艦長日誌 補足(仮) 

タイトルは仮。そのときに思ったことを飲みながら書いたブログです。

期待になんか応えなくてもいい

2007年12月17日 23時16分17秒 | 個人日誌
 今日のよね3日記を読んでいてですねー、飲みながら一人考えたんですよ。宇宙は無限なのかそうじゃあないのかを。

 答えはそれとなくわかったのですが、ここで書くとまたよね3に「長い」と言われそうだし、発表したら相対性理論以上にセンセーショナルなことになりそうだし内緒にします。
 わかりやすい言葉でいうと「飲んでみなきゃあわからない」ってカンジです。

 よね3日記で書いてあったのは『本物』と『~のようなもの』。
 本物と、本物らしくみせたものってのがたしかに世の中には氾濫してますね。

 なにが本物か、そうじゃあないのかっていう線引きが難しいですよね。切り分けが難しいというよりも概念として難しい。
 小さな頃からずっとハンバーガーをマックで食べていた子供にとって、そのハンバーガーが『本物』であって、焼きたてフワフワののパン生地に肉汁たっぷりの広がる香りのハンバーグに「今むいたから」感のシャキシャキレタス、鼻腔の奥まで突き抜けるツンとした玉葱のみじん切りがこんもりしていて、ピクルスがこれでもかッ!ってくらい乗っかって、採れたてトマトのスライスは厚切り、チーズはデンマークから取り寄せたねっとりねっとりな。そんなハンバーガーも子供には『ハンバーガーのようなもの』になってしまう。

 アスファルトで覆われて、人為的に植えられた木と、信号機が機械的に動いて、白線であっちこっちが区切ってあって、車が走るところが『道』だと信じているような人間が、人生において『道』とはなにかを考えると、まず思考のしょっぱなから、道の定義が違う。

 日頃触れているものが、本当に本当に本当なのか?テレビや新聞はウソをつかないのか?
 まぁ、そんなこと誰もイチイチ考えないし、僕も考えない。考えだしたら、どれもこれも作り物みたく感じてしまって猜疑心の塊みたいな人間になって、周りからひとは離れていくな、たぶん。
 つまり、どれが本物か、なんてことはひと一人で考えてもしょうがないってことなんだろうな。

 あ、なんかよね3の日記否定しているみたいな書き方みたいですけど、そうじゃあないですよ。僕もお豆腐は手作りが好きです。

 どれが本物なのかって問うことよりも、ものの見方はいろいろあるな~ってことを経験することが、すんごく大事。
 物事を違う角度から見るのって、知識がいっぱいあって、それを活かす知恵が硬いととても困難。うーん、僕なんかは頭固いほうだけど、柔らかいひとでも、それって難しい作業だろうなーと思う。

 異なる視点から物事を俯瞰して、新しい発見をする簡単な方法は、誰かと一緒にそれを観るってことだと思う。
 一人でモシャモシャご飯を食べているより、二人、もしくはそれ以上で一緒にいると、発見があるように。

 なんでも好きな人間よりも、嫌いな食べ物がある人間のほうが割合として多いけど、僕なんかもイカスミだけは食べられない。
 ずっと「食べれない、苦手だな~」と一人でそう言っている間は、仮に「いいニオイがするな~、なんだろう?」と思ってフラリと入ったお店で奇跡のようなイカスミスパゲッティに出会っても、たぶん食べない。
 そこで一緒にいる誰かが、イカスミについていろいろ話をしてくれて、その会話が楽しいと「うむー、苦手なんだけど、少し食べてみようかな?」と乗り気になって注文するだろう。
 そのひとが僕が「苦手なんだ」といっていたイカスミを食べるのを、微笑みながらで愉快そうに「どう?」って何かを期待するような目で見ている中、いざズビズバーっと口に入れると「考えていたほど不味くもないじゃあないか?」って思えそうな気がする。

 わからないけどね。やっぱりダメなものはダメかもしれないし。そこでみっともないくらい吐くかも。

 ときに期待に応えようと、無理したり無茶したり、思ってもみないことをしてみたり、心とは裏腹なことを言ってしまったりする。
 それをあとになって「あのときの行動は正しいことなのか?正しいことをしたのか?」「気持ちは伝わったのか?あの言葉でよかったのか?」「もしもあのときに戻れるなら、いや、それは無理だから、今度こそは…」なんて考える。考えるというか悩んでいるだけだな。考えることと悩むことは違う。

 どれが正しいってことはないんだよね。「自分の本心から出た言葉、行動」だって納得していても、見方を変えればほとんどは一人よがりで、勝手で、ひとの気持ち考えてんの?!ってなもので、他の誰かが、もしくは自分の大切なひとをツライ目に遭わせたんじゃあないの?なんてことを、ふとしたときに思い出すから、正しいことがなんなのかはわからない。

 ひとは少なからず周囲の人間に期待されている、きっとこうこうするだろう、ここはクリアできるだろうと、きっと周りには評価されているんだ。
 それが錯覚であったとしても真実であっても、「自分なんかはまだまだだけど、ちょっとずつでも成長している」と、誰もが信じようとする。
 そう思うことができなければ、少しくらい強引でも自分の心を納得させなければ、毎日毎日「一体自分はなにをしているんだ?今に意味なんかあるのか?」なんて思考ばかりフワフワして、おそらくまっとうに生きていけない。楽しくない。

 だから、期待には応えなくていい。
 ひとは自然と生きていれば、自然と周りにひとが集まるよ、気に掛けてくれる誰かがいるよ、なんて陳腐なことじゃあなくて。だからといってもちろん、自分が信じるものだけを見てろってわけでも全然ない。

 自分が期待されてるな~ってプレッシャー感じるほど、周りや身近なひとからは期待なんかされてないって。
 いい意味でさ。

 だって、好きなひとのことをどう思う?
 そのひとのこと大切に想えば想うほど「こうあって欲しい。きっとこうなんだ」なんて考えないでしょ。まぁ、例えそのひとと一緒に居ればなにか楽しいことがあるなんて期待して、それが叶わなかったときにがっかりしないでしょ。

 それよりも思うのは、「元気にしているのかな?今もきっと幸せに笑ってるのかな?」「きっと楽しいことばかりじゃあなくて挫けたり泣いたりすることもあるんだろうけど…でもまぁ、元気でいてくれればいいか」てことじゃあないのかな。

 日々生きていると、僕らはどうしても新鮮なものを求めてしまって。昨日とは違うこと、違う出会い、違うドキドキ、日常では味わえないもの。そんなものは『本物』じゃあない。
 テレビでは新しいお笑い芸人が現れては消えて、常に新しい笑いへの期待に応えようと必死になっている。新しい俳優、女優が現れて、そのひとたちもいずれ歳をとり、露出も少なくなって、テレビのこっち側の僕らだって同じように年齢を重ねるのだけど、あっち側ではまた新しい俳優も女優も生まれる。常に最先端。常に今が一番最高。
 期待に常に応えることは『本物』じゃあない。変化はあってもなくてもいいものなんだ。

 だいたいさー、変化はそこにあるではないか。同じような会話、同じような店、同じような服で、同じようなメンツで同じように飲む。外見だけ見れば同じように映るけど、一回目と二回目は違う。どっちが正しいとか、本物とかではなく、ただ真実としてそこにあるじゃん。
 同じものしかないなら、何度も考えたりしない。一回でいいわけだから。一回で理解できるなら、そのごは無駄だってことだし。
 でも、やっぱそうじゃあない。
 (一度きりの人生なんて考えるから、後悔もあるわけだ。連続した繋がりのなかで変化を認識できる意識を維持することなんかは、かんたんかんたん)

 マンネリ気味な恋人達も、夫婦も、友達も、自分も仕事も、宇宙から見れば、薄皮程度の上空何千メートルの成層圏なんかでは秒速何十メートルって風が吹いているのに、それほど雲の動きもなく見えて、変化なく思えるけど、地球内部の核は今こうしている間ももぐるぐる回って、熱いマグマがグツグツしていて、プレートは年に3センチメートル動くとか動かないとかいってても、そこに何千万トンという岩を動かす力は確かに加わっているはずで、常に変化はある。『本当』なんてものは、見方どころか、見なくても変わる。

 なんだか改めて書くと、そりゃあそうじゃんってことばかりなんだけど。

 ある日あのコはいつものように隣に座ってにっこり微笑んで、いつものように一緒にビールを飲んで、お互いが他愛もない話をしても、それは繰り返しなんかじゃあなくて、今『本当』だと感じる気持ちを誰か分かち合うことが、きっと大事なんじゃあないのかな。
 髪なんか撫でたいね。