て築き上げたこの巧妙な死の機構とはどのようなものなのだろうか?

私たち生命にとって老化と死は、逃れなれない運命なのだろうか?

なぜ生物には死がプログラムされるようになったのだろうか?

 

様々な生物の死、遺伝子、細胞の能動的な死や他動的な死などについて、研究成果がわりと分かりやすく記されている。

 

そして、著者は言う。(以下、抜粋)

 

 1個の受精卵は60兆個の細胞に増え、人間という小さな宇宙を形成する。脳が発達して、喜怒哀楽を感じ、考え、学習する。自意識と無の概念は死へのおそれを生むが、死への歩みは成熟、完成を経る歩みである。100年に満たない死への歩みのなかで、私たちには自分を高める余地が残されている。

 

 死は生の終着点のように思われているが、決してそのようなものではない。死は生を支え、生を生み出す。

 

 36億年の間、書き継がれてきた遺伝情報は、個体の死によって途絶える。生殖細胞に組み込まれた遺伝情報だけが生き続ける。

 このように見てくると、私たちの意識している死というものは、生物学的な死とはかなり異質なものであることがわかる。生物学的な死は36億年の歴史を秘めたダイナミックな営みである。それは、適者生存のためのきびしい掟である。

 一方、私たちの意識する死は人間の神経回路のなかにある死である。それは意識のなかの死であり、心理的な死である。死は私自身の問題であり、親しいものに悲しみを与える。それは36億年の歴史とは無関係な感情であり、むしろ静的なものである。

 

 いのちには36億年の歴史の重みがあり、100年の意識の重みがあり、その人をとりまく多くの人々に共有されるものであるという側面がある。死は生命の歴史とともに民族の歴史、家族の歴史、個人の歴史すべてを包含するものである。このように大きな視点で生や死をとらえなければ、人間は死を私物化して意のままに支配し、かぎりなく傲慢になるであろう。

 

 おたがいに心を通わせあい、深く相手を思いやることが、生の証のように思えるのである。(略)老いていく人々の苦しみを思いやるとともに、そこから多くのものを学びたいと思う。

 

 死の運命を背負わされた囚人として生きるのではなく、誇りと希望をもって自分に与えられた時間を燃焼し尽くすこともできるはずである。

 

 

なぜ死ぬのかということについては、理解できていないままだけど、

より良い生を生きることこそ大切なのだということは伝わってきた。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「かならずお返事書くからね」「ゆかいなセリア」

2018-04-21 14:38:14 | 

 

「かならずお返事書くからね」

ケイトリン・アリフィレンカ マーティン・ギャンダ

PHP研究所 2018.3.27

 

原題は I will always write back

 訳 大浦千鶴子

1万キロの距離を越えて心を通わせ友だちとして支え合った実話。

 

1997年9月、ペンシルベニア州のごく普通の中1の少女、ケイトリンは、新学期が始まって間もなく、学校の課題として外国に住む同年代の子と文通することに。

それまで聞いたこともないジンバブエという国の少年、マーティンが文通相手になった。

 

ケイトリンは好奇心に胸をふくらませ、手紙を書き始めるが、このときはまだマーティンの実情を知らなかった。

政情不安定なジンバブエの中でも、一番貧しいスラムで暮らしているマーティン……。

一つのベッドのみの隙間だらけの住居に家族7人が暮らし、成績優秀だが、学費どころか生活も覚束ない。

返事を出したくても、紙も切手代もままならない。

 

少しずつ現実を知ったケイトリンの世界が広がってゆく。

ジンバブエに送った手紙がマーティンの元に届かないこともあったが、

「たとえ途中で誰かに妨害されようと、わたしの作戦は手紙を出し続けること。何度も送れば、一通くらいは届くはずだ」

と、諦めない。

 

貧しい親友を助けたいと心から願う娘を誇りと感じ、その娘に惜しみなく協力する母・アンをはじめ、家族みんなが暖かい。

 

彼らはアメリカの大学へのマーティンの留学の道を探り、

2003年、その努力が報われる。

 

大勢を助けることはできなくても、一個人としてできることがあると

改めて教えられた。

 

因みに今のケイトリンは救急救命室の看護師で、

マーティンは数学と経済学の二学位を取得しMBAも取得して、投資アナリスト。

 

何と、ケイトリンは娘と完全に同い年のようだ。

 

 

「ゆかいなセリア」 エレーナ・フォルトゥン

彩流社 2015.1.15

 

主な舞台は1920年代のマドリッド。

現代都市としてのマドリッドの開発が進んでいた頃らしい。

 

セリアは、恵まれた家庭ーー両親、弟、運転手、庭番、乳母、料理人、メイド、イギリス人家庭教師がいて、別荘があるーーに育った7歳の少女。

年のわりに色々なことを知っていて、筋道だてて考えるけど、好奇心が旺盛で、ときどき想像力がすぎるあまり大胆で突飛な言動に走る。

 

大人が求める道徳的なよい子ではなく、子どもの理性、行動力、思いもよらない内面の想像力、心のなかにある他人や動物への自然な愛情を大切にしようという、作者の思いが、当時の若い世代の共感を呼んだらしい。

 

正直言って、途中で飽きてしまった (^^;

子どもたちは、この本を楽しく読めるのかしら。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ドクター・デスの遺産」

2018-04-19 23:35:06 | 

 

「ドクター・デスの遺産」 中山寺七里 KADOKAWA 2017.5.31

 

もはや快復の見込みがなく、患者は苦しむのみ、

家族の医療費負担が増して生活が逼迫する……

 

そんなときに、安らかな死をもたらす手立てがあったら、どうするだろうか。

 

警視庁に一人の少年から通報があった。

突然自宅にやってきた見知らぬ医師に父親が注射を打たれ、直後に息を引き取ったという。

犬養刑事は、少年の母親が「ドクター・デス」と名乗る人物のサイトにアクセスした事実を突き止める。

安らかで苦痛のない死を20万円で提供するという医師は、一体何者なのか。

難航する捜査を嘲笑うかのように、日本各地で次々と類似の事件が発生する。

 

たとえば、この作品の最後にあったように、

大怪我をして救助が来るまで命が永らえないことが確実で、痛みに苦しみ悶えるだけだとしたら、

そしてその時に瞬時に死ねる薬剤があったとしたら、

どうするだろうか……。

 

答えが出せないままだ。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「臨床真理」

2018-04-18 21:40:16 | 

 

「臨床真理」 柚月裕子 宝島社 2009.1.24

 

2009年第7回『このミス』大賞。

 

確か、再読。

そうか、この作品では共感覚が鍵の一つだったのだ。

 

語る言葉に色を見るという感覚。

嘘なら赤、真実なら白、侮蔑・焦りなどはドロドロの汚い色……

 

臨床心理士の佐久間美帆は、勤務先の医療機関で藤木司という二十歳の青年を担当することになる。

司は、同じ福祉施設で暮らしていた少女の自殺を受け入れることができず、美帆にも心を開こうとしなかった。

それでも根気強く向き合おうとする美帆に、司はある告白をする。

少女の死は他殺だと言うのだ。

その根拠は、彼が持っている特殊な能力によるらしい。

美帆はその主張を信じることができなかったが、司の治療のためにも、調査をしてみようと決意する。

美帆はかつての同級生で現在は警察官である栗原の協力をえて、福祉施設で何が起こっていたのかを探り始める。

調査が進むにつれ、障害者の性的虐待と福祉利権をめぐるおぞましい出来事が明らかになる。

 

読み始めたら止まらず一気読み。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「奇跡の人」

2018-04-17 21:46:21 | 

「奇跡の人」 原田マハ 双葉社 2014.10.25

奇跡の人、と言えば、
ヘレン・ケラーに言葉をもたらしたアン・サリヴァンだが、
原田さんは、明治の津軽地方を舞台にヘレンとサリヴァン先生の物語を再構築した。

明治20年、アメリカ留学帰りの弱視の女性・去場 安(さりば あん)が、弘前で暮らす盲聾唖の6歳の少女・介良(けら)れんの家庭教師として雇われることになった。

安が出会ったれんは暗い蔵に閉じ込められ、手づかみで食事をとり、排泄の躾もできていない、まるで獣のような少女だった。

そんなれんを安は「気品と、知性と、尊厳を備えた『人間』になってもらうために」根気よく言葉を教える……というところから「水」を認識するまで。

まさによく知られている「奇跡の人」そのままだ。

思わず、「ガラスの仮面」のシーンが浮かんだ (^^;


なぜ、舞台を明治の津軽に置き換えたのか……

この「奇跡の人」独自の二つのエピソードが理由らしい。

ひとつは恐山のイタコとの出会い。

もうひとつは、ボサマと呼ばれる門付け芸人(家々の玄関で音曲などを披露し、食べ物やお金を貰う人々)である三味線弾きの少女・キワとの出会い。

イタコもキワも、盲目の女性であり、どちらも津軽特有の風習だ。

いずれも社会的身分という点では最下層ではあったが、それでも障碍を持つ女性が技術さえ磨けば食べていけるだけのシステムが、当時の津軽には存在していたと言える。そうして自立している女性と、蔵に閉じ込められて育ったれんを出会わせることで、女性でも、障碍があっても、自立できるのだということを本書は描いている、

とのこと。

そこに、弱視ながら留学して勉強してきた安を加えることで、さらに可能性は広がるのだと告げている。

だから本書は明治の津軽でなくてはならなかったのである。

と、解説されていた。

なるほど。

 

解説は更に続く。

ーー今の日本で、まだ種々の問題があるとはいえ、障碍を持つ人や女性が平等な権利を手にしているのは多くのれんや安の闘いの成果なのだと、頭ではなく心に直接しみてくるはずだ。ーー

 

こんな再構築もできるんだなぁ。

興味深く読んだ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする