ここへきて迷いが生じる。坪内逍遥は、Dの写真には、本来のDの表情は写っていないという。(異様ともいえる存在感は充分だが) 某公園の銅像は、身体こそ未亡人の監修の下、弟子に同じ格好をさせてモデルにしているから良いのだろうが、当時の識者もいうように顔がいけない。どうみても我が家にある写真帖のDと造形的に違いすぎる。しかし、作者は生前のDを観ているはずで、そこを表現したかった、としたら気持ちだけは解る。 当時の写真感材の感度では生きた表情を捉えるのには無理がある。先日のDの御子孫も、その点を指摘されていた。一方Dは、自分の特徴を、迫力を出そうとデフォルメした絵師を出入り禁止にしており、少々さえなくても、事実にこだわる人である。私は常に本人にウケたいと思って制作している。それがたとえ松尾芭蕉のように、何百年前に亡くなっていても同じこと。悩むところである。 それともう一つ、どういう格好をさせるかである。色々考えて結論を出したつもりだったが、ここへきて欲が出てきて迷い始めている。一番大変な首が完成したせいである。 悩むといっても御馳走を目の前に、どれを食べようか、ということに似ているのだが。幸いこれには締め切りがある。悩んでいるのも明日一日、とリミットを決めた。
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