艦長日誌 補足(仮) 

タイトルは仮。そのときに思ったことを飲みながら書いたブログです。

沖縄へ行こう! その4

2008年11月30日 22時16分05秒 | 個人日誌
 (沖縄で撮影した写真をアップしました。良ければ読み直してみてください)


 一週間前の今頃は泡盛飲んでいたな~と思い出しながら飲んでます。
 沖縄どうこうよりも飲んでいた記憶のほうが多い。多いけど、忘れている。

 以前チームで数ヶ月だけど一緒に仕事していたひとがいて、今日でそのかたも退社。気の合うひとで、僕よりも年上なんだけどツッコミやすいひとで面白かった。
 「今日で最後ですね~。おつかれさまでした」
 「ありがとうございます」
 「もう二度と会うこともないだろうけどw」
 「なんでそんなこと言うんですか?w」

 忘れたくないな~。いろんなひとに会って、いろんなことを喋ってどうでもいい話をしたことを忘れたくないな~っていつも思う。

 沖縄ッ!
 三日目の夕方に、show先生オススメのお店に向かう。オクトパスガーデンとかそんな名前の店だったような。(もう忘れてる)
 なんでもテラスでビールを飲みながらサンセットを眺められる最高の立地だとか!


 晴れてれば。
 こればかりはしょうがないですね。Romiyさんが日頃の行いを良くして、もう少し後輩を敬う態度を身につけるまでは。

 
 バーベキューしながら海見て飲む。最高~。
 死にたくないけど、今もしも死んだらこのまま沖縄の海に流してくれてもいい。

 それにしてもこのお店。僕ら以外に客がいないw
 景色も良くて料理もおいしいのに。バーベキューと飲み放題のコース、あと単品を思うがままに注文して5000円くらいだったかな~。
 「すみませ~ん、野菜とかもうちょっといただけます?」「このスパムうまいッ!もう一枚お願いします」「じゃあトマトのサラダのトマトだけをついでに」注文の仕方もテキトー。メニューにないものを注文してるし。

 しかも5時間くらいもいたのにw
 時間制限とかないんですか?!これか、これが沖縄のいいところか。

 100名は入れる店内に、その後入ってきたお客さんは一組だけ。だいじょうぶなのかな?経営とか。

 
たま~に黙って海を見る。

 しばらく無言ののちに「女のコと来たいな~」とふと呟くと
 「ここにいるでしょ!」とRomiyさんに突っ込まれました。

 途中からお決まりのように泡盛を飲み始めた。
 一口飲んで「『長老』じゃあないね」
 「こんなところで『長老』と再会したくない」

 
 たぶんなにかについてアツク話しているRomiy先輩と、たぶん全然聞いていない僕

 沖縄に来てから「女性が男を落とすためには?」という議題のもとでshow先生といろいろ意見を出し合っていた。
 「やっぱ甘えることが女性は大事。甘えるってことをうまく使わないと」なんてことを。

 代行呼んで市街地に戻る。
 ここでもテキトー具合炸裂でした。車をホテル指定の駐車場に入れたいので場所を運転手に指示するshowさん。
 「三越の近くです」
 「ああ、三越のとこね、わかるよ~」と運転手さん。

 でも全然わかってないw
 「このへんだと思うんですが…」とグルグル。
 「国際通りに出てもらえば、あとはわかるんで国際通りに出てください」
 「…たぶん、この裏とか…」
 「だからッ!国際通りに出てもらえませんかッ!」

 車を停めて、「まだ飲もう」ってカンジだったので国際通りをブラブラする。そのへんのお店とか冷やかしながら。
 なにも買わないくせに店員に話しかけるとか、ホント得意ですよね、この三人。

 ニュアンスで決めた居酒屋に入る。客いない。
 『長老』に再会。前日に飲んだ『長老』よりも度数が上がり40度ほど。危険だよね~。飲まなきゃあいいのに。

 以下、石像ができるまで。

 
 少しだけ目線が危なくなってきてます

 
 前屈み

 
 揺れてきた

 
 完成です。

 なにをしているんでしょうね。せっかくの沖縄旅行なのに。

 なにをしているかと思えば僕らが目覚める頃に、このひともカウンターで知らないひとと飲んでるし。
 
 地元のおじいさんとお店のマスター。
 あとから聞いた話だとパパイヤチャンプルーってものがあって「食べたことない」というRomiyさんにサービスで作って食べさせてくれたらしい。
 Romiyさんはパパイヤをお土産にいただいたました。
 「パパイヤは法律で飛行機には載せられないから。でもアルミホイル巻いてあればだいじょうぶ」
 そういうもんなのか!w

 このマスターのテキトーっぷりったらなかったです。
 「マスターって外国のひと?ハーフ?」
 「母方がドイツのハーフで、父方がイギリスのハーフで」
 「じゃあクォーターだ」
 「クォーターなんですかね?自分でもハーフなのかなんなのかわからないんです」って、自分の出生くらいわかろうよw

 「パパイヤチャンプルーにはツナが合うんです」と力説するマスター。目の前のチャンプルーにはツナ入ってないし。
 「沖縄では胡椒は貴重品だからチャンプルーには入れない」とか。いつの時代?

 ホテルに戻ってかるめに飲みました。僕はすぐ寝てしまったけど。

 翌日最終日。あっという間の3泊4日。時間が戻るなら一週間前の今この時間に戻りたいな~と思います。いや、卒業できなかった年に戻れるなら…あのコとのあのときに戻れるなら(際限ない)

 沖縄到着時レンタカーを借りてすぐに迷い込んだ瀬長島に、車を返す前に再び行ってみる。

 
 キレイな海。
 浜辺に下りて砂をよくよく眺めてみると、サンゴの死骸が多い。砂も星砂で明らかにこっちの海とは違う。キレイだな。いつかまた来たいな。

 空港で時間をつぶしながらブラブラする。
 飛行機乗って羽田に到着したら「バイバイ」で、またみんな自分の生活に戻って翌朝にはそれぞれの仕事に出掛けて行く。

 旅行はいいものです。お金はちょっぴりかかるけど、やっぱり人は時間を作ってでもできる限りやっぱり会っているほうがいいよ、絶対に。

沖縄へ行こう! その3

2008年11月28日 23時56分17秒 | 個人日誌
 思い出を引きずって生きる男、ドッピオです。仕事中でも一人になると思い出し笑いが出てしまいます「フフフフ…ウケコココココ」
 もう二、三日もすれば会社で僕に話しかけてくるひとがいなくなるんじゃあないかな。

 いや、ホント沖縄楽しかったんだってば。沖縄という単語だけでテンションあがるけど、showさんとRomiyさんという気の合う仲間と一緒に行ったってのが良かったんだな、きっと。
 毎晩飲んでばかりだったし、たぶんどこに行っても同じような会話して同じように笑ってたよ。

 沖縄帰りで仕事テキトーなんじゃあないの?とは思われたくないので、イキオイつけて仕事しています。今月ばっちり達成したんだもの、来月もなんとかかんとかして「どうさ!?すごいでしょ!俺って」って気持ちよく年末を迎えたいもんね。

 あー、休みたい。

 沖縄に行く前日に数字を達成して。正直「もうダメかも」って諦め入ってました。かる~く。
 西涼の雄、馬超孟起。
 父の仇である曹操と対峙し、揖水の河を挟んでの一進一退の攻防。さすがの曹操も「今まで馬超という人物は全くのノーマークだったが、このイキオイは侮れん」と青年馬超を脅威に思い始めます。

 軍師賈詡が曹操に進言します。
 「馬超は強しと云えども、基本的に勇のみの武将です。ただそこに韓遂が力を合わせ智を備えているからこそ、その勇が活きるのです。ここはその二者を離す策こそを行うべきでしょう」
 曹操は思案顔で「むむ…それは余も考えているところだが、してどんな策がある?」
 謀士賈詡が示した策は『離間の計』でした。

 やばい。
 この話長くなるわ。離間の計どうこうとか、それによって馬超と曹操の戦いがどう推移したかはまたの機会に。

 結果的に馬超は敗退します。多くの兵を失い、味方の将兵とも離れ離れになり、曹操軍の追ってにどこまでも追跡される馬超。
 万夫不当な武力を誇る錦馬超でしたが、その体力も無限ではありません。朝から晩まで追い立てられ、敵を打ち倒しながら逃げ走った馬超も「もうダメだ…」とへとへとになりながら一人呟きます。

 「いいやッ!まだやれるッ!!」
 人間、ここまでと思えばそこで終了。人生においての分岐点はいつもこのギリギリchopなところにある。
 からくも虎口を脱して落ち延びた馬超。

 馬超を討ち漏らし、再起の可能性という火種を残したままの曹操も、自軍のダメージを鑑みてこれ以上の追撃を諦めます。

 しばらくは表舞台から姿を消すことになった馬超が、そのご劉備の蜀侵攻の際に復活して立ちはだかる話もまた今度。

 というわけで、沖縄三日目。
 この日まではきっちり朝飯食べれました。翌日の朝飯はかるく吐きそうだったけど。

 メインは首里城なのですが、那覇市内に入る前に『グスク』という琉球時代の古城が見たい!というRomiy先輩のリクエスト(わがまま)で、古城跡に立ち寄ります。
 「城とかってやっぱり眺めのいい盆地とかに建てるもんなんだね~!」
 「ふ~ん」(←どうでもいい返事)

 
 グスクを歩くRomiy先輩とshowを撮るフリして、うしろからやってきたバスガイドさんを撮影しようとして失敗

 
 琉球時代に作られたグスクの城壁の上を歩く

 首里城といえば沖縄で最大の観光地。なんか以前にUMEさんが沖縄に行って首里城がどうとか言っていた気がします。
 車を停めて歩き出すと、歩道で案内のおじさんが「首里城はこちらですよ~」と誘導している。
 と、そのとき猫がトコトコ歩いていた。なんて気もなしに「あ!猫だ」と声をあげるとおじさんが「あれが天然記念物として有名な…イリオモテ…ノラネコです」とかるいジャブ。
 今までこういう気の利いたことのいう人に、ここ沖縄では出会ってなかったのでなんか妙に嬉しかったです。

 
 首里城の、なんとかという門をくぐらんとするRomiy先輩とshowさん。

 首里城は戦争で完全消失し、今見ているものは戦後復興されたもの。
 城内で温かいさんぴん茶とちんすこうというお菓子をいただきながら、巫女さんみたい服を着た女性の説明に耳を傾ける。
 向こうのほうに座っていたカップルが「戦争って悲しいよね」と小声で喋っているのを聞き「だよな~」と思いました。
 
 
 沖縄のお菓子とお茶

 沖縄のお菓子って、基本喉に詰まりそうなものばかり。昔だって暑かっただろうにどうしてこんなに飲み込みづらいものを食べていたんだろう?

 
 中国から来た冊封使を迎える首里城の様子。その模型。
 なんでも琉球時代に沖縄は中国の属国として礼をとっていたそうです。当時の中国の皇帝からの使者である冊封使という使者がやってきて、国として認められ貿易に参加したとか。
 今では想像しかできないけど、きっとこの頃の沖縄って貿易国として絶頂だったんだろうな~。いや、今がダメとかじゃあないよ!ほら、日本の歴史を学ぶときってどうしても中央政権寄りな話になっちゃうじゃん。ここにはここの文化があり、その流れがきっと身近な今にもあるんだろうな~って…なに言ってるかわからないけど。

 
 絵もテキトーw

 首里城をあとにして、飲みに行くまで時間もたっぷりあるので那覇のメインストリートである国際通りを練り歩きます。
 観光客相手のお土産品を売る商店が多いのですが、こちとら観光客なんでおっけーですよ。

 ぜんざいのおいしいお店があるということを、とある情報筋から仕入れていたのでそのお店を探す。知らない道を迷いながら歩くのもいい。
 で、僕だけぜんざい食べませんでした。Romiyさんが注文したノーマルサイズのぜんざいが、ものすごい量なのを見て。
 お腹が空いていたのでタコライスを注文する。

 メニューに「かきあげ にんじんとたまねぎと野菜」と書いてあるのを指さしながらshow先生が店員に「このかきあげって、他になに入ってるんですか?」と質問。
 「えーと…にんじんとたまねぎと…ちょっと待っててください」誰かに聞くために奥に引っ込む店員の姿を見ながら「にんじんとたまねぎまではメニューに書いてあるじゃん!テキトーw」と笑っていたのですが、戻ってきた店員の言ったことったらすごいよ!

 「えーと、にんじんとたまねぎと、あとは野菜です」
 「だからッ!その野菜ってのがなにかを知りたくて質問しているんだからよ~!」ってことなんだけど、なんか不思議と怒れない雰囲気なんだよね~。

 店員がかわいいから許すとかいう僕基準じゃあなくて(でもかわいかったかも)、こんなテキトーな返事を東京あたりの居酒屋で言われた日には、show先生と僕とで明日のニュースになるくらい暴れるよ、ホント。北炉で「オマエじゃあ話にならん!店長呼べ!」クラス。Romiyさんなら刺してるね、店員を。

 支払いをするときに「こちらのお店はどこかで聞かれて来られたんですか?」とさっきの店員。「そうね、まぁ」と僕もけっこうテキトーなんだけど、気さくに離してくる店員さんに「おいしかったです」と告げて店を出る。大人だな~(←ぜんぜん大人じゃあない)

 国際通り沿いのホテルにチェックイン。
 車でshow先生お薦めのお店に向かいながら、今夜が最後の晩か~と思うとつい寂しくなってしまいます。明日にはもう帰る。

 続きはまた次回。

 旅はいいよね。ホントいいよね。
 あの楽しさを、もっとうまく書いて伝えることができればいいのに。ここでたくさん書き残すことがきっと明日への活力になるんだよな~。もうちょっと頑張ってみようっていう。

 

沖縄へ行こう! その2

2008年11月27日 22時35分02秒 | 個人日誌
 沖縄いいよな~、沖縄。もう一回行きたいわ、沖縄。

 今日から仕事。働かないとお金もらえないし、お金がないと楽しい旅行もできないしで是非もない。もちろん休み明けから気合を入れて働きませ

 PASMOってあるじゃあない。今まで作ってなくて。「あれば便利だよ」という周りの意見を聞いても「そんなに電車乗らないし必要ない」とか言い張ってたんだけど、すみません、作り方を知らなかっただけです。
 だってさー、駅で作れるっていうじゃんか~。券売機だと「チャージのみ」とか書いてあるし、どこで作れるかわからないって。みどりの窓口とか意味もなくウロウロしたことあります。
 で、今日仕事で東急東横線だかに乗って。アホづらこいて。そこの券売機に「PASMO」の表示を見て「これかッ!」と購入。これ便利だわ~(←今さら)
 JRの券売機では売ってないのかな?私鉄だけとか。も~使えないわ~JR。うそ、ごめんなさい、父さん。

 さて、沖縄二日目。
 計画ではこの日の行動は、「美ら海水族館→昼時のどこかでご飯→どこか寄りたいもの見つかれば寄る→ホテルに戻る→どっか飲みに行く」
 テキトーですね。計画ってほど大層なものでもない。

 ホテルのテラスでしっかりとした朝食を摂って、いざ出発。
 普段あまり食べない僕だけど「このあとアクティブに動きたい」って楽しい予定があれば食べる。

 
 美ら海水族館いいよ~。ジンベイザメでかいよ~。でかいでかいと云われる僕でも、ジンベイザメにはかなわない。

 
 水槽も大きい。

 お母さんに抱っこされた赤ちゃんが、頭の上の水槽を見上げたまま口がすごく開いている姿とかかわいかったな~。

 水族館を出るとかなりしっかりした雨。日頃の行い悪いから、三人して。
 がっつり雨に降られたのはこのときだけだったけど、他の日は全部曇り。暖かいは暖かかったけどね。車の中でエアコンつけててちょうどいい。でもつけっ放しになってるとやや寒いくらい。

 古宇利島という、車で行ける離島に行きました。橋の上から何にも遮られない沖縄の海とか最高じゃあない?
 雨さえ降ってなければ。

 やはり沖縄にはさとうきびの生えているところが多い。あちこちにある。
 「あ!『ざわわ』じゃあない?」
 「今のは『ざわ』くらいですね」
 「あれは?!あれ『ざわわ』ってカンジじゃあない?」
 「おー!かなり『ざわわ』ですね!」

 ざわわ ざわわ ざわわ~♪

 showさんとRomiyさんと三人で歌うが、三人とも歌詞はここしか知らない。

 ホントね~、三人ともテキトーなんですよ、喋っていることが。
 この車の中で喋ったテキトーなことで、運転しているshow先生が
 「ドッピオさ~」
 「はい」
 「仮にだよ、仮に。妄想で。今いる芸能人と誰とでも選んで結婚できますってことになったら誰と結婚する?」
 って聞いてきたので「う~ん…ハセキョーけっこう好きだったんだよね~。でも結婚しちゃったからな~」
 「ダメダメ!現実問題として結婚しているひととは結婚できないでしょ!他にいないの!?」
 「いやwあなたが妄想でって言ったんじゃあないですかw!」

 Romiyさんが「車の中で聴く用」として作ってきたCDにオフコースの『さよなら』が入っていて。
 「なんでせっかくの沖縄旅行なのに、こんなテンション下がるような曲なんですか?」
 「わたしも選んだ記憶がない」
 「なんかもう、しんみりしちゃうわ~」
 と言いながらも、なぜかこの曲のときにはエロトーク。
 「エスカレートするどしろうとってあるじゃん?」
 「あるねー。あれはなかなかキライじゃあない」
 「やっぱたまにAV借りるといいよね」
 「ああ。たまに見ておかないとついていけなくなるね」
 前席の男二人が下ネタで盛り上がって、さすがに会話に入ってこないRomiyさんに対し「会話に入ってきてくださいよ」
 「無理。わからないし、わたしも女だからね」
 「ホントね~、そんなこと言ってると、ついてこれなくなりますよ!」
 「なにに?!w」

 『酒と泪と男と女』が流れてきて。(なんでこんなチョイスなんだろう?いや、良かったけど)
 なにも聞いてないのにRomiyさんが急に「ねぇ、この曲って男が酒で、女が泪じゃあない?」
 「そーですね」
 「わたしはやっぱり泣くだけじゃあなくて、飲みたいし、そして泣きたいな」
 「だったら一人で飲んで!一人で泣け!」

 A&Wというハンバーガー屋で遅めのお昼ご飯。
 沖縄では有名なファーストフードらしいんですけど(僕だけ知らなかった。ルートビアーっていう変な味の飲み物も初めて飲んだ)おいしかったです。こっちでもあればいいのに。

 ホテルに戻って夕方。大浴場でのんびりする。show先生が夜に行く居酒屋をネットで検索する。
 雨はだいぶ小降りになったけど、フロントで「傘って借りられますか?」「お待ちください」と答えてロビーを走り出すフロントマン。
 「すみません、傘ないそうです」
 うまく表現できないんだけど、なんかね~ホント笑っちゃうくらいテキトーなんですよ。正論で言えば「自分のとこのホテルで傘を貸すサービスを行っているかどうか把握しておこうよ」ってことなんだけど、「とりあえず無難に答えておいて、なんとか取り繕う」的なカンジなんだよね。昨日のレンタカー屋といい。
 別に沖縄のひとはテキトーとか言うつもりないです。ホントに。むしろ面白いんです。このやりとりが。

  
 大木海産物レストラン。ホテルから車で20分でしょうか。(写真はHPから)

 小上がりの席に案内されて「とりあえずビールみっつ」料理をテキトーに注文する。
 オリオンビールは何度か飲んだことがあるけど、苦味があまりなくクイクイ入る。女性でも飲みやすくていいんじゃあないでしょうか。
 おいしかったのは刺し盛りの中にあった「イラブチャー」という魚。

 あまり魚の種類は知らないっつーかほとんど知識ないんだけど、この魚は一口食べた瞬間に「食べたことない魚だな」と感じた。
 味は鯛。でもウロコというか青い皮の部分を残したまま切り身になっている。この皮のあたりがコリコリしてなんともいえないおいしさだ。
 僕もデジカメ持って行ってるなら、ちゃんと料理も撮ればいいんだけど、全然撮らなかったな~。

 
 イラブチャーさんの生前のお姿。かなり青い。

 是非とも食べてみたかった海ぶどうは、Romiyさんが「わたしこれ好き」と隣でバックバク食べていたけど、僕はイマイチだった。もっとこうプチプチのあとの爽やかな後味を想像していたんだけど、プチプチのあとのヌメ~ってカンジが。

 スクガラスっていうものがありまして。『あみあいご』だかいう3センチくらいの小魚を塩漬けにした食べ物。これはけっこうやばいよ。
 ここででてきたものは、一口大の冷奴の上にスクガラスが二匹乗っかったもの。この魚、小さいのにしっかりと魚で、食べた瞬間に口のなかで鱗のヌルヌルしたカンジや骨のガリガリしたカンジが香ばしいっていうか生臭くて、かなりオススメしません。生き物を食べてる感がまんまんです。

 「なんかさ、店員も声が小さいし、そういう県民性なのかね~?」
 「俺はさっきの店員の女のコが前屈みになったときに胸元見えたから、それでいいよ」
 「聞こえてるってw!」

 「泡盛飲まん?」show先生が泡盛をボトルで注文。(ちなみに昨日の店でも菊之露ブラウンという泡盛を二本あけて、ホテルに戻ってからも泡盛)
 showが注文したのは『古酒 長老』。

 正直泡盛ってあんまし得意じゃあなかった。けっこうアルコールもきついしロックで飲んだあとに、ナイプラでウイスキーイッキしたような首から上がブルブルッってなるようなカンジで。
 その話をすると、
 「ロックにしてガー混ぜてみな。かなり味まろやかになるから」
 「そんな混ぜるだけで味変わるわけ…」

 「飲みやすいッ!」
 「だろ?」

 『古酒 長老』の「古酒」ってのは「クースー」と読むのですが、三年以上熟成された泡盛はこのクースーと分類されるらしい。
 ボトルで4000円くらい。あとで酒屋で同じ酒をみると4200円くらい。普通居酒屋でもけっこう料金上乗せして客に提供するじゃん。ほとんど原価。このへんのテキトーさが沖縄のいいところ。
 「この長老って酒、危険だわー」
 「だよな~、大麻とか取り締まるまえに、まず長老を取り締まるべきだよね」

 うまいうまいと長老を水にように流し込みつつ(「もう一本、長老ボトルでいこう」)歓声を上げながら、流れでモノマネ大会に。
 「北の国からを観ろ!そしたらわかるから!」というshow先生のモノマネ解説に「新撰組ならできる」と応酬。showさんと俺も今までやったこともないくせに安倍元総理とか麻生総理とかのモノマネしたくらいにして。
 もうこのころには三人ともやばいくらいに酔っ払っていて、周りを気にしないほどの大声。普通にお客さんもいるのに。

 Romiyさんは大学でイッコ上の先輩なのですが、そのひとに対する僕とshowさんの態度もヒドイ。
 「バカじゃあないの?」「死ねッ!」
 「…」
 「なんで『生きるっ!』って言わねーのよ?!」
 「…生きるっ!」
 「遅いわ!死ねばいいのに」
 「生きるっ!」
 こんな会話で大笑い。

 と、ふと耳を澄ますと三線の乾いた音が。カウンターでおじいさんが一人で三線を奏でている。沖縄っぽいよね~とちょいと静かに音色を聴く三人。
 店員さんを呼んで「三味線の音、ちゃんと聴きたいのでこの店のBGM落としてくれません」とムチャな注文。
 「音いいね」
 「いいね」
 沖縄なのに飲んでばかり。ふと「そっか、ここって沖縄だよな~」って一瞬。

 お手洗いから戻ってくると、show先生がどこから仕入れたのか三線を弾いている。もちろんテキトー。でも島唄を熱唱。
 向こうの席から僕らを奇異な目で眺めていた米兵達もいなくなり、やりたい放題でした。

 前日と同様に代行を呼んでホテルまで戻る。また泡盛仕入れて。
 部屋ではipodで歌を聴きながら飲む。showさんの持ってきたミニスピーカーから流れる曲に合わせて絶叫。隣の部屋にひととかすごいうるさかったんだろうな~。



 ここで石像が登場。ずっと揺れている石像=show先生。すごいです。このすごさを是非ともみなさんにも動画で御鑑賞いただきたい。


写真は、おそらく世界初の撮影であろう石像と目出し帽のコンピレーション。
 もう久しぶりに涙が出るくらい笑いました。

 いつ頃寝たのかな?ってくらい、全日程を通して記憶は曖昧。だけどめちゃんこ楽しかった憶えがある。


沖縄へ行こう!

2008年11月26日 22時29分42秒 | 個人日誌
 どうも、めんそーれ。
 行ってきましたよ~沖縄。三泊四日。これがさ~、着いたら天気すんごくいいの。



 羽田がw
 
 つーわけで、沖縄での四日間の天気はどう贔屓目にみてもいいとは言えませんでした。今日こっちに帰ってきたら無駄に天気よくて。
 この太陽が沖縄で欲しかった…。

 show先生、Romiyさん、僕の三人での旅ですから沖縄での天気の悪さにも「誰が日頃の行い悪いんだ?」と問われれば、これはもう誰か?って話じゃあなくて、三人とも日頃の行い悪いし~。

 今日から何日間で、今回の沖縄旅行について書きますが、先に言っておきますと「全体的にヒドイ旅行」です。
 沖縄ったらさ~、輝く海と青い空に沖縄独特の料理とお酒、潮風を感じながら自然と触れ合うような素敵な旅じゃあない?
 まったくそんなことないから。もうねー、そのへんで三泊四日しても同じだったんじゃあないってくらいのテキトーっぷりです。

 それでも旅行はテンションが上がります。
 言っといてなんだけど「やっぱ沖縄だからこそ楽しかったんだよな~」って今思ってる。

 showさんとRomiyさんも、きっとそれぞれ書くだろうから、僕の目線で見た沖縄旅行を書いていこうと思います。

 一日目。
 起きたら具合悪くて。ちょっぴり二日酔い。それよりも喉が痛いし鼻水は出るしで、完璧に風邪ぶりかえしてました。
 飛行機は夕方の16時だったので、割とのんびりはできた。

 showさんともRomiyさんとも半年振りくらいに会う。
 まずヒドイのがさ。空港で待ち合わせていて、空港カウンターにいる二人を発見。遠くで手を挙げていた二人に近づいていっても顔も見ないし、お互い「久しぶり」とか挨拶ないからねw

 なんせ初めての沖縄なので、フライトの時間もどのくらいかわからなかったのだけど、3時間も!。
 飛行機だけは勘弁な!ってほど飛行機苦手でもないのですが、途中で頭がガンガン痛くなって首まで固まって「あー、これは助けを必要とするほどヤバイ」って本気で感じ、ものすごい汗をかきました。あんなの初めて。
 僕が耳抜きできないせいなんだけど。おかげさまで帰りの飛行機ではできるようになりました。

 那覇空港に到着したのが19時。空港前でレンタカー屋のバスに乗り込む。
 バスの中ではそのレンタカー屋の女の人が、この四日間僕らの足になる車についての契約の説明をしているんだけど。「保険はこうこうで、プラス幾ら払えば免責の部分も補償します」とかなんとか。
 旅先で事故ってお金かかるとかは、そんな万が一はないだろうけど、なったときイヤだし、show先生も「保険、全部入っちゃおう」と言ってるので、僕は「全部入ったら幾らになるんですか?」とその女の人に質問した。
 「…ちょっと待ってください。え~と…せんろっぴゃく…いや、せんごひゃく…」

 あとになってさー、「つーか、自分のとこでやってる商品なら値段くらい憶えておけって話さ」と僕は憤って喋っていたのだが、この時点では「なんかテキトーな会社だな~」くらいでたいして気にもしてなかった。
 具合も悪かった僕の体調的に、たいしたことじゃあなくても、ちょっとしたことに腹も立ちやすかったのかな~ってくらいで。

 いざレンタカーを借りる際に店員さんに「どこか近くでおいしい晩ご飯食べられるところありますか?」と尋ねる。
 ほら、やっぱ旅行に行ったからには現地のひとお薦めの店に行ってみたいし。

 店員さんはパンフレットを指さしながら「…この店に、よく行く…らしいですよ」

 オマエはどうなんだ?!聞きたいのはそこなんだ!
 って話よ。

 でもまぁ、教えていただいたお店で沖縄そばとフーチャンプルーを食べる。
 おいしかった。特にフーチャンプルーが。お腹空いていたのもあったけど、三人して「これうまいね!」「おいしい」ってあっという間に食べたもんね。

 ホテルへ。


 (写真はホームページから)
 ホテルは那覇市内から車で一時間ちょい離れた読谷村にある『沖縄残波ロイヤルホテル』です。
 辿り着くまでの道のりは、夜ということもあってかなり暗いです。


読谷村このへん。

 そうそう、レンタカー屋を出てからナビにしたがって走っていると(ちなみに今回の旅行で僕はビタイチ運転していません。普段仕事で運転ばかりしていてダルイから)、イキナリ最初の5分くらいで離れ小島みたいなとこに誘導されて。
 あとになって『瀬長島』という場所だったとわかるのだけど、真っ暗な道を走っているすぐ横がガードレールもなくそのまま海なので、注意しないと海にドボ~ンです。

 ホテルでは、到着時にスタッフが荷物を部屋まで運んでくれますよね。
 受付を済ませてロビーを過ぎ、エレベーターを待つ。他の客もたくさんエレベーターに乗り込んでしまったので、僕らの荷物をカートで押していたスタッフが「お先にお部屋のほうへどうぞ。あとから荷物はお届けします」と。
 で、僕らの乗ったエレベーターの扉が閉まろうかというときに「部屋番号どこですか?!」

 ね、なんかテキトーじゃあない?w
 ひとが。全体的に。

 部屋に着いた頃にはもう22時。すぐにでも飲みに行きたかったので、フロントで近場の居酒屋をリストアップしてあるプリントをもらっていた。
 showが「この店まで行くのに、道はどう行けばいいんですか?」と聞くと、普通は地図で教えてくれるかなんかするじゃん。
 ところが、フロントは「…お客さまの車にナビはついてますか?」
 「はい、ついてます」
 「電話番号で検索できますよ」

 なんか不思議なことにねー、腹はたたない。「そういう地域性なのかな~」ってこの頃からもうギャグみたくなって。ここまでくると。

 居酒屋で軽めに飲んで。最初ビール、あとから泡盛。泡盛って苦手なんだけどせっかくの旅だし、土地のお酒を飲まないとね。
 (明日以降に『長老』という名の泡盛が出てきます。今回の旅のキーワードというか、旅の全てがこの『長老』という存在に支配されていたくらいなもの)

 沖縄ではタクシーに乗るよりも代行のほうが安いという話を会社のひとから聞いていたので、居酒屋まで車で行き、帰りに代行を頼みました。
 代行安い!これは本当にみなさんにもお伝えしておきたい。普通はタクシー代プラスいくらいくら、ってのが相場だと僕は思っていたのだけど、沖縄では常に1000円。それ以上ない。
 車で飲みに行っても、それでホテルまで戻ってこれるなんて、嬉しいですよね~。

 途中で寄っていただいたコンビニでお酒を買って(このとき買ったのは泡盛の『残波』)部屋で飲む。

 翌日は、美ら海水族館です。
 

沖縄前日

2008年11月23日 00時30分05秒 | 個人日誌
 酔ってるので簡潔に。

 明日から沖縄。今夜は準備をしながらゆっくりとしていようかな~と考えていました。洗濯したり、掃除したりしながらさ。

 仕事的には今日まででなんとか達成しておきたくて、計画では昨日で達成のつもりだったのにダメで「まぁしょうがない」とかる~くあきらめ入っていたのだけど、今日朝起きて「イキオイでやるしかない!」そんなカラ元気で数字も達成。
 こころおきなく沖縄。

 夜会社で。つら~っとしていて。
 この前コンビニの駐車場で他のチームのひとに偶然会って「来週からこの辺りまわるんですけど駐車場ないし、路駐で捕まるの怖いですよね~」という話をしていたので、先輩ヅラして「だいじょうぶ、このへんは警察こないよ」とアドバイスしていたのですが、今日まんまと捕まったらしいです。

 「ホントごめん!」なんて大笑いしていたら、かるく飲みに行こうなんてことになりました。
 なんだかんだで10人以上。近くの焼き鳥屋へ。ほぼ全員が、初めて飲むひとたちだったんだけど楽しく楽しくて。
 けっこう飲んじゃいました。

 明日の荷物も全然まとまってないし、部屋に帰ってきてから「携帯がない!」とパニックになりましたが革ジャンに入っていました。

 明日の飛行機はそんなに早くないから、寝過ごすことはないだろうけど、ちょいとマズイね。腰痛いし、喉痛いし。
 なんか意味わからないけど洗濯機回してしまって、干すまで寝れない。早く寝たい。

思い出せるだけ~思い出して~遊びた~い

2008年11月21日 22時55分11秒 | 個人日誌
 朝晩がホントに寒いです。空気の乾燥がひどくて治りかけていた喉がまたちょっと痛い。
 空気が澄んでいるせいか、朝の通勤の途中で自転車に乗りながら見る富士山は山肌がくっきりしていてキレイです。夕方にも、シルエットだけになった稜線がなかなかオツです。

 日常仕事をしているときなんかは何も考えていなくて、一日中なにも考えていない。それでもたまにキレイな景色に出会うと「これを見せてみたいな、シジマに」とふと思う。「いや、シジマよりも関井に見せたい」
 どうでもいいか、そんなこと。

 夜になって一人で飲んでいると、昼間では頭に浮かばなかったようなことが、ふとよぎる。なにをみてもなんでも結びつけて考えようとしてしまうんだよな~。病気じゃあないよ。

 日付が変わろうとする頃に「誰もがもう あきらめて 苦くほほえむ~けれ~ど♪」と電話が鳴った。
 こんな時間に俺様に電話してきていいのは女のコかシジマくらいだぞ、とどうでもいいことを考えながら出てみると、以前バイトしていたテレビ局のADからでした。
 歯を磨いている途中で、口中泡だらけだったので「あとでかけなおす」と言って一旦切る。

 もう何年も連絡とっていなかったのに、なんの用だろ?まぁ、かけなおしてやらんこともない。
 「なんかあった?」
 「いや、用はないんですけどどうしてるかな~って」

 このADさん、今でもADなのかどうかは知らないけど、僕が大学卒業できずにバイトばかりしている頃に制作会社からやってきて、同じ現場でADをやることになった。
 バイトのくせして偉そうだった僕はくわえタバコで「おうおう、新人が来たか。この俺がたっぷりと教えてやらぁ」と挨拶。向こうが年下ってこともあるし、優男みたいなカンジだったし。

 ところがねー、彼なかなかエロイし、趣味が飲むことっていうナイスガイだったんですよ。
 毎日顔をあわせていれば、最初は探り探りでもお互いなんとなく似たようなものを感じるっつーか。

 「年末に東京行くんで、どこか面白いところあれば教えてもらえませんか?」
 「俺もあんまし東京には出ないからな~。いつ来るのさ?日程合えば飲みましょうか?」
 「行くのは31日なんで、良かったら札幌で飲みましょうよ」
 「いいね」
 「じゃあ俺、ひと集めておきますよ。誰呼ぶ?」
 「(タメぐちかよ)そうだな…、みんな予定あって忙しいだろうけど、何人か会いたいな」

 このADさん、年下だけどさ~。バイトよりは偉いじゃん。でも僕のほうが長いしで、お互いが敬語の言葉遣い微妙なんだよね。
 向こうは完全に敬語だし、こっちもなんかタメぐち使いづらいし。

 「敬語を使うのが面倒」ってタイプな僕ではないんだけど。
 放文の後輩とも付き合い長いけど、意外とジューシーやダーキシも僕にタメぐちきいてきたことないよな。まぁ、タメぐち出た日には飲ませるけどね。あべくんもないな。シジマは…敬語使ってるけど、目線が上。つーか、神。

 もちろん、よね3やUMEさん、Romiyさんにはいつも敬語なつもりだけど、こればかりは自分評価だから、たまに変な口きいちゃってるかもです。

 そんなカンジで近況を話す。誰がどこの局に行っただの、誰は戻ってきてまた一緒に仕事しているだの。
 札幌でバイトしていたのは、もう七年も前になるしその頃のひとの顔はなんとなく頭に出てきても名前は思い出せない…なんてことはなくて、これがけっこう覚えていたりする。

 大学5年生になって、今以上にテキトーに生きていたとき。
 地方のテレビ局で、自主制作の番組を夕方の時間帯にやりましょう的な流れが全国的にあった。もうあまり学校にも行ってなかったし、「良かったらその番組でカメアシやってみない?」という誘いもあったので気軽に引き受けた。
 バイト代は安かったけど、キライじゃあない仕事だったし、土日でも働くことがあまり苦じゃあなかった当時。
 夜になったら部室に行って、そこから飲みに行ってたけど。

 案の定、また留年することになったけど。単位もなんとかなるべ~ってくらいのかるい考えでバイトの量を増やす。
 北海道生まれのくせして「寒いのヤダ!」って言うようになったのはこの頃から。毎日毎日寒い現場に出ていると、本気で冬がイヤになる。厚手の靴下とももひき履いて、もっこもこになってました。

 卒業して春が終わり、夏になり、秋が来て、冬はボケボケしたまま25歳にもなってから、ひとよりもだい~ぶ遅れて「このままじゃあイケナイよな~」ってことを考え始めた。そして冬を越え、春が過ぎ、夏は毎週海ばかり行ってたな。銭函とか積丹あたり。

 上のほうで「今のままバイトで雇うことはできない。かといって社員にすることもできない」って話になり、僕もここらが潮時かな~と思った。
 思いがけず盛大な送別会を開いていただき「僕はたいした仕事してなかったけど、周りのみんないいひとだったな~」と思った憶えがあります。

 さっくり辞めた、むしろ辞めざるをえなかった当時なんだろうけど、けっこう記憶もうろ覚え。
 たぶん、わからんけどさー、今後どうしようかけっこう悩んだんだろうね、優柔不断な僕のことだから。あまり憶えていないことが幸か不幸かはおいといてよ~。
 今となっては歯を食いしばるほどに辛かったことや悔しかったことよりも、なんでもないノホホンとしたことばかり憶えているな。

 一時期、この業界で生きていこうかな?なんて考えたときもあった。能力なかったけど。
 ダメだったし、これ以上ゆったり悩む時間ないし~って僕は諦めたんだよな、結局。(時間なんて腐るほどあったくせに。今でもあるんだろうけど)
 誰かがいってました。自分から諦めたものは二度とは返ってこない。でもやむを得ず手放したものは、その気持ちさえ持ち続ければいつかはまた巡ってくると。
 諦めたんだよな、あのとき。

 すごく仲のいいひとっているじゃあないですか。生きていると誰にでも一人か二人は。
 ちょっとくらいかっこ悪い姿みせても「まぁ、このひとにならいいかな」ってひと。(なんでも話せるひとってのとはまた違う。なんでも心の奥底を見せられるかどうかってのは、気が許せるのとはまたちょっと違うと思う)
 そりゃあ、自分も周りにいるのはそんなひとばかりだよってわけにはいかないけど。
 気にしてくれる誰かがいるのはいいもんだ。

 友人を作るのはうまくない。むしろ人付き合いが苦手だと感じている、自分は。初対面の人間とかにはとりあえず警戒するしね。まず自分から話かけないし。だってほら、勇気を出して「初めまして!」なんて僕あたり第一声から噛みそうじゃん。

 ひとに信用されて、ひとの心の頼りにされるには「自分を包み隠さずさらけだすこと」なんて、よく一般的にいうし、そこらの本にも書いてあったりする。
 そんな包み隠さずなんてハシタナイ…と恥じらいの気持ちがあるので、なるべく自分の感情はオモテに出さないようにしているつもり。
 でもさー、同じ気持ちで同じように過ごしていたりすると、知らず知らずに伝わって「このひと、なんか気の置けないカンジだな~」ってのがあったりする。

 「このひともこう思ってるだろうし、僕もそう思う」というレベルで。深層心理までガッチリ把握ってことはないし、気持ちが通じるってことでもないけど、見ていると「このひとも今の仕事好きじゃあないんだろうな~きっと」くらいとかで。

 つつみ隠しているつもりで、僕なんかはたぶん言葉の端々に気持ちが出ちゃっているのかな。いいことなのか?わるいことなのか?
 「こいつは自分にウソのつけないやつだ」といい意味で受け入れられるか、「こいつは人の気持ちの機微がわからないどうしょうもないやつだ」って突き放されるかのどっちかだろう。
 話が変になってきたね。

 今急に思い出したのがさ~。去年チーム一緒だったひとが。
 僕もやたらと「やってられっか!こんな仕事!」ってやつだから文句ばっかり言ってたんだけど(勤務時間にはこっそり言って、飲み会で酔ったイキオイでいう卑怯者。そのくせ飲み会に上司がいても言ってしまう。で、最近はこっそりも言わずに堂々と文句。最悪ですねw)、もう来月で別のチームに移動になるひとが、なかなかうまくいってなかったようで「俺、もうダメです」的なことを言ってたわけですよ。
 ひとの悩み相談できるほどに人間のできていない僕は「うんうん、気にしないで」とテキトー(?)な相槌打ってたんだけど、「でもドッピオさんがいてくれたからなんとかやってこれました」とか言ってきた日には、嬉しかったですよ。
 別に、頼りになる僕でしたって話じゃあなくて。僕もさんざん仕事の愚痴を言っていたけど「そう考えているのは俺だけじゃあないって思えて」って…ふむー、なんだか、自分褒めているみたいな文章になってきたので、話戻すわ。

 バイト時代に、年下にも多くのバイト仲間がいて。
 ADさんが話す「あいつも今じゃあ偉くなって…それとやつも今ではパパになって…とりあえずみんなに声かけておきますから、予定空けておいてくださいね。待ってますから」なんて言葉を聞いていると、僕は恵まれているのかもしれないってことを、ひとにいわれるまでもなく考える。(慎まねばならん)

 何年も連絡とっていなくても、ときにふと誰かのことを思い出したりしない?「どうしているのかな?元気かな?」って。なんでもない日常を過ごしているときほどそう。冬になれば「あのバイトの頃、めちゃんこ寒いなかで風がビュンビュンで、雪が顔に張り付いてくるような現場でこんな話してたな~…」なんて。

 考えていることも思う気持ちも、一人一人が違っているのは当然じゃん。でも、同じ景色を見て、同じものを食べて、ビールを飲んでいたある日のどこかをみんな考えて、心のどこかに留めて、生きていく力にしている。

 例えば「ジューシーもダーキシもあべくんもシジマも!オマエら全員いますぐイッキしろ!」って怒鳴ってても、あとあとになって「あのとき一緒に飲めて良かったな~」て思うはず。それは先輩だからどうだってことではないはず。(後輩にとってはいい迷惑だろうけど)

 普段からそんなこと考えてひとに会っているわけじゃあないけど、誰もがみんなそういうもんじゃあないの?
 シンプルに、あなたがいるから自分がいるってように。

 互いに想うことも考えることも違う。歩み寄れるって思うのは間違いなんだ。でも、もっとシンプルな感情。希望も悩みも、今ここにあるのだけど。

 あなたが誰かをふと思い出すとき、その誰かもあなたのことをふと思い出していますよ。
 きっと。たぶん。 

そ~れ~で~もキミは 笑顔くれるの?

2008年11月19日 23時24分16秒 | 個人日誌
 木人拳vsг !!

 とある札幌のビアガーデンで。
 よね3先輩の木人拳の発動を目撃したので、思わず携帯のカメラで撮影しましたが、これが思わぬ余波を生みまして。
 このままでは忘年会で僕が折れている姿を写真に撮られて、ネット上で曝される危険性が出てきました。

 まぁ、全裸写真がいつの間にか流出しているし今さら怖いものはないのですが、将来僕が偉いひとになったときに困ってしまいます。神奈川で蜀漢の皇帝に即位するときとかに。

 放文の掟では先輩に逆らうのはご法度です。先輩が、僕の折れている姿を撮りたいとおっしゃるのなら、僕が折れるのがいいんです。
 だけどこのまま為すがままにはなりたくないし、撮られたら撮り返すくらいの抵抗はみせたいですよね!(←誰に言ってるんだろ?)「撮るまえに飲む!」「飲んだら撮る!」くらいには。

 
 デジカメ買いましたw
 これで、木人拳を撮り放題です。動画も撮影できるようなので、木人拳の揺れ具合なんかもバッチリです。
 沖縄でのshow先生のムチャっぷりも、Romiyさんがお嫁に行けないような写真なんかも撮り放題。ふふふ…夢は広がるな~(小さな夢)

 昨日は川崎でお好み焼きをいただいてきました。
 お好み焼きは普段あまり食べないけど、焼き具合なんかを見ながら飲むには楽しいですね。もんじゃ焼きもあります。
 もんじゃ焼きは以前じゅさんとよく辻堂で食べたもんです。海でガー泳いだあととかに。

 こんなお店。
(写真はホームページから)
 入り口の佇まいはキライじゃあない。


 席も個室ふうでいいですよ。服はおもいっきり煙まみれになるけど、そんなことを気にして飲んでられるかってんだ。
 店員さんが笑顔でお好み焼きももんじゃも焼いてくれるので、楽ちん。毎日焼いているとはいえ、手際のよさに見とれてしまう。ショートカットの似合うかわいい店員さんにも見とれてしまう。

 飲んでいるときはだいたいいつも脈絡のないことを話す。最近あったこととか会社にこんなひとがいるとか、もうすぐ年末だし帰省したらどう過ごすとか。

 川崎には何ヶ月かに一回飲みに行く。僕なんかはいつもお店は適当に決めるし、道も全然憶えられない。
 仕事なんかで「もうやだ~」なんて弱気だらけなんだけど、たまに飲んでいると「うむ~、この日のために今まで面倒な仕事もなにもあったんだろうな~」とか思う。

 一体自分はなにをしているんだろう?ってことを考えてしまうこともあって。「誰のためにも生きていないな~。なにができる?なにもできないし、やろうともしていないんじゃあないか?」って自分を責めることは誰にでもあるのだろうけど。「今ここで飲んでいるためにあるじゃん」ってほど達観はできないけど、ひとと顔をつき合わせて「わー、これおいしい」とニコニコ笑っているときは、幸せなのかもしれない。

 「べつに寂しがり屋なわけじゃあないぞ」と言うと「昔から寂しがり屋さんだと思ってましたよ」みたいなことを言われた気がする。
 あと、「最近冷奴にかつおぶしをガーかけて、そばつゆかけて食べている」と言うと「同じものばかり食べますよね」とか「カロリーは気にしないのに塩分は気にするんですね」とか。

 山芋をスリスリしたものに卵が入っていて、それを鉄板で焼いて、中に入ったチーズがトロトロしたのがおいしかったです。表現ヘタだけど。もっとうまく喋れないものかな、自分。

 時計をチラリと見て「まだ終電まで二時間はあるし、ゆっくり飲めるな~」と思っているとけっこうあっという間に時間がくる、いつも。

 そんなに早いペースで飲んだつもりもなかったんだけど、帰りの電車で立っていられなくなって、ドアの近くでしゃがみこんでしまいました。
 このDIOが~ッ!梅酒を飲んで立てないだとォッ!!

 基本的に強がりで、人前であんまし弱いとこなんか見せたくはずなんだけど。
 自分が選んだお店の場所がわからなくなってウロウロ迷ったり、飲んでテキトーなこと言っているときや、終電の時間を気にして早足になって焦ったりしているときなんかに、僕はいつも心の底まで見透かされてるような気がする。
 それでもいいか~と考えながら飲んでいる。
 そして、女性をあまり気遣うこともできていないよな~ってことも考える。

 とうとうもうすぐ沖縄です。
 週間天気予報では雨は降らないみたい。最高気温は25度くらいなのかな。やっぱりこっちよりは全然暑い。
 沖縄の気候にからだがびっくりしないように、今日はサウナで30分ほど汗を流してきました。
 寒いよ~寒いよ~って小さくなっているよりも、どっちかといえば暑くてたまらないってほうがたぶん好き。

誰もが似たような症状抱えてもがいてる

2008年11月17日 23時01分09秒 | 個人日誌
 けっこう昔からなんですけど、たま~に起きたら目の感じがおかしくて片方だけ二重になったりします。今それ。
 疲れているときになるのかな~って思うけど、そんなに疲れているつもりもないし、なるのも久しぶり。一回一回憶えていないけど何年振りかな。学生時代には二日酔いのヒドイときなんかになってたけど。

 今さらだけどそろそろ冬物の服が欲しいところだにーと考えていたのだけど、ある日会社で書類を書いたり、電話をかけながら「だるいわ~」言いながら隣の席のイケメンくんと話していていると「仲間と自分のブランド作ってるんですよ」なんてことを聞いた。
 「へー、どんなんあるの?」とカタログを見て「これ一着ちょうだい」と2秒で買う。

 会社の帰り道。「お腹空いたけど、もうどうでもいいや」ってくらいの時間、同じチームの人たち男三人で歩きながら、会社のあるひとが乗っていたベンツをやめて、軽自動車に買い換えたという話をしていた。
 やはり維持費がかかるし、車検も高いしとか。そのベンツのひとは最近結婚したので「結婚するとお金をなるべく節約するようになるもんなんですね」なんて会話になって。

 節約ができるようなしっかりしたひとが結婚するのか、結婚したからしっかりするのか、みたいな話題。
 卵が先かニワトリが先か…みたいなもんかな。

 僕は「しっかりしているからこそ、やっぱ結婚とかできるんじゃあないですかね~。イキオイもあるかもだけど」と言うと、既婚者のひとが「いや、結婚なんかイキオイだよ。自分は遠距離恋愛だったんで交通費ももったいないし『じゃあ結婚しようか』って話だったし」といい、未婚のひとは「結婚か~。いつかするかもしれないですけど想像できないですね」と言い。

 最後に発言したひとは、恋人が車ってくらい車が好きなひとなんだけど年下なので先輩パワーで意見してみる。「俺もキミの歳くらいのときは、まぁいつかはな~とか考えていたけど、そんなこと言ってたら結婚できないよ。バシっと行けよ!バシっと!」
 「じゃあ今のドッピオさんはどうなんですか?」と問われて「うむー…」答えられない。

 「お客さんのところに行くと、汚いアパートに住んでいる50、60くらいの、ずっと独身なんだろうな~みたいなおじさんいるじゃん。テレビだけが楽しみみたいな」
 「いますね。ああいうふうにはなりたくないなっていう」
 「俺もそうなんのかな~…」

 昨日、湘南国際マラソンがありました。もちろんエントリーしていない。
 うちの会社からは18人がエントリーして、フルで完走したのは3人だったそうです。42.195キロ。想像するだけで…いや、想像できないほどの距離です。

 完走した一人は、あまり話をしたことのないひとだったのですが「完走おめでとうございます!どうでした?」と尋ねてみました。
 この大会に出場を決めた半年前くらいから5キロを走るようにして、一ヶ月前くらいから10キロを走っていたそうです。そのときのタイムが10キロで55分くらい。
 本番では20キロ地点まではけっこういけたけど、30キロまでは「これはやばい」ってカンジになり、そこから先は歩いたり走ったりの惰性。「こんなにツライことはない。また来年出るかって聞かれたら、もうやだね」と言ってました。
 「じゃあ来年、一緒に参加しますか?」「しないってw」

 後輩相手に「フル走るなんてすごいよな~」なんて話をしていて「来年でますか?」と真顔で聞かれ、少し考えて「それまで会社にいるかわからないw」
 「僕もですw」「じゃあお互いまだ働いていたら出場するという方向で」「その方向で」

 今月はずいぶんと同僚がいなくなりました。寿退社だったり、一身上の都合だったり、不景気のあおりで派遣社員が契約更新されなかったり。
 仲の良かった女性も結婚を期に辞めることになって、その女性の仲良かった女性も辞めるとか、ホントこの会社は人事異動というか、いなくなりすぎ。
 「送別会しましょうよ?いつがいいですか?そのひとも呼んで」とコピー機の前で話していると、
 「あのコ、ドッピオさんのファンだったんですよ」
 「マジで!?早く言ってくださいよ!」

 新卒の後輩が、夕方車で事故ったという電話が入って「代わりに動けます?」「ヒマだからいいよ」
 幸いたいした事故でもなかったのだけど、先週もこの後輩は車を擦って始末書を書いたばかり。相当落ち込んでいるだろうな~と思って「あとの仕事やっておくから早めに会社に戻ってこい」と電話で話すと「そんな悪いですし…だいじょうぶです。ありがとうございます。だいじょうぶですから」と、全然だいじょうぶそうじゃあない。
 この後輩、ちゃんとしているやつで。よっぽど僕よりも社会人らしくて真面目なんだけど、真面目なぶんだけミスしたときって凹むよな~。まぁ、でもその困難を乗り切るだけの力はあるので、なんとか今後もやっていくだろう(←上から目線)

 ここ何週間もイキオイだけで仕事していた気がします。イキオイつきすぎて、いつどこでどんなお客さんにあったのか?何の仕事を抱えていたのか?昨日のことが思い出せない。

 今日のブログも脈絡ないけど、たいていこんなもんだよね~、普通。

この大空~に 翼を広げ~ 飛んでいきた

2008年11月14日 23時46分00秒 | 個人日誌
 イチローって、この何年もお昼ご飯はカレーらしいです。奥さんの作ったカレー。
 そんなにカレーばかり食べて飽きないのかな?いや、僕もカレー好きだけどさー。カツカレーとか。カツカレーって邪道?

 カレーばかり食べているのも、ひとつ自分の体調を判断するバロメーターらしいです。
 いつもいつも同じ味を食べているので、その中で違和感を感じると「どこかからだの調子がおかしいのかな?」と気づく。

 似たようなところで「今日はやたらとビールが進むな~」とか「なんか飲めない」っていうのもあるね。似てない?風邪ひいてるとビールがまずいとか。(←こんな日常がイチローレベルとの差を感じますね)

 車で移動することの多い仕事なので、車中のラジオでよく聴いているのが「テリー伊藤のってけラジオ」。
 今日のゲストは、知らないひとなんだけど山本ジュンコさん?だったかな?
 そのかたがラジオの中で生歌で『翼をください』を歌っていました。

 いま わたしの ねが~いごとが~ 叶うならば~ 翼がほし~い~♪

 って歌。有名な歌ですよね~。
 僕は中学校のときに教科書に載っていて、それで知ったような。

 あの おおぞらに 翼をひろげ 飛んでゆきたいよ~ほ~ キレイな水しぶきあげてさ バタフライしたいよ

 僕ね~、中学校のとき成績悪かったんですよ。英語とか2だったし、美術なんか1とったことあるね。(今でも絵とか苦手。描けないし、どんな巨匠の絵も正直全然なにがすごいのかわからない)

 中学校一年生のときの担任の先生が野球部の監督で「オマエこのままじゃあ高校行けないぞ」って言われました。
 三者面談ってあるじゃあないですか。担任、親、自分との三人で学期末なんかに面談するの。
 一年の一学期にそこでそんなこと言われて「ケッ!高校がなんだ!勉強できりゃあエライのかよ!?俺は生きたいように生きるんだ!」とくわえタバコでいっぱしのできそこない…ではなく、勉強ってなんなのかそこからまず教えてくれ!ってくらいの問題児というか、自分というものがあまりなかった。
 担任の言葉に、父さんは「息子に対して、こんな屈辱的なことを言われたのは腹が立つ」みたいになりまして。
 そっか、僕は先生にも怒られるし、親も困らせる、あまりできのいい子供じゃあないんだな~って幼心(?)に思ったのを憶えています。

 本気で勉強なんかしたことなかったから、なにをしていいのかわからないんです。ホントに。数学で100点満点中の8点とか、英語は12点とったことがあります。

 二学期になって、仙台の中学校から転校生がやってきました。彼は僕と漢字は違うけど、名前は同じ「よしあき」ってやつで。実名だしても差し障りないだろうけど「佳明」って書く。
 僕は「よしくん」と友達から呼ばれていて、彼は名前を音読みして「けいめい」と呼ばれていた。
 「けいめい」は野球部に入部。

 放課後、野球部ではランニングのあとの筋トレをして、キャッチボールを始める。
 キャッチボールでは、クラスも一緒のこの転校生と組むことが多かった。

 本人曰く「前の学校では一番頭がよかった。野球は初めてだけど、筋力じゃあ負けたことがない」
 ムカツク転校生じゃあないですかw。みんな学校指定の学ランのなかで、一人だけ制服がブレザーとかだし。

 ところがこれが妙に気が合って。
 自分で「成績良かった」っていうだけあって、テストの点数もいいんだよね。
 で、尋ねてみた。どうしてそんなにいい点がとれるの?
 「暗記すればいいんだよ。全部。教科書に書いてあることしかテストには出ないんだから」

 当たり前の意見ですが、当時の僕にとって暗記すら困難。(今でも記憶する作業は苦手。たいがいのことは忘れてしまう。これはもう脳のつくりの問題じゃあないのか?とも思う)
 教科書をひたすら何度も読むのはイヤンなるので、授業だけでもきっちりと先生の話を聞こうと思いました。(当たり前か)

 なんだろうね。どっかでスイッチ入るというか。
 まったく知識ないところから三国志を知ろうと思っても、どこから憶えればいいのかわからないじゃん。たまたま興味をもった事柄を「これってどういうことだ?」って疑問をもって、考えると「そのとき登場してくる周喩って何者?」「そのご起こる赤壁の戦いってなにが原因?」って、解決が疑問を生んで、またさらなる話へと続いていくような。

 あるとき急に理解できるんだよね。「つまり、これを理解するために以前の数式があったのか!」ってカンジで。

 二年生になり、ようやく勉強は大事なんだな~ってことに気がつく。面白くなってきました。
 数学の証明問題とか、ひとつひとつ理論を積み重ねて解いていく過程が楽しかったり、理科では気象の分野とか好きでした。世界史はまるで物語のようで、先生の話が楽しくて楽しくて。相変わらず美術は成績よくないけど。美術だけ2のまま、他は4になり、テストでも「けいめい」に負けないほどになった。

 野球部の監督は、もう担任ではなくて理科と数学をうけもっていらっしゃったのだけど「なんだ、やればできるじゃあないか」ってもんで。
 野球はあまりうまくならなかった。「けいめい」が二年生にしてレギュラーになり、サードのポジションを得た頃、僕は補欠。
 それでもぼちぼち試合にも出られるようになったのだけど、バッティングもイマイチで守備もイマイチだったので、「誰よりも努力しないと試合じゃあ使わないぞ!」とよく怒られた。

 周りの人間がどんどん力をつけていくなかで、僕だけやたらと背は伸びたけど力は貧弱なまま。
 みんなと同じようにはできない。なにができればいいんだろう?考えて考えて。
 バントの練習ばかりしました。バントなら力関係ないし。おかげでバントは超うまいよ。いかにして転がすか。
 でも、バントできれば使ってもらえるってもんでもない。ランナーいなきゃあい意味ないしね。セフィティーバント?だめだめ、足遅いもん。

 僕を含めてほとんどが野球初心者の集まりという野球部だったんだけど、監督はとにかくひたすら「堅実な野球」を目指していたように思います。デカイ当たりよりも「次に繋げるバッティング」と「確実にアウトをとる守備」。
 たとえランナー三塁の場面でも、タッチアップで一点より、内野ゴロを転がしたほうが相手のミスを誘いやすいというカンジだったり、こちらが得点圏にランナーを抱えていても打者に集中してひとつのアウトをとる。

 三年生になって。
 今でも憶えているんだけど。ある日の練習試合で。
 こちらの攻撃でノーアウトランナー一塁。中学野球のセオリーなら送って走者を二塁に進めるところ。当然サードは前進守備。
 打順「けいめい」のところで、監督のサインはもちろん送りバント。けいめいもバントの構え。

 ピッチャー投げました!
 けいめいは、バントの構えのまま、サードがゴロになるであろう打球を処理をしようと前に飛び出したのを見て、なんとプッシュバント!
 プッシュバントですよ!プロの試合でもなかなかないプレー。

 (送りバントとは?…打球のイキオイを殺してコロコロと転がし、その隙にランナーを進塁させて、自分はアウトになる、アウトカウントをもらっても得点圏にランナーを進めるためのプレー)

 (プッシュバントとは?…バントの体勢のまま、打球のイキオイを殺さずにボールを押し出すようにバットに当てる。もちろん通常のヒッテイングのように打球は飛んではいかないが、前進守備を布いた内野の頭を越え、裏をかくことができる)

 (シジマとは?…「今モヤモヤさまぁ~ずのSPやってるんで観てください」と今夜メールしてきて、「そんなことより今はドラクエやっていたい」という先輩に対し「どんだけゲーマーなんですかw」と返信してきた後輩。オマエが俺をゲーマーって言うな~!w)

 「けいめい」のプッシュバントによって打ち出されたボールは、飛び出してきたサードの頭上をまんまと越えて、ランナー一塁二塁をいう大チャンスを作った。

 監督の指示を破った「けいめい」は怒られましたが、結果オーライとして監督も「まぁいいか」って顔。
 練習では誰もしないし、教えてももらわないプレー。「けいめい」のプレーをみて僕は「こいつはすごい!」と思いました。

 「練習量だけはどこの学校よりも多い」といわれたうちの中学校は、この頃の秋季大会では、まさに全員野球で勝ちあがり、優勝。全市ナンバーワンになりました。とうぜん僕の功績もおおき…いや、いいっす。

 三年生になり、優勝候補の筆頭と前評判の高かった野球部ですが、中体連では二回戦で敗退。あっけないほど簡単に夏は終わりました。

 高校に入るころ、「けいめい」はまた仙台に引っ越していきましたが、しばらくの間は手紙で近況のやりとりはしていました。
 こっちのほうがテストの点数がいいだの、今では野球はやっていないが、高校は楽しいだの。

 連絡が絶えてもう十何年になりますが、今でも僕は「勉強も野球もあいつには勝てなかったな~」と考える。

 今日の最初は「翼をください」からの音楽の話じゃあなかったけ?って感がありますが、僕が「けいめい」に負けなかったのは成績が唯一、5だった音楽だけです。いや、ホントなぜか音楽だけ良かったんだって。
 出だしのイチロー話とか、なんの伏線にもなってないし。

チャラヘッチャラ

2008年11月13日 23時52分14秒 | 個人日誌
 今日は朝から富士山がキレイでさー。
 澄んだ空気のなかに、雪化粧してきらびやかにそびえたつ富士山。絵葉書にして送りたいわ~、北海道に。部屋の荷物と一緒に。僕は飛行機で。
 あー、それ普通に引越しですね。

 夕暮れもキレイだったけど、ちょいと霞んでいたかな。どうしても気温が低くなるとね~。水蒸気がね~。

 夜は雲のない空に満月が浮かび上がっています。満月の夜は巨大化して大猿になってしまうサイヤ人の血を引く僕ですが、木曜の仕事始めの日には残念ながらテンションがあがりません。
 今日も会社でフリーザ様にいいように使われて。

 昨日の日記はヒドイね。仕事に出たくない気分の夜に書くと、ああなってしまう。
 どうせ文句を言っても愚痴を言っても、やることはやらなければならないのだから、ならばもくもくと動きましょうよ、自分。そうは言い聞かせても、なかなかね~これが。

 ここんとこの仕事のペースで、木曜はやっぱしやる気が起きないので「だからってやらずにいるままってのはダメ」と思って、がっつり残業します。当然疲れる。
 イキオイをつけたまま一週間を乗り切るぞ!と意気込む金曜も、夜まで働く。
 で、土曜の夕方くらいに緊張の糸が切れて「どうせ明日も明日でやること増えるだろうし…」と早めに帰る。
 日曜の朝が一番キツイ。今日を乗り切ればッ!乗り切ってもまだ一日あるのか~と、ちょっとだけイヤになりながら仕事。
 月曜は、イキオイで行こう!というか惰性でもなんでも今日で一週間の終わりだ~と浮かれ気分で。別に帰りが遅くなってもいいや~くらいで仕事する。

 世の中にはありえないくらい残業するひともいるけど、僕もなかなかのもんですぜ。
 でもな~、会社にいる時間が長ければそれだけ仕事しているのかっていうとそうでもないよね。大学に誰よりも長く通っていたけど、授業に出てたのか?ってあたりで実証済みだけど。

 決めました。
 今後、このブログでは仕事の文句は一切書かない。書けば書くほど自分がディープになっていくし、やっと仕事終わった~ってビール飲んでいるときにわざわざ今日あった面倒なことを追体験することもないし。
 絶対に仕事のことは書かないぞ。そう、仕事のことは。仕事のことだけは。仕事…ホント仕事ってさ~…

 考えたらさー、これからしばらくは楽しいこと盛りだくさんじゃあないか。
 今月は沖縄行くし~。来月はクリスマスもあるし、たぶん一人だけどケーキでも食べて。年末の休みあるし帰省できるし。年明けも休みだし。休み明けにはまた仕事が待っていて、繰り返しの毎日にうんざりして…
 あれ?なんかそんなに楽しくないぞ。クリスマスあたりで間違ったカンジあるな~。

 反董卓連合軍に参加した劉備、関羽、張飛だが、董卓は首都洛陽を火の海にして長安に遷都する暴挙に出て、まんまと逃げおおせた。
 逆賊董卓を討つ!と息巻いていた連合軍の諸将も、次第に自分の利益を優先しだして、方向性を見失っていく。
 そんな状況をみた曹操は「口に大義を唱えても、心に一致するものがなければ同志も同志ではない」とのセリフを吐きながら連合軍を去り、他日を期すために国へ戻る。

 劉備、関羽、張飛もその功を認められないまま、一度体勢を立て直すために故郷への帰路につく。
 「董卓は逃げ、諸将は自己のためだけに奔走し、連合軍も解散となるなんて。功もなく、一体なんのために戦いだったのか?」そんな疑問を思いながら、馬に揺られる劉備。
 関羽は馬上で「われわれの戦功が評価されないのは今に始まったことではないじゃあないですか。またチャンスもありますよ。そんな考え込むなんてあなたらしくもない」と劉備を元気づける。
 そのとき張飛は言うんだよね。

 「おい、飲もうぜ!勝利の祝杯とはいかないが、とりあえず命だけはたしかに持って帰れるんだから!それだけでも少しくらい祝ってもいいだろう。馬に揺られながら廻し飲みして旅するってのも洒落てるぞ」

 な~にが起~きても気分は~へのへのかっぱ~♪

書く気がしない

2008年11月12日 23時24分15秒 | 個人日誌
 どんなカメラを買えばいいか?って質問にご意見多数いただきまして、ありがとうございます。
 早速今日買いに行くつもりで、回転寿司を食べにいきました。一人で。そのあとはブックオフに行って、久しぶりにゲームを買いました。

 起きた途端に「今日は肉が食べたいな~」って気分でした。それでも休みの日にはあまり健康的な生活をしていないので(じゃあ仕事の日には健康的な生活をしているのかと問われれば、それもない)、肉はマズイだろ~と思って魚。
 店に入る直前まで「いや、やっぱ肉かな」と思いながら。

 毎日毎日、お肉食べたらそりゃあ健康には悪いだろうし、お金もかかるけど、基本的に食べたいものを食べようと思っている。
 食べたいだけ食べようってのとは違う。野菜も好きだし。でもカロリーとかは全然気にしない。
 一日何カロリーとか気にするひといるけど、うん、それを細かく計算するのはすごいと思うけど、気にしていたら本当はお菓子だって食べられないじゃん。過去何年もの自分のデータを比較して「今年はちょっとカロリー摂り過ぎかな?」って考えているとこまでやるなら、カロリー計算もありだけど。少なくとも月単位で考えないと難しいもんだと思うぞ、僕は。

 ヒアルロン酸とか、コラーゲンとか、細かく気にして生きていけるほど単純じゃあないだろう?日々の生活なんて。

 でも気にしてしまうよね。栄養とか、ビタミンとか。
 なにをどれだけ摂ったか?ってことよりも、おいしく楽しく食事できたかってことのほうが大切なんだよな~って、今さらながら思う。

 お寿司好きなんですよ。ところが今日は全然おいしくない。

 晩ご飯は、ここんとこ定番になった鮭のホイル焼き。以前りちゅさんに指摘されたんだけど、なにか食べ始めると、飽きるまで食べる。
 しめじの代わりにエリンギを入れてみる。これはこれでおいしいけど、なんか違うんだよな~。肉が食べたいんだよな~。
 さすがに飽きたかな。

 今日はなんだか書く気がしないのでここまで。
 なんつーか、久々に後輩と飲めて嬉しいはずなのに、話聞いてるのかどうか、反応わからんから「喋るのめんどうだな」って気持ちと似てる。

 日々いろんなひとに出会うけど、仕事上。仕事でもなんでも、腹が立つのは、というか「僕が至らないばかりに…ヨヨヨ」と悔しく思うのは、なにを言っても返事もしないようなやつがいたときだな。

 うむー、こんなふうに書くにはカルシウムが足りないせいだな。明日は牛乳を買おう。
 あー!というか、コーンフレークこの前買ってきたのに、冷蔵庫に牛乳ないんでないべか?!牛乳ナシはキツイな~。

カメラを買いに行こう!

2008年11月11日 22時27分12秒 | 個人日誌
 むー、寒い日が続きますね。
 毎年こうだっけ?11月って。もう少し暖かくなかったかな?控えめに言っても半袖短パンで外に出られて、海に飛び込めるくらいには。まぁ、海に飛び込むのは別に寒くてもできなくはないのだろうけど、僕もそろそろそんなムチャはできません。いや、マジで。

 エアコンの設定温度を25度にしています。これが段々26、27、28と高くなっていくんだよね~。きっと日ごとに。
 なんだかんだ言っても、神奈川は冬寒い。3月上旬くらいまで革ジャンもコートも着ないといけないし。
 一年の半分くらいが、こんなモコモコしているなんて、そこのところあんまし北海道と変わらないかな~。

 ただ、こう寒さの質が違う。こっちだとマフラー巻いて、手袋しても、コートの下の服装はそれほど変化なく、普通に長袖だったり、女のコなんかだと半袖着てる場合もあるよね。せいぜい「寒くなったな~」「寒いね~」くらいなんだけど、北海道の寒さってさ、神々しいまでの寒さじゃん。
 寒いって言葉だけじゃあ表現できないような。夏という季節が昔の有史の時代にはあったけど今では永遠に失われたような、そんな寒さ。女のコと待ち合わせして、気軽に「駅前で待ってるね」なんて言った日には「死ぬかもしれない」って感じてしまうほどのいう寒さ。
 
 今週一週間はなんだか眠くて眠くて。布団に入るとすぐに意識がなくなります。
 休みの前の月曜日は、いつもよりも少しだけ夜更かしをして飲んでいるのだけど(それでも2時くらいまでかな)、昨日は0時になると寝てしまおうって気持ちになりました。

 今日は特に予定もないし、17時から歯医者の予約をしてあるけど、それまで買い物でもしながら、なにか食べたいものでも食べて、コーヒーでも飲んでのんびり過ごそうかな~、なんてくらいの計画で。
 起きたら16時。それも一回目が覚めて二度寝ではなく、もうすぐ朝かな~いや昼かもな~ってくらいで目を醒まして時計を見ると16時。困ったもんです。

 デジカメが欲しくて。ブログに載せている写真って全部携帯で撮ったものなんだけど、イマイチ携帯のカメラって使い勝手が悪いし、パソコンに送るのも面倒なんだよね。メモリーカードとか使ってないからメールに写真添付して送信するのがよ~。

 今月は沖縄~だし、カメラの一個もあったほうがいいかな~なんて思って。
 沖縄の素敵な景色とか、show先生のつぶれた姿とか、Romiyさんのあられもない姿とか撮れそうじゃん。
 で、いざカメラ見に行くとさ~。わかってはいたけど種類多すぎて、なにを買ったものか迷うね。
 カメラのことはよくわからないので、どうせどいつもこいつも機能はそれほど変わらないだろうって思うのですが、なんせ知識がないので選びようがない。
 じゃあデザインで選ぼうってなるけど、デザインもどいつもこいつもピアスぜ。

 こんなことなら、大学のときに写真部のことを「カメラ部カメラ部」なんて言わずに、もっとタメになるお話を聞いておくべきでした。

 迷ったときは、アレです。店員に聞く作戦。で、薦められるままに買うのがいい。
 でもなんか店員みんな忙しそう。
 まぁいっか。買うのは今度で。

 今時って、みなさんだいたいデジカメもっていらっしゃるじゃあないですか。デジカメみたいな顔して。
 そこで是非お尋ねしたいんですけど、「デジカメを買うときはこの機能があったほうがいい」とか「画素はやっぱこのくらい」とか、なんか有用なご意見があれば教えていただけないでしょうか?愚民どもの意見を聞いてやらんこともない。
 (ひとにモノを尋ねる口調じゃあないって?まったくもってそんなことないですよ)

 ♪あなたは~すぐに写真をとりたが~る~ わたしは~いつも~それをいやがるの~
 だって写真になっちゃえば~ あたしが古くなるじゃない♪

 椎名林檎の『ギブス』にある歌詞です。

 カメラのことはよく知らないけど、写真は好き。昔のことってけっこう記憶はあいまいじゃん(僕だけかな)。
 写真って媒体があると、そのときどきの場面が思い出されるだけじゃあなくて「そうそう、この頃ったらさ~」って、当時の記憶だけではなく考え方まで思い出されるっていうか。
 いい思い出もイヤな思い出もあったりするけど、たいがいはいい思い出だし、なんであっても今元気に生きてるしおっけー。

 頭の中だけで憶えているつもりのものってさ~、けっこうあやふやで。
 思い出してホカホカするのも、たまにはいいけど、それだけじゃあ物足りないっていうか、それだけじゃあ救われないときってない?

 昨日おざけんから電話がありました。なんだったかな?そっか、ガンが転移してまた入院するってことだった。「お見舞い行こうか?俺明日休みだし」と提案したけど「だいじょうぶっす」とのことでした。
 僕なんかは、こと自分のからだに関しては、火傷したくらいで「マジやばいよ!すごいよ!」ってくらい大袈裟な性格だから、そんな入院なんてした日には「お見舞い来て来て~」とか言っちゃいそう。
 そんで、あんな検査をしただの、あの注射が痛くて泣いただの、看護婦さんでかわいいコが一人いるだの、いろんなことをネタにして飲むね。あー、飲んだらダメか、入院中は。

 話それちゃったけど、デジカメを買うにあたって、みなさまの忌憚のない意見をお待ちしています。
 隠し撮りに最高!とか、布団の中でも撮影できる!とか、そんなのがあればいいな。


 いっつもこのアングルだけど、向こう側に本は積みっぱなしで、全く整理整頓できていないのがよくわかりますね。

 花なんか買っても、誰にあげるでもなく一人で眺めるのなら、なんの足しにもならないのにさ~って感もありますが、だったら一人でお酒を飲むことなんかはもっとムダだよな~って思う。

三国日誌 補足(仮) その27~名士の役割 補足

2008年11月09日 23時20分43秒 | 三国日誌 補足(仮)
 「なぜこれほどまでに名士という地位が尊重されるのか?
 儒教を修めているし、豪族だし、頭いいから?」

 そのあたりが、前回の話ではイマイチわかりづらかったかな?
 後漢が衰退したのは宦官たちの横行による朝廷の腐敗が原因ってところから、話を遡って検証してみましょう。

 宦官ってのは、皇帝の身の回りの世話も行いますが、地位としては決して高いものではありません。
 儒教では、「子が親に『考を尽くす』(親孝行)」ってことが一番尊いものとして位置づけていましたから、宦官のように子を為すことのできない者たちは、儒教的にはナシなんです。

 それでも宦官は、皇帝の側にいるためにいろいろな利権に絡むこともでき、賄賂ももらえるし、人事権も勝手にいじれるほどに影の力を伸ばしていました。
 政治が腐敗するような世の中になると、各地の豪族や富豪たちが、出世を金で買うようになります。

 公務員ってやつは、本来は国のために国民のために働く非常に崇高な仕事なのでしょうけど、金や不正で出世なんてイカンですよね。
 こうなると、とうぜん政治はめちゃくちゃになります。右は左になり、白は黒と評され、ウソは本当になり、悪は善になる。

 宦官に取り入ろうとした地方の豪族はたくさんいましたが、「やっぱいけないことはいけないよ!」と断固として宦官たちの反対した勢力も多く存在しました。
 これが名士の始まりと言っていいかなと思います。

 「身分が金や不正で手に入るような時代なのなら、自分たちで新しい身分を作ろう。それも、誰からも束縛されないものとして」
 その身分評価の基準は、国の基ともされる儒教に拠りました。

 儒教では、清廉の心、清貧、孝行、義を重んじ、ひとのために生きるということをベネとします。(なんか僕、みんなを儒教に洗脳しようとしてる?)
 そのために人物評価を、宦官に反対したものたちは行うようになります。

 たとえ無名の一個人であっても、貧しいものでも、能力に秀でたものがあれば、「キミなかなかやるね~」と名士たちは高く評価しだしました。
 バカなのに威張っているだけの官僚や公務員たちを徹底的にこき下ろし、本当に優れたものだけを(あくまで儒教に照らして)取り上げる。

 漢王朝にたいして嫌気のさしていた民衆も知識人も、この新しい価値基準を受け入れるようになりました。

 名士たちが作り上げたもの、それは新しい価値観なのです。
 金でも権力でも、軍事力、武力でもない、文化という価値基準。

 宦官たちは当然これに対し圧力をかけます。
 これが「党錮の禁」です。教科書に載っていたかな?

 名士たちに、漢帝国を蔑ろにしたという罪をかぶせて投獄し、処刑しました。
 なによりも国と民衆のことを考え憂える者たちが、無残にも正義の粛清の名のもとに消されていきました。

 しかし、名士たちは結束し、各地にネットワークを張り、情報網は半端じゃあない。地域での支持を得ていた者も多いので、全滅することはありませんでした。
 すでに、おいそれと退けられる存在ではなかったのです。

 メディアのない時代ですが、政治にも戦争にも必ず「情報」というものは重要視されます。
 この「情報」を名士同士はやりとりし、政治力を持ち、能力のひとつとして軍略(どの時代でも常に政治と戦争は同じ側面をもちます)をも会得し、また前述の人物評価によって、勢力を拡大しました。

 (うまく書けないんだけど…勢力を拡大した、と言っても国を征服しようとしたとか漢の国に取って代わろうとしたってことじゃあないよ)

 群雄割拠の時代が訪れ、三国志の登場人物が現れる頃には、名士はひとつ大きな存在となりました。
 各国の軍師である荀や荀攸、周喩や魯粛、諸葛亮や龐統。
 知識をもち、人々の信望もあり、情報をもつこれら名士が重用されるのは当然の流れなんですね。

 名士とは、家柄とその能力、名声だけで決められたものではありませんってのは先に書いたとおり。
 幼くして盧植先生のもとで儒教を学ぼうとした劉備も、片時として春秋左氏伝を離すことがなかったという関羽も、実は名士に成ろうとしていました。
 名士という地位、名声は、生まれがどうであれ、能力を認められればどんな人間にも得ることができたのですから。

 国家を保つために名士のような知識は当然必要。
 その知識をもとに、今後の国の方針や向かうべき道を指し示す人物こそが、今荊州でトボトボしている劉備玄徳には欠けているものです。

 その昔、劉備が陶謙から徐州を譲られる前の頃に、その地にいた名士である陳羣(ちんぐん)という人物を召しだしています。
 陳羣も、曹操に対する荀のように、劉備に対して献策を行っています。

 その献策とは、陶謙から徐州を渡すという話があっても「断れ!」ということでした。
 今の情勢を見るに、徐州を領有すれば、北方の袁紹や、南の袁術からも目の敵にされ、曹操からも「ただならぬ勢力である」と目をつけられてしまうであろうという考えからです。
 名士たちは、そのネットワークで様々は知識と情報を共有していました。陳羣が劉備に対してこう言ったのは、けっして勘やその場の状況を観ただけではなく、大局を見定めた上での献策だったのです。
 結果、劉備は陳羣の話を取り上げずに、まんまと陶謙から徐州を譲られます。そして曹操に攻められましたね。

 陳羣は名士として劉備を密かに評価し「このひとは本当に世を憂い、民衆に光をもたらすほどの人物であるに違いない」と考えていました。
 しかし、その期待は裏切られます。
 劉備も陳羣という人物の重要性、名士の必要性には気がついていました。だがこれを重く用いることができませんでした。
 なぜなら、劉備が一番としたのは名声でも支持でもなく、「仲間との協調」だからです。

 陳羣がどんなに策略を練っても、関羽と張飛が「曹操逆賊、なにするものぞ!我ら兄弟の力で追い払ってやる!」といえば、劉備も「そうだそうだ、俺ら三人で蹴散らしててやらぁ!大統領でもぶん殴ってやらぁ!」ってな具合でした。策略もなにもあったもんじゃあない。
 陳羣は劉備を見限り、離れていきました。

 義だけを重んじ、名士を用いることのできなかった劉備。
 名士の智謀を借り、それの地位を保護し、その名声を利用し、力を得た曹操。
 名士をまとめるために多くの名士を出仕させ、確固たる地盤を築いた孫権。

 テキトーに書いているようで、けっこうテキトーな『三国日誌 補足(仮)』の今。
 荊州にて「これからどうすればいいのか…」と悩む劉備には、こんな事情もあったんですね~。あとづけで、いいように書いているのが見え見えですね~。

 それでも「なるほど!そういうことなのか!」と読んでいただければ、ますます僕の三国志の意味不明なあたりが、もっと意味不明になること受け合いです。

 …
 その劉備に対し、荊州の名士たちが今一度、接触を謀ろうとしています。

三国日誌 補足(仮)その26~三国志における名士の役割とは

2008年11月08日 23時52分10秒 | 三国日誌 補足(仮)
 三国志の原点に戻ってみましょう。(一人で、僕が)

 三国とは、魏、呉、蜀をさします。
 もともとこれら三つの国があってからの「三国志」って話ではなくて、中国を統一した漢という国の、そのまたあとの国である後漢という、合計で400年も続いた国が乱れ始める頃から、この話は始まります。
 最初は「漢」という国があって、それがいかに推移し、各地で英雄が生まれ、どのように歴史を紡いできたのか、そのへん全部が三国志といえるかも。

 長きにわたり政権を維持してきた漢帝国でしたが、政府の中枢機能である朝廷において、外戚(皇后の親族)や、宦官(皇帝の後宮を取り仕切る役職。生殖器を切り取って男としての機能を失ったものしかその職に就けない。ベロンベロンになった泥酔午前三時の僕ならなれます)という職にあるもの達が、自らの利益のためだけに政治を動かし、賄賂を受け取り、幼い皇帝を意のままにし、G5あたりで女のコと消えるなど好き勝手を行い、国に指令系統の混乱し、破綻をきたし始めました。

 「天下の乱れるは、天下の乱れにあらず」という言葉があります。
 世間が混乱して民衆が苦しい生活を強いられるとき、それは天下の民から起こった混乱ではなくて、立場が上であり政治を司る者たちが、混乱を起こしているのだ、って言葉です。

 中央の力が弱体化し、地方では豪族や地主が威張りだし、弱いものは虐げられ、あちこちで強盗などの犯罪が増え、それを取り締まることもできなくなっていきました。
 こうした混乱のなかで、弱い民衆が心の拠り所とするものは?
 それは新しいリーダーであり、新しい秩序であり、新しい時代の流れでした。
 黄巾の乱というのは、このなかで生まれたものです。民衆の怒りのエネルギーでぐちゃぐちゃになった状態を、朝廷の力で抑えることはできませんでした。

 この弱体化した朝廷を、軍事力をもっていち早く取り込み、己の思うがままにしようと画策したのが董卓さんです。
 で、董卓の打倒を旗印とし、漢王朝復興のために立ち上がり結集したのが、地方の将軍たちが結束した「反董卓連合軍」。

 三国志を英雄伝を彩る人間達は、このときに華々しいデビューを飾ります。
 曹操、劉備、孫堅なども、世に出て名を知らしめたのはこの戦いからといっていいでしょう。

 董卓の死後、群雄割拠の世の中で、風雲を掴み早くから成功したのが曹操孟徳です。
 曹操は、形だけとなった後漢王朝に対して簒奪を行わず、死ぬまで皇帝にはなりませんでした。皇帝になったのは、その息子である曹丕です。

 孫堅の子である孫権とは、先代孫堅の覇を継ぎ勢力を増した孫策の、その弟です。
 江東の険を拠り所とし、その地方の名士や豪族をまとめ上げました。曹丕、劉備が次々と皇帝に即位していくのをみて、自分も習いました。

 劉備は、放浪の末に四川の地である蜀を得て、曹操亡き後を継いだ曹丕が現王朝から禅譲という形で皇帝に即位したのをみて、対抗する勢力として皇帝を名乗りました。

 ここで初めて「天下とは、本当は一人の天子によるひとつの天下しかないはずなのに、イキナリ三つもの天下が並び立った」という図式ができあがります。
 反董卓連盟から、実に30年ほどあとの話。
 これでやっと「三国志」なんですね~。

 「歴史を彩る群雄の登場、そしてどうやって三国の歴史ができたのか?」ってあたりにクローズアップし、二世紀半ばからの後漢の乱れから始まり、三世紀後半に「魏」から移り変わった「晋」という国が呉を滅ぼすところまでを物語としての『三国志』の時代と呼びます。

 歴史的にみて、正統に漢を継いだのは曹魏であるといっていいでしょう。
 劉備も孫権も勝手に皇帝を名乗っているのだから、それは僭称なんですね。言ってみれば、ある日突然皇居の御堀に飛び込んで「俺が天皇だ!」って叫んでいるようなもんです。シジマが。捕まるよ。

 さてと、昨日の話の続きは「なぜ荀はそこまでして儒教のために殉死したのか?」ってことでした。もー、話それすぎだわ、いつもだけどさー。
 だいじょうぶ、あとで書く。

 三人の英雄である曹操、孫権、劉備ですが、これらの国の作り方、組織とはどういうものであったのでしょうか?
 ちょいと考察してみますか。(一人で)

 曹操ったら、すごい。なんでもやってしまうオールマイティーな人間でした。
 政治の知識はもちろん、戦略も練り練り、その実行力もずば抜けています。国としてやるべきことは自ら指示して要所を押さえ、細かいところを臣下に任せていた感があります。
 しかし、彼にはコンプレックスがあります。目が細いとか(本当に目は細かったらしい)、家柄があまり良くないとか。

 家柄ってのは、この時代では非常に重要なものでした。古代の文明や近代の文明でも、現在でも政治家あたりはそうだけど。
 曹操の家系は、もともと宦官であり、親もその養子です。
 宦官は、先にも書いたように後漢朝廷を衰退させた張本人なので、出世は見込めないような家柄ではありました。
 しかし「反董卓連合軍」に参加し、諸将が董卓の軍事力を恐れて攻撃を躊躇うなかで、曹操は果敢に董卓を追撃します。この行為が、人々の尊敬を受け、支持されました。(この追撃線は曹操のボロ負けに終わったのですが。)

 ひとの支持と期待と援助を受け、一大勢力へとのし上がった曹操のもとには、多くの豪族や名士が集まりだします。
 歴戦の猛者や、富豪や、知識階級の人間たちが曹操の旗のもとにやってきました。
 武将についての記述はここでは割愛しますが、曹操の周りに集まった知識人ったらすごいよ。
 郭嘉、荀、荀攸、程、賈詡、司馬懿という軍師たち。
 
 軍師といえば他国を占領するための戦争の作戦を立案し、青写真を作る職種だと思われがちですが、この時代での役割はそれとは異とします。

 多くの軍師はその出身を知識階級とし、また豪族でもありました。
 しかし軍師として登用される者は、家柄がどうであってもずば抜けた知識があり、それを認められれば成れるものでもあったのです。
 また、軍師とは「名士」と呼ばれる者も多くいました。
 名士とは、儒教を修めて、その造詣に深く、民衆の支持を得て、社会に認められた存在です。
 この『名士』という言葉は、このあとの話でも重要になってくるので憶えておいてください。(一番忘れそうなのが、僕だけど)

 戦略そのものは、自らも兵法に通じた曹操本人がたてることも多いですし、実際彼は非常に軍略にも通じていました。
 集まった軍師たちの主な役割は、曹操の頭脳をサポートし、情報を分析し、適切な進言を行うことです。つまり、これら曹操のもとに集った軍師たちは「参謀本部」という括りで表現できます。

 魏という国の組織は、まず曹操というスーパーマンがいて、その側にも群星のように将がおり、人材に溢れたものでした。

 呉はどうでしょうか?
 孫権は、どうしても先代を継いだ甘ちゃん君主である感が否めません。
 若くして呉の統率を任された孫権ですが、若いゆえに血気に逸ることもあり、その国を保持していくために多くの名士の力を借りています。
 呉の名士とは、張昭、張紘、周喩、諸葛謹、魯粛、陸遜などです。
 江東、江南の地域には、中央の洛陽から離れていたこともあり、もともと地方豪族の力が強い特色があります。

 そのなかで先代孫堅がその地盤を確保し、好き勝手で統一感のない各地域のファミリーのドンを掌握し、一大組織としてのし上げたのが呉です。逆にいえば、ファミリーの名士たちの力がなければやっていけない。
 一人のカリスマ、曹操のひととしての吸引力と時流に乗った組織作りとは、その組成がまた異なりますね。
 (また、いずれ書くこともあるかもですが)孫一族は、あくまでも江東の一豪族でしかありません。それもあまり大きなファミリーではなく、武力一辺倒でのし上がった一族です。
 孫堅は「反董卓連合軍」に名乗りを上げ、武力と結束の堅い(孫堅だけに)少数の家臣団を頼りに順調に勢力を拡大しますが、荊州の劉表に攻められて突然の敢え無い最期を遂げました。
 その長男である孫策は、親の死とともに地方での拠り所を失い、そんな状況のなかで若くして一家を支えるという重責を背負います。

 一家を支えることを課せられた孫策ですが、虎の子は虎の子。親の血を引いて、いずれ天下に号令することを夢みていました。
 力を取り戻すために孫策は、牙を隠す虎のように、当時の南陽を支配していた袁術のもとに身を寄せます。
 袁術ったら相当な悪人で、そのご皇帝を僭称しています。(考えたら劉備も孫権も皇帝僭称なんだけどさ)
 そんな袁術の雇われ武力集団として、孫策一家は保護を受けます。

 袁術の食客となった孫策。袁術の命令に従い、呉で大きな力をもつ豪族である陸氏(陸ファミリー)を攻撃することになりました。のちに陸遜を輩出するファミリーです。
 イキオイに乗った孫策は、やはり豪族であり名士であり呉の四大ファミリーの血統でありイケメンの周喩と意気投合し、次々と各地を転戦。勢力を拡大しました。

 曹操ですら畏れるほどの力を手にした孫策ですが、一族のためとはいえども、親が築き上げた地盤の、その地元の豪族を攻撃したのは誤りでした。
 案の定、滅ぼされたファミリーの仇討ち遭い、暗殺されてしまいました。

 先代孫堅の次男、孫策の弟である孫権がこれを継ぎました。
 孫策は臨終に際し孫権にこう告げています。
 「孫権、オマエの能力と性格は、勢力を拡大し相手を圧倒することには向いていない。だがひとをまとめる治の能力は俺より優れている。自分の長所と短所をわきまえて、至らないところでは必ず周りの人間の意見を聞け」と。

 孫策は、呉郡の四大ファミリー陸家を、命令とはいえやむなく攻めたことを悔やんでいました。自分の地元である名士や豪族に直接反旗を翻す形をとてしまった孫策は、とても思い悩んでいたのです。
 
 孫策と親友であった周喩は、亡き孫策との友情を決して忘れず、年下である孫権に対して臣下の礼をとり彼をもりたてます。
 孫策の代では、「ファミリーの絆をメチャクチャにした」と、そっぽを向いていた名士たちも「周喩が力を貸すくらいなら」と過去の罪を水に流して孫権に協力し、呉を磐石の国へと伸し上げていきました。

 孫権は、こうして亡き兄の親友である周喩の力を借り、その名声を上げ、分裂し敵対していたファミリーをまとめあげて、赤壁(レッドクリフ)にて曹操軍100万を撃破しました。

 劉備はどうでしょう?
 劉備を主人公とする三国志の話は多いですが「ええ~?こんな冴えないのが主人公?」「なんかいいコちゃんいいコちゃんしてさ~」「曹操のほうがかっこいいじゃん」と、僕が劉備の話を飲み会ですると、そう言う反応をするひとが二人くらいいます。
 ま、その通りだと僕も思います。劉備ったら、たいした魅力もないし。
 なので僕が拙く書いている三国志のなかでも劉備はあんましかっこよく書かないようにしています。
 それでも彼を中心とした話の流れになるのは、そのほうが書きやすいから。
 ずーっと曹操についてなんて書いてらんないじゃん。放浪ばかりして国から国へ渡り歩き、「いったいどうするの?こいつの人生」ってほうが、周りを巻き込んでの話を展開し易い。

 えーと、劉備はどうだったかというと。曹操や孫権に比べると、かなりヒドイです。
 貧乏な家庭に育ち、漢の後継であると名乗り、関羽や張飛などの輩と一緒に傭兵生活をしていた流浪人。
 公孫瓚、曹操、陶謙、袁紹、劉表と次々と主を渡り歩き、地盤も力もなく、はっきり言って弱い。

 張飛、関羽といった無類の武力を誇る二人と義兄弟の絆で結ばれており、この二人のめちゃくちゃな強さを売りに、そのリーダー格として、どこへ行っても傭兵として扱われます。

 彼の心の拠り所は、仲間意識です。
 経済力も家もなくても、強い絆で結ばれた仲間がいればなんとかなるんじゃあないの?っていう。

 曹操、孫権との大きな違いは、彼には拠るべき地盤があまりに貧弱だったことがあげられます。
 率いる家臣団に強力な援助を受けた曹操や孫権と違い、劉備には旗揚げの頃から協力してくれた親族というものがいません。
 彼を支えたのは、仲間意識や義のもとに集った友人たちであり、これが傭兵集団としてのリーダー劉備を形勢しました。

 権力の後押しなく、天子の系列であるらしいかもしれないだろうという、なんとも薄弱なネームバリューだけで各地を渡り歩き、食べて生きてきた劉備一行。
 劉備が、荊州の劉表のもとで「脾肉の嘆」をかこっていたころ、曹操と孫権はすでに確固たる勢力と地盤を築いていました。
 劉備だけが、出遅れたのです。
 (今、僕が書いている「三国日誌 補足(仮)」はこのあたり)

 傭兵生活を続けていた劉備に指針を与えたのは、臥龍(臥せる龍。まだ世に出ていないが大いなる力があると司馬徽が評価した)と称される諸葛亮孔明です。

 諸葛亮の「天下三分の計」により、蜀の地を手に入れた劉備ですが、そののち呉によって義弟関羽を殺され、諸葛亮が諫めるのも聞かずに、恨みを雪ぐために呉に宣戦布告します。
 仲間との絆を重んじるあまりの行動といえましょう。一国を統べるものとして、その行動は軽挙であるかもしれませんが、たとえ偉くなろうとも、仲間を省みる心をもち続け、それを行動にした点は人物として評価できます。

 荊州時代の劉備に仕え、軍師としての任を与えられた徐庶が推挙した諸葛亮孔明。その諸葛亮の才能に着目し、成長を見守ったのが司馬徽です。
 また、同じ司馬徽の門下には鳳雛(鳳凰の雛)と評価された龐統士元がいました。
 司馬徽とその門下生たち。これはいったいなんのグループなのか?

 それは荊州にて儒教を学ぶ名士達でした。
 荊州という地は、この戦乱の中にあり、北方の曹操と袁紹との争いからも離れ、表面上は平和を保っていました。(その功績を考えると劉表もあながち暗愚ではないと思われます)
 戦地を避けて、知識人イコール名士は、この荊州に集まってきました。司馬徽はそれらをまとめあげ、学問を教えていたのです。

 名士とは、これをひとつの身分カテゴリーで呼んでしまってもいいほど影響力をもっています。名士がもつ影響力は、一地方だけではなく近隣、果ては全土に名を馳せるほどの者もいました。
 曹操側や孫権側についた、名だたる軍師たちはほとんどが名士という肩書きを持っています。ってさっきも書いたかな?

 三国志の世界では、名を馳せるものたちは決して武将に限らず、というかそれ以上に、名士こそが地盤を持ち、豪族に支持され、大きな力を有していたことが、なんとなくわかりましたでしょうか?
 わかりませんね。僕も書いてよくわかりません。あのコの気持ちが。

 では、この三国志における地位や名声とはなんでしょう?
 ここがッ!ここが、三国志の階級社会の難しさです。
 僕なんかはさ~、どうしても「一番偉いのは皇帝で、でもそれを上回る軍事力と政治力で時代を動かしたのは、曹操が就いた丞相という官で、その下に武官や将軍や、文官みたいなのがいて…」というように、誰が上司で誰が部下ってことを考えがち。誰が強いのか?みたいな。

 何度か出てくるけど、『名士』というのは、自らの軍事力をもたずに、そのアイデンティティーを「知識」に依存していました。文化的階級といえるかもしれません。
 放送文化研究…これは関係ありません。

 名士は、その知識をもとに地域の名声を集め、容易ならざる力を持ちます。名士が評価し支持する人間であれば、どんなに生まれが貧しくとも、周りの人間に「あいつはすごいらしいよ」と言われたのです。
 なんつーか、G5一年目なのに、「あいつは今年入った映像のなかで、一番すごいらしい」と春うららで評価されれば、多少のムチャも「それはそれですごい!」と周りに見られるようなカンジ。

 袁紹のように立身出世の家柄であっても、曹操のような成り上がりであっても、名士という存在とは侮れないものでした。
 自らの幕僚を組織する軍師たちは、その組織に加えられながらも、君主からは「師(先生)」と仰がれ、単なる部下ではありませんでした。

 名士が尊重されるのは、この国の国教でもある儒教を修めた賢人であると、ひとびとに認知されているからですし、同級生だしバスケ部だし実際青春してるし背が179。

 その名士の人物評価ひとつで、自己の浮沈を左右することもあります。名士は、それほどまでに民衆の信を得ていました。
 権力に縛られず、正当にひとを評価し、そしてその評価基準は、国の宗教である儒教を基にしたものだったから。

 やっとここで、話が儒教に戻りましたね。長いね。ホント飲んで喋っている僕そのものだ。オチないし。

 知識人としての地位を確立した名士たち。そのネットワークは全国に広がっています。
 これは曹操ですら、蔑ろにはできない勢力です。
 蔑ろどころか、この名士グループとうまく付き合っていくことが、国づくりのなかでも重要な事項でした。
 曹操自身が若き頃に、人物評価で有名な許劭に「キミは治世の能臣、乱世の奸雄だ」という評価を受けたのは有名な話ですが、この許劭も名士の一人です。

 名士に評価されるということは、ひとつのステイタスでした。それゆえ名士もおいそれ気軽にとひとを評価することはしなかったといいます。

 ここで思い出してほしいのが、吉川英治と横山光輝の三国志。
 人物評価を受けにきた曹操に対して、許劭はずいぶんと不機嫌そうな対応をしているような描写じゃあありませんか?吉川三国志でも、横山三国志でも。
 高尚な考えをもち、文化的地位もあり、儒教を収めた人格者でもある名士が、「こんな若造の評価なんかしていられるか!」って顔なんです、この許劭の顔は。

 荀もまた、名士です。
 曹操は、君主政権を目指していました。皇帝を擁立しながら、その摂政としての勢力を築くことを目標としていました。
 君主である自分に集権的な絶対権力を与えるということは、自己の及ばない力を他者が有することを許しません。

 尊重され重要視され、曹操の幕下でも影響力をもつ名士たちですが、その力が曹操以上になることを、曹操は嫌います。
 しかしながら、組織作りのためには名士がもつ政治力や名声、名士同士のネットワークは利用したい。ここに矛盾がありました。

 曹操は皇帝にはなりませんでしたが、ここに儒教を重んじる名士たちの目を気にしたことは明らかです。

 荀が曹操についたのは、「漢王朝復興」という儒教でいう「忠」の精神を重んじ、それを成し遂げてくれるであろう曹操に期待したからでした。

 天下は持ち回りです。その時代時代で、力をもったものがこれを手にするのは世の習い。荀もそれはわかっていました。
 衰退した漢王朝が、復興して中国全土に号令をかける日は二度とこないことも理解していました。
 しかし、その世が曹操により肩代わりされても、「漢」の名前が残る仕事に携わることを荀は望んでいました。「忠」です。

 赤壁で大敗を喫し、一代での天下統一を「できない」と冷静に判断した曹操は、次代の曹丕にこれを託すにあたり、自分はそのステップを確実とする計画を野望として表し始めます。
 「魏公」となることによって。
 
 それゆえに、荀は曹操に仕えながらも儒教を重んじ、自殺することで抗議する道を選びました。
 君主ですら犯せない名士の地位を知らしめるための行動であったともいえましょう。

 名士を蔑ろにした曹魏は、じょじょに名士から見放されていきます。

 曹操の代では、曹操の力にて曹家は力を保っていましたが、曹丕の代、曹叡の代へと変遷していくなかで、やはり名士である司馬懿仲達が台頭し、軍権を掌握していくのは、この流れのなかにあったといってもいいかもしれません。

 魏に変わり、晋が興り、晋が劉備の興した蜀を滅ぼし、呉を併呑すると、名士は貴族として、確固たる地位を築いていきます。
 これが中国の歴史における貴族社会の成立でした。



 さてと、次回の「三国日誌 補足(仮)」では、出遅れた劉備に周りにいよいよ名士たちが登場します。
 名士を得ることによって、劉備の今までの流浪人生は大きく動き出します。

 今回の話は、以前にも増して内容がわかりづらく複雑でしたね。
 三国志では、どうしても呂布最強!とか、遼来来とか、美周郎とか、赤壁の戦いなんかの派手さが目に留まるけど、角度を変えて着目することで、また違った真実が垣間見えるあたり、人生と同じで「真理ってなんだろう?」ってことに触れられて面白いですね。

 どの解釈が正しくて間違っているのかなんてことは1800年も前の話だから誰もわからないし、正邪を論じることはあまり意味なくて。
 物事の本質は「Aでもあり、Bでもあり、Cでもある」ってことを知ることが大事なんですね、きっと。たぶん。

まるくなる

2008年11月06日 23時32分20秒 | 個人日誌
 目覚まし代わりに携帯のアラームで毎朝目が覚めます。
 10分おきにピーピーうるさいので、10分ごとにアラームを止めて、また10分経ったら止めて…という行動を三回くらい繰り返して、ようやく起きます。

 音量もけっこう大きくしているのですが、慣れてしまったので、明日から最大音量にセットしました。
 たぶん「なにごとッ!」って驚いて起きることになる。
 ホント、朝弱いです。じゃあいつ強いのさ?と問われれば、これはなかなか難しい質問ですね。後輩しかいない飲み会では強いです。強がるというか。ダメじゃん。

 今の仕事は木曜から月曜まで五日間勤務の、週二日お休みで、その休日に出勤はほとんどしません。
 営業なので、お客さまの都合でどうしても出勤しなければならないってときも二、三ヶ月に一度か二度ありますが、基本的には休みがあるのは恵まれた職場だと思っている。

 木曜は9時出社、金曜は9時半、土曜日曜祝日は9時20分、月曜日は週によって9時もしくは9時15分。
 会社で決められた出社時間なのですが、あまりにコロコロと変わるために、朝起きたときに「今日は何時出社だろう?」とよく混乱します。
 当然、早めに出社したときには勤務規定で、帰社も早い時間になるのですが、まぁ、そんなことはどこの会社も同じように建前で、早くから出てるから早く終わるなんてことはない。

 このブログのなかで仕事の話を書くときには「こんな仕事やってられるか!」「いつだって辞めてやる!」と威勢のいい僕ですが、会社でもそんなことを威勢よく言っています。
 ところが、僕がそんなネガティブなことを言っても「またまたw」とか「そうは言いながらこのチームの中で(この仕事)一番長いくせにw」と、なんだか冗談のように受け止められてしまい、「ですよね~」なんて笑っている空気もキライじゃあない。

 よく「若いときの苦労は買ってでもしろ」っていうじゃあないですか。これ全然わからない。
 若いうちにいろんな経験しておけば、そのご困難にぶち当たったときに役に立つってことかな。

 若いうちにいろんな運動をしたり、本を読んだりすることは、どんどんしておいたほうがいいと思う。
 でも、仕事にそれは当てはまらないような気がするんだけど、これって社会人失格かな~。

 仕事なんて、いつでもどこでも、どんなに備えていても、絶対にあらぬ方向から邪魔が入るじゃん。
 「それって僕の仕事ですか?まぁ、これで給料もらってるんだからやりますけどさ~」ってものが。
 やりますけどさ~、「ちょっとこればかりは時間がかかりそう…」ってときに会社は、これまた間違いなく手を差し伸べてくれないというか「キミがやれるって言ったじゃあないか!」「言ってません!」って、なんか変な押し付け合いになったりする。
 泥かぶるのは、いつでも現場に立っている下の立場。

 このままじゃあダメですって~と、声をあげて改革を促したこともたまにある。
 「でも、その方向でやるにはこれからの一年くらい相当キミ達大変だよ」と返されても「いいです。今のままじゃあ、お客さんにも悪いですし、僕らも続けられないですから」と強硬に意見を述べてみたけれど、結局は「本社の判断」で、受け入れられない。
 「上のほうで考えているから」
 是非もない。これで給料もらってんだから。

 それから一年…なにも変わっていない。
 「だからあのとき、こうしましょう!って案を出したじゃあないですか!」なんて言っても、どうしょうもない。
 こんなとき「あのときが辞めどきだったのかな~」ってことを思わず考えてしまう。
 雇用する側の企業と、従業員の関係だから。それが「契約」なのだから、少しの不満も疑問もなかったことにしてクールにやっていくほうが無難なのかな。
 やることやって、生活できているんだから、それでいいじゃあない。そうなのかな。
 いや、そうじゃあない。そうじゃあないよ。うまく言えないけど。

 どんどん周りの仲間がいなくなる中で、たま~に考える。

 一週間の初日に、ダラダラ仕事をしていると新卒の人間が遅くなって帰ってきた。
 別に先輩ヅラしようってわけじゃあないけど、後輩が残業しているなかで先に帰るのも気が引ける。
 「もうすぐ終わるんで、どうぞ、先にあがってください」
 「いいよ、別に。ヒマだし」

 その新卒と帰り道歩きながら、
 「今度の休みに日光行くんですよ~」
 「紅葉とかいいカンジだろうね~、つーか女と行くのか?w」
 「はいw」
 
 話を聞いていると、新卒だけに大学のときの同い年の友達と一緒に遊びに行くことなっても「こっちは平日休みだから休みがあわなくて…」というのが悩みのようだ。
 「土日休みとかにならないですかね?せめて祝日の分だけどこかで休めるとか」
 わかるよ、その気持ち。
 僕もいつもそんなこと考えているもの。

 今の仕事に不満はいっぱいあるけど、休みがあるだけいいのかな~とも思う。
 全然みんなと休みは合わないけど、一人で行動することの多い僕は、もしかしてそのリズムのほうが合っているのでは?なんて。

 そう考えるのは、慣れではなくて、諦めなんだよね。どうせ変わりようがないなっていう。

 ライカー副長が、バーラウンジでカウンセラートロイと二人で飲んでいるときに昔の自分を思い出して、少し自嘲気味に「自分が若かったときほど、今は不満もなくなったし、現状に満足もしている」と呟くと、トロイが「それはあなたが丸くなったってことよ」とライカーを気遣うのだが、その言葉を聞いたライカーはちょっと不満げ。
 「丸くなったなんて、男なら絶対に言われたくないセリフだ」
 とは言いながら、少しだけニヤリとする。

 「自分で選んだ道だから」とは思っても、「本当は誰かの都合のいいように動かされていただけなのか…」とか、「周りを尊重した結果だ」と思っていても、「それもやっぱり自分を曲げて妥協した結果なのか…」とか。
 自信をもって「これが自分だ!」って思えるのは、なにか楽しい予定のある天気のいい休みの日か、気の合う仲間と飲んでるときか、実家でのんびりしているとき。

 男ってバカだから、自分ではわかっていることも(わかったつもりでいることも)他人に指摘されると「そうじゃあないんだ」「そうかもな」って感情でグルグルするんだよね~。