「われわれはなぜ死ぬのか 死の生命科学」
柳澤桂子 草思社 1991.6.5
上橋さんが「鹿の王」を著すときに触発されたという本。
私たちは、生まれ、成長したあと、老いて死んでゆくものだと思っている。
けれどDNAは受精の瞬間から、死に向けて時を刻み始めている。
産声をあげる10カ月も前から、私たちは死に始めているのだ。
生命が36億年の時を経て築き上げたこの巧妙な死の機構とはどのようなものなのだろうか?
私たち生命にとって老化と死は、逃れなれない運命なのだろうか?
なぜ生物には死がプログラムされるようになったのだろうか?
様々な生物の死、遺伝子、細胞の能動的な死や他動的な死などについて、研究成果がわりと分かりやすく記されている。
そして、著者は言う。(以下、抜粋)
1個の受精卵は60兆個の細胞に増え、人間という小さな宇宙を形成する。脳が発達して、喜怒哀楽を感じ、考え、学習する。自意識と無の概念は死へのおそれを生むが、死への歩みは成熟、完成を経る歩みである。100年に満たない死への歩みのなかで、私たちには自分を高める余地が残されている。
死は生の終着点のように思われているが、決してそのようなものではない。死は生を支え、生を生み出す。
36億年の間、書き継がれてきた遺伝情報は、個体の死によって途絶える。生殖細胞に組み込まれた遺伝情報だけが生き続ける。
このように見てくると、私たちの意識している死というものは、生物学的な死とはかなり異質なものであることがわかる。生物学的な死は36億年の歴史を秘めたダイナミックな営みである。それは、適者生存のためのきびしい掟である。
一方、私たちの意識する死は人間の神経回路のなかにある死である。それは意識のなかの死であり、心理的な死である。死は私自身の問題であり、親しいものに悲しみを与える。それは36億年の歴史とは無関係な感情であり、むしろ静的なものである。
いのちには36億年の歴史の重みがあり、100年の意識の重みがあり、その人をとりまく多くの人々に共有されるものであるという側面がある。死は生命の歴史とともに民族の歴史、家族の歴史、個人の歴史すべてを包含するものである。このように大きな視点で生や死をとらえなければ、人間は死を私物化して意のままに支配し、かぎりなく傲慢になるであろう。
おたがいに心を通わせあい、深く相手を思いやることが、生の証のように思えるのである。(略)老いていく人々の苦しみを思いやるとともに、そこから多くのものを学びたいと思う。
死の運命を背負わされた囚人として生きるのではなく、誇りと希望をもって自分に与えられた時間を燃焼し尽くすこともできるはずである。
なぜ死ぬのかということについては、理解できていないままだけど、
より良い生を生きることこそ大切なのだということは伝わってきた。