艦長日誌 補足(仮) 

タイトルは仮。そのときに思ったことを飲みながら書いたブログです。

三国日誌 補足(仮) その5~官渡の戦い、前夜

2007年12月23日 23時31分59秒 | 三国日誌 補足(仮)
 曹操に降り、客将として許昌に滞在していた関羽ですが、思うのは生き別れた兄弟のことばかりでした。
 戦いの中で離れ離れになり、そのごの二人が今どこでなにをしているのかも皆目知り得ません。
 まぁ、張飛は敵軍に包囲されたとしても一分で百人くらい殺すような男だから心配ないし、劉備もいつものようになんだかんだでうまくやって逃げて行きのびてるんだろうな~ということを想像していました。

 その想像はほぼ当たっていて。

 実際に曹操軍に包囲された張飛は、蛇矛の一振りごとに敵兵をきっちり十人ずつ跳ね上げたり、叩き割ったり、払い殺したりして、関羽と劉備の姿を探し回ったのですが、見つからなかったので「そのうち会えるだろう」と考えて戦地から離れ歩き始めました。たまたま山を越えようとした道で山賊に襲われ、とりあえず頭領らしき男をミンチにしたのち「俺が新しい頭領だ!」と言い張って、そこで兄弟が見つかるまで暮らすことにしました。

 劉備は、関羽は張飛ほどには全然強くないので逃げに逃げ、気がつくと河北まで来てしまい、そこを納めていた袁紹の兵に見つかり捕らえられてしまいました。
 何日も飲まず食わずで敗走を続けた劉備は、ボロボロな身なりをしていたため、落ち武者扱いされた挙句に牢獄にぶち込まれていました。牢屋の中では「ネットカフェより快適だ」とか言ってまったく懲りる様子もなく、その様子を偶然目撃した袁紹の側近により、劉備玄徳そのひとであることを確認され、袁紹のまえに引きずり出されました。

 このときの勢力図では洛陽、許昌を中心としたいわゆる都会は曹操がその領土を拡大していましたが、河北では名門の袁紹がそれ以上の財力と国力と兵力で刻々と曹操を攻める時期を見計らっていました。
 曹操の強みは、天子を庇護のもとにおき、傀儡とすることで高い地位を保っていることに他なりません。天子に刃向かうものは逆賊、すなわち曹操に刃向かうものは国家の敵というように、その反旗を征伐する大義名分を得ていたことでした。

 袁紹は、漢という正統な国家組織のもとでは一家臣にすぎません。名門ゆえに、それに反逆したという謗りを受けるわけにはいかなかったのです。
 そうなると、河北の軍勢が都にいる曹操に攻め入る理由としては「天子をないがしろにしたことに対する義の軍である!」という大義を手に入れるほかありません。
 しかしながら袁紹は、董卓を討伐する際に同じ理由をたてて攻めたにも関わらず、連合軍をまとめきれずにそのリーダーとしてのプライドをズタズタにされた苦い思い出もあります。
 だから、やや及び腰になってました。

 劉備は袁紹の前に引きずり出されたとき、この袁紹の弱みと野望が同居する心につけこんでみました。
 「わたしは天子の叔父であるということは系譜にも確認されているし~」と。

 袁紹は考えました。
 今ここで劉備を殺すことに意味はなく、逆に味方とし、天子の身内を陣内に迎えれば天子の憶えも今とは違って逆に良くなる。そうなれば逆に曹操を逆賊として討つ名分も逆に立つということを。

 劉備をどう扱うべきか?劉備のひとを惹きつける力は、うまく扱えば袁紹の利となるでしょうが、逆に袁紹をも食ってしまいかねません。
 「どうしたものか?」袁紹は近くに控えていた田豊とかたしかそんな名前の軍師に意見を求めます。

 袁紹のもとには、曹操の陣営以上に人材は綺羅星のごとく集っていました。田豊だけではなく、沮授、郭図などの知識人がこぞって意見を述べます。
 袁紹はどちらかというと自分の意見は言わない性格でした。その態度はときに優柔不断、決断力がないとも評価されますが、反対にいえば側近や部下の意見を一通り聞いてから最善と思われる案を採用することにより、周りの人間には「あ!わたしのことを認めてくれた!うれしい!」という仕える喜びを喚起させるタイプのリーダ-でありました。

 曹操は、部下がなんと言おうとも我を通すわがままなとこがあり、それはそれで人間臭くていいのですが、一部には「僕のことなんか、どうだっていいんだ…」といじけさせて、しかもフォローなんかしないので、そういった見方をすると、袁紹もまた魅力的な人物だったに違いありません。

 この群雄割拠の時代に、他を遥かに凌ぐ勢力を誇っていたのが、袁紹と曹操という異なるタイプの君主であったのも、その意味を考えてみると楽しいかもしれません。単に「袁紹は名門で旧体質の保守的な人間、曹操は新しいものを取り入れ自分で判断し、行動力もあった」という区別だけでは括れない面白さがあります。

 袁紹の群臣たちが次々と進言します。
 「劉備は殺すべきです。なんでも以前は曹操に認められてけっこう親しく飲んでいたようです。いつか曹操と並び強大な敵に成るやもしれません」
 「いえいえ、ここに置いて厚遇すべきです。劉備はあの無類の強さを誇る関羽と張飛とは義兄弟との間柄、しかも長兄です。劉備が我が国で生きていることが知られれば、あの二人の弟はこぞってここへ駆けつけ味方となるでしょう。それは我が軍にとって最高のクリスマスプレゼント」
 「恩を売ったのちに、体よく追い出すことこそ最良と思われます。両雄並び立たずという言葉があるように、一国に二君は必要ありません。ここで追い出しても、劉備がわが国に恩義を感じればいつの日か利用できることもあるかもしれません」
 「地位を与え、住居を与え、女を与え、劉備という男の人間性を試してみてはいかがでしょう?ここは一旦ペンディングにして様子を見ては?殺すのは簡単です」

 どの意見ももっともですし、どの案も上策に思えます。決断が苦手な袁紹が、この選択肢の中からどのような判断をくだしたのか…?

 「劉備、そなたはどう思う?」
 なんと?!今まさに囚われの身となり、処遇を待つべき劉備に意見を求めたのです。
 劉備は驚きました。
 この袁紹という男は…!命令ひとつで自分を生かすも殺すもできるのに、それをどうするべきかと当人に尋ねるなんて…曹操とはまた違った意味で面白い男じゃあないか!

 劉備は客将として袁紹の国に留まることになりました。自分の金で飯を食わない男劉備玄徳。しかし、一人でご飯を食べていても、いつもそこが自分にとって安住の地であるとは考えていません。

 なるほど、河北という慣れない土地ではありますが、食べ物もおいしいし、袁紹の部下たちも劉備を慕って夜になるとお酒を持ってやってきます。友達もできて、楽しい話をしながら美酒に酔い、かわいい女のコもいるし、そんな生活もアリかな~と考えたりもしました。
 それでも劉備が心の底から求めていたものは、やはり関羽や張飛とのバカ騒ぎ。その二人の所在がわかれば、いつでもこっちから袁紹にはお暇告げて(さすがにそれは許されないでしょうが)国を去る心積もりでした。

 許昌では、とうとう曹操が袁紹を討つべく軍勢を集めていました。
 曹操にしてみたら袁紹などは小物という思いがありましたが、小物のくせに国は強大。いずれは討つべき相手でした。
 曹操が今よりも勢力を拡大する方法の近道としては、当面は袁紹を放っておいて、まずは近隣諸国の小国の太守を攻め立てて、着実に地盤を固めるという方法もありました。
 その隙に袁紹が攻め入ってくるような決断力を持っていないこともお見通し。しかし、その方法では時間も兵力もお金もかかります。万全の状態で計略策略を張り巡らせても、人生には必ず不測の事態が起こりえることも知っていました。
 一騎果敢に全力をもって袁紹を攻め、これを滅ぼす。それはもちろん逆に袁紹軍によって潰される危険性も大きい賭けではありましたが、勝てればこの中華で向こう三十年は曹操に並び立てるものが存在しなくなるほどの大きな勝利です。

 しかしながら先制してきたのは袁紹のほうでした。臣下の進言ものと、自国領に「逆賊曹操討つべし」の檄文を配布し、士気を高め、国を挙げて戦準備をしていました。


そのころの袁紹と曹操の勢力図。赤色が袁紹の支配域、青色が曹操。

 そして西暦200年。
 袁将軍は四十万の軍勢を伴って南下を開始しました。
 先立つこと、同じ北方に有として覇を争いまんまと滅ぼし征服した公孫さんの無敵の白馬陣騎馬隊も吸収し、軍に併合してあります。
 先陣は、このころは関羽張飛と並び恐れられた顔良と文醜のオグシオコンビ。
 袁紹直接指揮の中軍指令系統には劉備の姿もありました。

 迎え撃つ曹操軍。第一陣を任されたのは張遼、第二陣右翼には于禁、左翼に楽進、第三陣徐晃、中軍(中軍は真ん中ってことじゃあなくて総大将のいる軍を指す)許褚、夏侯惇、夏侯淵、参謀に郭嘉(荀は許昌にてお留守番。いくら一大決戦とはいえ、南方からも容易く攻め込まれる危険は冒せませんから)を従えて曹操は北上します。兵力二十万。

 曹操配下となっていた関羽もこの軍に中にはいませんでした。お留守番。袁紹軍との戦いに従軍させてくれるよう曹操に何度も進言したのですが聞き入れてもらえませんでした。
 劉備は現在袁紹のもとにいることは曹操も関羽も知りません。知っていれば関羽は、なにも置いても劉備のもとへと走るでしょうから、従軍を拒む理由となりますが。

 では、なぜか?なぜ、この決戦に最強の助っ人となる関羽を、曹操は連れていかなかったのか?その理由はみんな知っているだろうけど、また明日。