肝心の首を制作する場合、3回は完成寸前までいく。完成が近くなると、毎日眺めている肖像写真から、それまで見えなかったものが見え始め、目が手を追い越して、これじゃまったく駄目だ。ということになる。これを3回ぐらいは繰り返すわけである。そんな時、出来たも同然などと書いてしまい、恥ずかしいことになるのだが、同じ写真でも、当初とは感じ方が変り、違って見えてくるのでしょうがない。特に今回は、決定的な写真資料である写真帖が、かなり作っていた段階で家に来たので、おかげで案の定、二転三転した。 この人物は、某彫刻家がいうように、力がはいっていなくて大きい。そこが奇妙でさえあるのだが、写真帖で解説している坪内逍遥は、写真の撮られ方が上手ではない、という意味のことをいっている。それに引き換え次の世代は、見る側を意識した上手な撮られ方をする、という。それは当時の写真の感材の感度の違いにもよるだろう。ほとんど外光を利用したスタジオ撮影のようだが、それでも感度が低ければ、ジッとしている時間は長くなる。よって昔の写真は動物と子供の写真が極端に少ない。逍遥は“Dのあの爛々たる大きな目をぐっと睨ませて、如實に撮影し得たと想像して見たまへ”といっているが、一瞬の表情を作ったまま固まっているのは大変だろう。 逍遥に、この人物の生きた肝心な様子が写っていないのが残念だ、といわれると想像してしまうが、本人は、たとえ貧弱に写っていても、本当のことなら文句もいわなかった人のようで、逆にデフォルメした表現をした絵師を、出入り禁止にしたそうである。私も出入り禁止にされるようなことは、なるだけ避けたいと思っている。
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