明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



すっかりもとの生活に戻った。寝たいときに寝て起きたい時に起きる。しかし間違いなく年齢のせいであろうが、暗いうちに目が覚めてしまう。8時間寝るなどということは全くあり得ず、がっかりするので何時間寝ただろう、と確かめることはしない。ただ寝るときは寝たくなって寝るので、まるでピストルで撃たれたようである。10秒かかっている気がしない。 次に何を始めるか。やりたいことは多く、三すくみのような状態で一歩が踏み出せないでいる。こんな時に個展会場でも探そうかとボンヤリ考えている。 『貝の穴に河童の居る事』では著者の鏡花自身を登場させることなく終わったが、主人公がなんとなく年恰好、その他著者自身を匂わせる設定をしており、かつ荒唐無稽な場面が出てきたりすると創作欲をそそられる。そう考えると例えば、奥野健男が“日本初のシュールレアリスム小説”と評し、死の三年前に室生犀星が書いた『蜜のあはれ』など最たるものといえるだろう。これはある編集者と飲んでいるときに、相手がどうなんだろう。ともらした作品であったが、彼が発音した直後に、着流しの犀星の襟元やたもとをヌルリと出入りする、尾っぽを除いて40センチ近い金魚が画として浮かんでしまっていた。 『蜜のあはれ』は会話体だけで成り立っており自分を“あたい”と呼ぶ金魚と老作家である“をぢさま”の奇妙な話である。金魚は月々のお手当を要求してみたり歯医者に通ったり、金魚であるようで、若い女性のようでもあり、曖昧なまま進行する。イラストで描くならともかく、犀星を“をぢさま”として登場させ、本物の金魚と絡ませよう、などというのは、あまり利口者の考えることではないだろう。こういう場合描くべきは犀星の表情と可愛らしい金魚とのコントラストである。 たまたま金魚みたいな娘を知っているし、金魚屋の親父の候補者などいくらでもいる。主がいなくなって久しい水槽は玄関に放置されたままである。まあ例えばの話ではある。

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