2025年(令和7年)9月4日(木)時々
知り合いのデザイナー:松尾高明さんがTシャツを持ってきてくれました。安尾さんはじめ9人に作って下さいました。早速私は着用しています。
庭に咲く花々です。コエビソウ。
ハナノトラノオ。
ヒャクニチソウ。
ガーベラ。
テッポウユリ。いずれも暑さにめげず咲いています。いらっいらっしゃいませ、コメント欄はオープンです。
2025年(令和7年)9月4日(木)時々
知り合いのデザイナー:松尾高明さんがTシャツを持ってきてくれました。安尾さんはじめ9人に作って下さいました。早速私は着用しています。
庭に咲く花々です。コエビソウ。
ハナノトラノオ。
ヒャクニチソウ。
ガーベラ。
テッポウユリ。いずれも暑さにめげず咲いています。いらっいらっしゃいませ、コメント欄はオープンです。
2024年(令和6年)1月5日(金)
元日の朝、わが家の庭から見た初日の出です。
正楽寺にお参りにいきました。
お寺の内部にある位牌堂に先祖・身内が眠っています。
地区内にある四宮神社は散歩道にあります。別名は:蔵満神社。
閑散としていましたがm、参道では数人の方と会いました。
県境にある四山神社です。
こちらはお詣りの人で賑わっていました。
一宮神社:野原八幡宮です。私はここで”紐解き”の祝(七五三)をしてもらいました。
お詣りの客で大混雑でした。いらっいらっしゃいませ、コメント欄はオープンです。
2023年(令和5)1月4日(水)
先ず、地元の蔵満神社へ参拝しました。
立派なしめ縄です。
菩提寺の正楽寺です。本堂内に位牌堂があり私の先祖たちも安置されています。
次は四山神社です。行列が出来ていました。
ここで破魔矢を求めてきました。
野原八幡宮です。「風流」は国の重要無形民俗文化財も登録され「風流踊り」ユネスコ無形文化遺産に登録されています。
参拝するまで30分もかかりました。s
元日に仏壇に供えた雑煮などです。「拝みイワシ」を飾る風習があります。魔除けといういわれがあるようです。(コメント欄は閉じています。お越しいただきありがとうございました。)
2020年(令和2年)1月4日(土)
快晴の元旦、初詣に行きました。先ずは菩提寺である正楽寺です。本堂内にある位牌堂には餅を飾りました。
蔵満(四宮)神社です。地区の人は「四宮さん」と親しんでいます。
野原八幡宮(一宮)。10月には節頭行事などがあり賑わいます。
歴史のある山門です。
最後は四山神社。灯台(手前)と慰霊塔が見えます。南の階段は131段ありますが、今年は北の坂道から上りました。
商売の神様として有名です。長い行列が出来ていました。
大型商業施設・シティーモールの「であいの広場」では荒尾太鼓の打ち初めが賑わっていました。【コメント欄は閉じています。】
2019年(令和元年)9月30日(月)
彼岸の中日の23日、正楽寺では秋の彼岸法要が行われました。いつもなら連れ合いも前日からお斎(とき)の弁当の準備に行くのですが、身体の不具合で今回は失礼しました。初めてのことです。婦人部の皆さんは頑張っておられました。
住職さんのお子さんも中学3年生、小学6年生になりました。
台風の翌日とあって参拝者は例年よりちょっと少なく106名でした。
法話は天草の佐々木教将師でした。
彼岸の最終日の26日は「お取越し」で御前様がお参りにこられました。連れ合いが饅頭を作り、お供えしました。
ことしは高温続きで、彼岸花の色が冴えません。
わが家の庭にも咲きました。
リコリスの1種でしょうか。
これは露草。
暑さ寒さも彼岸までとは良く言ったものです。雲にもようやく秋の気配がしてきました。
2019年(令和元年)6月2日(日)
5月15日、朝猛烈な腹痛に見舞われました。1回普通便の後下痢。激痛が治まりませんでしたが病院へ行く気力もなくそのまま家で寝ていました。翌日やっと起きられたので新生翠(みどり)病院を受診。胃のレントゲン、腹部のCT検査、胸部のレントゲン検査等を実施。即刻入院と相成りました。早速24時間点滴が始まりました。個室を用意していただました。
病室は3階の一番西側です。雲仙普賢岳が見えます。眼下には介護老人福祉施設 白寿園があります。当病院の初代院長が開設されたものです。現院長は三代目になります。
雲仙普賢岳の頂上には雲の傘が被っています。
有明の月です。
翌5月17日の大腸内視鏡の検査結果です。胃に近い部分の腸がかなり傷んでいました。主治医は三代目院長の鴻江勇和先生です。ずっと体調が優れずいろいろな医療機関に貰った抗生剤等の飲み過ぎが原因のようでした。おまけに市販の鼻炎カプセルやサプリまで服用していました。
白寿園の鯉のぼりが薫風になびいています。絶食は15日から22日まで8日間、24時間点滴も入院時から23日まで8日間でした。点滴で命をつなぎました。不思議に空腹は感じませんでした。
きれいな夕陽も見られます。
白い建物は1昨年ガンで入院していた荒尾市民病院です。
病室の北側です。正面の緑の小山が屋形山、その向こうに万田山が見え、写真右の方に小さくグリーンランドの観覧車が見えます。130度ばかりのパノラマ写真です。
主治医の鴻江先生は初め看護士、介護士のスタッフは皆さんはとても親切で明朗でした。短い入院生活でしたが安心して過ごせました。
入院中の食事の変遷です。退院後もまだ堅い物や香辛料、アルコールは控えるように言われています。
最後の昼食に添えられていたメッセージカードです。栄養士さんにお会いした時に調理スタッフの皆さんにお礼を、と伝言しておきました。
6月は私の誕生月です。まだ本調子ではありませんが、早く元の体調に戻るよう精進したいと思っています。
2019年(令和元年)5月30日(木)
体調が優れず、12日間ほど入院していました。絶食と24時間点滴が8日間続き、やっと27日(月)に退院することが出来ました。点滴で拘束されている上にネットもつながらない状況でしたのでブログも休んでいました。病気については皆さんの参考になるかも知れませんので、後日またこのブログで療養記を紹介したいと思っています。
退院出来たといってもすっかり体力が衰えていて気力さえ喪失しがちで、金栗四三大先輩から叱られそうです。入院前にはまだこんな状態だったアジサイです。
退院してみたらもう満開でした。
もう一カ所のアジサイです。
七変化すると言われますが今はこんな状況です。別名「七変化」の由来です。
長崎に来航したシーボルトが愛人・”お滝さん”の名にちなみ「オタクサ」と命名した話は有名です。
大写しにしました。萼(がく)は4枚からなっているので「四葩」(しひら)とも言われるそうです。
あじさゐや月に色づき日に褪(あ)せて 成瀬桜桃子
また川崎市で悲惨な事件が起こりました。胸が痛みます。
別の所にあるガクアジサイです。
こちらは鉢植えのガクアジサイです。
何だとお思いですか?
捨てていたジャンボニンニクの花です。【コメント欄は今回まで閉じています。こちらからのコメント発信もぼちぼちとやっていきますのでご容赦下さいませ。】
平成30年10月21日(日)
「マラソンの父・金栗四三」 は今年の8月25日にアップしました。来年1月には生家が一般公開されるという情報を聞いて、熊本県玉名郡和水町中林(旧春富村)の生家を訪ねました。この田んぼの向こうに駐車場が設けられています。
駐車場から東へ進みと瓦家の向こうにかすかに見えてくるのが金栗四三先輩の生家です。
表通りから見るとご覧の案内の標識が見えます。200年前に建てられたそうです。を来年1月に一般公開されます。
東の一角には「体力 気力 努力」の記念碑が建ち、「金栗四三オリンピック出場百周年」を記念して建立されました。
記念碑の裏面です。略歴が記されています。
生家の周辺です。
生家の真向かいに「金栗瀬助翁の墓」の看板がありました。和水町商業観光課に問い合わせたところ、金栗四三家の先祖だという説明を受けました。
前回紹介した長谷川孝道氏の著書です。読み応えがありました。
洋泉社刊行の「金栗四三の生涯 『マラソンの父』の波乱の人生」です。写真中心の気楽に読める本です。【コメント欄は閉じています。】
平成30年8月25日(土)
2019年のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリンピック噺」は熊本県は旧制玉名中学校(現・玉名高校)出身のマラソンの父・金栗四三(かなくりしそう)が主人公です。その玉名高校の白亜の殿堂と言われる本館です。この本館、前庭池、正門は2001年(平成13)年に登録有形文化材になっています。
現役生徒たちの活躍ぶりを示す垂れ幕です。
前庭には金栗四三の銅像が建っています。1969年(昭和44)に本人も出席して除幕式が行われました。
時計台を眺めているようです。
玉名高校は1952年(昭和27)第3回全国高校駅伝大会で初出場初優勝を果たしました。以後しばらくは毎年全国大会出場の常連校となりました。松下午太先生の指導に負うところが大きかったです。卒業後も活躍した選手も多かったです。第8回別府大分毎日マラソン(1959年・S34)で優勝した築地美孝さんもその一人です。私の1級上の先輩です。
グランドでは野球部、サッカー部、陸上競技部の練習があっていました。今は駅伝部はありません。
陸上競技部の練習風景です。
玉名市のパンフレット。大河ドラマ放送決定を機に市役所には「金栗四三PR推進室」が設置され、大々的な広報活動が展開されています。生き生きした職員さんたちの応対ぶりが爽やかでした。
その推進室が作成したパンフレットです。写真も豊富でとても分かりやすいないようになっています。
また最新号の玉高同窓会会報にも「金栗四三先輩特集号」が8ページにわたって組まれています。今年は創立115周年という記念すべき年でもあります。11月10日には同窓会も計画されています。高校1年だった時に50周年でした。友人たちを誘い参加する予定です。なお、同窓会では「金栗四三先生銅像」の制作が計画され同窓会当日に除幕式が行われます。一般寄付には私も参加します。
「玉名市立歴史博物館こころピア」で販売されているすごろく(税込み200円)です。当館では現在「ミニ金栗四三展」が開催中です。
縁は不思議なもので金栗四三大先輩の六女(荒尾在住市内在住)のご長男を36年前、中学3年の時に担任しました。家庭訪問の折、金栗四三さんのお孫さんと聞いて感激したものです。お母様に電話したら遠方で元気にしているとのことでした。
「54年8ヶ月6日5時間32分20秒3 玉名高校大先輩 金栗四三を偲ぶ54年8ヶ月6日5時間32分20秒3」の私のブログです。
最近復刻出版された本です。地元新聞記者だった長谷川孝道さんが情熱込めて書いています。一読を勧めたい著書です。
平成24年6月21日(木)
今年はオリンピックの年。100年前、ストックホルムで開かれたオリンピックに日本は初参加をしました。玉名高校の大先輩・金栗四三さんはマラソンに出場しましたが途中棄権、これが大会本部には伝わらずに行方不明扱いになっていました。「1967年(昭和42年)3月、スウェーデンのオリンピック委員会から、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待され(中略)金栗を記念式典でゴールさせることにしたのである。この時、『日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します』とアナウンスされた。54年8か月6日5時間32分20秒3という記録はオリンピック史上最も遅いマラソン記録であり、今後もこの記録が破られる事は無いだろうと言われている。」【ウィキペディア】
6月18日付朝日新聞・「天声人語」でも紹介されています。
金栗四三さんの母校・玉名高校はどんこの母校でもあります。同じく【ウィキペディア】には「金栗はゴール後のスピーチで『長い道のりでした。この間に孫が5人できました』とコメントした。」とあります。なお「天声人語」には孫の数10人とあります。身内の方に確認したところ10人が正しいとのことでした。
この前庭に金栗四三さんの銅像があります。在校中にこの大先輩のお話を聞いたことがあります。
玉名郡和水町の実家のそばにお墓があります。直筆の「体力 気力 努力」の文字が墓石に刻まれています。
数年前ご実家を訪ねたことがあります。
玉名高校は体育祭の応援団、人文字が度々テレビでも全国放送され有名です。孫娘も通っていました。今度の6月30日にもTBS系「ぶっちぎりTV」で続編が放映される予定です。(体育祭の写真は孫娘の在校中のものです。)
金栗四三さんの後輩たちは大先輩を誇りとして頑張っていました。(写真は一部再掲しています。)
【お断り・間違って27日アップ予定の「シロチドリの雛」を一時公開してしまいました。このところパソコン不調によるトラブルです。コメントいただいた方には後日アップ時に返事を差し上げます。ご迷惑をおかけしました。】