艦長日誌 補足(仮) 

タイトルは仮。そのときに思ったことを飲みながら書いたブログです。

三国日誌 補足(仮) その8~人生ってものはタイミングなのか?

2007年12月29日 03時46分46秒 | 三国日誌 補足(仮)
 今日は朝から天気予報で「関東地方は雨が降り、大荒れの天気となるでしょう」とテレビでいってましたが、、昼を過ぎ夜になっても雨は振らず。
 お店を出ると雨でした。駅まで歩きながら、別になにかから守るわけでもないけど、別になんの気もなく自然にちょいと肩を寄せて、傘をさし、手をつないで。そんなんなら雨もキライじゃあない。たまにならいい。

 …

 曹操は「関羽が出立の準備を整えている」という間者の報告を聞いても、全然驚きませんでした。それを予想していたから、今さらびっくりしないというわけではなく、いつかそういうときが訪れることを覚悟していたわけでもありません。
 ただ「あー、そうか」と言ったきり、特になにもしませんでした。感情を押し殺し、今日の業務に通常通り励むことにしました。

 関羽のもとに主君劉備からの密書が届き、その中に「自分は今、河北にいる。会おう」という内容があったときに、関羽はすぐにでも許昌を離れることを決め、屋敷にいる召使いに「曹操どのからいただいた物は全てこの場に残し、屋敷とその周りを掃き清めて出立に備えよ」と命じました。

 関羽は一人、曹操の屋敷を訪れて「サヨナラ」を告げるつもりで赤兎馬に乗って出掛けます。
 途上、関羽は自分の気持ちが揺れ動くのを感じていましたが、自分の気持ちは無視することにしました。大切なのは、劉備の家族を無事にその許へと送り届けること。今更なにも考えることはない。もしも曹操につくのなら初めからそうしていた。今、そういう気持ちじゃあないということは、つまりそういうことなのだ。

 ところが曹操の屋敷に到着すると、その門には「避客牌」がかかっていました。

 「避客牌」とは。ドアの前にぶらさがった、なんか木でできて字の書いてある札を想像していただければ、だいたい合ってんだけど。
 「訪問していただいたかたとは、今は会えないので出直してね」って意味です。
 この時代には「避客牌」が門にかかっていると、訪れた者がどんなに至急の用事であっても、相手が会えない事情を尊重して、また出直すという慣習がありました。
 関羽はすごすごと引き返しますが、それも三回目となると、うむーってなります。
 最後に会って、曹操にきちんとお別れを言いたかった。でもそれができないのなら…門前で下馬し、関羽は誰もいないのに「お世話になり申した。また…いや…これにてお暇いたします」と言って深く頭を下げ、許昌をあとにしました。

 都を出た関羽と劉備夫人とその家族。夫人と家族を馬車に乗せ、関羽は赤兎馬にて馬上のひと。
 ここから河北で待つ劉備までは相当な距離もあり、馬車の速度では何日もかかってしまうでしょう。
 曹操に対して「兄者の行方が知れればいつでも帰参する」ということを約束させていた関羽ですが、この道中が困難であることを予感していました。
 曹操は、自分との約束を反故にすることはないだろう。だがその部下たちは「いずれ敵となる関羽を今ここで討っておくべきだ!」と考えて、曹操に忠誠を誓うからこそ、主である曹操ののためだと信じているからこそ必ず追っ手を差し向けてくるに違いない。

 予想通り、道中には敵が待ち受けていて、関羽は夫人と家族を守りながら一騎での戦闘を強いられました。が、関羽の青龍偃月刀は全く容赦しませんでした。
 関所や関井を強引に突破し、待ち受ける敵将を一刀のもとに斬り捨て、ひたすら河北を目指します。

 曹操配下の名もない武将の何人かが、その行軍の前に部下ともども意味のない死を迎えましたが、ここで特筆すべき人物はなんといっても『卞喜』です。
 なんたって名前がすごいよね。だって『べんき』ですよ。金環三結、兀突骨に匹敵するほどの読み方わからないし、「あ~、これは斬られるために出てきたんだな~」感がギュンギュンします。

 卞喜も他の武将と違わずに関所を守り、関羽の帰参を阻止しようとした一人でした。
 当初は、関羽将軍が通行の許可を求めた際に、計略を張り巡らしたのちに偽って「どーぞどーぞ」なんて言いながら通行を許可し、「ここまでの旅もさぞ疲れたことでしょう、良ければこちらの宿舎にて一休みしてはいかがですか?」と関羽を足止めしようと試みます。
 関羽はこの申し出を丁寧に辞退し、旅路を急いでいることを説明しますが、卞喜は「関羽将軍は豪傑でございますから疲れもなんのそのでしょうが、夫人や従者には温かい宿と温かい食事も必要となるでしょう」と、なかなかのプレゼンを披露します。
 たしかに卞喜のいうことももっともなので、関羽は罠を疑いつつも申し出を受けることとしました。

 その土地に古くからある寺を宿として紹介され、そこに一泊する運びとなりました。
 一泊といえども、関羽は夫人を守るために寝ることもせず、かがり火の下で見張りに立ちました。そんな関羽に、寺の和尚であった普浄というものがそっと耳打ちします。
 「卞喜将軍は闇討ちを仕掛ける腹積もりです」
 「知ってました」

 案の定、闇に紛れて刺客が送り込まれましたが、関羽はなんなくこれを撃退し、卞喜と対峙しました。
 変な名前の卞喜ですが、名前に似合わず鎖鎌の先にアレがついた重そうな武器を振り回して関羽を威嚇します。勇ましい姿ですが、はっきりいって卞喜100人いても関羽には太刀打ちできないでしょう。

 曹操に対して恩を感じている関羽は、本当は無意味な殺生はしたくありません。ただ主のもとに夫人と家族を送り届けたいだけですが、そのためなら何人たりとも、已む無くではあっても斬るつもりでしたし、実際ここまでそうしてきました。

 「卞喜将軍、無駄に命を捨てることはない。あんたじゃあ俺は止められない。弱すぎる。ここで挑むのは愚かな行為だとは思わないか」
 卞喜はせいぜい武力46くらいのてんで弱い武将でしたが、それでも言いました。
 「弱いだって?わかってないな、あんた。これからの時代には弱い者や、負けた人間がどんどん増えていくんだ。そんななかで勝った人間ってやつはどんどん少数派になり、負けた人間が多数を占めるようになる。負ける者の心を本当に理解できて導いていく者こそが、真に強いものとなるだろう。つまりこの物語の中で勝ったつもりでいるやつは、相手の痛みすら無視して我を通し、いずれその行為は弱気を虐げ搾取しているだけだといわれる本当の意味で愚か者だ。先の時代を読むことのできない愚か者だということだ」
 それっぽいことが卞喜の遺言となりました。

 とうとう劉備の待つ場所へ~あともう少し~坂を登って~雲を追い抜いて~というところまで来たころに、曹操とその側近の部下たちが関羽に追いつきました。
 関羽は馬車を守りながらの行軍でしたし、あちこちで足止めを食ってしまったため、曹操たちに簡単に追いつかれてしまったのです。

 曹操は何しにやってきたのでしょう?まさかここにきて関羽を引き止めるようなことはしないだろうが、周りの側近たちからはけっこうあからさまに殺気がみてとれます。

 関羽は馬車を先行させて、自らは一騎で相対することにし、その場にて曹操を待ちました。得物である青龍偃月刀は構えたままです。

 じっと構えた刀に雨粒がポッポッと当たりだしました。いつのまにかかるい雨が降り出してきました。

 曹操の傍らには夏侯惇や張遼、許褚といった猛者が付き従ってました。さすがにこのメンツが相手では関羽も正面きって戦うことは難しいものがあります。
 もしもここを迂回されて夫人の乗る馬車を人質に取られたりするようなことがあれば、さしもの関羽も武器を捨てるしかないでしょう。

 もちろん曹操には、部下を使って関羽を引き留めるつもりなどさらさらありません。もちろん遠ざかって行く馬車のことも放っておきました。

 無言のまま関羽に近づいた曹操の胸中を占めるのは関羽への未練。
 いや、未練とはちょっと違うかな。

 関羽に「サヨナラ」を言われることを恐れて避客牌をかけてしまった、自らの心の狭さを恥じ、気持ちよく別れさせてあげられなかった申し訳なさもあり、旅立つ友人を見送りたくもあり、自らの至らなさから無駄に将兵を失ってしまったことを深く悔やみ、やむなく関所を強行突破せざるを得なかった関羽の気持ちを鑑み、あのときちゃんと言えなかった言葉(それがなんなのか曹操本人にもわからないが)、それらを伝えたくて、いや、伝えられるかどうかもわからない。伝える言葉はあるのか?

 曹操は関羽の前まで馬を進めました。

 さまざまな想いが去来するなかで、曹操は「関羽よ、いやに慌しい出立だな」と努めて明るく言いました。
 あーあ、伝えたいことはそんなことじゃあないのに。しかも普通に冷静な表情で言っちゃったよ。どうして自分の気持ちをきちんと表現できないかな。

 雨が、少しずつ本降りの音へと変わっていきます。

 曹操の気持ちとは裏腹に、関羽は赤兎馬に乗ったまま自分の立ち位置を少しづつずらして、歩みの遅い馬車と曹操たちとの間に自分の身をおきました。
 それは、もし万が一に夏侯惇たちが攻撃を仕掛けてきても、自らを盾とする陣取りをするということ。その動きを察した夏侯惇あたりは、まさに関羽という武将のソツのなさと主君曹操の未来に立ちはだかる障害を見てとりました。
 夏侯惇は雨の中で隻眼を瞬きすることなく、筋肉を緊張させて、関羽に飛び掛る機会をうかがいました。

 「これからの道中、河北の夜は冷えるであろう。そなたのためと思い、着物を届けに参った。受け取ってはくれぬか」
 曹操はそう言ってさらに関羽に近づきます。
 関羽の間合いに入りました。関羽がその気であれば、今ここで、戦国の覇者となった曹操を殺すこともできます。夏侯惇が駆けるよりも早く。

 どんなに恩があっても、曹操が劉備の敵であることは変わりありません。
 都を支配し、帝をもその手中に収めて自らの覇権を拡大する曹操という人間とは、帝とは遠い親戚にあたる劉備からしてみれば、倒すべき逆賊です。
 想いと大儀は相容れないもの。桃園の木の下で劉備と義兄弟の契りを結んだ関羽の立場であれば、ここで曹操を斬るべきなのです。

 関羽は曹操の目を見ました。

 人生ってやつはタイミングなのかもわかりません。
 曹操とは出会うべきではなかったのかも、そう考えることもありました。そのくらい曹操という人物には惹かれました。
 それでも関羽には劉備という主君がすでに存在し、それを裏切ることはできません。できなくはないかもしれませんが、過去の自分の選択を間違ったものとすることになるかもしれません。
 関羽のような武将にしてみれば、たとえ過去の選択ではあっても、それがあるからこその自分なのです。過去を偽るような決断をすれば、自分を未来でいつか許せなくなるでしょう。
 許せない自分をも曹操は受け入れるかもしれません。
 かもしれない、かもしれない…
 だが、それらはすでに遅すぎた。

 吉川三国志や横山三国志では、ここで関羽は曹操からの賜りものである着物を辞退しようとしますが、曹操に「ならば、夫人のからだが冷えぬようにこの着物を持っていくが良い」といわれ「それならば」と答え、青龍偃月刀の先でその着物をサッと引き寄せたとあります。
 これに曹操配下はカチンときた。「賜りものを刀で受けるとは何たる無礼!」
 立場の上でも関羽はただの将軍(しかも曹操のもとでは寿亭公という名誉職みたいな立場でした)、丞相曹操に対してあまりに失礼な行動ですが、関羽の現在の状況を踏まえれば当然の行為です。
 下馬し、着物を受け取ろうとした瞬間に夏侯惇や許褚が襲い掛かってくれば、その身を守る術はありません。自らの名も命も惜しくありませんが、劉備夫人と家族を護衛するという自らに課した任務は、関羽という人物にとってはなにものにも優先されます。

 ドッピオ三国志では、ここでは別の解釈をとります。

 関羽は曹操の目を見て、着ていた自分の服を脱ぎました。全裸になろうということではなくて。そして曹操から無言のまま着物を受け取りそれを大事そうに身につけました。
 そして「曹操どの。私も、その、なんか…」と消えそうな声で呟きました。

 なんか…のあとに続く言葉がなんだったのか、それはどうでもいい。

 曹操は常に態度で気持ちを伝えようとし、言葉で関羽に想いを伝えることはしようとしませんでした。いつでも一緒に飲んで「かんぱ~い」と顔を見てお互いが笑顔ならそれで良かったからです。

 そんな曹操に対して関羽はことあるごとに劉備の影をちらつかせる言葉を口にしていました。赤兎馬を賜り「これですぐに兄者のもとに帰れる」とか「ボロでも兄者からの贈り物は大事に扱っている」とか。
 関羽の主君に向けた忠誠心と、兄に対する弟の気持ちとしては間違ってはいませんが、そんな言葉を曹操はどんな想いで黙って聞いていたのか。

 だから、理解できたからこそ、今ここにきて関羽は、言葉が出てこなかったのです。

 これまで曹操だって本当は気持ちを言葉にして伝えようと試みてはいました。しかしあまり開けっ広げにそれを口にはしませんでした。その術がわからなかったから。
 傍にいて欲しいという気持ちを伝えるそのときは、関羽の主君である劉備の話をしなければならないでしょうし、それはせっかく盛り上がった楽しい時を、おいしいお酒を酌み交わす素敵なひとときを、二人だけにしか通じない楽しい会話も、一時置いておかなければならない時間となるでしょう。
 簡単にいうと、盛り下がる。
 いや、曹操自身はそれでもいいのです。相手のすることにも発する言葉にも、何一つ不快ということは感じません。一緒にいられればそれで良しなのだから。ただ、関羽に気を遣わせることはさせたくなかった。

 しかし、関羽は今曹操のそんな気持ちを理解し、想いが胸の中で去来し、気を遣ってしまいました。
 曹操はそれでもやっぱり全然構わないけど、関羽が気まずい思いをすることだけはなるべく避けてあげたかった。
 
 お互いがお互いの立場を考えるからこそ、夢から醒めて認識しなければいけないことになる。
 もしかすると曹操のとった行動は、それに繋がることを単になるべく回り道したかっただけのものであったのかも。

 だから曹操は言葉では伝えませんでした。いつも思わず口から出かけてしまった言葉はお酒といっしょに飲み込んで。
 関羽は思わず言葉にしてしまうところでした。

 「なんだ?関羽」
 「いえ、なんでもありません」

 こうして関羽と曹操は別れました。

 曹操はいっそサバサバしたものでした。関羽が去る後ろ姿すら見送りませんでした。
 「よし、許昌へ帰ろう、皆のもの」振り返ったとき、曹操の顔にはもう未練の色すら見られませんでした。
 気持ちを押し殺して、自分を捨て、自らに課せられた覇者としての使命に邁進することを心に強いた、そんな顔。最早、曹操のその目は次に攻めるべき他国への作戦に向かっていました。

 張遼はその側で、曹操の気持ちを痛いくらいに察しました。
 きっと主君曹操は、自らにとってツライ選択がいつか訪れると常に心の中で予感していた。それでも関羽を手元においておきたくて、その予感を無視し続けた。だからとても傷ついた。過ごした時間と比例した深さの傷を負った。
 張遼はそっと考えていました。
 「関羽よ、なぜ着物を脱いだのだ。あの着物は劉備どのから貰ったもので、それは肌身離せぬものだとそなたは言ったではないか。それを脱ぎ、曹操さまからの着物を受け入れたそのときがまさに別れの瞬間であったということが、どれほど曹操さまの気持ちをかき乱したのか、理解しているのか!?」

 雨が強くなってきました。曹操がこれ以上雨に打たれるまえに早めに許昌へと戻ったほうがいいかもしれません。
 
 こうして関羽は無事に劉備のもとへと帰参を果たしました。曹操への想いを断ち切れないままに。
 曹操の下に降ったときには、曹操なんかキライでした。敵だし。それでも共に過ごした時間は、思いがけず関羽にとってはかけがいのないものとなりました。
 もしも遠い未来でその記憶が切れ切れの断片になり、いつかは思い出す機会が少なくなっても、忘れることはないでしょう。
 ふとした瞬間に心に鮮明に浮き上がったとき、胸を刺す痛みとして心を乱すでしょう。

 別れは、曹操よりも関羽のほうにより大きなダメージを与えました。
 このダメージは、そのご関羽にどのような影響を与えることになるのでしょうか?
 それについてはまた来年。

 …

 今年ももうすぐ終わりですね。かなり中途半端ですが『三国日誌 補足(仮)』はここで一旦小休止に入ります。再開は1月5日の予定です。
 タイトルが(仮)なのは、この三国志は長文であるが故に誤字脱字も多く整合性がとれていないので、いずれは書き直しをしようと思っているからです。本旨を変えてしまっては、そのときそのときの気持ちをも「あとづけ」でごまかしてしまうことになるので、タイトルを変えて校正したあとも内容は変えません。たぶん。

 つーか、もうこんな時間か。なんだかんだいって酔いました。朝7時になんか起きれるのかな。


 >ここまで読んでいただいたかたがたへ

 本当にありがとうございます。今年一年を振り返ると…長くなるし、言いたいことはだいたいこの一年、ブログのなかで意味なく書き連ねたので、あえて申し上げることもないでしょう。
 みなさん、よいお年をお迎えください。

 :補足
 起きたら飛行機までとても微妙な時間だったので、夕方の便で帰ることにしました。編集するか、また寝るか。

三国日誌 補足(仮) その7~官渡の戦い、曹操と関羽

2007年12月28日 00時40分38秒 | 三国日誌 補足(仮)
 はい、ども。
 書けば書くほど終わりが見えなくなってきました。
 当初はただ『士別れて三日なれば、刮目して相待すべし』って言葉の意味を書くだけのつもりだったのが「この人物について書くなら、この話が必要。そうなるとこの人物描写も必要」と際限なく思えてきて、無駄に長くなってしまいます。
 時代もあっちこっちに飛んでいますから、知らない人には「???」ってカンジでしょうし、知ってるひとにも「?」だと思います。
 それでも最後まで書かないと気持ちわるいので、もう少しだけお付き合いください。

 そういえば今日、僕の自転車がなくなりました。盗まれたとは考えたくありません。きっと旅に出たのだと思います。
 そもそも僕の自転車ではなくて、正確にはあべくんの自転車なのでどうでもいいっちゃあどうでもいい。通勤が少し難儀になるかな。

 …

 そんなわけで河北の雄で名門の出自である袁紹と、成り上がりながらも華中一体に覇を唱えることに成功した曹操との戦いが幕を開きました。
 
 兵力だけで勝敗を計ることはできませんが、袁紹の軍は曹操のおおよそ二倍。
 しかも、勢力を拡大するためにあちこちに兵を出して転戦を繰り返していた曹操とは違い、袁紹はここ何年もこの戦に備えて準備を進めていました。

 曹操は戦の天才です。兵法に通じ、自ら兵法書(「孟徳新書」で知力+7」)をも著作するほど。
 寡兵をもって多兵を制す戦略ももちろん持ち合わせていましたが、今回はどうにもうまくいきません。

 その原因は袁紹軍の最強ツートップ、顔良と文醜の武力でした。
 突撃大好きなこの二人、兄弟とも言われていますがそんなことはどうでもいいし。
 とにかく強いので、曹操がうまいこと兵を進めても「顔良じゃ~ッ!」「文醜じゃ~ッ!」と二人が姿を現した途端に、曹軍の兵は我先に逃げ出してしまう始末。
 兵士たちがこれでは戦になりません。

 もちろん曹操の旗下にも、二人に対抗できるであろう実力者はいました。
 曹操旗揚げの頃からその軍の一翼を担う、軍率の能力に秀でる隻眼の夏侯惇。
 天然ボケキャラでのんびりした性格ではあるが腕力では誰にも負けたことのない許褚、愛称は虎痴。
 曹操のボディーガードとして、いつもその傍でその身を守ってきた悪来典韋。
 どいつもこいつも顔良、文醜と並ぶ実力者です。
 どいつもこいつもピアスぜ。

 しかしながら顔良、文醜はよっぽどいい馬に乗っているのか、その出現の報を聞いた夏侯惇たちが現場に駆けつける頃には、あっという間に撤収していなくなってしまっています。 あとに残っているのは曹操の兵士たちの累々とした屍のみ。

 当時、騎馬軍団の最強といえば、袁紹に滅ぼされた公孫瓚の「白馬陣」が名高いですね。
 白い馬ばかりで集めた騎兵軍団。その白さはGM KURAと並び称され「白馬陣を見たものは生きて帰れない」「俺のタバコとるなよ~」というほどの評判高いものがありましたが、その比類なきスピードゆえに、袁紹軍が掘った落とし穴に面白いように嵌ったり、ウイスキーを原液でイッキしたりしてズタボロにされてしまいました、
 もしくは西涼一体を領土とし、遥か西のモンゴル地帯などとも交易し国外産のサラブレットすら所有し、その国では産まれた子供は母親に抱かれる前に馬に乗せられたという、馬騰(馬超の父)の騎馬集団。

 話逸れたけど。
 曹操の作戦は、いつも顔良と文醜によって潰されてしまいます。まずはこの二人をなんとかしないことには、いたずらに兵を失ってしまうだけ。
 とうとう曹操の周りの軍師たちは進言します。「許昌に残してきた関羽を呼び寄せるべきでは?」

 関羽将軍の所有する馬こそ、あの一日千里を走るといわれた名馬である赤兎馬です。
 ワープ9までの航行を可能とする唯一無二の最強の馬。顔良と文醜の乗る駿馬に追いつくことのできる馬といえば、それしか考えられません。

 「うむー、関羽か。確かに関羽将軍なら…でもな~」
 曹操は関羽を戦場に招聘することには反対でした。

 …

 関羽は曹操に降ったとはいえ、有能の士を愛する曹操のもと、降将としてではなく一武将として、いやそれ以上の扱いを受けていました。
 大きな屋敷を与えられ、たくさんの服飾品や美術品を与えられるという好待遇。
 曹操が幹事で飲み会をするぞ~ってときにも関羽には特別に曹操の隣の席に座ることを許され、曹操自ら部下に「関羽将軍への無礼は許さぬ」とまで言わせるほどの歓待ぶりでした。

 しかし関羽は自分に与えられた屋敷を、劉備の婦人や家族が住むための場所として提供し、自分は厩で寝たり寝なかったり、寝ないときには一晩中屋敷の門の前で見張りをし、華美な贈り物も全て夫人に献上していました。
 曹操からの貰い物を決して自分のために使おうとしませんでした。
 その行動はもちろん、屋敷を与えるときに放たれた間者により曹操にも届いていました。
 関羽の清貧さっつーか「敵からの施しは受けない」的な立派な態度、そしてその態度の根底にあるのは主君劉備への忠誠であることも曹操は感じ、なんともいえない気持ちになりました。
 「こういう者に慕われるような人間になりたいものだ」

 ある飲み会に、関羽はボロを纏って出席してきたので、曹操はそのみすぼらしい着物を見て「良かったらいい着物差し上げようか?」と杯を手にしながら関羽に話しかけました。
 「いや、そんな、悪いですよ」
 「いやいやいや」
 「いやいやいや」

 最初の頃こそ、関羽は飲み会に誘われてもかなり迷惑そうな顔をしていました。知らないひとばっかりだし、敵である曹操に降った自分を恥じてもいたからです。
 それでもあまり断るのも失礼にあたると考えて、次第に顔だけは出すようになりました。
 どんな美酒が出てきても、目の前で美女が舞を披露しても、楽しくなさそうな表情こそしない関羽ですが、自分がどことなくここにはいないという顔をすることがあります。ほんの一瞬なのですが寂しそうというか目は遠くをみるような、そんな表情を浮かべます。
 笑って杯を重ねるようになった関羽のことを、曹操はよくよく観察しました。
 そのとき関羽が遠くなにを見ているのか、曹操にはわかっていましたが、それでも関羽の気持ちを少しでも自分に向けたくて。その寂しさを少しでも紛らわせてあげたくて、あえて何も言いませんでした。ただ「かんぱ~い」。

 「大事に想っている」ということを口には出しても行動に示すことがあっても、そのあとに「キミは僕のことをどう想っているんだ?」とは言えない。

 それを言葉にしてしまうことは「自分の気持ちを相手にあずけることになる」と曹操は考えていた。
 自分は伝えたいことを伝えた、だからあとの返事はあなた次第なんてことは、その想いが強ければ強いほど、無責任なことだと思う。

 上等な生地で織り上げられた着物が宴席に届きました。関羽はそれをうやうやしく拝謁すると、ボロの上に纏いました。
 「関羽よ、せっかくかっこいい服あげたんだから、そのボロは捨ててしまえばいいんじゃあない?どうして上から着るのさ」と曹操は尋ねますが、関羽はボロを優しく撫でながら、こう答えます。
 「この服は、古くなったとはいえ兄である劉備からいただいたものです。これを着るといつも兄者の傍にいるような気持ちになれます。どんなにボロとなっても捨てるなんてとんでもありません」

 曹操は目を細めて思いました。関羽は絶対に自分になびくことはないだろう。忠誠を誓うことはしないだろう。たぶん死んでも劉備に対する忠義を忘れることはないのだ。
 正直、面と向かって言われたくないセリフでした。曹操にとって。曹操は「うん、そうか」と言ったっきり。

 そんな関羽の行動を、曹操の部下たちは正直あまりいい気分で見てはいませんでした。曹操さまからの賜りものを邪険に扱っていると感じていたのです。口にこそしませんが。今は仕方なく曹操さまにつき従っているが、この関羽という男はいつかわが国に災いをもたらすのではないか。今ここで殺すべきではないか。
 曹操は部下たちのそんな思いもわかっていました。わかってはいましたが、何も言いませんでした。
 言えば、関羽は曹操の部下たちに害され、殺されるかもしれません。もちろんそんなことはさせたくないし、いつかは別れるときが来ても、できるだけ長い時間を関羽と過ごしていたかったから。

 とある日。曹操は関羽に馬を送ります。その馬こそが赤兎馬でした。引き締まった真っ赤な馬体と長い鬣、他のどんな馬と比較できないスピード。GT-Rか赤兎馬かってくらいのもんです。
 かつてこの馬は呂布が所有していましたが、その死後には曹操が所有していました。気性も激しい馬だったので、誰一人乗りこなすことができなかったのです。
 この赤兎馬を与えられたときだけは関羽は目を輝かせました。赤兎馬の背中を優しく撫でるとその背にまたがり、颯爽と駆けたのです。乗りこなす者がいなかったこの馬も関羽という最高の乗り手を得て、草原を颯爽と駆け抜けました。
 試し乗りを終えて戻ってきた関羽に曹操は「今までどんな贈り物を与えられても喜ぶことなく全てを劉備夫人に渡してしまったと聞くが、馬一匹でどうして関羽どのはそんなに喜ぶのだ?」と尋ねます。
 「この馬があれば兄弟たちの行方がわかったときにすぐに駆けつけることができるではありませんか」
 ここまで面と向かって劉備と張飛への想いを口にする関羽。
 ひとを思いやるという気持ちの強さと、その言動。それが決して自分に向かないことが曹操には苦しかった。

 関羽の気持ちも尊重するなら、曹操は今この場で、今ここで「一緒にいられてとても楽しかった。劉備のもとに帰りなさい」と言うべきなのかも知れない。それが最良なのだろう。お互いのためなのだろう。
 それでも、どうしても関羽ともっと遊びたかったし、一緒に飲みたかったし、その時間があといくつか続けば、きっと関羽もここに残ることを少しでも考えてくれるかもしれない…そんな気がして言い出すことができませんでした。

 実は関羽も、同じような気持ちを曹操に抱いていました。劉備への忠誠は今でも変わりなくある。曹操はいろんな高価な物をくれました。
 対して劉備はかけがえの無い時間を共有し、苦楽をともにした人間です。物と時間。どっちが大切かは明々白々。
 今の曹操は一国の君主、それもこの時代の最先端で覇を競うほどの力を持ち、それをいつでも行使できるほどの権力を持つにまで至りました。昔のように身一つで、友情と夢だけを食べて飲んで生きていく頃に戻ることもできません。
 曹操も若いころは相当苦労しました。逆境、また逆境。明日をも知れぬ命だったこともあるけど、その頃に知り合えなかった。
 お互いが一番ツライであろう時期に、お互いを救いとしたかった。支えとなりたかった。
 こんなこといってもしょうがないのですが、そんな頃に出会っていれば、二人はきっとこれ以上ない絆で結ばれる友人同士となれたかも知れません。

 しかし、それを言葉にすることになんの意味があるのでしょうか。お互いが気まずくなるだけです。なんともなしに気持ちは冷めて、少しずつ離れる未来が訪れることにしかならない。
 もしかすると、それが最良かもしれません。互いがあとに傷を残さないために。
 それでもひとは、ひとが思うほど自分の未来は読むことはできない。

 曹操に降る際に「兄弟が見つかればいつでもここを離れますから」と言った関羽の正直な気持ちも、ここにきてからはじょじょに曹操に大変な恩を感じていました。
 なるほど、物をくれることによって、劉備夫人の生活は保証されました。
 それ以上に自分を想ってくれる気持ちは、降将として扱われるはずの関羽の生活、それはただ息をして毎日を過ごす覚悟をしたつもりの生活ではなく、より良く人間らしく暮らす時間を与えてくれました。嬉しかった。
 いずれ兄弟の居場所がわかって離れることがあっても、関羽は言わなかったけど、「曹操の恩に報いることができた」と関羽自身が納得できるまではこの許昌に留まる気持ちでした。

 …

 官渡の戦いで劣勢に立たされた曹操軍。
 軍師たちが曹操に「関羽将軍を呼びましょう。関羽の武力、赤兎馬の速さがあれば、あの顔良と文醜を押さえることはできるかもしれません」と提案しても、曹操が反対した理由はそこでした。
 関羽に恩を返す機会を与えてしまっては、自分のもとを去ってしまうかもしれない。

 恩義なんか感じて欲しいわけじゃあない。ただ一緒にいて笑って、お酒を飲んで、どうでもいい話をしたいよ。ただ盃を交わして、たまに無言で微笑む、そんな時間を共有したいだけなんだ。
 それが曹操一個人としての心でした。
 しかし曹操は一個人ではなく、一国の総統でした。国をことを第一に考えるのなら手段は一つ。
 「関将軍に、今すぐ戦場に参陣するよう伝えよ」

 曹操の報を受け、関羽はすぐに戦場の最前線に駆けつけます。いつでも呼ばれる準備をしていた関羽を、曹操は少し複雑な気持ちで向かえました。
 しかしその気持ちはおくびにも出さずに状況を説明します。
 「実は袁紹の軍にいる顔良、文醜という敵将に手を焼いている。我が兵たちは最早その名前を聞くだけでも逃げ出す始末だ」
 そう言って困った顔をする曹操に対して、関羽は「少しばかりお待ちください」と言い残し、許昌からここまで休みな走り続けたはずなのに息ひとつ乱れていない赤兎馬に跨ると、戦闘の場へ颯爽と駆けていきました。右手には青龍偃月刀を携えて。

 関羽はまず文醜と相対しました。「我こそは文醜なりッ!誰かは知らないが、かかってこ…ッ!」
 そして顔良は「よくも弟を殺してくれたなッ!この顔良が相手になろ…ッ!」

 袁紹の本陣に入った物見からの報告では、顔良も文醜も突如現れた騎馬武者に一合も交えることなく討死。二人とも頭から一刀両断にされたとのこと。
 袁紹軍に動揺が走りました。あの二人に攻撃をする間も与えずに斬り下ろすほど武人がこの世にいるのか?!一体何者だ?!

 このとき袁紹の陣営に客将として迎えられていた劉備は、「関羽だ!我が弟の関羽に違いない!よかった!生きていたんだな!」と直感しました。敵である曹操のもとになぜ関羽はいるのか、しばらく会ってなくとも劉備には想像できました。自分の家族を守るための行動であること。やむなく曹操についた関羽の境遇も。
 関羽の今の精神状態、曹操に並々ならぬ想いを抱き始めたこと、それを劉備は知りえることはできませんが、彼にとっては仮にそれを知っていても「関羽が生きていた!」それだけが喜びでした。

 官渡の戦いは、こうして一見すると曹操軍の関羽の力により袁紹軍と互角にまで持ち込んだようにみえますが、ツートップ不在になった袁紹は全軍をやや後方に下げ、守りの姿勢に入り、持久戦の様相を保ち、曹操の出方をみる戦術をとりました。

 兵数で圧倒的不利な曹操軍にしてみると、持久戦は長引けば長引くほど危険です。敵陣には北方からどんどん新しい兵も導入されるでしょうし、食料も運ばれます。自軍は許昌から遠く離れ兵力も兵糧も充分とはいえず、ある意味アウェイだし、その許昌も留守のまま放っておけば、第三の勢力や力をつけ始めた呉の軍勢などが、いつ都に攻め入らないとも限りません。

 その時期、曹操は屯田制を自ら考案し、実行していました。
 曹操が打ち出した屯田制とは、半農半兵を軸としたものです。戦時下ではないときに兵士には畑を耕させ、家族と団欒の時間を与え、各々の土地のために働くことを許可すると同時に、いざ戦争が起こったときには兵力として召集するというもの。
 畑というものは、そこに四季があり、風があり、土があり、降り注ぐ陽光と、流れる水の恵みがあっても、手をかけずにいて作物が実るというものじゃあありません。
 農作物という収穫の恵みとは、常にひとの手によってのみ作られるのです。
 人がいなくなって面倒をみてもらえなくなった畑は恵みを与えてはくれないでしょう。
 大地は、人間が勝手に始めた戦争の都合をいちいち考えません。

 曹操は、動員する兵数を常にその動員可能人数の半分と決めていました。いかに大事な時期で人手が必要とされる戦争であっても、その兵士たちには兵役の期間をそれぞれに明確に示し、徴兵されて半年が経てば、あとの半年は畑に戻ってもいいことを約束していました。

 河を挟んでの持久戦。持久戦とは座して相手の出方を伺い、ことによれば相手の自滅を待つ戦法ではない。表面上は対峙し、お互いを牽制する体を保ちながら、裏で策略を巡らす。一方に綻びが見えれば一気に叩くという一触即発の限界点、その見極めを試される戦法なのです。
 
 そのような臨戦下のなか、今配置されている兵士を自国に戻し、新たな兵の補充を待つような時間はありません。さすがの曹操も自ら提案した屯田制を恨めしくも思いますが、ある日陣頭に立ち全軍に告げます。
 「諸君らの役目は終わった。国に帰り、その元気な顔を家族に見せ、そのからだは田畑を耕すことに使え。これは命令だ」

 これには武将たちも多くの兵士たちもびっくりしました。みんなこの戦が、曹操の国がこれ以上拡大し勢力を広げるのか、もしくは滅びてしまうのか、イチかゼロしかない戦いであることを現場にいて肌で感じていたからです。それなのに我が軍の大将は、自身の危険を省みず民のことを考えていらっしゃるのか。
 皆が口々に叫びます。
 「なにをおしゃるのですか我が君!そんなことをすれば袁紹に追撃され我が軍は全滅ですッ!」
 「曹操さまッ!多くの兵の気持ちを代弁させていただきますが、我々は今ここで家族の待つ国に帰るよりもあなたさまと共に戦うことを誓いますッ!半年の約束なんか我々のほうから破棄させていただきますぞッ!」
 「俺に来るなって命令しないでくれ~ッ!ブチャラティ!」

 ゴゴゴゴゴゴゴゴ…!!

 多くの兵士の声という声。それが陣中にこだましました。
 関羽は、そのとき黙って曹操の傍にいました。そしてそのときの曹操の表情を忘れることはないでしょう。その曹操という人物はひととの約束を必ず守り、そして自分のことよりも何よりも他人の幸せを思いやる心の持ち主であると感じました。

 もちろん曹操は、みんなに慕われたいから、関羽に想われたいからこんな発言をしたわけでもありません。一国の主として、公約を守るという当然のことをしたまでです。そこに計算はありません。自らの意志で誰かと交わした約束、それを守れないようになっては自分はきっとそれだけの人間なのだろう。
 戦争、また戦争、そんな世の中ではあるが自分が真実だと思うことをしていきたい。正しいと信じる道を歩いていきたい。まるでどっかのブチャラティです。

 曹操のこの信念、誰よりも人の気持ちに敏感であったことは、かえって不幸なことだと僕は思うのです。

 兵士や将軍たちの熱い思いが自軍の士気を確実に高めたこと、関羽の気持ちがぐらつくその揺れ幅をも冷静に感じ、秤にかけることもできる才能、それもまた哀しい。考えることをやめられない。ひとの気持ちを無視してその場のイキオイで物事を決定できないということは、とても哀しいこと。熱い心があればあるほど。それを押さえつける苦しさがあることを、傍で関羽は感じていました。

 曹操は結局、多くの兵士や側近の武将に反対されたのも関わらず、約束を反故にはせずに無理矢理に兵士を母国へ送り帰しました。
 そして代わりに新たな兵が補充されました。ただし、新しい兵は当然士気も高く、今すぐにでも戦闘をできる準備を半年にわたって行ってきたわけですから、意気揚々です。

 袁紹軍とのその後の戦闘具合はここでは割愛しますが、勝利は曹操にもたらされました。
 圧倒的な兵力を誇る袁紹でしたが、その最大の武器だった兵数、数の多さこそが逆に最大の弱点になったのです。
 曹操に兵糧庫を奇襲され、食料の大半を焼かれ奪われた河北の軍は、兵数を維持することができなくなり、敗退を続けました。
 食うことができない仕事なんか、誰もやりたがりないし~。

 度重なる戦闘で、曹操の軍も疲労困憊となりますが、そんなときだからこそ曹操は追撃の手を休めませんでした。
 河北を蹂躙し、とうとう袁紹そのひとを討ち取りました。
 それだけではやめずに、散り散りになった袁紹の親族もいちいち討ち取り、遼東(今でいう朝鮮半島北部の地方)に逃げ込んだ袁紹の息子たちも追い回して、その首を挙げました。

 北方の国は想像を絶する冬があり、雪もあり、行軍は困難を極めました。それでも曹操は、半年間の兵役義務というローテーションを約束を守り抜き、多くの兵士、側近を失いながらも、完全なる平定を達成したのでした。

 許昌へと凱旋した曹操のもとに、関羽の屋敷に放っていた間者から報告が入ります。「関羽将軍、劉備玄徳を密書を取り交わし、屋敷で関羽と劉備夫人や家族は、主である劉備のもとへ旅立つ準備をしているよ」っと。

 袁紹軍にいた劉備は、関羽の存在を感じ部下を使って関羽と交信を行っていました。
 関羽は、曹操の戦に参戦し、敵を討つことによって義理を果たしたと思いました。思い込もうとした…と言ってはいけないかもしれませんが、恩を返し、その元から離れるときが来たことを関羽は思っていました。

三国日誌 補足(仮) その6~消えました

2007年12月27日 02時14分39秒 | 三国日誌 補足(仮)
 悲しいお知らせが。

 二日間も休載していたので、今日こそはちゃんと書くよ~とつらつら書き連ねて、我ながらなかなかいいものが書けたと思っていたのですが、消えました。

 官渡の戦いその後と、曹操と関羽とのやりとりを中心にした内容でした。

 書きながら思ったのは、「あ!これって恋なんじゃあないか?」ってことです。

 ぼちぼち寝ないと明日がやばいし、月曜は仕事を半端なまま置いてきたから少し早く出て準備もしなければならない。

 ずっと書いていたい気分です。

三国日誌 補足(仮) その5~官渡の戦い、前夜

2007年12月23日 23時31分59秒 | 三国日誌 補足(仮)
 曹操に降り、客将として許昌に滞在していた関羽ですが、思うのは生き別れた兄弟のことばかりでした。
 戦いの中で離れ離れになり、そのごの二人が今どこでなにをしているのかも皆目知り得ません。
 まぁ、張飛は敵軍に包囲されたとしても一分で百人くらい殺すような男だから心配ないし、劉備もいつものようになんだかんだでうまくやって逃げて行きのびてるんだろうな~ということを想像していました。

 その想像はほぼ当たっていて。

 実際に曹操軍に包囲された張飛は、蛇矛の一振りごとに敵兵をきっちり十人ずつ跳ね上げたり、叩き割ったり、払い殺したりして、関羽と劉備の姿を探し回ったのですが、見つからなかったので「そのうち会えるだろう」と考えて戦地から離れ歩き始めました。たまたま山を越えようとした道で山賊に襲われ、とりあえず頭領らしき男をミンチにしたのち「俺が新しい頭領だ!」と言い張って、そこで兄弟が見つかるまで暮らすことにしました。

 劉備は、関羽は張飛ほどには全然強くないので逃げに逃げ、気がつくと河北まで来てしまい、そこを納めていた袁紹の兵に見つかり捕らえられてしまいました。
 何日も飲まず食わずで敗走を続けた劉備は、ボロボロな身なりをしていたため、落ち武者扱いされた挙句に牢獄にぶち込まれていました。牢屋の中では「ネットカフェより快適だ」とか言ってまったく懲りる様子もなく、その様子を偶然目撃した袁紹の側近により、劉備玄徳そのひとであることを確認され、袁紹のまえに引きずり出されました。

 このときの勢力図では洛陽、許昌を中心としたいわゆる都会は曹操がその領土を拡大していましたが、河北では名門の袁紹がそれ以上の財力と国力と兵力で刻々と曹操を攻める時期を見計らっていました。
 曹操の強みは、天子を庇護のもとにおき、傀儡とすることで高い地位を保っていることに他なりません。天子に刃向かうものは逆賊、すなわち曹操に刃向かうものは国家の敵というように、その反旗を征伐する大義名分を得ていたことでした。

 袁紹は、漢という正統な国家組織のもとでは一家臣にすぎません。名門ゆえに、それに反逆したという謗りを受けるわけにはいかなかったのです。
 そうなると、河北の軍勢が都にいる曹操に攻め入る理由としては「天子をないがしろにしたことに対する義の軍である!」という大義を手に入れるほかありません。
 しかしながら袁紹は、董卓を討伐する際に同じ理由をたてて攻めたにも関わらず、連合軍をまとめきれずにそのリーダーとしてのプライドをズタズタにされた苦い思い出もあります。
 だから、やや及び腰になってました。

 劉備は袁紹の前に引きずり出されたとき、この袁紹の弱みと野望が同居する心につけこんでみました。
 「わたしは天子の叔父であるということは系譜にも確認されているし~」と。

 袁紹は考えました。
 今ここで劉備を殺すことに意味はなく、逆に味方とし、天子の身内を陣内に迎えれば天子の憶えも今とは違って逆に良くなる。そうなれば逆に曹操を逆賊として討つ名分も逆に立つということを。

 劉備をどう扱うべきか?劉備のひとを惹きつける力は、うまく扱えば袁紹の利となるでしょうが、逆に袁紹をも食ってしまいかねません。
 「どうしたものか?」袁紹は近くに控えていた田豊とかたしかそんな名前の軍師に意見を求めます。

 袁紹のもとには、曹操の陣営以上に人材は綺羅星のごとく集っていました。田豊だけではなく、沮授、郭図などの知識人がこぞって意見を述べます。
 袁紹はどちらかというと自分の意見は言わない性格でした。その態度はときに優柔不断、決断力がないとも評価されますが、反対にいえば側近や部下の意見を一通り聞いてから最善と思われる案を採用することにより、周りの人間には「あ!わたしのことを認めてくれた!うれしい!」という仕える喜びを喚起させるタイプのリーダ-でありました。

 曹操は、部下がなんと言おうとも我を通すわがままなとこがあり、それはそれで人間臭くていいのですが、一部には「僕のことなんか、どうだっていいんだ…」といじけさせて、しかもフォローなんかしないので、そういった見方をすると、袁紹もまた魅力的な人物だったに違いありません。

 この群雄割拠の時代に、他を遥かに凌ぐ勢力を誇っていたのが、袁紹と曹操という異なるタイプの君主であったのも、その意味を考えてみると楽しいかもしれません。単に「袁紹は名門で旧体質の保守的な人間、曹操は新しいものを取り入れ自分で判断し、行動力もあった」という区別だけでは括れない面白さがあります。

 袁紹の群臣たちが次々と進言します。
 「劉備は殺すべきです。なんでも以前は曹操に認められてけっこう親しく飲んでいたようです。いつか曹操と並び強大な敵に成るやもしれません」
 「いえいえ、ここに置いて厚遇すべきです。劉備はあの無類の強さを誇る関羽と張飛とは義兄弟との間柄、しかも長兄です。劉備が我が国で生きていることが知られれば、あの二人の弟はこぞってここへ駆けつけ味方となるでしょう。それは我が軍にとって最高のクリスマスプレゼント」
 「恩を売ったのちに、体よく追い出すことこそ最良と思われます。両雄並び立たずという言葉があるように、一国に二君は必要ありません。ここで追い出しても、劉備がわが国に恩義を感じればいつの日か利用できることもあるかもしれません」
 「地位を与え、住居を与え、女を与え、劉備という男の人間性を試してみてはいかがでしょう?ここは一旦ペンディングにして様子を見ては?殺すのは簡単です」

 どの意見ももっともですし、どの案も上策に思えます。決断が苦手な袁紹が、この選択肢の中からどのような判断をくだしたのか…?

 「劉備、そなたはどう思う?」
 なんと?!今まさに囚われの身となり、処遇を待つべき劉備に意見を求めたのです。
 劉備は驚きました。
 この袁紹という男は…!命令ひとつで自分を生かすも殺すもできるのに、それをどうするべきかと当人に尋ねるなんて…曹操とはまた違った意味で面白い男じゃあないか!

 劉備は客将として袁紹の国に留まることになりました。自分の金で飯を食わない男劉備玄徳。しかし、一人でご飯を食べていても、いつもそこが自分にとって安住の地であるとは考えていません。

 なるほど、河北という慣れない土地ではありますが、食べ物もおいしいし、袁紹の部下たちも劉備を慕って夜になるとお酒を持ってやってきます。友達もできて、楽しい話をしながら美酒に酔い、かわいい女のコもいるし、そんな生活もアリかな~と考えたりもしました。
 それでも劉備が心の底から求めていたものは、やはり関羽や張飛とのバカ騒ぎ。その二人の所在がわかれば、いつでもこっちから袁紹にはお暇告げて(さすがにそれは許されないでしょうが)国を去る心積もりでした。

 許昌では、とうとう曹操が袁紹を討つべく軍勢を集めていました。
 曹操にしてみたら袁紹などは小物という思いがありましたが、小物のくせに国は強大。いずれは討つべき相手でした。
 曹操が今よりも勢力を拡大する方法の近道としては、当面は袁紹を放っておいて、まずは近隣諸国の小国の太守を攻め立てて、着実に地盤を固めるという方法もありました。
 その隙に袁紹が攻め入ってくるような決断力を持っていないこともお見通し。しかし、その方法では時間も兵力もお金もかかります。万全の状態で計略策略を張り巡らせても、人生には必ず不測の事態が起こりえることも知っていました。
 一騎果敢に全力をもって袁紹を攻め、これを滅ぼす。それはもちろん逆に袁紹軍によって潰される危険性も大きい賭けではありましたが、勝てればこの中華で向こう三十年は曹操に並び立てるものが存在しなくなるほどの大きな勝利です。

 しかしながら先制してきたのは袁紹のほうでした。臣下の進言ものと、自国領に「逆賊曹操討つべし」の檄文を配布し、士気を高め、国を挙げて戦準備をしていました。


そのころの袁紹と曹操の勢力図。赤色が袁紹の支配域、青色が曹操。

 そして西暦200年。
 袁将軍は四十万の軍勢を伴って南下を開始しました。
 先立つこと、同じ北方に有として覇を争いまんまと滅ぼし征服した公孫さんの無敵の白馬陣騎馬隊も吸収し、軍に併合してあります。
 先陣は、このころは関羽張飛と並び恐れられた顔良と文醜のオグシオコンビ。
 袁紹直接指揮の中軍指令系統には劉備の姿もありました。

 迎え撃つ曹操軍。第一陣を任されたのは張遼、第二陣右翼には于禁、左翼に楽進、第三陣徐晃、中軍(中軍は真ん中ってことじゃあなくて総大将のいる軍を指す)許褚、夏侯惇、夏侯淵、参謀に郭嘉(荀は許昌にてお留守番。いくら一大決戦とはいえ、南方からも容易く攻め込まれる危険は冒せませんから)を従えて曹操は北上します。兵力二十万。

 曹操配下となっていた関羽もこの軍に中にはいませんでした。お留守番。袁紹軍との戦いに従軍させてくれるよう曹操に何度も進言したのですが聞き入れてもらえませんでした。
 劉備は現在袁紹のもとにいることは曹操も関羽も知りません。知っていれば関羽は、なにも置いても劉備のもとへと走るでしょうから、従軍を拒む理由となりますが。

 では、なぜか?なぜ、この決戦に最強の助っ人となる関羽を、曹操は連れていかなかったのか?その理由はみんな知っているだろうけど、また明日。

三国日誌 補足(仮) その4~梅酒を飲みながら英雄論~関羽と張遼

2007年12月22日 23時07分22秒 | 三国日誌 補足(仮)
 連合軍は、結局は董卓を追い詰めることができずに解散した。
 書くと長くなるので、この辺の割愛します。まぁ、いちいち描写するまでもなく、連合軍なんかも自分の利益を求める人間たちの、ただの寄せ集めだったってことです。
 義のため、人の世のためという旗のもとに集まる人間は、少人数のうちなら、まぁいいけど、規模が大きくなり過ぎるとどうしても最初の意志を見失いがちになるよね。

 名を挙げた関羽ですが、けっこうそんなことは自分にとってはどうでもよくて。流浪大好き劉備と、義弟の張飛とまたあちこち国中を飛び回っては暮らし、たまに戦い、呂布とかそんな強敵に遭いながらも、ゆく歳月。
 ひょんなことから三兄弟は、曹操のいる許昌の都に落ち着いていました。

 まだまだ群雄割拠の時代は続くんだな~ってカンジ。

 晴れたある日、宮殿の片隅の空の下、マンツーで酒を飲んでいた曹操に「今の天下に英雄と言えるほどの人間はいると思うかい?」と尋ねられた劉備は、酔ったフリして得意の聞き流しをしました。

 曹操はこの劉備という人物が、自分とはまた違う魅力を備えており、その才能はいずれ敵として強大になることを、予感というか期待感もありながら、その庇護下においていました。劉備がどれだけの人物か、己のためにも計っておきたかったのです。

 劉備は曹操なんかに比べれば、所有する軍事力も圧倒的に少ないし、身分も金もないし、領土だって持ってないし(だから曹操にお世話になってる)、車も持ってないし、彼女はいないようだし、それほど頭が切れるわけでもないし、先を読む力も、全てにおいて比較にすらならないほどの差があります。
 曹操は自分のことを天才だとか、才能あふれる若者だとは思っていません。
 今この地位にいて全てを手に入れられるのは、たゆまぬ努力したからだという自負もあります。上司やイヤな客にうるさいこと言われてもけっこう我慢もしたし、正直、「もっと寝ていた~い。仕事行きたくな~い」って朝だってあります。
 ところが劉備は、ただダラダラしていて、そのくせ名前は誰にでも知られていて人気もある。なにもしていない、なにもないただプーなのに。

 現代の社会でも、当時でも人間関係とか生活なんか価値観の違いはそんなになくて、目標をもって働かずにブラブラしているやつは、やっぱり半端なもの。周りから置いていかれるし、そんなのは自由人でもなんでもなく、自分のだらしなさに言い訳だけをする自分のことすらきちんと考えることのできない愚かな人間と思われていました。
 そんなやつなのに、それなのに、認められて生きているこという事実こそが劉備の強さだと思いました。
 ただその日を息するだけの生活と状態で、ひとはひととしての誇りをもって生きていけない。
 しかし、劉備は生きて活力に溢れている。その力はなんなのか?なにもないからこそなのか?執着がない、失うものがないから?
 地位やお金もがなくても、いつでも他人を思いやり、ひとの痛みを自分のことのように泣いて、笑ってくれる人間的な魅力に、関羽や張飛という人間がついてくるのです。しかも劉備本人にはついてきているいう感覚すらありません。「気が合うから一緒にいるだけっす」ってくらいのもの。
 誰もが、好きなものを手に入れるために汗して働き、時間もからだも削って切磋琢磨しているのに、こんなネットカフェ難民みたいな劉備のことを、曹操はまるで自分に無いものを全部もっていると感じてしまって、「うらやましいな」とつい思ってしまうのでした。

 「もう一回言うわ。今この天下に英雄と呼べる人間がいると思うかい?」あくまで酒の席での戯れといったカンジで曹操は尋ねます。
 「うむー、英雄…ですか?」
 「キミは英雄というのはどういう人間のことを指すのか知っているかい?」
 「うむー、英雄…ですか?」
 「質問を質問で返すなァーッ!いいかい、英雄というのは即ち、龍のように普段は川の底で眠り」
 「その話長いっすか?」
 「YOU&I!」欧米か。

 面倒になって曹操は思わず、「今天下で英雄と呼べるのは、二人の人間しかいない。それは君と余だ!!」と言い放ちました。

 劉備は曹操が自分のことをライバル視していることは知っていたけど、知らない素振りを装っていました。
 曹操が認めてくれているのは悪い気持ちはしませんが、その曹操という人間は、邪魔だしキライだなと思う相手を心のメモ帳の書き留めておいて、チャンスが来たら必ず排除することも知っていたからです。
 そんなリストに名を連ねるのは真っ平御免でした。

 折りしも、先ほどまで晴天だった酒の席は、いつの間にか入道雲が日を遮り遠くで雷が鳴いているのも聴こえてきました。
 雨が降るかな~って頃、関羽と張飛が遅れてやってきました。つーか、呼んでないのに二人は座って飲み始めました。
 実は二人は劉備の身を案じて駆けつけたのです。しかしそれを曹操に悟られるわけにはいかないので、「偶然!?」みたいな顔をして、勝手に一緒に酒を飲みだしました。
 曹操を恐れていることを知られては、兄劉備のことが曹操の心の排除リストに書き連ねられると考えていたからでした。そんなのは真っ平御免でした。

 表面上は「いや~、許昌の酒うまいですねー」「すみませ~ん、ビール人数分!」「刺し盛り注文していいっすか?」「ワイン、ボトルで!」「いや、弟には樽で持ってきてあげてくれませんか?」とか関羽も張飛も陽気に飲みながら。

 関羽の張飛も劉備までもが、それは悪い方向に考えすぎ。
 曹操という人物は歴史上の評価では、冷酷とか手段選ばないとか、やたら後輩に飲ませるとか、悪いことがクローズアップされることも多いのですが、それ以上に実力のある人間や一芸に秀でる誰ものことを認めて好きになろうとする極めていいやつでした。
 ただし、相手に期待するが故に裏切りは許さないのという性格でもあったために、過激な行動(殺すとかそんなん)に出ることもままあり、その過激な行動のほうが、曹操のいないとこでひとびとが飲み会で噂したり、僕なんかが書いていて楽しいから、そういうイメージが先行してしまっただけ。

 曹操は、とくに関羽とは友人になりたい気持ちをもってました。
 虎牢関で華雄を討ったその武勇が、単にかっこ良かったし、それを誇示するでもなく馬を撫でていた人柄に惹かれました。
 当の関羽は劉備に対する忠誠と友情から、曹操という立場の人間にはお近づきになりたくありません。個人として曹操はおもしろい人間で底がしれないかもしれない。飲んでてお互いが得るものもきっとあるだろうとは感じていました。でもその気持ちは心の奥底にきっちり畳んでしまっておきました。もしも兄の劉備に害を加えることがあれば、そのときは…。
 こんな時代じゃあなかったら、きっといい親友になれていたかもしれません。
 そんな気持ちを曹操は感じていました。関羽も内心では感じていました。
 しかし、こんな時代だったのです。

 そのご、劉備は紆余曲折の末、許昌の東に位置する徐州に落ち着き、いろいろあっていつのまにかこの地の太守となっていました。
 曹操は政治的な理由と戦略的な理由から、この徐州を攻めることとなりました。
 曹操と劉備が正面きって戦争という形でぶつかったのはこれが初めてのことでしたが、勝敗は曹操の圧勝。

 追い立てられた劉備の軍はほうほうの体で逃げ出し、徐州の出城である下邳に詰めていた関羽の軍勢は劉備の本軍敗走により、この地に取り残され、曹操軍に完璧に包囲されるという状況に陥りました。

 包囲された城の中にいつまでも篭っていても、曹操の軍勢は遅かれ早かれ攻撃を仕掛けてくるでしょう。長期戦となれば孤立無援となった関羽の部下たちは怯え、いずれ兵糧も尽きてしまいます。

 この絶望的な状況の中、関羽はたった一騎でも曹操軍に立ち向かう覚悟がありました。もちろん無謀な突撃で死ぬ覚悟ではなく、一騎で敵陣深く押し入って、曹操の首を挙げる覚悟でした。
 生きて兄弟たちに会うという覚悟でした。

 「開門せよ!」
 馬上のひととなった関羽は兵士に命令しました。
 右手に青龍偃月刀を携え、一騎駆けを決行しようと敵陣を見渡すと、そこには先ほどまで詰めていた敵兵は一兵もなく、曹操配下の武将、張遼が一人で抜刀もせずに立っていました。
 「なにしに来た?!張遼!ここは戦場である!丸腰とはいえ、斬るぞ!」関羽は張遼を怒鳴りつけます。

 張遼はそんな関羽を見つめて「わかるだろう?関羽どの」と言いました。

 なにを言っているのか関羽はわかってましたが、力を込めた青龍偃月刀をもつ腕の角度はそのまま、手綱を掴む左手もそのまま、馬に意志を伝える脚の緊張を解くことはしません。 遠く、敵軍の中心にいるであろう曹操の陣を遥かみつめた姿勢のまま、微動だにしませんでした。

 「うちの大将は無駄な争いはしたくないんだ」
 戦争中にそんなことを言ってなんになるのでしょう?平時なら、酒でも飲んで「あのときのオマエのパンチは効いたぜ!ハハハハ!」なんていいながら、昔に仲違いしケンカしたことも笑いながら盛り上がれることもあるでしょう。
 関羽にしてみても曹操にしてみても、誰が見ても今はまさに戦争真っ只中です。そんなちょろいことをいう曹操でもあるまい、と関羽は一瞬ですら考えもしませんでした。セリフの意味すら吟味しませんでした。

 すでに斬る覚悟を決めた関羽の今目の前にいる張遼。このままそこに立っていればあと5秒命がもつかどうか。

 「劉備の家族がいるのだろう?」
 張遼は指摘しました。これには関羽も怯みました。

 実は包囲されたこの下邳の城には、劉備の妻や子が逃げ遅れて残っていたのです。
 いくら関羽が無類の強さとはいえ、からだはひとつ。関羽が敵陣に突入しすれば、城に置き去りにされたものは全員捕まってしまうか、最悪皆殺しに遭うでしょう。
 曹操は、妻と子と、関羽の部下たちも助けてやるから、だからってわけじゃあないけど無駄なことをするな、お互いの兵士が無駄に死ぬようなことやめようぜ、ということを関羽に伝えたくて、張遼を代弁者として派遣し言ってきたのです。

 張遼、字を文遠。
 彼の経歴だけみると、今まで属してきた国には、君主として丁原(呂布に裏切られて真っ二つ)、続いて何進(だまし討ちに遭い、矢で殺され、最期は宦官なんかに首を刎ねられた)、そして董卓(人間キャンドルの刑)、呂布(いわずもがな)といった、マイナーリーグからメジャーリーグまでを余すとこなく渡り歩いた変わり者です。
 もちろん表面だけみてはいけないのですが。今は曹操の下で、勇猛さと頭脳を備えた士として重用されています。
 ここまであまりパッとした戦歴はない彼ですが、その後の彼の活躍をみると、ここで関羽を説得しに来れる人物として、曹操の代弁者として彼ほどの人選はなかったともいえるでしょう。

 曹操はもちろん関羽と争いたくはなかったのですが、その理由は先に挙げたようにいくつもありました。
 お互いの兵士を無駄な戦闘に巻き込んで死なせたくなかったということ、そして関羽がひととして尊敬できること、人気もあって名も知れた関羽を逆に殺したりしてしまった日にもはや劉備どころか、この戦とは関係ない国からの人望も失ってしまうこと、そのマイナスのイメージは数では計れないダメージを自分に被ることだということ、今日は自分の誕生日だったこと、天下の逸材としての関羽を認めていたこと。いろいろ。

 総大将という立場の曹操の考えと、一個人としての曹操としての想いがぐちゃぐちゃになった、そんな気持ちを、戦闘体勢に入った関羽に正確に伝えることができる適任者は自分の部下では張遼以外には考えられませんでした。
 まさか自分自身が一人のこのこ歩いて行って関羽と対面するわけには立場上いかなかったので、張遼にその想いを託したのです。

 張遼は一見のほほんとしていますが、これだけの君主のもとを渡り歩いたのは、決してフラフラしたかったわけでもなく、不遇だったわけでもなく、理想を常に追い求め、自分が存在すべき場所が見つかれば、そこで生涯尽くしたい気持ちを持った男だったからです。
 彼が、あちこちに顔を出しては、その上官を見限り、移住し、放浪を続けたのは、単なる気まぐれやおいしい匂いに敏感だってのでもなく、その上官が理想とするものではなかったからです。

 もともと張遼は曹操にとって降将です。
 呂布配下だった張遼を捕まえたときに曹操は、とりあえずくらいの気持ちで、この降将軍に話しかけました。
 どんな会話があったのか、それはわかりません。短い会話だったことだけわかっています。しかし曹操と張遼は、会って一言二言話しただけで「これは天下の逸材だ。求めていた人物に会えた」とお互いが考えました。

 だから曹操は関羽を殺したくない、できれば説得して降らせたい、と思ったとき曹操が頭に真っ先に浮かんだ代弁者は、その昔に自分に降り、世の中の価値観とその気持ちをお互い理解し疎通できた、もともと降将軍という立場でもあった張遼だったのです。

 「俺が曹操に降れば、兄者の家族は見逃す…と、そういうことか?」
 「そういうこと。余計な死は必要ない。死ぬのは兵士だけだ。まぁ、それもなにかを守るための行動だから、無駄ではないかもしれない。でもここで戦ってなんになるのだ?関羽どのよ」
 「武の誉れ!」
 「関羽どの、それは違いますぞ。別に、あなたは死なないかもしれないからってわけじゃあなくて。…どうも、あなたはめちゃんこに強過ぎるから、ときにものの見方を『こう』してしまうことがあるね。いつかその過信が自身を窮地に追い込む日が来るだろうな。」
 「張遼どの、そこをどくんだ。兄者の家族も覚悟はできているであろう」

 張遼は退いたりしません。曹操の代弁者としてここにやってきたのだから。
 責任があるからってことを考えていたのでもなく、いざ対関羽ということになっても負けない自身があったからでもなく、ただ心の底から関羽のことを案じてていたのです。いつかの自分とその姿を重ねました。そして曹操が関羽を高く評価していることも、こうして目の前に本人と接していると、理解できました。

 自然、張遼の顔は何ともいえず相手を思いやる優しい表情となり、その張遼のなんともいえない表情が、関羽にもう少し話を聞いてみるか、という気持ちを起こさせました。

 張遼は続けて話します。
 「ここで関羽どのの一騎駆け。なるほど、武の誉れでしょう。しかしその華やかしさのウラで守るべき義兄弟の家族は死ぬ。
 あなたはどうする?あなたもこの戦闘で死ぬから、それでいいと?もしくは生き残っても恥じて自決でもするか?自分の不徳を憂いて、ただただ生きることもできないのではありませんか?!それが、一心同体であることを誓った友人の劉備に対する忠義だとでも言うつもりか?!」
 「…」
 
 張遼の言葉は自分自身への問いかけだったのかもしれません。

 関羽は、しばし待たれよと行って城に引き返しました。
 張遼も一旦自軍へ引き返し、城への囲いを解くように曹操に進言しました。周りの武将は「そんなことをして、この隙に関羽が逃げたらなんとする?!」と鼻息荒く諫めますが、曹操は静かに「張遼の言葉通りにせよ」と言い放ちます。

 (自分が張遼を代弁者として選んだのだから、その張遼の判断、言葉はこの場では我の言葉と同じ意味、我が口から出た命令である、ということを暗に仄めかし、曹操に逆らってはいけないことを他の武将に知らしめるためのセリフでもあります。)

 張遼は、関羽は逃げたりしないタイプの男であることを、確信していました。仮に関羽が考えを改めずにここでやけっぱちになって、攻撃を仕掛けてきたり、抵抗しようものなら、逆に自分が一騎で城に攻め込んで関羽と剣を交えるつもりでした。自分が死んでも関羽を止めるつもりでした。

 「それも、武の誉れか…?」先ほど、関羽を諫めたはずなのに、一騎で関羽に立ち向かう自分を想像すると、感動で打ち震える思いでした。
 関羽が一騎でも戦うと決意した、その気持ちは立場を同じくしたこともある武人張遼には痛いほど感じることができました。
 「しかし、それは勇気ではない」

 関羽は、劉備の妻と子に「一時、曹操に降伏すること。今後もどんなことがあってもあなたたちを守ること。今は所在のわからない劉備を見つけ次第、必ずあなたたちを送りとどけること」を約束し、また城を出ました。

 張遼は、すでに待っていました。
 「曹操さまのところへご案内申し上げる」
 「よろしくお願い仕る」

 こうして関羽は曹操に降りました。曹操を、張遼を信用したからではなく、劉備の家族を守り、そして劉備に一言詫びるために生きることを決めたのでした。
 自ら招いた敗北では決してありませんし、恥じるべきものでもありませんが、関羽は自分がなにか他のものの為に今できる最良と思える道を選んだのです。

 皮肉なことに、この敗北により、曹操の下に入った関羽はそのごの官渡の戦いにおいて、最強伝説その2を作り上げることになります。
 官渡での関羽のムチャっぷりはまた明日。 

三国日誌 補足(仮) その3~関羽、華雄を討つ

2007年12月21日 22時26分13秒 | 三国日誌 補足(仮)
 その頃、魏では「赤壁の恨みを晴らそう!」という機運が高まっていました。
 機運の高まりは、別に魏が赤壁のダメージを回復したからということではなく、なんとなく気持ちがそうなったとか、とある晩に自分の本当の気持ちに気がついたとか、「知らないうちにあなたのことが好きになったの!」とか、そんなアンニュイなものでもなく理由があって。

 魏、呉、蜀の三国。
 なんせ三国志っていわれるくらいだから実力も伯仲、一方が一方を攻めれば、手薄になったとこをもう一方に攻められるし、こっちだけ見てればあっちの国になにされるかわからんし、絶妙なバランスを保ちつつの複数国家樹立の時期と捉えられがちですが、実はそんなことは全くありません。もう一回言っておくけど、全くそんなことありません。
 領土の広さ、兵力、経済力、有能な人材の豊富さ、どれをとっても魏が飛びぬけた国力を持っていました。
 魏を10とするなら、呉は4、蜀なんて2くらいなもの。

 だから魏は赤壁にて大敗したとはいえ、そのすぐあとに自国の西で起こった反乱にも、すぐに大軍を送って対処することができました。
 西涼という田舎で起こった魏への反乱は、その大将が馬超、副将が韓遂という、言ってみりゃあキン肉マンゼブラチームくらいにはそこそこ強いものでした。曹操はこれをさっくりと攻め、最終的には馬超と韓遂を仲違いさせ、内部分裂から戦況を自軍有利の方向へ持っていき、あっさりと反乱を平定しました。

 (この戦で敗北し流浪する馬超は、張魯という君主の治める五斗米道による新興宗教国家に身を寄せたりもしますが、最終的には蜀の劉備のもとに仕えることとなります。だから関羽は「あんなぺーぺー」と思ったんですが、それについてはまたいずれ。)

 反乱も収まり、じゃあ今度は赤壁の恨みを晴らそう、南下して蜀も呉も一気に飲み込んでしまえ!っていう思考はある意味当然。
 そんな機運。

 しかしながら、南下するにあたって、そこにいるのは蜀の関羽です。伝説の男、関羽。
 「普通の飲み会だから」と誘われて北炉に行ったら、イキナリ目の前の席に座っている人物が、自分が一年のときに「名前は聞いたことがあるけど、この人、先輩ですら『自分が一年のとき四年生』とかいうさらに上の先輩ではないか?!」ってくらいの伝説。
 まずはここを打ち破らなければ、魏は一歩も動けない。圧倒的な力をもつ魏ですら、この一歩が一番の難関だと考えていました。
 かといって放っておくこともできません。魏の総帥である曹操は関羽という人間をよく知っていました。
 関羽という男は荊州を守るだけではなく、隙あらば北上して魏に押し入ってくるだろう。そうなれば魏が全力をもってこれを迎え撃つことは赤壁以上のダメージとなる。関羽一人でそれだけの力がある。
 関羽のいる荊州だけで、4の力がある。さっきの話だけど、魏が10なら呉は4。蜀は2、ただしこの数字はあくまで関羽を除いたとして2。簡単な算数で、魏も安穏としていられないのは明白にわかる。

 そんなさ~関羽関羽いうけど、なにがどんだけすごいのさ?っていう人のために、関羽のすごさを書いておきます。知ってるかたは飛ばして読んでください。

 関羽、字を雲長。
 歴史の表舞台にでてきたのは、ここでも何度か書いてあるけど、虎牢関の戦い(この話のなかでは『水関』(しすいかん)と同一の場所として扱います)。

 当時、帝を意のままに操り、統一国家であった漢を好き放題にした暴君董卓。その董卓の暴政を諫めるがごとく、全国各地の英雄たちが連合軍を結成し、首都洛陽に迫った。
 義のために集った連合軍のなかには、若き日の曹操や孫策もいました。そして劉備も。

 いってみればこの戦いは、古い体制を打破して、新しい覇権の時代を到来させる…要は敵を滅ぼして戦争を終わらせることによって、新たに生じたアンバランスな世界を、次の誰かが治めることによって、その誰かを倒すために新たな戦いが生じて…という、人類の歴史上において避けることのできないぐるぐるの中の一ページではありました。

 連合軍は洛陽へ向かって進軍します。途中途中で面白いくらいの勝ち戦。このままいけば、董卓なんかあっというまに倒せちゃうんじゃあないの~!と誰もが考えていました。
 そして董卓のいる洛陽の都のすぐ手前、虎牢関にまで攻め入ります。「ここさえ破れば我こそが…」「いや、我こそが」「我こそが天下の覇者だ!」ってみんな気合入りまくり。

 なんもなんも、義のための連合軍とかいって、その実、大将たちが考えているのは単に自分の力を知らしめて、我こそが新しい統治者にならん!ってことばかりでした。まぁ、別段おかしなことでもないし、今だってそんなもんでしょう。

 かわいそうなのは兵士たち。そんな大将の願望を叶えるために最前線で戦わされて。イヤんなったら帰ればいいんだけど~とか思うけど、董卓の圧政は一兵士である自分たちの家族の生活をも困難にしていたし、家族を守るためには大将の指揮下で働かざるを得ない。

 虎牢関を守るは、董卓軍の中で武勇ナンバーツーに数えられる華雄。
 連合軍はこの華雄の軍に当たりますが、なんせ華雄は強い。それまで優勢だった連合軍はあっというまに華雄によって討たれまくり。
 連合軍の大将たちは一旦退いて、緊急の軍議を開きます。議題は「華雄を討ち取るためにはどうするか?」ってこと。
 華雄の強さを目の当たりにして、こんなとこで自分の兵士を無駄に使いたくない大将たちは、誰一人として「華雄は俺が!我が軍が倒す!」とは言いません。人任せ。そりゃあそうです。目的はあくまで董卓の首。董卓を自分が倒して、その代わりに自分がその地位に就きたいから。華雄なんかを倒すのは自分以外のどっかの誰かに犠牲を払ってやってもらいたい。

 軍議は、そんな空気のなか、ただ延々と時間だけが過ぎていきました。いまどきの会社でもありがちなのんびり軍議。意味のない時間。誰もが言いたいことを胸にしまいながら発言を控える。
 こうしている間にも、この指揮系統の中心部にまで華雄はどんどん進撃し迫ってきています。

 物見の兵が、軍議中の幕舎に次々と報告に入ります。
 「敵将華雄が、ここより5km彼方にてこれこれの陣にて交戦中!」
 「先鋒の将軍討死!華雄の軍はこちらに向かって進撃しております!」
 「イキオイますます、敵は前線を突破しました!距離2キロ!!」
 報告を行う兵もその戦況を命からがら伝えに来ますが、その兵士たちにも刀傷、矢傷、一人として負傷していないものはいません。そしてとうとう…
 「華雄軍、すぐそこまで迫っております!ここももう…!ゲフッ!シジ…」

 連合軍盟主の袁紹はとうとう事態に堪りかねて言い放ちます。全軍の大将を見回して「誰か、あやつを倒す豪傑はいないのか?!」と。
 誰も顔をあげません。「じゃあオマエが行けよ」と内心誰もが思いながら。
 このままでは誰もが華雄の軍の前に敗走を免れません。それもわかってます。

 そのとき軍議の末席にいた男が「それがしが華雄を討ちましょう!」と声を上げました。 みんなが振り返ると、そこには誰も知らない男が立っていました。

 この頃の中国では身長を~尺~寸とか、体重は~斤とかそんな単位だったので、それだと分かりづらいから現代の単位でいうと、男は身長は190㎝、体重は身長のほどには重くなく85㎏くらい。デカイはデカイけど、スラリとした体型。顔は意外とスッとしていて白い肌の一見すると優男ふう。チャームポイントはヒゲ。のちに「美髯公」とひとびとに持て囃されるほど美しい髯を伸ばしており、キューティクルで艶やかな黒い髯。相当伸ばしていたようで、首から髯を入れるための袋を提げています。
 
 「誰?」袁紹は尋ねます。
 「関羽と申します」
 「で、どこに属するものなのだ?」
 「劉備玄徳の部下で、足軽です」
 「はぁ?」

 ここにいる誰もが、まずその劉備玄徳という人物を知りません。劉備という男自体が、国の役人でもなく、名だたる武将でもなく、連合軍という旗の下にちょいと顔を出した程度の男で、しかもそのさらに下の足軽だァ?。
 誰かが華雄を止めなければならない。しかし止めると簡単にいっても、そのためには華雄より強い力をもっていなければならない。それが、どうでもいいような足軽野郎が何言っちゃってんの?そんな者がデカイこと言うのもだから袁紹だけではなく、他の大将たちもキョトン顔。

 「関羽とやら、場をわきまえよ!ここは軍議である。お主のような足軽風情がしゃしゃり出て発言できるような場ではない!」
 関羽は「あーはい」としか言いませんでした。

 若くしてその才能を認められ、すでに名だたる武将の集まる連合軍のなかでも発言力のある曹操は、そんな関羽を見て言いました。
 「関羽とやら、そなたは本当に華雄を討つというのだな?」
 「そのように申し上げましたが」
 「よしッ!ならば関羽、行って華雄の首を挙げてみせよ」

 総大将袁紹は、だからといってこの関羽を華雄に対して当てるのはイヤでした。こんな足軽が勝つ可能性などないともちろん思ってるし、なによりも連合軍のメンツってものがある。連合軍にはここまでひとがいないのか?!と董卓に舐められるのがイヤでした。
 曹操はそんな袁紹のどうでもいいメンツも読み尽くしており、かつ「もしも万が一、この関羽という男が華雄に勝つことがあれば、敵も『連合軍は足軽でも強いぞ!?』という話が広がり怯えだすだろう。負けたとしてもこっちとしては失うのは足軽一人、やらせて損はなにもない」という思考があったのです。

 当然ですが、当時は曹操を初め、ここにいる誰もが関羽の無類の強さを知りません。知っているのは、その横にちょこんと座っていた義兄の劉備と、義弟の張飛だけです。

 青龍偃月刀を腰に引っさげ、おもむろに髯袋を取った関羽は「馬借りてもかまいませんね?」と言い放ち、幕舎から出て行きました。「足軽の分際で馬だとォ?!」袁紹はもう、華雄どうこうよりも、連合軍の命運とかよりも、この関羽というやつが自分を差し置いて勝手やってることが、なんか癪に障って堪りません。
 「いいじゃん、別に馬くらい。その馬で華雄を討てるならアンタにとってももうけもんだろ?」と誰に言うわけでもなく呟いたのは劉備です。
 曹操は劉備のその呟きを聞き逃しませんでした。なぜなら、その考えかたは曹操の先程までの考えをなぞるかのようだったからです。

 幕舎の外では大地を震わすほどの鬨の声。敵見方入り乱れての乱戦が行われていることが、先ほどから音だけで充分伝わってくる。

 関羽は一騎、その中に馬を進めます。最早いつのまにか、連合軍もこの戦の命運を、よくわからないこの男に賭けるしかない状況となりました。
 勝利か、撤退か。
 撤退くさいぞ~とほとんどの大将が疑ってないので、逃げる準備をしつつ、全員が幕舎を出て関羽を見守ります。

 何千という兵士が襲いかかる中、どのようにして関羽が華雄の前まで進み出たのか?
 近くで見ていた諸大将たちからの距離でも確認できませんでした。敵軍は間近に迫っていたにも関わらず、味方軍勢とのぶつかり合いで、辺りは砂煙がもうもうとして、視界は遮られてたからです。

 と、華雄がいた中心あたりから砂煙は止みだし、周りで戦っていた敵軍の兵士たちも連合軍の兵士たちも動きを止めて、その中心から出てきた一騎の武将を見上げました。

 関羽は出て行ったときと同じように、青龍偃月刀を腰にさし、馬に乗って帰ってきました。幕舎を出て行ってから一分も経ってません。
 待ちかねていた諸将の前に辿り着くと、関羽は下馬して、なにか大きな丸いものを並み居る大将たちの前に丁寧に置きました。
 それは華雄の首でした。

 皆がその首を見て、続いて目を上げると、砂煙のすっかりやんだ敵陣の中心で、華雄は首のないまま、馬上のひととなっていました。
 さっきまであれだけ連合軍を苦しめて、縦横無尽、当たるもの全て蹴散らす勢いだった華雄は、気がつくと突然首だけなくなったかのような状態で、まだそこにいました。それを周りの敵と味方がようやく確認したとき、初めて華雄の首から血飛沫があがりました。

 敵味方、合わせて何万の人間の目があった衆人環視のなか、誰一人、関羽が華雄の首を撥ねた場面を目撃したものはいません。
 それは関羽の剣の速度が超人的だったとかでもなく、馬ですれ違いざまに討ったわけでもなく、華雄の後ろからそっと近づいてだまし討ちしたとかでもなく。

 関羽にとって華雄の首を撥ねること程度のことは、そこに咲いていた花を摘むくらいのことだったからです。
 行って帰ってくる。それだけ。

 誰もが信じられない目で関羽をみました。
 当の関羽は馬のたてがみを撫でていただけでした。ただ、みんなに見つめられているのに気づくと髯の袋を取り出して、その中に髯をキュキュッとしまい、また劉備の横に戻りました。

 …

 今日はやはり仕事で東久留米市に行ってきました。西部池袋線だかに初めて乗った。
 先日打ったブロック注射は効いていない気がします。座ってても痛い。痛み止めも飲んでるんですけどねー。
 まぁ、もう年末まで時間もないし、あと何日かこなせば休みだからイキオイでいくしかないかな、と考えています。

 三国志、だんだん本筋から離れてきましたね~。最初は呂蒙の話だったのに、赤壁あとの蜀呉の荊州争い、いつのまにか関羽、とうとう虎牢関の戦いまで遡ってしまいました。
 少しでも知っているひとなら、読んでいてもなんとなくタイムレコードがわかるかも…ですが、わからないひとにとっては意味わからないですよね。

 でもわからないひとはわからないままでもいいんです。いや、別に突き放しているわけじゃあないっす。
 三国志っていう面白い話を、まだ読んだことないなんて、僕に言わせれば「なんてラッキーなんだろう!」ですよ。これから、この面白さを知っていく喜びに出会えるのだから。羨ましいな。

三国日誌 補足(仮) その2~荊州の関羽と魯粛

2007年12月20日 23時15分10秒 | 三国日誌 補足(仮)
 今日は仕事で丸の内に行ってきました。
 丸の内ってどこだ?って、行ったことなかったんだけど、東京駅を出てすぐなんですね。新丸ビルでお客さんと会う。
 そのあと一人でビル内をウロウロして、もしもクリスマスがあるのなら僕も誰かのためにここでなにか買うこともあるのだろうか、とか考えました。

 お腹が空いたのでそのままそこで何か食べようとしたのですが、店員さんが「今月の新メニューなどいかがですか?」と手招きしてくれたお店は、サンドイッチとサラダとコーヒーで1400円もしたし、それなら外でジャンクなものでも食べたいと考えたのですが、周辺にはなにも店はなかった。
 結局、藤沢に2時過ぎに戻ってから「餃子の王将」でレバニラと餃子をいただきました。

 … 

 魯粛が荊州に向かって馬を走らせている頃、当の荊州を守る関羽はあんまし機嫌良くなかった。

 魯粛到着より数日も前に、蜀から馬良が使者として、義兄でもあり主君でもある劉備の命を関羽に伝えにやってきたのである。
 その内容とは「関羽を五虎将軍の筆頭に命ずる」というもの。組織変更の命。
 将軍の筆頭、ある意味では武人にとっての最高の評価であるが、関羽はなんかそういうの気に入らなかった。

 劉備、張飛、そして関羽と三人でつるんで流浪していたときは最高に楽しかった。「俺ら最強~」みたいなカンジで。
 思えばなにもないところから集った三人だった。
 前漢の中山靖皇劉勝の末裔という田舎モノ劉備。一晩に八百八人の敵兵を殺したことから八百八屍将軍と云われた流れ者の張飛。どちらも眉唾ものの経歴だけど、自分だって昔は盗賊もやったし、怪しげな塾を開いて、いい歳になるまでただただこの世を憂いていただけ。
 三人ともなにかしたかった。自分にはこんなにも熱い気持ちがあるのにそれをこのままただ時代の中に置き去りにしていいものか?否!でもなにをすればいい?
 「なにかしてみようぜ!」そのきっかけはたいしたものじゃあなくてもいい。「やってやろうじゃあないか!」劉備がそう叫ぶのを聞いて、関羽も「おーッ!」と叫び返した。張飛も「おーッ!」と叫んだ。
 大きな桜の木の下で、ささやかな酒宴のあとに、三人はこれから一心同体であると誓った。
 
 あの日が特別な日になるとはそのとき考えもしなかった。特別な日なんてものは、そのときにはなにも感じなくて、日が経ったときに初めて「あれがスタートだったんだな」と感じるものだ。
 まるで、恋人同士が、恋人となるきっかけが、ある日のなんでもない出来事であるかのように。
 未来という結果がなければ、その日は特別なものにはならない。ただの過去の記憶として、思い出すことも無く忘れ去られてしまうものになるだけだ。
 今があるから過去を大事に思う。それができる仲間に会えたこと、それが生きがいだ。

 明日をも知れない命。転戦また転戦。当たるものみんななぎ倒して勝利し、ときには敗北もしたが、みっともない敗戦などしたことはない。
 戦に勝っては笑って飲んで、負けても笑って飲んだ。三人一緒だから楽しかった。あの頃は上も下もなく、ホントの兄弟だった。自分たちの信じるもののために戦えた。そんな時代が懐かしい。

 …

 それが、なんだかよくわからないけど「五虎将軍」という囲いを作って、あまつさえそのメンツが自分を含めて張飛、趙雲、馬超、黄忠の五人。だから五虎。いや、名前は悪くないよ。でも、このメンツはなくない?

 張飛はアリ。「我ら生まれたときは違えど、死ぬときは同じ時、同じ日を望まん!」と桃園にて劉備を兄とし三人で誓い合った義兄弟であるし、唯一自分と対等の実力をもつ暴れん坊だから。
 趙雲は、まぁ、強い。めちゃんこな強さではないが、本気出せば相当強いだろう。どっちかといえば作戦を確実に遂行する能力で言えば自分や張飛よりも上。忠誠心もなかなかのものだし、劉備の部下になってけっこう経つし、ここもアリかな。
 馬超はナシ。ついこのまえ劉備に仕えたペーペーじゃん。西涼あたりじゃあブイブイいわせてたかも知れんけど、なんかいつも兜に食われてるし、そんなのと同列ってどうなのさ。
 黄忠?完璧ナシでしょ。若いときはすごい武将だったかもしれない。弓矢とかうまいし。でももう老人じゃん。自分一年のときに大学五年生みたいなもの。最近部室に来ないし。

 関羽は劉備を主君と仰いではいるが今でも兄として思いのほうが強い。だから自分のことだけは特別に見て欲しかった。
 なんつーか、嫉妬だね。

 「関羽将軍、あまり顔色がすぐれませぬがなにか?」馬良が尋ねます。
 「うむー、なんだかねー、これってしかし」
 「それは思い違いですよ、履き違えています」

 関羽にはこれだけでわかった。

 国というものが成立すると、そこには適材適所の役職はどうしても必要になり、組織としてやっていくためには身分、上下関係を作っていくことは必然となる。
 劉備のことを兄者兄者と親しく呼べても、今では魏の曹操、呉の孫権と並び、押しも押されぬ君主の立場。
 たとえ友人であっても、組織のなかでは上下関係は明確でなくてはならない。そうしないと他のものに示しがつかない。特別扱いは、同格からの妬みに晒されることになる。
 劉備はもちろん義兄弟である関羽と張飛のことを忘れていない。だからこそ、その二人だけをいつまでも特別視してはいられない。なんせ、自分たちが目指した国を、夢を、誰もが平和に穏やかに暮らせる国造りを今やっと始めたのだから。
 今回の任命はその手続きみたいなもの。いってみれば些細なこと。
 我らは一心同体、その気持ちは今でも変わらない。心と心で結びついている。

 最近電話はない、メールも来ない。「…きっと新しい生活が忙しくて私のことなんか忘れてしまったんだ」ここ最近あんまり音沙汰がないからって、自分の寂しさばかりを女々しく思っていて、本当に大事なことを忘れていたのはむしろ自分。あのときの気持ちは変わらない。それは離れていてもお互い同じことではないか。
 久々の連絡を後ろ向きにとらえてしまうのは、今回の任命劇をナーバスに受け取った関羽自身の不徳ではないか!?
 「うむー、馬良どの。あなたのおかげで私は眼が覚めたよ。大切なことを忘れていたようだ」
 
 そんな折、呉の魯粛が荊州に到着との報告が関羽に伝えられます。
 「荊州返してくだされ!」
 「イキナリかい?!」

 魯粛は本当は内心はやっぱり怖がっていました。
 なにせ相手は関羽雲長です。劉備から「関羽のとこにいってチョクで返してもらってよ」なんて気軽に言われましたが、関羽といえばそれこそ伝説。
 「関羽将軍といえば、虎牢関で董卓軍ナンバーツーの華雄を一刀のもとに切り捨てた豪傑ではないか?!」というあまりに長々とした感嘆詞が出てくるほどの伝説。

 関羽は魯粛を属国の使者のように扱います。蜀と呉は先の赤壁のおいて同盟国。今回は荊州を巡って政治的な争いを続けてはいますが、それでも形のうえではお友達のはず。
 それが関羽の前に出ると、あからさまに下座へ通されて、しかも関羽はこっちを見ようともしません。「なにこの扱い?」
 だから魯粛は開口一番「返してくだされ!」。関羽は速攻で「やだ」。

 魯粛は劉備のお墨付きももらっています。
 「あなたの義兄でもある劉備どのが、関羽に荊州を呉に返すよう言われてるのですぞ!」
 しかし関羽は動じません。心はひとつ。我らは一心同体。
 
 「兄者本人がここに来て私にそう言うなら、喜んで荊州は魯粛どのに明け渡そう。だがたとえ兄者がそなたにそう言ったとしても、私はこの荊州をその兄者から任されたのだ。最前線にいる兵士はたとえ大将からの命令でも無視することはある」
 「それは命令違反ではありませんか?」
 「ルールは破るためにあるのだよ、魯粛どの」
 「詭弁だ!」

 魯粛はますますびびってしまいます。しかし、さすがは天才周喩のあとを継ぐものです。ビクビクした体を見せながらも、この関羽のおかしな態度を冷静に観察して、考えています。
 関羽は確かに一騎当千の武人ですが、どっちかといえば話のわかるほう、ひとの気持ちも理解してイキオイだけで相手を圧倒するタイプではないのですが、この物言いはなんだろう?命令違反は明確なのに、よくわからない自分のわがままばかり言って相手を恫喝しているだけじゃあないか?
 なにかおかしい、なにか理由がある。

 「人がルールを破っていいときというのは、そうすることで物事が未来においてより良い方向に向かうことを確信するときなんだ。その未来に対して責任を持つということなのだ」
 なかなかもっともらしいことを言い出す関羽。いつになく多弁。魯粛はその関羽のセリフの裏の裏を読もうとします。

 「…おかしい。関羽将軍はどちらかと言えばあまり物事について延々と語ることなどしない性格のはず。しかもこんな子供騙しな説教で。関羽という人間なら、今頃私なんか一刀のもとに切り捨てられてもおかしくないのに…ハッ!?」
 魯粛は理解しました。関羽の気持ちを。そうなのです。
 関羽はいつでもこの場で魯粛を殺してしまうこともできるのです。今この場の自分の気持ちひとつで呉と蜀の同盟を断ち切ることができるのです。たとえそれが主君である劉備の考えと違ったとしても。今ここで「ムカついたから」という理由だけで魯粛を肉の塊に変えてしまっても全然構わない。
 でもそれはしたくない。それが蜀のためだから。兄者のためだから。一緒に苦楽を共にした友のためだから。
 それがなにより優先する。

 そして次に優先することは、この魯粛を殺したくないということなのです。
 対等の立場で言い争えば、荊州問題はそれこそどっちかが折れなければ、一方が一方を殺しかねない国家の重大事。それは戦争になる。守るために戦うことも、それもきっと自分の大事な誰かが泣くことになる。
 だからこそ、関羽はあえて上の立場からものを言うように魯粛に話しかけているのです。「このくらいで帰ってくれまいか?我が君劉備には返す意思はある。しかしわがままな関羽に阻まれて荊州は奪還できなかったと孫権には伝えるんだ。そうすればそなたも体よく帰国できるだろう。戦争はしたくない。それがわたしの役目であり、願いなんだ」

 主君のために、兄のために自分を偽ってでも戦争を避けたい関羽。それを魯粛は理解しました。
 「わかりました。ではここでお暇いただきます」魯粛はまたしても荊州奪還ならずに一人呉の国へ帰りました。

 「して、魯粛よ。荊州の件はどうなった?」帰ってきた魯粛に、孫権は早速こう尋ねます。
 「さぁ?」
 「さぁ?だと?!オマエはその問題のために蜀に出向き、そのご荊州まで足を運んだのではないのか?」
 「いずれ荊州は呉のものになると思われます。しかしそれは今ではありません」
 「ではいつなのだ?」

 魯粛は泣きました。それがいつかは分かっていたからです。それは関羽が死んだとき。あの伝説が死んだとき。
 関羽に荊州を主君に代わって守るという決意がある以上、そこを離れるとき撤退はあり得ない。そのとき関羽は修羅となって敵兵を殺しまくるだろう。文字通り死守するであろう思いを、魯粛は感じていました。
 
 関羽はなぜ自分が戦略的に最重要である荊州に自分が配置されたのか、それを理解していました。
 それは関羽というネームバリューで、魏も呉もおいそれと国境を侵そうとしないこと…ではなくて。
 魏の曹操は赤壁の戦いで削がれた戦力を回復した暁には必ず攻め入ってくるでしょう。呉もいつまでも外交で荊州を手に入れられないと知れば、機を見て攻め込んでくるでしょう。
 二手から攻め入る敵を防ぐには、張飛の猪突猛進な性格では難しい。趙雲はよく守るだろうが、連携して攻め入る敵に孤立無援となり、その才能を活かしきれずに自らを盾にして味方を撤退させるのが関の山。馬超なんかは、なんかいつも兜に食べられてているだけだし。黄忠は矢が折れれば、からだも折れる(Г)ではないか。

 三国鼎立を謳った諸葛亮。それこそを目標とした我が君劉備玄徳。その三国のバランスの中には真ん中に楔としての中心がなければならない。
 三角形の中には空間がある。その空間がなければ三角形は三角形の形を成さない。それが荊州。それを維持することが関羽の責務。
 そういうことなのだ。

 劉備はそこまでは考えていません。ぶっちゃけ。諸葛亮がそのほうがいいというから関羽に荊州を任せた。関羽なら最前線でも負けないと思ったから。そのくらいのきもち。

 諸葛亮は読んでました。関羽が自分の責務を最期までまっとうするであろうことを。南は呉を防ぎ、北の魏に対しては攻めの気持ちを持つことを。
 曹操を逃がした関羽は(赤壁の戦いにおいて、関羽は敵総大将である曹操を討つチャンスがありながら、目前でそれをわざと見逃している。それについてはまたいつか)、その反省と自責の念から次回は確実に魏を討つことを考えている、と。そのためには二方面からの攻撃に晒される危険を冒すことなく、呉とは和の姿勢を保つしかない。
 諸葛亮は、魯粛が荊州に向かった後ろ姿を見送りながら「関羽は絶対に魯粛を邪険に扱うことはしまい」と確信していました。関羽は劉備の期待を裏切る選択はしない。したとしても、それについて最後まで責任をもつだろう。

 蜀は若い国です。三国の一角を有する国として対外的にはおいそれと手出しできない風にみせていますが、まだまだ国力において魏にも呉にも敵いません。
 諸葛亮はしばらくの間は蜀本国の内政に力を注ぎ、その充実を計る時間稼ぎが必要でした。
 だから関羽にはできる限り生きていて欲しかった。

 …

 曹操は国力を盛り返しつつありました。
 赤壁で大敗し兵力を削がれたとはいえ、それを差し引いた国力と敵国蜀と呉の兵数を合算し比較しても、これらは魏にはまだまだ遠く及びません。曹操に言わせれば赤壁の大敗も計算のうちです。
 「ここまでさっぱりと負けてしまえばかえって気持ちがいい。たまには負けてみるのもいいものだ。そこから学ぶことがある。負け惜しみではない心からそう思う」
 三代続いたとはいえポッと出の孫権や、出生もあやしい劉備などとは比べるべくもない器量と度量、そしてそれを補ってあまりある才能が曹操にはありました。

 孫権に報告だけして、その場を去った魯粛は後任に呂蒙を指名しました。
 「呉下の阿蒙」と呼ばれた青年は、そのご「士別れて三日、刮目して相待すべし」というほどにまで成長しました。
 その呂蒙が今度は荊州奪回の任を受け、ようやく表舞台に姿を現しました。

 関羽の覚悟に応えるかのように、三国は三角形の中心に向かって動きだしました。

 その頃、荊州に雪が降り出した。クリスマスも近いしね。

 to be continued…

三国日誌 補足(仮) その1~士別れて三日、目出し帽にて相待す

2007年12月19日 21時02分18秒 | 三国日誌 補足(仮)
 昨日の宣言どおりにはいかず、3時過ぎから飲み始めて、それでも5時には寝ました。そんな寝れるわけぐーぐー。
 起きたら9時だったので、もう少し寝れるな~と思って結局布団を出たのは10時。
 このまえ取り替えていただいたばかりの布団を干そうと思いましたが、曇り空。外気温も10度くらいかな。干さずにいよう。

 病院行ってきました。整形外科。この腰はなんとかしないとね。この腰のせいでできなかったことや諦めたこと、それこそ僕の二十代から三十代初頭は、この痛みと共にあった。
 今回はそんなにそんなにディープな痛みではない。起き上がるときに少しだけ両手の力を要するのと、歩くのにやや難儀なくらい。ただ、このまま放っておいて年末年始の大事な帰省時に最高に痛み出したらイヤなんだ。もちろん仕事にも差し支えるしね。
 いつもは「様子診ましょう」って医者には言われるけど、今日は一歩も退かんぞ。

 「どのへんが痛いですか」
 「だから腰ですってば」

 神経ブロック注射を打っていただきました。どういうものかよくわからないが、お尻の上のほうの骨の隙間に注射してもらう。
 人前でお尻だすなんて、しばらくやってなかったのでものすごく恥ずかしい気分だ。「このくらいですか?…」と恐る恐るジーパンを下げる。
 「広い範囲を消毒しますのでもう少し出してください」
 「このくらいですか?」
 「気持ちもう少し…はい、そのくらいで」
 くそッ!!俺がうら若い乙女だったら泣いてるとこだぞ!やたら脱いでいるように思われているが、僕は知らない人間の前で脱ぐのに慣れていないんだ。

 しかもそのまま放置。うつ伏せのまま待機。まるで夜の闇に紛れて匍匐前進で敵陣の手前まで気付かれず侵入したはいいけど、そこからどうしていいかわからない新米兵士の気分だ。
 このまま突撃するか?いや、援軍を待つべきか?

 先生が入ってきて、おもむろに消毒を行う。その手がいつ注射器となって刺さってくるのかタイミングがわからないから怖い。
 「じゃあ、打ちますねー」
 「Just do it!」ナイキのCMのようにさっさとやってくれ。

 なにかが流れ込んできて、うつ伏せのままですが、なぜか左脚に痺れが襲ってきた。そのまま15分ほど「横になっていてください」。
 血圧を測り、異常のないことを確認する。しばらく痺れは残っていて、会計を待つ間待合室でウロウロ歩いていたのだが、左に重心をかけると思いっきりよろけます。

 痛み止めのお薬をたっぷり出してもらう。いつもの痛み止めと、その痛み止めは胃壁を傷つけてしまうから、胃を保護するお薬も。
 今回初処方だったのは、筋肉の強張りをとるやつ。「これは飲んだ後、緊張がほぐれて少しフワフワして眠くなるかもしれませんので、運転中などは避けてください」とのこと。こう、なんか体中の筋肉がほぐれていい気持ちになりそう。ちょっと怖い。
 三錠ほど一気に砕いて粉々にして、え~と、ジューシーのグラスはどれだ?

 お昼過ぎになり、お腹も猛烈に減ってきたのでカツカレーを食べました。カレーは好きなんだけど、「カレーだけ」って少し寂しいよね。とんかつ大好きなので、カツカレーはすごく好き。

 ショッピングモールをうろうろして、自分にクリスマスプレゼントを買おうかどうか考えますが、買ったのは本一冊。

 
 『オーデュボンの祈り』 伊坂幸太郎

 処女作をまだ読んでいませんでした。のんびり読みたいね。

 時間もたっぷりあるし、別になにか急かされる用事もないので洗車をしました。 今日は二時間かけてたっぷりと。今年もこのゴルフは良きパートナーでいてくれました。いろんな女のコを乗っけたな…とか自慢げに言いたいとこだけど、断然一人で乗ってる時間のほうが長かったな。
 オマエにもいつか北海道の冬ってやつを体験させてあげるよ。

 すっかり日も落ちて、眼科にも行きました。病院ばっかし。ホントは皮膚科にも生きたいとこだった。
 僕は昔から吹き出物が多くて、悩みの種なのだが、ここにきて唇の下に大きなのができてしまって。がッ!って針とか刺すのは怖いので放っている。
 眼科では、コンタクト作って二ヶ月ほど経つから検診。ついでに新しいコンタクトレンズも買う。

 わりと大型なスポーツ用品店に行き、目出し帽を探す。スノーボードのエリアかアウトドアのエリアにあるかな=ってキョロキョロするけど、見つからない。
 「すみませ~ん。その、目出し帽的なものってありますか?」
 店員さんと一緒に探すが、今シーズンは入ってきていないようだ。

 なにげに普通にスーパーに売ってました。
 何枚もの目出し帽を広げて、「あーでもない、こーでもない」とブツブツ言いながら延々と鏡の前でかぶり具合をチェックする僕を、警備員とその辺の子供がずっと見つめていました。

 今日の題名はみなさんご存知の「士別れて三日なれば、刮目して相待すべし」です。
 孫策配下で、多くの戦功を挙げていた呉の呂蒙。
 長男孫策亡きあとの呉、その後を継いで主君となった孫権からある日呂蒙は「少し本とか読めば?」と言われました。
 武勇には優れていた呂蒙ですが教養とかはからっきし。兵法もちゃんと学んだものではなく、どっちかというとイキオイに任せた戦い方が多くて、上手くいっているからいいものの、もっときちんとした知識を身につければもっと有能になれるのにな~と孫権は思った。呂蒙は勉強するのは好きじゃあない。
 「別に兵法のすべてを極めろというのではない。時間のあるときに読んでみたらいいじゃん」
 「いや~、でも戦さばっかしで読む時間なんかないっす」
 「時間ないとかいうけど、俺よりもないっつーのか?君主の俺よりも?俺なんかアレだよ~忙しいよ~、なんせ…」
 「じゃあ、読みます」

 ある日、「勉強具合を見に様子を見に行って来い」との孫権の命令を受けた魯粛が呂蒙のもとを訪れて、それとなく質問をしてみた。
 そしたら、これがすごいのなんの。どんな難解な質問にもスラスラ答える呂蒙がいるではないか。
 「やるね~」
 「士別れて三日なれば、刮目して相待すべし」
 これがそのとき呂蒙が言った言葉。言葉の意味はよくわからんがとにかくすごい自信だ。
 意味は、「男たるもの三日も会わなければ、その時間で日々鍛錬し、別人かと思われるかのように成長していなければならない。だからあなたも先入観は捨てて、よくよく私のことをみるべきです」転じて「いつまでも昔の俺と思うなよ!その目おっぴろげてよく確かめな!」ってこと。
 魯粛は「うむー、キミはもう呉下の阿蒙じゃあないね」と唸った。「阿~」には目下の人間や子供に対して「~ちゃん」みたいなニュアンスがある。
 これ以来「呉下の阿蒙」とは、いつまでも成長のない人間を指す言葉となった。

 魯粛の亡き後、この呂蒙は呉の兵の全権を委任されます。それほどまでに彼の成長は著しかった。

 呂蒙について話をしようとすると、その時代の背景もある程度理解しておく必要があるので、下記は読みたいひとだけどーぞ。

 呉は、先の赤壁の戦いにおいて正面切って大国である魏に攻撃をしかけ、号して百万と云われた魏の軍勢を得意の水軍でメタメタにやっつけました。
 戦勝の勢いそのままに魏軍を北へと追いたて追いたて、、兵士の総崩れとなった魏の城を襲い、領土を奪いに押しかけますが、あっちの城にもこっちの城にもなぜか同盟国である劉備の軍勢の旗がなびいています。
 「あ~、もしもし。なぜあなたがたがこの城にいるんですか?」
 「いや、あんたらトロイから。先に奪っておいたよ」
 「俺ら同盟国じゃん!」
 「で?」

 こんなのまだいいほう。他の城では…
 「あ~、もしもし。なぜあなたがたがこの城にいるんですか?」
 「ッるせ~な!!俺様を燕人張飛と知っての物言いかッ!!」
 「げぇーッ!張飛?!」
 「その首が繋がってるうちに帰りなッ!!」

 これでは呉もたまったものじゃあありません。なんのために戦ったんだか。
 呉は急進的に力を伸ばしてきた国とはいえ、それでも魏には敵わないとみて、もともとは和平路線を採ろうとしていたのです。
 それが、泣く子も黙る蜀の軍師諸葛亮が、当時はまだ敵国だった呉に単身乗り込み、呉の重臣たちに懇々と魏と争うことを無理やり薦めたのですから。

 「わが荊州と、あなたがた呉の精鋭をもって逆臣である魏の曹操を討ちましょうぞ!そして勝利の暁には我々二国が力を合わせて、この大地に平和をもたらしましょ」とかなんとか言って。
 それが、なんで劉備の軍の武将たちが城も領土もおさえてんの?って話。しかも味方に対する騙し討ちみたいな流れで。魏を追い払うのにどんだけ犠牲出したと思ってんのよ、俺らが一生懸命戦ってるときに留守同然の城を「ここいただき!」なんて、ちょ、なくないそれ?

 赤壁の戦いという歴史上大きな戦闘は、行われるべきか否か。呉にとってもこの問題はまさに国家規模での存亡のときでした。負ければ圧倒的兵力の魏のまえに滅亡。歴史の一ページで終わり。
 そんな時期に、荊州を領していた劉備玄徳の軍師諸葛亮が、呉の重臣の前に単身現れたとき、名だたる呉の名将も文官も、この男が自分の属する領地を守るために「一緒に戦いましょう!」なんてうまいこと云って自分たちをそそのかすことはわかっていました。
 放っておいても劉備は魏の曹操から目の敵にされているようだし、その巻き添えで呉が兵力を減らすなんて真っ平御免。しかも少しでも魏に反抗しようものなら戦乱に巻き込まれるどころじゃあなくて、この国は滅亡するかもしれないのです。
 だからハナから彼らも「この若造、どーせうちの戦力使って漁夫の利作戦でしょ?!」と読んで当然。そんな生意気言うなら「こんなやつやっちまおうぜ、しょんで首を魏に送って土産にでもすればいいんじゃね?」って気持ちまんまんです。

 諸葛亮はまさに荊州・呉同盟を結ぶために単身で呉にやってきました。重臣たちの待つ間に現れて深くお辞儀をします。
 「諸葛亮、お主なにしにきた?おまえごときの戯言で、この呉の国は動かんぞ。われらは誰の命令も受けん。ロンモチで魏の下につく気もサラサラないがな。つーか、我々はオマエの主人の劉備なんかを攻めてもいいんだぜ~。イチコロだろうなー、オマエんとこみたいな弱小国なんかよ~」
 「早いとこ国に帰って、劉備と殺されたあとの相談でもしてろっつーの!」
 「それともここでさっくり死んでみるかい?」
 呉の将軍どもは、一人やってきた諸葛亮を命知らずな男だと高をくくり、こう言ってなぶりました。

 諸葛亮は、それまでの話を右から左へ受け流すが如く、静かに瞳を閉じて、凛とした姿勢であっちからこっちへ浴びせかけられる罵詈雑言をただ聴いていました。 とても涼しい顔をしています。汗ひとつかかず、瞼は少しも動くことがありません。
 そして突如目を見開き、
「黙ってろ!このスットコドッコイ!!」と周りを怒鳴りつけた。
「スットコドッコイだとォ!?なんだその言い草はッ!!」

 「スットコドッコイをスットコドッコイと云ってなにが悪い!だいたいあんたらさー、なっちゃあいねーよ。それでも人間かッ!
 うちの大将の劉備さんはだな、たしかにマジで弱いよ。兵も少ないしさ。でも、それでも逆臣の曹操に対して、民衆を虐げ、帝をないがしろにしているあの百万の兵力を持つ魏に対して果敢にも戦おうとしてるんすよ。結果逃げたかもわからない。でも果敢に立ち向かったんだ!
 で、あんたらなにさ?こんなに大軍を持って、兵力も天を突かんがばかりで、水軍も最強ォォ!とかのたまってるけど、そのくせ戦うこともしないで、ウジウジと自国に留まってるだけじゃあないか!そんなヤツが我が主君の悪口が言えると思ってんのか!スットコドコド…スットコドッコイ!!」

 実は呉ではうちうちに魏に対して朝貢をしてでも、つまり従属してでも助かる道を模索していて、ほぼその案で本決まりでした。
 たしかに呉も近年は兵力を蓄え、それこそ「水軍最強ォォ!!」でしたが、それでも魏の兵力の前では、どんな戦いかたをしてもいずれ飲まれてしまうことが目に見えていたのです。
 だから重臣たちは、こんな物言いをする諸葛亮を黙らせたくて堪りません。諸葛亮の言うことはたしかにかっこいいけど、かっこいいだけ。
 どんな綺麗ごといっても、戦争は戦争。
 まともに魏にぶつかれば呉の住民たち家族や村の人間や罪のない子供たちも殺されて、田畑も荒らされ、そのさきには目もあてられない惨状が待っています。怖いんじゃあない。大事なものを失いたくない。

 それに対するカードも諸葛亮は持ってました。それまでの「スットコドッコイ!」の勢いはどこへやら、周りをことさらゆっくり見回すと、
 「いや、いいんじゃあないですか?魏に降伏しても」と手のひらを返したように諸葛亮はのんびりと発言します。
 「???」今さらなにを言いだすんだ?呉の重臣たちも、主君孫権もキョトン顔です。
 「だからー、降伏するなり、従属するなりでもいいんじゃあないですか~って言ってんの。曹操は敵とはいえども、見どころのある人間に対しては、昔の遺恨なんかなしに重用する人間だそうです。だからあんたらみたいなお利口さんは、きっとここの国の名前が呉じゃあなくて魏になっても生活は変わらずに、そこそこ給料も貰えるし、かわいくて床上手なカミさんも、あんたに良く似た洟垂れ小僧も、家族みんな安泰でしょうさ。
 …でもさ、でも孫権さんはそうはいかないと思いますよ。いくら降伏したとはいえども敵国の最高司令官ですからね。二君並び立たずともいいますか、まず間違いなく首ギーって撥ねられて、血族は女子供残らず…でしょうね。ギーどころじゃあないな。わかんだろ?」

 つまり、重臣たちは「国のため国のため」言いながら自分の身の保身ばかり考えてるんですよ~と、孫権に思い込ませ作戦。
 孫権は考えます。親父であった孫堅、そして兄である孫策。孫堅は国の基礎を築き、多くの重鎮を得てそれを使っていざ!ここから!ってときに命を落としました。兄孫策は、父から継いだものを更に大きくして、いざ!ここから!ってときに命を落としました。では自分は?自分もいざ!ここから!ではないか?
 「諸葛亮、そなたの言いたいことはわかった…皆のもの…戦さの準備をせよッ!!開戦じゃ~ッ!!」
 重臣たちは真っ青。「我が君、まじっすか~!?」
 こうして呉は、劉備と組んで、大国魏に挑む決断をしました。

 魏の大軍VS呉・劉備率いる荊州の連合軍は赤壁の戦いにおいて激突。
 水戦で利を得て連合軍は曹操軍を壊滅させます。

 諸葛亮は、この戦に勝機が見えるころに、必ず呉が自分を暗殺にかかることを察知していました。
 なぜなら、今でこそ形の上では立派な同盟関係ですが、魏が力を盛り返すまでの間は、今回勝利した呉の孫権と荊州の劉備が二大勢力となり、また二虎相対する日がくるからです。
 劉備側軍師としてある自分が、呉にとっては巨大な敵になるということは簡単に想像できます。呉がそのことを今この場で察知してそのままみすみす自分を生かしておくとは思わなかったからです。

 勝利に沸いて呉軍が曹操軍を追撃する最中に、諸葛亮はそっと呉の陣を離れます。
 当時の呉の軍師であった周喩は、もちろん諸葛亮の秀でた能力とずば抜けた洞察力がいずれ呉に災いをもたらすと考えていました。
 (諸葛亮と周喩。天下の天才二人についてはまたそのうち書きます)
 暗殺の手はずを整えていた周喩ですが、そんなわけでまんまと諸葛亮に逃げられてしまいました。

 自軍へと無事帰還した諸葛亮は、主君劉備が「よく生きて戻ってきた!みろ!お主の予見したとおり魏軍は総崩れだ!」と暢気に喚くのを尻目に「喜ぶのはまだ早い。そんなことより我が君。今がチャンスです。呉が馬鹿ヅラこいて魏のプリプリしたオケツを追いかけているうちに、空っぽになった魏の城を奪ってしまいましょ」

 そうして、関羽、張飛、趙雲といった名だたる武将に兵を持たせ、進撃を命じます。

 で、「あ~。もしもし。なぜあなたががここの城にいるんですか?」ってことになる。

 戦争は終わりました。勝ったには勝った。でもこれでは呉はなんのために戦ったのかわからない。たくさんの兵を失い、要の水軍もボロボロ。犠牲の大きさ割りに得たものといえば…得たものといえば?なんなんだろう?
 呉の重臣たちは孫権に詰め寄ります。
 「だから言ったじゃん、我が君。諸葛亮なんかにそそのかされて!あんたバカだァ!」

 一番の痛手は荊州を完全に劉備の領土とされたことです。他もあちこちの土地を劉備軍には横取りされましたが、荊州ほど重要な戦略拠点はなかったからです。
 そのごの勢力図において、長江から北、広大な土地である華北を魏の曹操、東すなわち江東を呉の孫権、西は四川を囲み天下の要害を押さえた蜀の劉備。
 これを三国の勢力図とするならば、荊州という場所は、その三国の中心に位置し、土地も肥え、人多く、どの国からも最前線であり、こここそが、どの相手に大しても睨みを効かせられる絶好のポジションだったのです。
 四川・蜀をも押さえ、荊州も押さえる劉備が一大勢力となったのはご承知のとおりです。

 ときに孫権は、魯粛を使者として蜀に派遣し「赤壁の戦い以降うやむやになってたけど、荊州は仲良く半分コしない?」「もしくはここあげるから、荊州くれ」と外交戦略を頻繁に行います。
 その都度、お人よしの劉備ちゃんは「呉がそんなこといってるけど、どうしようか?ぼくわっかんな~い」と諸葛亮に相談しますが、諸葛亮は口の片方だけでニヤニヤしながら「ほっとけ」と答えます。
 ことによると、劉備は本当にいいやつだったので「でもさ~、やっぱなんか悪い気もするよな~。蜀もとったし荊州くらいは呉に返してあげてもいいのでは?友達なんだし」とか思ってたフシもありますが。

 魯粛としては、荊州を奪い返さずしては、先の大戦で死んでいった同胞や、若くして亡くなった先任の周喩大都督にも、主君孫権にも申し訳が立ちません。死ぬ覚悟で蜀に赴いて、「なんとかなんとか、なにとぞなにとぞ…」とお願いしたのでしょう。

 それに対する諸葛亮の作戦「我が君。もしも魯粛が荊州の問題を口にしたら、泣き真似をしてください?」
 「は?泣き…真似?で、そのあとどーすんの?オチとかは?」
 「わたくしにお任せください」

 いつものように魯粛は蜀にやってきました。外国のしかも同盟国の使者ですから、劉備も手厚くもてなします。使者を接待することは大国の証。心ゆくまで滞在を楽しんでほしいと劉備は告げ、魯粛もウキウキです。「これはうまく調子に乗せれば…」
 素敵な音楽に、キレイな衣装、得意の四川料理を並べ、美女の舞で夜が更けていく。
 宴もたけなわのころ、杯を眺めながら、そういえば口調で魯粛が「ところで荊州の件ですが…」と口にすると、イキナリ袖で目頭を押さえて「ヨヨヨ…」とむせび泣く劉備。
 「どういたしました?劉備どの?」今まで楽しく飲んで、愉快愉快だったのに。この場面でなんで泣くのか。
 なんで劉備が泣き出すのか~♪、絶対きっと女のコなら知ってる♪

 諸葛亮!今夜オマエの実力を魯粛に見せてやれ!~♪

 「なぜ我が君が泣き出すのか、魯粛先生、先生にはその気持ちがわからないのですか?!」
 「はぁ…?」
 「我が君は、我が君は…ッ!!(自分ももらい泣きしながら)荊州はいずれ呉にお返しする所存でありました!きちんと吉日を選び、失礼のないようにと。ところが、あなたはいつもいつもやってきては、すぐに『荊州荊州』言って、そのあたりの機微を理解されない!我が君はそれはあなたのせいではなく、自らの不徳のいたすところだと心を痛めて、このように涙していらっしゃるのです!それがわからないのかッ!このスットコドッコイ!」
「こ!これは失礼しました。…しかしながら、私も手ぶらでは帰れません。そこらへんの立場はおわかりいただけるでしょう。すぐにではなくても、せめて、いずれは荊州を我が呉に譲ると一筆いただきたいッ!」
「(チッ!コノヤロー意外と粘るな)わかりました。おっしゃるとおりでしょう。魯粛殿も大変なお立場なのはわかります。我が君、一筆したためてやってよ」

 ここで一筆書けば、泣く芝居もなにもあったものじゃあありません。劉備は諸葛亮が自分にタメぐちきいたことにすら気付かないくらい驚きました。
 「じゃあ、書くけど…。サラサラ…と、これでいいかな魯粛殿」
 「あは!あははは!劉備どの~!感謝します!」
 諸葛亮や劉備の気が変わらないうちに、この公的な書簡に合意のサインを呉国代表として取り交わし、魯粛は意気揚々と宴も半ばにして帰ります。
 もしかしたら、この宴のあとで、異国の美女たちとお楽しみもあったかもしれません。それすらどうでもよく帰るあたり、魯粛の忠誠心の表れでしょう。

 「主君の、そして国のみんなが待っていた荊州奪還を我成せり!」とホクホク顔で書簡を持って帰り、さっそく孫権に書簡を見せると「ダメだ、こりゃ」「ど、どうしてですか我が君!?」
 「これは、国家間の正式文書ではないか!?」
 「さようでございますが…??」
 「公的な書簡なのに、『いついつまでに荊州を返す』という時期時間が全く謳われていない。『蜀は荊州をいつか返す、でもいつ返すかはわからないけど、それでもいいね?』ってことに呉が同意してしまった、ただそれだけの文書だ」

 かわいそうな魯粛。

 それでも天才周喩の後釜だけあって、負けたままじゃあいられない。再度蜀に乗り込みます。
 今度はあっけないくらに諸葛亮も劉備も「じゃあすぐにでも荊州は返しましょう」なんて言います。「え?マジで?」。
 劉備は言います。「いま、荊州の支配は我が義弟の関羽に全て任せてある。だから関羽から奪ってみせよ」
 魯粛大慌て。「ちょッ!関羽将軍と言えば、天下の豪傑。虎牢関の戦いでは董卓軍でもイチニを争う武者であった華雄を青龍円月刀で一撃のもとに打ち去り、それから天下に名を知らしめて二十余年。一度も不覚をとったことがない最強の武人ではありませんか!?そのおかたから戦って奪えなど、あんまりだ~ッ!!URRRY!」

 にこやかに劉備。「戦って奪えなどとは言ってない。私が関羽にはきちんと『今すぐ荊州を魯粛殿の指揮下に譲ること』と一筆したためよう」
「一筆ですか?また騙しとか勘弁してくださいよ」
「だいじょうぶ、今回は。文面に『今すぐ、直ちに』って入れてあるし、なんせ俺から後輩関羽への先輩命令だから。やんなかったらイッキ。」
「イッキ…?ですか?」
「つまり、やるしかないってこと。いくら義弟とはいえ主君の私に背くことは許されない」
「お話よくわかりました。ではその書簡を持ってわたしは荊州へ向かいます」

 こうして魯粛は関羽の待つ荊州に向かいました。

 to be continued…

起きてみれば…夜

2007年12月18日 23時04分09秒 | 個人日誌
 今夜は久々にお酒なしで過ごせそうです。

 昨日会社帰りにロッカーで「今週は長かったですねー」「疲れましたねー」なんて同僚と話をして。晩御飯を買うのもだるかったので、部屋に戻ってきてあるものを適当に食べて。納豆やさんまの蒲焼なんかを。
 「明日は朝、いや昼までのんびり寝て、洗車して、服でも買いに行って…」と飲みながらおぼろげに考えて、休みの前の晩を満喫していたのですが。

 まんまと一日寝て過ごしてしまいました。
 このブログの中で二日前にも書きましたが、そのとおり寝てしまいました。夜の2時くらいに寝て、11時頃一度目は覚めたんですが、「もうちょっとだけ寝よう」と思って、起きたら20時半。そこまで疲れてないでしょう。これもう疲れたから寝過ぎたとかそういうレベルの話じゃあないかも。
 どーすんの?これ。どーなってんの?今日という休みをこんなにも無駄にしちゃってさ。

 ここで飲み始めたらそれこそ病気みたいですし、さすがに飲みたい気持ちもないっす。

 しょうがないので、このまま起きていようかな~と思います。まずなにか食べに行くか。
 予定はそのまま明日にシフトだな。まずその前に病院行こう。腰です腰。年末もこのまま痛いまま過ごすのイヤだし。

 ご飯食べに行って(こんな時間だから吉牛かすき家しかないかな)、部屋に戻ってきて本でも読んでいようっと。なんかでも午前4時くらいに飲みだしてしまいそうな気もする。

 では行ってきま~す。朝ごはん食べに。ルンルン。

期待になんか応えなくてもいい

2007年12月17日 23時16分17秒 | 個人日誌
 今日のよね3日記を読んでいてですねー、飲みながら一人考えたんですよ。宇宙は無限なのかそうじゃあないのかを。

 答えはそれとなくわかったのですが、ここで書くとまたよね3に「長い」と言われそうだし、発表したら相対性理論以上にセンセーショナルなことになりそうだし内緒にします。
 わかりやすい言葉でいうと「飲んでみなきゃあわからない」ってカンジです。

 よね3日記で書いてあったのは『本物』と『~のようなもの』。
 本物と、本物らしくみせたものってのがたしかに世の中には氾濫してますね。

 なにが本物か、そうじゃあないのかっていう線引きが難しいですよね。切り分けが難しいというよりも概念として難しい。
 小さな頃からずっとハンバーガーをマックで食べていた子供にとって、そのハンバーガーが『本物』であって、焼きたてフワフワののパン生地に肉汁たっぷりの広がる香りのハンバーグに「今むいたから」感のシャキシャキレタス、鼻腔の奥まで突き抜けるツンとした玉葱のみじん切りがこんもりしていて、ピクルスがこれでもかッ!ってくらい乗っかって、採れたてトマトのスライスは厚切り、チーズはデンマークから取り寄せたねっとりねっとりな。そんなハンバーガーも子供には『ハンバーガーのようなもの』になってしまう。

 アスファルトで覆われて、人為的に植えられた木と、信号機が機械的に動いて、白線であっちこっちが区切ってあって、車が走るところが『道』だと信じているような人間が、人生において『道』とはなにかを考えると、まず思考のしょっぱなから、道の定義が違う。

 日頃触れているものが、本当に本当に本当なのか?テレビや新聞はウソをつかないのか?
 まぁ、そんなこと誰もイチイチ考えないし、僕も考えない。考えだしたら、どれもこれも作り物みたく感じてしまって猜疑心の塊みたいな人間になって、周りからひとは離れていくな、たぶん。
 つまり、どれが本物か、なんてことはひと一人で考えてもしょうがないってことなんだろうな。

 あ、なんかよね3の日記否定しているみたいな書き方みたいですけど、そうじゃあないですよ。僕もお豆腐は手作りが好きです。

 どれが本物なのかって問うことよりも、ものの見方はいろいろあるな~ってことを経験することが、すんごく大事。
 物事を違う角度から見るのって、知識がいっぱいあって、それを活かす知恵が硬いととても困難。うーん、僕なんかは頭固いほうだけど、柔らかいひとでも、それって難しい作業だろうなーと思う。

 異なる視点から物事を俯瞰して、新しい発見をする簡単な方法は、誰かと一緒にそれを観るってことだと思う。
 一人でモシャモシャご飯を食べているより、二人、もしくはそれ以上で一緒にいると、発見があるように。

 なんでも好きな人間よりも、嫌いな食べ物がある人間のほうが割合として多いけど、僕なんかもイカスミだけは食べられない。
 ずっと「食べれない、苦手だな~」と一人でそう言っている間は、仮に「いいニオイがするな~、なんだろう?」と思ってフラリと入ったお店で奇跡のようなイカスミスパゲッティに出会っても、たぶん食べない。
 そこで一緒にいる誰かが、イカスミについていろいろ話をしてくれて、その会話が楽しいと「うむー、苦手なんだけど、少し食べてみようかな?」と乗り気になって注文するだろう。
 そのひとが僕が「苦手なんだ」といっていたイカスミを食べるのを、微笑みながらで愉快そうに「どう?」って何かを期待するような目で見ている中、いざズビズバーっと口に入れると「考えていたほど不味くもないじゃあないか?」って思えそうな気がする。

 わからないけどね。やっぱりダメなものはダメかもしれないし。そこでみっともないくらい吐くかも。

 ときに期待に応えようと、無理したり無茶したり、思ってもみないことをしてみたり、心とは裏腹なことを言ってしまったりする。
 それをあとになって「あのときの行動は正しいことなのか?正しいことをしたのか?」「気持ちは伝わったのか?あの言葉でよかったのか?」「もしもあのときに戻れるなら、いや、それは無理だから、今度こそは…」なんて考える。考えるというか悩んでいるだけだな。考えることと悩むことは違う。

 どれが正しいってことはないんだよね。「自分の本心から出た言葉、行動」だって納得していても、見方を変えればほとんどは一人よがりで、勝手で、ひとの気持ち考えてんの?!ってなもので、他の誰かが、もしくは自分の大切なひとをツライ目に遭わせたんじゃあないの?なんてことを、ふとしたときに思い出すから、正しいことがなんなのかはわからない。

 ひとは少なからず周囲の人間に期待されている、きっとこうこうするだろう、ここはクリアできるだろうと、きっと周りには評価されているんだ。
 それが錯覚であったとしても真実であっても、「自分なんかはまだまだだけど、ちょっとずつでも成長している」と、誰もが信じようとする。
 そう思うことができなければ、少しくらい強引でも自分の心を納得させなければ、毎日毎日「一体自分はなにをしているんだ?今に意味なんかあるのか?」なんて思考ばかりフワフワして、おそらくまっとうに生きていけない。楽しくない。

 だから、期待には応えなくていい。
 ひとは自然と生きていれば、自然と周りにひとが集まるよ、気に掛けてくれる誰かがいるよ、なんて陳腐なことじゃあなくて。だからといってもちろん、自分が信じるものだけを見てろってわけでも全然ない。

 自分が期待されてるな~ってプレッシャー感じるほど、周りや身近なひとからは期待なんかされてないって。
 いい意味でさ。

 だって、好きなひとのことをどう思う?
 そのひとのこと大切に想えば想うほど「こうあって欲しい。きっとこうなんだ」なんて考えないでしょ。まぁ、例えそのひとと一緒に居ればなにか楽しいことがあるなんて期待して、それが叶わなかったときにがっかりしないでしょ。

 それよりも思うのは、「元気にしているのかな?今もきっと幸せに笑ってるのかな?」「きっと楽しいことばかりじゃあなくて挫けたり泣いたりすることもあるんだろうけど…でもまぁ、元気でいてくれればいいか」てことじゃあないのかな。

 日々生きていると、僕らはどうしても新鮮なものを求めてしまって。昨日とは違うこと、違う出会い、違うドキドキ、日常では味わえないもの。そんなものは『本物』じゃあない。
 テレビでは新しいお笑い芸人が現れては消えて、常に新しい笑いへの期待に応えようと必死になっている。新しい俳優、女優が現れて、そのひとたちもいずれ歳をとり、露出も少なくなって、テレビのこっち側の僕らだって同じように年齢を重ねるのだけど、あっち側ではまた新しい俳優も女優も生まれる。常に最先端。常に今が一番最高。
 期待に常に応えることは『本物』じゃあない。変化はあってもなくてもいいものなんだ。

 だいたいさー、変化はそこにあるではないか。同じような会話、同じような店、同じような服で、同じようなメンツで同じように飲む。外見だけ見れば同じように映るけど、一回目と二回目は違う。どっちが正しいとか、本物とかではなく、ただ真実としてそこにあるじゃん。
 同じものしかないなら、何度も考えたりしない。一回でいいわけだから。一回で理解できるなら、そのごは無駄だってことだし。
 でも、やっぱそうじゃあない。
 (一度きりの人生なんて考えるから、後悔もあるわけだ。連続した繋がりのなかで変化を認識できる意識を維持することなんかは、かんたんかんたん)

 マンネリ気味な恋人達も、夫婦も、友達も、自分も仕事も、宇宙から見れば、薄皮程度の上空何千メートルの成層圏なんかでは秒速何十メートルって風が吹いているのに、それほど雲の動きもなく見えて、変化なく思えるけど、地球内部の核は今こうしている間ももぐるぐる回って、熱いマグマがグツグツしていて、プレートは年に3センチメートル動くとか動かないとかいってても、そこに何千万トンという岩を動かす力は確かに加わっているはずで、常に変化はある。『本当』なんてものは、見方どころか、見なくても変わる。

 なんだか改めて書くと、そりゃあそうじゃんってことばかりなんだけど。

 ある日あのコはいつものように隣に座ってにっこり微笑んで、いつものように一緒にビールを飲んで、お互いが他愛もない話をしても、それは繰り返しなんかじゃあなくて、今『本当』だと感じる気持ちを誰か分かち合うことが、きっと大事なんじゃあないのかな。
 髪なんか撫でたいね。 

あおむけでねむりた~い

2007年12月16日 23時29分00秒 | 個人日誌
 どうでもいい話を。
 いつもどうでもいい話しているじゃあないかって?オマエほどじゃねぇよ。

 ホントどうでもいいかもだけど、朝起きると眠いですよね~。「こんなに眠いならもっと早く寝ればよかった」。でも夜は夜で早く寝るのもったいなくて、今だってついさっき晩御飯食べ終わったばかりで、これからがなんつーか、仕事も忘れた解放の時間って気がするから、すぐ寝るのは惜しい。

 だいたい毎日1時半くらいに布団に入ります。音楽はかけっ放しでタイマーを30分にセットして電源がオフになるよう設定しているのですが、たぶん横になって10分もたずに意識はない。

 夜中に目が覚めることもほとんどなくて、目覚ましが鳴ると「まじで~?!もう朝なの?」ってカンジで起きます。
 たまに夜中に目が覚めてしまうこともあるはあるのですが、そんなときでも一回起きてしまって眠れないなんてことはなく、すぐぐっすり。へたしたら自分で夢の続きを見ようと試みて、ほぼ成功します。逆にイヤな夢だったから違う夢みたいと思って寝なおしても、失敗する。そんなときは仕事も夢がほとんど。

 夢だってわかってるけど、この客にフォロー今のうちにやっておいたほうがいいよなー。夢だってわかってるけど、先にこっちの仕事片付けよう。いや、夢だからなにもしなくていいんだけど、やっておかないと落ち着かないしなーなんて夢であることを自覚しながら夢の中で仕事をすることもある。
 そういうときに目が覚めて、そんな夜が二、三日以上続くと、なんだかクセになって一週間は似たような夢を見る。

 目が覚めると全然まだまだ3時くらいで「なん~だ。まだたっぷり寝れるぞ、しめしめ」と思いながら枕に顔をうずめて、次の瞬間にはなぜか朝。「え?もう朝?!」ワープだよね、ホント。

 僕と付き合い長いかたは、よくご存知かもしれませんが、僕はたぶんひとの2倍は寝ます。寝だめはできないのですが、足りない分の睡眠時間をきっちりと休みの日に取り返したりする。

 そういえば、じゅさんに「オマエって寝るときホント幸せそうだよな~」と言われました。
 じゅさんがまだ飲みながらテレビとか見てて起きているときに、僕は「寝ます」と言って布団に入って「う~ん!気持ちいい~!」ってゴロゴロしているときに。

 部屋が明るくて、テレビが点いていても問題なく眠れます。
 夜の0時に寝て、起きたら夜の8時なんか朝飯前です。まぁ、滅多にやらないけど、「やれ!」と言われれば全然ヘッチャラ。
 お腹も空かないし。どこかの時点で空腹を感じているのだろうけど、どうでもよくなるんだよね。たぶんこれが僕が痩せていて、それは不健康な痩せ方だから良くないのだろうし、そして腰痛がなかなか治らない理由なんだと思う。

 二日寝てないひととか、徹夜したとかいうひとにたまに会うけど、僕は全然信じられない。いや、信じられないってのは「ウソだ!?」っていうんじゃあなくて、自分は絶対できないと思う。実際今まで生きてきて、一睡もしなかったなんてことはない。
 もしも朝日が昇るまで起きていたとしても、そこで寝れば昼までぐっすり確定。寝ないまままた一日を過ごしましたなんてやったことがない。

 飲む→酔う→飲める時間は少ない→寝るのもったいないと思い始める→遅くに寝てしまう→朝眠い→昼も眠い→仕事は面倒だ→ダラダラ仕事する→帰りも遅い→飲む→酔う

 この流れが悪いんだな。改善できるとこはどこだろう?

 全部だなw

 仮に飲まないとしよう。

 飲まない→酔わない→なにしていいかわからない

 酒を飲まないひとって夜どう過ごしているの?本読んだり音楽聴いたり?レンタルの映画見たり?恋人と過ごしたり?
 それって飲んでたほうがより深く読めたり聴けたりする気がして、イチャイチャできたりする気もするし。映画は酔ってると翌日内容は忘れてるけど。

 「気がする」ってのは僕の錯覚だろうけど。それ以上に酔っ払いの戯言でもある。
 アルコールの回ってる頭とからだがシラフのとき以上に感覚に鋭敏になるわけないんだよな。

 よくさー、喫煙者が「仕事しているときもタバコ吸ってるときのほうが集中できる」なんて言ったり「考えがまとまる」とか言うじゃん。あれも同じ戯言なんですよね。いや、僕も吸います。そして、ときにそう思ったりします。
 でもそれは違う。
 だってさ、タバコ吸ってるときって片手がふさがっている。仕事なんかも、他のもろもろの作業も両手で行うより片手のほうが効率的だなんてあり得ないし。

 だから、今僕は音楽聴きながら、テレビは音を消してつけっぱなしで、タバコを吸いながら、ビール飲んで、ブログ書いているんだけど、それってやっぱ変。この一瞬は書くことに集中しているように錯覚しているけど、脳とかからだの意識しない部分がいちいち何かに反応しているんだよなー。つまり全く意識が統一できていない。無駄が多すぎる。
 だからなんだ?って話だけど、これを毎日続けると絶対に今日より明日のほうが衰えてるよね、なにかが。

 眠っているときは、酒もタバコもなくて、しかも考えることもなくて、ただからだは休まって脳もあんまり動いていないから、エコでいいんだけど(そういうのってエコとはいわないか)あまりに寝すぎると「うわー、今日という日を無駄にしたな~」って感覚があるから無駄なんだな、やっぱ。

 今度の休みは朝から起きて出かけよう。

 って毎週考えてます。チャンスは何百回とあったのに結局できていないじゃあないか!口ばっかりだな!って、もしも少年の頃の僕が今この時間にタイムマシンでやってきたら、そう言いそうだけど。
 逆に、大人になった俺もキレるね。「オマエが寝すぎるから大きくなっても変わってないんだろーが!イヤなら、昔担当のオマエが変われば変わるんだよ!今が変わるんだよ!」
 なんて不毛な戦いなんだろ。

 えーと、そんな争いを避けるために、今の僕ができることは…
 お酒を減らして、そうすれば自然とタバコも減って、横になる時間も少なくなれば腰も少しは良くなって…いいことだらけではないか!

 だいじょうぶ、大人になった俺はそんなにぐうたら寝ているだけの人間じゃあなくなったぞ。だから坊主、オマエは今のうちにいろんなことして、野球も一生懸命やって、ギターもヘタでいいから恥ずかしがらずにたくさん弾いて、いっぱい恋もして、そしてぐっすり寝て準備をしておけ。大人になる準備をな。
 とか、偉そうに言えるな。

 現実問題として間違いなく、昼間に訪れる眠気をどうやって克服するかって問題が残るな。思い切って小一時間くらい寝たほうがいいのかな、なんせ休みだし。それともそこは絶対に寝てはいけないのかな。

 ほら、どうでもいい話でしょ。

 ところでみなさんはいつも何時間くらい寝ますか?
 僕は仕事の日でも、朝は8時前くらいまで寝ているから6時間は睡眠に充てています。

春、まだかな。

2007年12月15日 23時46分43秒 | 個人日誌
 学生の頃ってこのぐらいの時期から冬休みだったっけ?
 12月の部室ってあまり好きじゃあなかったな。夜、澄川駅まで歩いて帰るのが寒くて。
 しかも飲みに行こうぜ!って誘ってもみんな帰ってしまって、部室に一人。サークル会館を出るとき一人で、外は真っ暗で風も強くて雪も降ってるときの刹那さったら。

 発表会もこの時期?
 なんかけっこう思い出そうとしても忘れてるもんだな。

 大学5年生の時に、発表会の録りで帰りが遅くなる後輩たちのために、もうそれらの作業にあまり関係のない僕は、バイトを終えてから実家に帰って、父さんに頼んで車を借りて、夜十時にサークル会館に行った。時間も遅くなり帰りの交通機関が終わってしまった後輩たちのためになればいいな~くらいの気持ちで。
 そして午前三時くらいに、一人で路駐しっぱなしの車に積もった雪を払って、誰も乗っていない車を走らせているとき。

 冬になると、ず~っとそのあいだは「早く春にならないかなー」って思ってた。だって冬なんか、鍋がおいしいか、温泉が恋しいか、みんなで集まってわぁわぁ騒ぐか、それくらいしか楽しいことないもん。

 あの頃のなぜかわからないけどなんか寂しいって感じは、まだ今でも文章じゃあ表現できないな。

 今でも「早く春にならないかな~」って思う。ずっと夏でもいいのに。

ふたご座流星群~冬の大三角形ってどれだ?~

2007年12月14日 22時47分27秒 | 個人日誌
 朝晩は冷え込む。北海道ほどじゃあもちろんないけど、そこそこ寒いですよ~。寒いのイヤだ。暑いなら脱ぎゃあいいじゃん。でも気温の低いのだけは着込んだり、温かいものでも食べて一人なら黙ってるしかないからな。
 たまに飲んでいると、とある一瞬を越えたあとに「あれ?寒くない…?寒くなーい!」ってこともあるけど、からだは正直で、翌朝のダメージはてきめん。

 昨日、仕事で赤坂に行ってきました。赤坂なんか行ったの初めてですよ。どこここ?東京のどの辺?
 住んでいる地域が仕事のエリアなので、ほとんどそこを出ない僕ですが、電車にゴトンゴトン揺られて違う街に行くといつも「うわー都会だな~、すごいなー、でも住みたくはないなー」って思う。

 知ってる場所にいると落ち着くのは、誰だってそうなんだけど、「道に迷うんじゃあないか?誰も知ってるひともいないし」って不安だよね。
 旅行ってのはそんな未知の世界に、新しいなにかと出会うことを求めることだから、遠出が苦手な僕も旅行となるとウキウキするな。でも全然一人で旅行とかは行く気がしない。その高揚感を、やっぱ知ってる誰かと楽しみたいじゃん。一人で期待と不安にドキドキするなんて、そんなの日常でも充分。

 電車の中で、本を読みながら立ちっ放しでいたら、まんまと腰にきました。最初はかるい違和感で。そのごジンワリと鈍痛が。そしてときに刺すような痛み。だから今夜は湿布を買ってきた。

 医者は言ったね、「一生付き合うしかありませんよ」って。一生付き合うならかわいい女のコにしてくれないですかね。一緒にても、お互いが想うことが同じだったり、ときには違うんだろうけど、それでも一緒にいることが二人ともなんともなしに嬉しいって感じられるような、そんなひと。

 この痛みは継続しない。たぶん数日で収まる予感がする。
 こんなにも頻繁に痛む時期とそうじゃあない時期があると、「今回はディープだな」「これはまだ平気」って、その都度なんとなくわかる。わかるからどうってもんでもないけど。
 まぁ、運動不足だね。

 会社から帰ってきて、テレビをつけるといつもだいたいNHKでニュースをやっている時間帯。
 今日は長崎のスポーツクラブで(ジムとスポーツクラブってなにが違うんだろう?)大変な事件があったみたい。
 ああ、またこんなヒドイ事件があったのか。とても気分が重くなる。

 それよりもさ。「犯人はどんな格好でしたか?」って聞く報道の人間に対して、マイクを向けられた目撃者が「なんか迷彩服で、ヘルメットみたいのをかぶっていて…」と答えているのに「目出し帽ですか?!」

 おい、オマエ!誰が目出し帽だ?!

 今年の忘年会の必須アイテムでもある目出し帽をそろそろ用意しようと、さっきネットで調べていたら、アメリカのどこだったかな?まぁ、とあるアメリカ人男性が「目出し帽への偏見はやめろ」みたいな主張をして、街中で目出し帽を装着したまま歩いているらしい。もちろんそのままどっか店なんかに入ったら通報されるかもしれないけど、普通に防寒具だからな。
 その運動に是非参加させてください!ってことは断然しないけど(恥ずかしいから)、「目出し帽イコール犯罪者」ってイメージは、そりゃあやっぱないよ。

 「目出し帽ですか?!」って勝手に解釈して、その勝手な解釈を世間一般に流してんじゃあねーっすよ。

 そこまで言いながら、僕は生まれてこのかた目出し帽かぶったことありません。まず持ってないし。だからこそ、ちょっとかぶってみたい。忘年会が楽しみです。

 今夜はふたご座流星群だってさ。


 雪の積もった夜中に、澄んだ星空見上げて、黙っているなら、そのときだけは寒くてもいいかな。

 なんで撃つかな?!最悪だ、この犯人。どれだけの人を悲しませたか、わかるわけもないんだろうな。
 自分だけの狭い了見でなんでも考えて、手にしたことも得たこともない幸せを過去にはあったみたいに思い込んで、それが不条理に失われたとか、誰かに理不尽に奪われて、手から滑り落ちてしまったとか、ひとのせいばっかりにして、適当なことしてんじゃあないよ。

Lush life

2007年12月12日 23時45分56秒 | 個人日誌
 おいしいものが食べたい!いつでも食べたい!

 常々思っています。今はピザが食べたい。アツアツのやつ。チーズがトロ~ンとしていて濃厚なやつ。きっちりと窯で焼いて生地はパリパリしていて、アンチョビとトマトだけが乗っているシンプルなやつがいいな。軽めにスイートバジルが振ってあってもいい。
 先にシーザーサラダなんかをバリバリ食べて、それからピザ。子羊の肉リンゴソーズがけ食べてみたい。もちろんビールはハイネケン。それから最高級の生ハムをちまちまと食べながら赤ワインをちびちびと。

 メールが使えるようになったので今日は写真多めにいくよ。まずは先週買ってきたもの。


 ONKYOのiPodデッキ

 充電しながらONKYOのコンポで聴ける優れもの。正直音質的にはあまり満足していないけど、まぁ、音楽はどうせ酔ってるときに聴くもんだしいいか。
 あ、でも今iPodから坂本龍一の『Merry Christmas Mr.Lawrence』が流れてきて泣きそう。

 昨日買ってきた本が二冊。


 『ラッシュライフ』 伊坂幸太郎

 伊坂幸太郎はshow先生に薦められて読むようになった作家です。いや、面白いよ、たしかに。カンジのいい読後感あるし。なんかでもあっさりすぎなんだよな~。俺の読み方が悪いのかもしれないけど、なんかこう重さがない。重いけどそれを感じさせないテクニックってあるじゃん。それに乏しい。
 はい、えらそうですね、僕。しかも抽象的。


 『誰か』 宮部みゆき

 宮部みゆきは、めちゃんこ好き!ってまではいかないのだけど、高校の頃から読んでいて、うむー、意外性もあっていいな~と月並みに思ってます。ひとの心の機微に敏感な作家さんですね。

 
 服を買いました。ツラーっと眺めていて、定価9800円にバツしてあって2980円。その値引きっぷりにつられて手にとった。色はこのグレーの他、ブルーと黒もあったけど、無難なとこで。この値段なら買って着なくてもそれほどもったいなくないとも思って。
 昨日のブログで、服を買ってくるとだいたいは袖が短いと書いたけど、これはLサイズで袖もちょうどいい。着心地も悪くない。

 服を見ると「あ!これって俺が着るよりも…」って考えたりします。例えば、あべくんがこれ着たら似合いそうだな~とか、逆にあべくんはこれ似合わないな~とか。自分以外のひとがこの服を着たときはどんなカンジになるのか、ということを。これを着ている自分以上に想像します。
 今回の服は、なぜかUMEさんに似合いそうだなーと思いました。UMEさんの服装って、なんだか古着っぽいのが印象強いんですけど、それがかっこいいんですよねー。なにげで。「どうよ、この服は」って押しつけがましさのない服っつーか。さらりと着こなすあたりは、僕は見習いたいといつも思ってます。

 焼きプリンおいし~。酔ってると甘いものがさらにおいしい。

いつもだいたい袖が短い

2007年12月11日 21時45分36秒 | 個人日誌
 今日は朝から布団屋さんが、部屋にあった布団を交換に来ました。

 ついさっきまでぬくぬくと寝ていたばかりだし、とっくになくなった残り香とかもどこかにあるような気がした。
 とても名残惜しい気持ちで布団をお預けしました。

 やっぱ新しい布団はふかふかだな~。
(ただし、来月曹操には、いや、年内には新しい布団を買わなければいけない。来月からの契約の中に布団はセットされていないからね。最悪買わなかったら、N3-B着て寝るか)

 そういえばガソリンが高いですね。ハイオクが165円/ℓもする。僕の車は満タンで60ℓくらい入るんだったかな、たしか。でもさー、そこで仮に5円安いとしても満タンにしたって300円しか違わない。
 この差は、いつもいつもガソリンを入れるような仕事のひとなんかは大変な額なんだろうけど、僕なんかは2~3ヶ月に一回くらいしか給油しないので、「こんなんジュースより安いじゃん」くらいにしか思ってない。
 回り回って原油高ってやつは、身の回りの生活用品もだんだん高くなるけど、それにしたってある程度はしょうがないんじゃあないの~とも思う。
 やれチョコレートが高くなるとか、サランラップが高くなるとか。けっこうどうでもいい。ここで10円20円違うからって、なんの影響があるんだ。

 そんなことよりも税金が高すぎ。税金と保険が。税金って所得税や住民税。保険って雇用保険とかそんなものだけど。厚生年金はしょうがないけどさ。
 所得税はまぁまぁこんなものかなって程度だけど、住民税は高すぎ。これって何に使われてるの?ゴミ収集とか、役所の新しい建物や近所の公民館を建てたり建てなかったり、壊れた信号直したり、河川の氾濫を抑えるための工事とか、そんなカンジ?わからなくはないけど、払ってるの当然僕だけじゃあないから、とんでもなく莫大な金額だろうし、使い切れないんじゃあないですか?「今年はあまりましたので、還付します」とかあっても面白いのに。
 厚生年金は高いけど、これもしょうがないよな~。別に自分が老いたときに国から補助は受けねーぜ!なんてことは全く考えずに、どちらかというとなんらかの庇護のもと穏やかに暮らしたいタイプなので。
 自分がどうでもいいとか言うまえに、「じゃあ自分の親や親戚はどうなの?今僕らが払わなければ年金もらえる権利なくなっちゃうみたいなものじゃん」と思うし、それはイヤなので払う。別に誰とも知らない未来の子供たちのためじゃあなくて、今いる子供たちとか、今いる親たちのために払うのなら、今働ける僕らがなんとかしようぜ。
 そう考えると、ある程度の税金は納めるべきなのだ。それを理解したうえで。いや、僕はあんまり理解してません。
 だってさ、給料出ますよね、もろもろ合わせて8万円くらい引かれてんだよなー。少し負かりませんかねってやっぱ思っちゃう。

 ずっとまえにshow先生が言ってたけど、税金なくして、全部消費税にすればいい。税率50%くらいで。それだと住宅や車はとんでもない金額になってしまうから不動産や動産は20%くらいで。ただし、扶養家族がいて、子供も多い世帯は何パー引きとか、子供二人目がいるならさらに5%引いて。そういう制度を設けて。
 どうせ独身世帯なんかはやれ遊びだ、車だ、彼女に奢るだ、そんなものに金使うんだから、そこからがっつり取ってさ。
 市民税や住民税も全国一律にしましょう。どこに住んでいようが、行政サービスなんてたいして変わらない。この街は人口も多くてインフラも整っているから住民税が高いんです、なんてさ、行政なんだから、民間のサービスじゃあないんだからさ。

 昨日は会社のチームの飲み会でした。飲みながら思いついたまま話をする。
 「やっぱ、みんなで食べる鍋はうまいっすね~」
 「そういえば先週は台所で一人鍋してたんでしたっけ?」
 「泣きたくなるよー」

 この歳になると、やっぱお金関係の話は少なからずしてしまう。夢の話だけで飲めていた時代はとっくに終わって、でもお金の話だって、これからの暮らしとか幸せを考えるうえでは避けて通れない。べつに避けたい話でもないし。むしろ、最近は好きなくらい。参考になることも多い。

 お金の話といっても、メンション買うとか、一戸建て買うとかそういう話ね。暮らしていくための、生活の空間を買うって話。それってお金の話ではないかも。

 周りの人間は、最近引越しをしたり、一戸建て買うかどうか迷っていたり、マンション買ったり、車買ったりと景気のいい話が多いので、そんな話を聞きながら「ふむー、すごいな。向こう35年もローンを払い続けていく覚悟ってどんなものなんだろ?」と僕は興味深げに思う。一生のことを考える。それが「終わりなき旅」ってものなんだろうか。

 「ずっとここに住む!って考えがあれば僕もマンションなんか買ってもいいですけどさ~。正直、そこまで考えてないし(考えてないどころかずっと住む予定もない)」
 「いやになれば引越して、賃貸にして家賃収入をあてにしてもいいし。今、賃貸に住んで同じ額の家賃払うなら一緒」
 厳密には固定資産税もあるし、管理費も駐車場の分も考えないといけないだろうけど、それが今の家賃とほぼ同額なら、確かに。貸し出して、雀の涙ほどでも利益がほんのちょびっとでも出れば、もったいない感はない。

 でもそのためには煩雑な手続きや、入居者へのケアとか、やれ修繕だなんだで、面倒のほうが多いような気もする。お金よりも大事な自分の時間が奪われそうで。
 一人だから時間なんかは有り余ってるのだけど、僕がいう時間ってのは、誰かと過ごすための時間と、その会う準備のための時間のこと。それを意味があるのかないのかわからないどうでもいい手続きで削ることって、イヤなんだよな~。
 それでもいつかは考えなければいけないのか?

 ご近所に変なやつが住んでいたらどうするんだろう?夜中に歌を歌うひととか、ずっとトイレ流しっぱなしのひととか、ゴミをきちんと出せないひとなんかが住んでいたら?トロくさくていつも車こすりながら駐車する隣人がいたら。たたかう?にげる?

 何度も書いているけど、食料はほとんどが近くのショッピングモールに併設されているスーパーで買う。だから今夜もビールを買いにそこまで行って、本屋を覗きながら、そばのスーツ屋を冷やかしつつ、なぜかそこを歩いているときに不意に自分の服装を鑑みて「いつからこうなったんだろう」と少し悲しい気持ちになった。

 そのときの僕の服装は、7年前に買ったリーバイスの702に、今もあるかわからないけどPPFMのジャージ調のグレーの上着に、291295=HOMMEの薄手の黒のナイロンジャンパー。いずれもやはり7年前のもの。一番新しいのでもボロボロのNIKE AIR MAX DOLCE。6年モノ。

 あまり流行りものは着ないので、今着ていても格段にみっともないものでもないのだけど(たぶん。主観の問題だからな~、なんとも言い切れない)、休みの日に一人で行動することが多くなると、服装はあまり意識しなくなる。

 服装なんて、一人で行動していようがいまいが、知らない他人にもチラ見程度には意識されるかされないかだけど、それでも常に自分の着ているものを意識しておくってことはホントに重要なことで。
 なぜなら、服装はまず一番に目に入るところだし、他人の目を意識しなくなったとき、ひとってどうなるか、ニュースを見ていればわかる。
 穴の開いた靴下が平気ではける人間は、たぶん他人を傷つけてもそれを意識することすらできないんだ。

 常に新しい自分、自身に溢れた自分でいることはとても難しい。失敗、それも教訓でしょ~なんて前向きに考えることって、どんなに三国志読んで「曹操はすごいなー」と思っていても難しい。
 手っ取り早く自分を見つめなおす作業は、新しい服を買うことだと思う。「こんな色は自分に合うかな?ウエストサイズは変わっていないかな?」誰でも新しい服を買うときは、それを着る自分を想像する。似合ってるかなって。どう見られるかなってことを。

 「外見だけ磨いてもダメ、人間は中身が大事」なんていうけど、この言葉は陳腐陳腐。だって中身がスカスカなやつは、どんなに立派なスーツ着てピカピカの靴履いても、一見してわかるもん。猿回しの猿みたいなカンジで。

 気遣う服装ってのがある。自分に似合っても、それが相手にとって好ましく思える服装。そういうものを選べるように、僕はなりたい。
 どんなに似合っていても、指輪ジャラジャラしたやつに、自分の子供を抱きかかえられたくない。子供の肌に当たったら痛そうって親は考える。

 女性と会うとき、なるべく清潔感のある服装でいたいと思うのは当然至極だけど、そのときも考えるな。このコート着て女性を抱きしめたとき、ボタンがちょうど顔に当たる位置にあったりしたら痛いよな、きっと。とか。
 自分に合う服を見つけるのって難しいよね。
 僕の場合、だいたいは袖が短いんだ。