明治20年、アメリカ留学帰りの弱視の女性・去場 安(さりば あん)が、弘前で暮らす盲聾唖の6歳の少女・介良(けら)れんの家庭教師として雇われることになった。
安が出会ったれんは暗い蔵に閉じ込められ、手づかみで食事をとり、排泄の躾もできていない、まるで獣のような少女だった。
そんなれんを安は「気品と、知性と、尊厳を備えた『人間』になってもらうために」根気よく言葉を教える……というところから「水」を認識するまで。
まさによく知られている「奇跡の人」そのままだ。
思わず、「ガラスの仮面」のシーンが浮かんだ (^^;
なぜ、舞台を明治の津軽に置き換えたのか……
この「奇跡の人」独自の二つのエピソードが理由らしい。
ひとつは恐山のイタコとの出会い。
もうひとつは、ボサマと呼ばれる門付け芸人(家々の玄関で音曲などを披露し、食べ物やお金を貰う人々)である三味線弾きの少女・キワとの出会い。
イタコもキワも、盲目の女性であり、どちらも津軽特有の風習だ。
いずれも社会的身分という点では最下層ではあったが、それでも障碍を持つ女性が技術さえ磨けば食べていけるだけのシステムが、当時の津軽には存在していたと言える。そうして自立している女性と、蔵に閉じ込められて育ったれんを出会わせることで、女性でも、障碍があっても、自立できるのだということを本書は描いている、
とのこと。
そこに、弱視ながら留学して勉強してきた安を加えることで、さらに可能性は広がるのだと告げている。
だから本書は明治の津軽でなくてはならなかったのである。
と、解説されていた。
なるほど。
解説は更に続く。
ーー今の日本で、まだ種々の問題があるとはいえ、障碍を持つ人や女性が平等な権利を手にしているのは多くのれんや安の闘いの成果なのだと、頭ではなく心に直接しみてくるはずだ。ーー
こんな再構築もできるんだなぁ。
興味深く読んだ。