ある記憶

遥か遠くにいってしまった記憶たち

悪意との対峙

2007-12-18 23:30:43 | 
僕は人間の悪意を憎む。あらゆる悪意を憎む。その悪意に陵辱された人を守る。どんな状況下でも守る。
陵辱される人はいつも純粋な人だ。僕はそんな美しい心の持ち主を愛する。真面目で純真な心を汚す者を許さない。
人間は間違いの連続である。そんなことは知っている。けれども、悪意は間違いとは違う。そんな下衆な思惑は許さない。断固として断罪する。

そんなパッションは今でも失うことは無い。それだけが僕の存在意義かもしれない。けれども僕は人間は悪であるとは思わない。性善説に立つ。
であるが故に、人間の悪意を許してはならないのだと僕は思っている。
だから僕は、いつまでお人好しと言われ、世渡りが下手なんだろう。

仕事に忙殺され、師走に向かっていることさえ曖昧な気持ちで居た僕に、「恵比寿で忘年会をしよう」という電話が入った。
8時になろうかとしていた時だ。いろいろと疲れていて酒でも飲みたい気分だった。
「わかった。これから行くよ」とあっさり応え、恵比寿に向かった。
大学の同窓生で同じ寄宿舎で時を同じくしたNだ。
今は大企業のグループ子会社の社長をしている。彼とはよく指しで呑みに行く。
今更「忘年会」も無いのだが、足が向いた。

「オールウエイズ」に代表される最近のレトロブームは、実は周到なマーケティングの産物だとNはいう。Nはもともとマーケティング畑だ。と同時に哲学や心理学に長けていた。
人間の深層心理のベースにはノスタルジー(郷愁)が常にある。それを美しく再現することがヒットのエッセンスなのだという。この心理学は学問的に真理なのだとか。
しかし、そのアウフヘーベン(止揚)は、必ずしも原体験、原資産の風景を再現しているものではない。一見そのように見えても、巧妙な「すり替え」が行われている。確かに僕らが経験した「オールウエイズ」は、そんなにきれいでも美しくも無かった。けれども今それを観る僕らは「美しく」描かれるそれらに郷愁を感じるし、何かそれを正当化したがる。事実と違ってもそれはそれでいいのだと。

待てよ。そうすると先の「正義感」も怪しくなってくる。そんな正義感など本当に僕の中にあったのであろうか。虚飾、妄念、幻想・・・。自分に、自分の想念に疑いが生じてくる。美化のアウフヘーベンが働いているのであろうか・・・

いや違う。今もそれは変わらない。なぜなら僕にはそういう商業的な意図は無いし物欲も無い。今も人間の小ざかしい悪意を憎むし許しもしない。そして美しき魂は徹底的に守りたいのである。それは真実だ。断じて虚飾などではない。君のその「美しい瞳」を守りたいだけだ。
こんなことを考えながらNの話を聞いていた。

Nとは大学2年の時、他の仲間と北海道に自家用車で旅に出た。K先輩、後輩のSと4人で。フェリーで北海道の苫小牧に渡り、札幌で一泊(北大のK寮に宿泊)した後、大雪山に行き、知床や網走を回った。2週間余りの旅路を思い出す。

互いに今の立場と明日のことを考えてそこそこにして別れた。
彼も、僕ほどではなかったが、途中まで共に「闘った」同志である。
いまはお互いにその面影も限りなく薄くなっているのではあるが・・・。