平成26年3月26日(水)
天草からの帰り道、三角半島の入口左手に住吉海岸は見えますが、いつも眺める白い灯台の小高い山へ初めて回ってみました。西には干潟広がっています。かすかに見えるのは対岸の島原半島、雲仙普賢岳です。
頂上付近にある住吉神社へ通じる坂道から眺めます。
北側の「たはれ島」。伊勢物語の枕詞にも使われた由緒ある島です。背景のとがった山は熊本市の金峯山です。夏目漱石の「草枕」で有名な峠の茶が中腹にあります。
由来をご覧ください。
灯台。
交通の要衝だったことが案内板からうかがい知れます。
帰途、熊本市河内町の高台から雲仙普賢岳の夕陽を眺めました。春まだ浅い2月のことでした。
天草からの帰り道、三角半島の入口左手に住吉海岸は見えますが、いつも眺める白い灯台の小高い山へ初めて回ってみました。西には干潟広がっています。かすかに見えるのは対岸の島原半島、雲仙普賢岳です。
頂上付近にある住吉神社へ通じる坂道から眺めます。
北側の「たはれ島」。伊勢物語の枕詞にも使われた由緒ある島です。背景のとがった山は熊本市の金峯山です。夏目漱石の「草枕」で有名な峠の茶が中腹にあります。
由来をご覧ください。
灯台。
交通の要衝だったことが案内板からうかがい知れます。
帰途、熊本市河内町の高台から雲仙普賢岳の夕陽を眺めました。春まだ浅い2月のことでした。
こんな風景はこちらでは見かけません。
干潟って、どこにでもあるものではないのですね~
以前は金峰山に登って眺めたりしていました。
そういえば、紫陽花の頃、住吉神社の方に行ったのに
灯台は撮ってませんでしたね~
天草に行っての帰り道
この灯台が見えると「海が終っちゃう」と思ったものです。
桜が綺麗な季節ですね。もうお花見はなさいましたか?
写真として秀逸ですね。そこにいてその時間にいたものだけしか撮れない写真です。
短歌で気持ちを通い合わせる手法は
平安時代からの伝統だったのでしょうが
さらさらさらと筆で描く手法が
今や指で叩くメールや絵文字に代わってしまい
ラインとやらまで出てきて、すっかり様変わりしましたね。
これも時代の流れ、10年後さえ想像が出来ません。
・・・なるほど・・・
濡れ衣 そういうことだったんですね・・・
昔の人はえらいですね。。
私は不調法なんですが 縄文人さんとの五七五のやりとりを
のぞき見して羨ましいなと思いました。。。
分かりやすい説明 ありがとうございました。。
海岸線を右手に見ながら三角へと通じ
天草五橋へとつなっがっています。
かつて「藍より青く」と言うあさどらのぶたいでもありますよね、天草は・・・。
灯台の燃料にも歴史がありますねぇ。
天草、行きたいです
昔、灯台の燈火はゴマ油~
だったんですか~
灯台の維持費もたいへんだったでしょうね~
昔、男が福岡(広く九州をさす時もあり)まで行った時に
「これは色好みだと評判の風流人だ」と男が泊まった家の女性が言ったのを聞いて
『<染川を渡った人ならどうして色に染まることがなかろうか>。誰でも色好みになるでしょうに』(染川は大宰府付近の川)
女は歌を返して
『<負い持つ名の通りならば、浮気であるはずのたわれ島は、波の濡衣を着ているということです>。それと同じで、染川に無実の罪を着せようとなすってもそうはいきません』
男女の粋なやりとりがおおらかでいいですねぇ。
ロマンチックですね~
ここかどうかわからないけど
天草に行った時 左に・・ まぁ帰りは左が海ですからね・・
灯台が見えたのを覚えています
たはれ島の 色恋の歌 現代語訳も書いてあったらいいのになぁ~
中学の時の国語の先生は
名にしおはば をいつも ・・・そのような名前を持っているんだから・・・ って言われてました。
たはれ島の写真みたら 行きたくなりますね~
天草出身の方がいらっしゃるのですね。
たくましいお方なのですね。
縄文人さんも負けず劣らず
気は優しくて力持ちなのですよね。
灯台に胡麻油を使っていたとは
この看板を見るまでは勿論知りませんでした。
ちょっと立ち寄りすると
身近な所にもいろいろな発見があることを
改めて気付かされました。
返り句
☆ 少年の大志抱くや秩父里
彼は柔道が得意で、見事な背負い投げでみんなを圧倒した。
畳に頭をつっ込むように身を低くして
投げ飛ばしていた。
彼の言っていた
空の青、海の青、人間の青(素直で・・)
魚と、海草がおいしいと・・・・・・。
Aさんとは50数年前一緒に仕事をした)
昔の灯台は⇒胡麻油、なるほどそうでしたか。
Twitter575
☆ 天草よ沈む夕日に海棚田