昔から人間も草木同様自然物、あらかじめ肝心なものは備わっている、と考えて来た。それこそが〝考えるな感じろ“で進んだほうが結果が良い理由だろう、と。そうこうしてある一文が目に止まった。〝禅は仏を外に求めず、自らの中にあると信じた“ここでいう仏とは、自然物に備わっているであろう肝心なものを指しているのではないか?だとすれば、それを追求して来た高僧をモチーフにすることは、結果的に、その肝心なものに多少なりとも関わることになるのではないか?私が長らく〝レンズを外に向けず眉間に当てる念写が理想“と標榜して来たことも無縁とは思えなかった。 寒山拾得展で虎に乗った禅師や仙人など手掛け、以後、実在した人物は作らず、架空の人物像で行くつもりが前言撤回し、実在した高僧の像を作ることになったのは、以上の理由による。