実在した作家を制作していた時、一つのモチベーションになっていたのが、その作家にウケたい、という事であった。それはとっくに亡くなっていようと。自分でも奇妙ではあったが、ずっとそうだった。それが極まったのが、シリーズ最後となった三島由紀夫であろう。最後は私と三島の二人の世界であった。洗濯物を見上げると洗濯物と私の間に三島が透けて見える有様であった。今手掛けている物は、もちろん爪の先ほどもそんな事は考えない。様々な意味でタガが外れている。 立体作品を制作するということは自ら陰影を作り出すことに他ならない、それをわざわざ排除しようなんて。それは私が思い付いてそうしたくなった訳だが、そこに至る間の身を捩らんばかりの想いは、二刀流でない、被写体制作者と撮影者が別では起きない作用が働くはずだ、と確信している。それはともかく。本来陰影を撮る用に作られたカメラとレンズを持っているのに撮るのを我慢する必要はないだろう。そりゃそうである。臨済義玄の〝喝”の表情など特別なレンズで撮ってみたいものである。