ある記憶

遥か遠くにいってしまった記憶たち

ひろみGO

2007-12-21 23:13:02 | 
東京に出てきてからのことも少し書こうか。

再び東京に出て、当時の仲間の紹介で初めてまともに就職した。あまり聞いたことも無い業種であったが、仕事の内容などどうでもよかった。
企画関係の業務で、朝だけは早く出向く必要があった。「外電」というのがあって、それを翻訳して情報端末に流したりデータをインプットせねばならない。朝5時起きだったが特に苦にもならなかった。給料の安さも別に気にもしなかった。
つらかったのは「孤独」。一人でいる時が無性に苦しかった。

僕の部署を管掌する役員は、仕事ができるかどうかは別として、懐の広い「人格者」のようであった。会社の同僚とよく飲みに連れて行かれた。いい年をしてかなりの「女好き」でもあった。聞くところ50才をとおに回った彼は60年安保の「闘士」でもあったそうな。これが成れの果てかとも思ったが、人のことばかり言っておれまい。
そのような彼の行きつけのスナップやパブに、僕たちはツケで行くことを許された。そこのホステスさんと馬鹿話をしカラオケを歌い酒を飲むだけだ。キャバクラなどが跋扈するずっと前のこと。そうしたスナックの若い子達は、既にアルバイトが常態となっていて、コテコテの社員従業員は皆無という状況であった。
みんな昼間はOLなど定職を持っていて8時から9時位に出勤してくる。
カラオケを歌わなくてはいけなくて大変困った。
僕の知っているのはせいぜい「ひろみGO」や「Gノグチ」、「Sひでき」位しかなかった。

当時、ひろみGOのバラード3部作の第1弾『僕がどんなに君を好きか、君は知らない』が流行っていたので一生懸命練習をした。CDさえ買った。その後の第2弾、第3弾も。『言えないよ』『逢いたくて仕方ない』。これらを一人で聞いていると胸が絞めつけられた。
GOよ、こんないい曲、歌うな。何度も思った。

役員お気に入りの若い子がいた。25才かそこらの。僕からみても5つくらい下だったか。ムチムチボディにミニスカで、色気むんむんの女の子だった。話すと気のいい子だった。アイコちゃんと言い、昼間は渋谷のブティックで売り子をしていた。実家は四国・香川のお寺の娘だった。東中野に彼女は住んでいて、何度かタクシーで送った。けれども決して「送りオオカミ」になることは無かった。
工藤静香の「慟哭」という歌がとても上手く、感動した。それもそのはずアイコちゃんは武蔵野音大の声学科を出ていた。
その店のマスターと彼女らと職場の僕らとで休日にボーリングや食事会などもした。
その頃の僕は、会社が終わると毎日のように近くの居酒屋に寄り、その足でそのスナックに行った。いつからかアイコちゃんに会いたくて行くようになった。
会社にもいっぱい女の子はいたが、一宿一飯の仁義ゆえ、それはいけないと思っていた。しかも己の淋しさを紛らわすためだけの行為はいけないと思った。

そのうち、いろんなことがあって、僕は東中野の彼女のアパートに転がり込むこととなった。僕が当時住んでいたのは横浜の近くだったので、しばらく自宅に帰らない日々が続いた。スナックの帰り、マスターにばれないように時間差で店を出て、乃木坂あたりで待ち合わせ、一緒に帰った。いつも彼女の家に着くのは1時過ぎ。そして6時位に起きて僕は会社へ向かう。そのうち僕は熱を出して倒れた。扁桃腺が異様に腫れて、痛くて飯も食えないし声も出なくなった。明らかに「過労」であった。
結局、いまだに僕の本当のところは、ただ「自暴自棄」でしかなく、自虐でしかなかった。
それでも、しばらくの間、彼女との営みは続き、休暇をとって四国・香川の実家に遊びに行ったりもした。お遍路さんの巡るお寺の一つで由緒ある家柄であった。母さんは先生で父さんは住職。そして自由奔放なアイコちゃん。

けれど孤独や喪失感を補うための代償としての恋など、上手く行くはずも無い。
もしアイコちゃんとその後も続いていたのなら、僕は今頃、浄土真宗のお坊さんにでもなっていたのであろうか。紫のケサを羽織り、毎日木魚を叩いて修行の日々・・。
それはそれで一興だったかも知れない。

もう恋も愛も止めようと思った。
その役員にもしこたま怒られ、当分「仕事」に打ち込む日々が続いた・・・。