ある記憶

遥か遠くにいってしまった記憶たち

ちあきちゃんパート4

2007-11-08 21:48:21 | 
当時、寄宿舎は2人部屋で、新入生から大学院院生まで総勢2百人ほどが「学び舎」としていた。
実は「学び舎」とは名ばかりで、酒を食らい夜を徹して人生を語るかと思えば、
プロ顔負けにマージャンに打ち込んだり、突然、数週間も山登りや自転車で
全国行脚に出たりと、学業などそっちのけというのが実態であった。
故に、留年なぞザラで、休学や留年を繰り返し、大学にもう10年近くいる「猛者」さえいた。
そうした人は「長老」と呼ばれたり「仙人」などと呼ばれ、「尊敬」されるのであった。
Y先輩も、名誉あるその呼称を得るに十分有望に思えた。

この寄宿舎は、年がら年中、様々な行事が続き1年目の僕にとって目の回るような日々であった。
そして、驚きと感動の連続であった。
年をとればとるほど、日々の出来事に新鮮な驚きや喜び、悲しみを感じることが少なくなる。
光陰矢のごとしで時間は無為に過ぎ、あれよあれよという間に1年が過ぎてゆくものだ。
物理的に時間の長さは万人に平等であろうが、それを感ずる側からすると
時間の長さには大きな個人差がある。間違いなく、年齢にもよる。
子供の頃、あんなに時が過ぎるのが遅く長く感じたのはどうしてだろうか。
人生の酸いも甘いもひと通り味わい尽くした後の時間は、妙に早く短い。

中でも、ダンスパーティーというものに度肝を抜かれた。田舎での僕にとって、
社交ダンスなぞ明治時代の鹿鳴館の遠い世界でしかなかった。
まさか、そんなハイカラな事を自分が体験するとは想像さえできなかった。
まず新入生は、春と秋にある寄宿舎主催のダンスパーティーのチケット
(「ダンパ券」を、新入生は市内の女子大に出向き、売らされた。
1枚2百円くらいだったろうか。
その1ヶ月くらい前、寄宿舎の集会所は、先輩の指導の下、ダンスの講習が行われた。
「ジルバ」「ルンバ」「ワルツ」「ブルース」「マンボ」・・・・。ラジカセから流れる楽曲にあわせ、
先輩と後輩、手に手を取り合って練習する姿は、不・気・味であった。
よれたパジャマ姿で、年季の入ったジャージ姿で、むさい男たちがユラユラ集う。
初めはこっぱずかしかったが、腹を決めやるからには徹底的に習得してやろう。
そう思い、不気味さを乗り越え、僕は一生懸命に先輩の手ほどきを受け、
同級生と女役と男役を交互にし、熱心にステップを踏んだ。
その甲斐があって、ひと通りどのダンスも基本的な技を駆使するレベルにまで、
達することが出来た。

本番はさすがに緊張する・・・。女の子のボイン(古過ぎ)が、妙に気になる。
胸に当たるか当たらないか。ドキドキしながら手を取り合って数分間の時間を共有する。
スリルあり過ぎだ。もうその頃には合コンだ合ハイ(ハイキング)だとあちこちに、女の子の顔見知りはできていた。
けれど、こんな接近戦は、僕の人生でまったくもってありえない初めての体験だった・・・

ダンスパーティー会場は、毎年、お医者さんの会館を借りた。毎年、この日のダンスのために、
選ばれた委員が準備をする。一番大変なのは、ダンス曲を選曲し、録音する係りだ。
ダンス曲は、ロックやニューミュージック、ヒュージョン様々な分野から選曲された。
ブルース、ルンバ、ジルバそれぞれのリズムに合った曲を、偏らないように並び替える。
しかも、多くの寄宿生の好みの曲を散らさねばならない。徹夜の作業が続く。

初めてのダンスパーティーで、初めにツェッペリンの「ロックンロール」がかかった時は、胸が躍った。
「ムーンリバー」や「ブラックマジックウーマン」。ユーミンや山下達郎などもかかった。
ビートルズの「オールマイラビング」そしてストーンズの「ミスユー・」さえも。
目くるめく一夜だった。もう、女の子そっちのけで。

ちあきちゃんの話に戻る。そんな日々を送っていた僕は、いまだ女の子には奥手であったのだ。
ちあきちゃんとはそれっきり話をしていない。Oのグループにすっかり溶け込んで、前後不覚になるまで、
ウィスキーを煽った。もう酒を飲むしかなかった。
Y先輩は、いつの間にかどっかに消えていた。もうY先輩のことなどどうでも良かった。
そこに居た女の子の一人にどうも僕は気に入られたようだった。最初から僕のことを、
シンガーソングライターの××に似てない??などと、しきりに話題に上げたがった。
何がきっかけだったか覚えていないが、その女の子(Sとしておこう)と二人、「ポパイ」を抜け出し、
別の飲み屋で飲みなおしていた。ちあきちゃんに別れを告げることもなく・・・