艦長日誌 補足(仮) 

タイトルは仮。そのときに思ったことを飲みながら書いたブログです。

三国日誌 補足(仮) その8~人生ってものはタイミングなのか?

2007年12月29日 03時46分46秒 | 三国日誌 補足(仮)
 今日は朝から天気予報で「関東地方は雨が降り、大荒れの天気となるでしょう」とテレビでいってましたが、、昼を過ぎ夜になっても雨は振らず。
 お店を出ると雨でした。駅まで歩きながら、別になにかから守るわけでもないけど、別になんの気もなく自然にちょいと肩を寄せて、傘をさし、手をつないで。そんなんなら雨もキライじゃあない。たまにならいい。

 …

 曹操は「関羽が出立の準備を整えている」という間者の報告を聞いても、全然驚きませんでした。それを予想していたから、今さらびっくりしないというわけではなく、いつかそういうときが訪れることを覚悟していたわけでもありません。
 ただ「あー、そうか」と言ったきり、特になにもしませんでした。感情を押し殺し、今日の業務に通常通り励むことにしました。

 関羽のもとに主君劉備からの密書が届き、その中に「自分は今、河北にいる。会おう」という内容があったときに、関羽はすぐにでも許昌を離れることを決め、屋敷にいる召使いに「曹操どのからいただいた物は全てこの場に残し、屋敷とその周りを掃き清めて出立に備えよ」と命じました。

 関羽は一人、曹操の屋敷を訪れて「サヨナラ」を告げるつもりで赤兎馬に乗って出掛けます。
 途上、関羽は自分の気持ちが揺れ動くのを感じていましたが、自分の気持ちは無視することにしました。大切なのは、劉備の家族を無事にその許へと送り届けること。今更なにも考えることはない。もしも曹操につくのなら初めからそうしていた。今、そういう気持ちじゃあないということは、つまりそういうことなのだ。

 ところが曹操の屋敷に到着すると、その門には「避客牌」がかかっていました。

 「避客牌」とは。ドアの前にぶらさがった、なんか木でできて字の書いてある札を想像していただければ、だいたい合ってんだけど。
 「訪問していただいたかたとは、今は会えないので出直してね」って意味です。
 この時代には「避客牌」が門にかかっていると、訪れた者がどんなに至急の用事であっても、相手が会えない事情を尊重して、また出直すという慣習がありました。
 関羽はすごすごと引き返しますが、それも三回目となると、うむーってなります。
 最後に会って、曹操にきちんとお別れを言いたかった。でもそれができないのなら…門前で下馬し、関羽は誰もいないのに「お世話になり申した。また…いや…これにてお暇いたします」と言って深く頭を下げ、許昌をあとにしました。

 都を出た関羽と劉備夫人とその家族。夫人と家族を馬車に乗せ、関羽は赤兎馬にて馬上のひと。
 ここから河北で待つ劉備までは相当な距離もあり、馬車の速度では何日もかかってしまうでしょう。
 曹操に対して「兄者の行方が知れればいつでも帰参する」ということを約束させていた関羽ですが、この道中が困難であることを予感していました。
 曹操は、自分との約束を反故にすることはないだろう。だがその部下たちは「いずれ敵となる関羽を今ここで討っておくべきだ!」と考えて、曹操に忠誠を誓うからこそ、主である曹操ののためだと信じているからこそ必ず追っ手を差し向けてくるに違いない。

 予想通り、道中には敵が待ち受けていて、関羽は夫人と家族を守りながら一騎での戦闘を強いられました。が、関羽の青龍偃月刀は全く容赦しませんでした。
 関所や関井を強引に突破し、待ち受ける敵将を一刀のもとに斬り捨て、ひたすら河北を目指します。

 曹操配下の名もない武将の何人かが、その行軍の前に部下ともども意味のない死を迎えましたが、ここで特筆すべき人物はなんといっても『卞喜』です。
 なんたって名前がすごいよね。だって『べんき』ですよ。金環三結、兀突骨に匹敵するほどの読み方わからないし、「あ~、これは斬られるために出てきたんだな~」感がギュンギュンします。

 卞喜も他の武将と違わずに関所を守り、関羽の帰参を阻止しようとした一人でした。
 当初は、関羽将軍が通行の許可を求めた際に、計略を張り巡らしたのちに偽って「どーぞどーぞ」なんて言いながら通行を許可し、「ここまでの旅もさぞ疲れたことでしょう、良ければこちらの宿舎にて一休みしてはいかがですか?」と関羽を足止めしようと試みます。
 関羽はこの申し出を丁寧に辞退し、旅路を急いでいることを説明しますが、卞喜は「関羽将軍は豪傑でございますから疲れもなんのそのでしょうが、夫人や従者には温かい宿と温かい食事も必要となるでしょう」と、なかなかのプレゼンを披露します。
 たしかに卞喜のいうことももっともなので、関羽は罠を疑いつつも申し出を受けることとしました。

 その土地に古くからある寺を宿として紹介され、そこに一泊する運びとなりました。
 一泊といえども、関羽は夫人を守るために寝ることもせず、かがり火の下で見張りに立ちました。そんな関羽に、寺の和尚であった普浄というものがそっと耳打ちします。
 「卞喜将軍は闇討ちを仕掛ける腹積もりです」
 「知ってました」

 案の定、闇に紛れて刺客が送り込まれましたが、関羽はなんなくこれを撃退し、卞喜と対峙しました。
 変な名前の卞喜ですが、名前に似合わず鎖鎌の先にアレがついた重そうな武器を振り回して関羽を威嚇します。勇ましい姿ですが、はっきりいって卞喜100人いても関羽には太刀打ちできないでしょう。

 曹操に対して恩を感じている関羽は、本当は無意味な殺生はしたくありません。ただ主のもとに夫人と家族を送り届けたいだけですが、そのためなら何人たりとも、已む無くではあっても斬るつもりでしたし、実際ここまでそうしてきました。

 「卞喜将軍、無駄に命を捨てることはない。あんたじゃあ俺は止められない。弱すぎる。ここで挑むのは愚かな行為だとは思わないか」
 卞喜はせいぜい武力46くらいのてんで弱い武将でしたが、それでも言いました。
 「弱いだって?わかってないな、あんた。これからの時代には弱い者や、負けた人間がどんどん増えていくんだ。そんななかで勝った人間ってやつはどんどん少数派になり、負けた人間が多数を占めるようになる。負ける者の心を本当に理解できて導いていく者こそが、真に強いものとなるだろう。つまりこの物語の中で勝ったつもりでいるやつは、相手の痛みすら無視して我を通し、いずれその行為は弱気を虐げ搾取しているだけだといわれる本当の意味で愚か者だ。先の時代を読むことのできない愚か者だということだ」
 それっぽいことが卞喜の遺言となりました。

 とうとう劉備の待つ場所へ~あともう少し~坂を登って~雲を追い抜いて~というところまで来たころに、曹操とその側近の部下たちが関羽に追いつきました。
 関羽は馬車を守りながらの行軍でしたし、あちこちで足止めを食ってしまったため、曹操たちに簡単に追いつかれてしまったのです。

 曹操は何しにやってきたのでしょう?まさかここにきて関羽を引き止めるようなことはしないだろうが、周りの側近たちからはけっこうあからさまに殺気がみてとれます。

 関羽は馬車を先行させて、自らは一騎で相対することにし、その場にて曹操を待ちました。得物である青龍偃月刀は構えたままです。

 じっと構えた刀に雨粒がポッポッと当たりだしました。いつのまにかかるい雨が降り出してきました。

 曹操の傍らには夏侯惇や張遼、許褚といった猛者が付き従ってました。さすがにこのメンツが相手では関羽も正面きって戦うことは難しいものがあります。
 もしもここを迂回されて夫人の乗る馬車を人質に取られたりするようなことがあれば、さしもの関羽も武器を捨てるしかないでしょう。

 もちろん曹操には、部下を使って関羽を引き留めるつもりなどさらさらありません。もちろん遠ざかって行く馬車のことも放っておきました。

 無言のまま関羽に近づいた曹操の胸中を占めるのは関羽への未練。
 いや、未練とはちょっと違うかな。

 関羽に「サヨナラ」を言われることを恐れて避客牌をかけてしまった、自らの心の狭さを恥じ、気持ちよく別れさせてあげられなかった申し訳なさもあり、旅立つ友人を見送りたくもあり、自らの至らなさから無駄に将兵を失ってしまったことを深く悔やみ、やむなく関所を強行突破せざるを得なかった関羽の気持ちを鑑み、あのときちゃんと言えなかった言葉(それがなんなのか曹操本人にもわからないが)、それらを伝えたくて、いや、伝えられるかどうかもわからない。伝える言葉はあるのか?

 曹操は関羽の前まで馬を進めました。

 さまざまな想いが去来するなかで、曹操は「関羽よ、いやに慌しい出立だな」と努めて明るく言いました。
 あーあ、伝えたいことはそんなことじゃあないのに。しかも普通に冷静な表情で言っちゃったよ。どうして自分の気持ちをきちんと表現できないかな。

 雨が、少しずつ本降りの音へと変わっていきます。

 曹操の気持ちとは裏腹に、関羽は赤兎馬に乗ったまま自分の立ち位置を少しづつずらして、歩みの遅い馬車と曹操たちとの間に自分の身をおきました。
 それは、もし万が一に夏侯惇たちが攻撃を仕掛けてきても、自らを盾とする陣取りをするということ。その動きを察した夏侯惇あたりは、まさに関羽という武将のソツのなさと主君曹操の未来に立ちはだかる障害を見てとりました。
 夏侯惇は雨の中で隻眼を瞬きすることなく、筋肉を緊張させて、関羽に飛び掛る機会をうかがいました。

 「これからの道中、河北の夜は冷えるであろう。そなたのためと思い、着物を届けに参った。受け取ってはくれぬか」
 曹操はそう言ってさらに関羽に近づきます。
 関羽の間合いに入りました。関羽がその気であれば、今ここで、戦国の覇者となった曹操を殺すこともできます。夏侯惇が駆けるよりも早く。

 どんなに恩があっても、曹操が劉備の敵であることは変わりありません。
 都を支配し、帝をもその手中に収めて自らの覇権を拡大する曹操という人間とは、帝とは遠い親戚にあたる劉備からしてみれば、倒すべき逆賊です。
 想いと大儀は相容れないもの。桃園の木の下で劉備と義兄弟の契りを結んだ関羽の立場であれば、ここで曹操を斬るべきなのです。

 関羽は曹操の目を見ました。

 人生ってやつはタイミングなのかもわかりません。
 曹操とは出会うべきではなかったのかも、そう考えることもありました。そのくらい曹操という人物には惹かれました。
 それでも関羽には劉備という主君がすでに存在し、それを裏切ることはできません。できなくはないかもしれませんが、過去の自分の選択を間違ったものとすることになるかもしれません。
 関羽のような武将にしてみれば、たとえ過去の選択ではあっても、それがあるからこその自分なのです。過去を偽るような決断をすれば、自分を未来でいつか許せなくなるでしょう。
 許せない自分をも曹操は受け入れるかもしれません。
 かもしれない、かもしれない…
 だが、それらはすでに遅すぎた。

 吉川三国志や横山三国志では、ここで関羽は曹操からの賜りものである着物を辞退しようとしますが、曹操に「ならば、夫人のからだが冷えぬようにこの着物を持っていくが良い」といわれ「それならば」と答え、青龍偃月刀の先でその着物をサッと引き寄せたとあります。
 これに曹操配下はカチンときた。「賜りものを刀で受けるとは何たる無礼!」
 立場の上でも関羽はただの将軍(しかも曹操のもとでは寿亭公という名誉職みたいな立場でした)、丞相曹操に対してあまりに失礼な行動ですが、関羽の現在の状況を踏まえれば当然の行為です。
 下馬し、着物を受け取ろうとした瞬間に夏侯惇や許褚が襲い掛かってくれば、その身を守る術はありません。自らの名も命も惜しくありませんが、劉備夫人と家族を護衛するという自らに課した任務は、関羽という人物にとってはなにものにも優先されます。

 ドッピオ三国志では、ここでは別の解釈をとります。

 関羽は曹操の目を見て、着ていた自分の服を脱ぎました。全裸になろうということではなくて。そして曹操から無言のまま着物を受け取りそれを大事そうに身につけました。
 そして「曹操どの。私も、その、なんか…」と消えそうな声で呟きました。

 なんか…のあとに続く言葉がなんだったのか、それはどうでもいい。

 曹操は常に態度で気持ちを伝えようとし、言葉で関羽に想いを伝えることはしようとしませんでした。いつでも一緒に飲んで「かんぱ~い」と顔を見てお互いが笑顔ならそれで良かったからです。

 そんな曹操に対して関羽はことあるごとに劉備の影をちらつかせる言葉を口にしていました。赤兎馬を賜り「これですぐに兄者のもとに帰れる」とか「ボロでも兄者からの贈り物は大事に扱っている」とか。
 関羽の主君に向けた忠誠心と、兄に対する弟の気持ちとしては間違ってはいませんが、そんな言葉を曹操はどんな想いで黙って聞いていたのか。

 だから、理解できたからこそ、今ここにきて関羽は、言葉が出てこなかったのです。

 これまで曹操だって本当は気持ちを言葉にして伝えようと試みてはいました。しかしあまり開けっ広げにそれを口にはしませんでした。その術がわからなかったから。
 傍にいて欲しいという気持ちを伝えるそのときは、関羽の主君である劉備の話をしなければならないでしょうし、それはせっかく盛り上がった楽しい時を、おいしいお酒を酌み交わす素敵なひとときを、二人だけにしか通じない楽しい会話も、一時置いておかなければならない時間となるでしょう。
 簡単にいうと、盛り下がる。
 いや、曹操自身はそれでもいいのです。相手のすることにも発する言葉にも、何一つ不快ということは感じません。一緒にいられればそれで良しなのだから。ただ、関羽に気を遣わせることはさせたくなかった。

 しかし、関羽は今曹操のそんな気持ちを理解し、想いが胸の中で去来し、気を遣ってしまいました。
 曹操はそれでもやっぱり全然構わないけど、関羽が気まずい思いをすることだけはなるべく避けてあげたかった。
 
 お互いがお互いの立場を考えるからこそ、夢から醒めて認識しなければいけないことになる。
 もしかすると曹操のとった行動は、それに繋がることを単になるべく回り道したかっただけのものであったのかも。

 だから曹操は言葉では伝えませんでした。いつも思わず口から出かけてしまった言葉はお酒といっしょに飲み込んで。
 関羽は思わず言葉にしてしまうところでした。

 「なんだ?関羽」
 「いえ、なんでもありません」

 こうして関羽と曹操は別れました。

 曹操はいっそサバサバしたものでした。関羽が去る後ろ姿すら見送りませんでした。
 「よし、許昌へ帰ろう、皆のもの」振り返ったとき、曹操の顔にはもう未練の色すら見られませんでした。
 気持ちを押し殺して、自分を捨て、自らに課せられた覇者としての使命に邁進することを心に強いた、そんな顔。最早、曹操のその目は次に攻めるべき他国への作戦に向かっていました。

 張遼はその側で、曹操の気持ちを痛いくらいに察しました。
 きっと主君曹操は、自らにとってツライ選択がいつか訪れると常に心の中で予感していた。それでも関羽を手元においておきたくて、その予感を無視し続けた。だからとても傷ついた。過ごした時間と比例した深さの傷を負った。
 張遼はそっと考えていました。
 「関羽よ、なぜ着物を脱いだのだ。あの着物は劉備どのから貰ったもので、それは肌身離せぬものだとそなたは言ったではないか。それを脱ぎ、曹操さまからの着物を受け入れたそのときがまさに別れの瞬間であったということが、どれほど曹操さまの気持ちをかき乱したのか、理解しているのか!?」

 雨が強くなってきました。曹操がこれ以上雨に打たれるまえに早めに許昌へと戻ったほうがいいかもしれません。
 
 こうして関羽は無事に劉備のもとへと帰参を果たしました。曹操への想いを断ち切れないままに。
 曹操の下に降ったときには、曹操なんかキライでした。敵だし。それでも共に過ごした時間は、思いがけず関羽にとってはかけがいのないものとなりました。
 もしも遠い未来でその記憶が切れ切れの断片になり、いつかは思い出す機会が少なくなっても、忘れることはないでしょう。
 ふとした瞬間に心に鮮明に浮き上がったとき、胸を刺す痛みとして心を乱すでしょう。

 別れは、曹操よりも関羽のほうにより大きなダメージを与えました。
 このダメージは、そのご関羽にどのような影響を与えることになるのでしょうか?
 それについてはまた来年。

 …

 今年ももうすぐ終わりですね。かなり中途半端ですが『三国日誌 補足(仮)』はここで一旦小休止に入ります。再開は1月5日の予定です。
 タイトルが(仮)なのは、この三国志は長文であるが故に誤字脱字も多く整合性がとれていないので、いずれは書き直しをしようと思っているからです。本旨を変えてしまっては、そのときそのときの気持ちをも「あとづけ」でごまかしてしまうことになるので、タイトルを変えて校正したあとも内容は変えません。たぶん。

 つーか、もうこんな時間か。なんだかんだいって酔いました。朝7時になんか起きれるのかな。


 >ここまで読んでいただいたかたがたへ

 本当にありがとうございます。今年一年を振り返ると…長くなるし、言いたいことはだいたいこの一年、ブログのなかで意味なく書き連ねたので、あえて申し上げることもないでしょう。
 みなさん、よいお年をお迎えください。

 :補足
 起きたら飛行機までとても微妙な時間だったので、夕方の便で帰ることにしました。編集するか、また寝るか。