デンマンのブログ

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小野小町のシモい噂 PART 1

2008-02-29 15:33:48 | 日本人・日本文化・文学論・日本語


 
小野小町のシモい噂






小野小町(おののこまち)

大同4年(809年)頃生まれる。
延喜元年(901年)頃に亡くなる。

平安前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の1人。
出羽郡司小野良真の娘と言われる。
仁明天皇の更衣だったらしい。
また文徳天皇の頃も仕えていたらしい。
「町」の字は後宮に仕えた女性に用いられる。

彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、能や浄瑠璃などの題材としても使われる。
小野小町に材をとる作品を総称して「小町物」と言う。

生まれには多数の説があるが現在の秋田県湯沢市小野(旧雄勝郡雄勝町小野)という説が主流となっている。
しかし、秋田県湯沢市小野が小野小町の生誕地であるかどうかの確証はない。

出身地はこの他にも福島県小野町とする説、茨城県新治郡新治村大字小野とする地元の言い伝えなど、生誕伝説のある地域は全国に点在している。
東北地方に伝わるものはおそらく『古今和歌集』の歌人目録中の「出羽郡司娘」という記述によると思われる。
それも小野小町の神秘性を高めるために当時の日本の最果ての地の生まれという設定にしたと考えられている。

京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、小町は晩年この地で過ごしたとの説もある。
ここにある随心院には、卒塔婆小町像や文塚など史跡が残っている。

花の色は移りにけりないたづらに

我が身世にふるながめせし間に


有名なこの歌は、花が色あせていくのと同じく自分も年老いていく姿を嘆き歌ったものとされる。

小町物

能の「小町物」には「草紙洗小町」「通小町」「鸚鵡小町」「関寺小町」「卒都婆小町」などがある。
これらは以下の3つに大別される。

1) 和歌の名手として小野小町を讃えるもの、

2) 深草少将の百夜通いをモチーフにするもの、

3) 年老いて乞食となった小野小町に題材をとるもの。

「年老いた乞食の小町」は能作者らによって徐々に形作られていった「衰老落魄説話」として中世社会に幅広く流布した。

小野小町九相図

鎌倉時代に描かれた、野晒しにされた美女の死体が動物に食い荒らされ、蛆虫がわき、腐敗して風化する様を描いた九相詩絵巻は別名を「小野小町九相図」と呼ばれる。
モデルとしては他に檀林皇后も知られる。
両人とも次の歌の作者と言われている。

我死なば焼くな埋むな野に捨てて

痩せたる(飢ゑたる)犬の腹を肥やせ(よ)


小町針

裁縫に使う「待ち針」の語源は小野小町にちなむという俗説もある。
言い寄ってくる多くの男に小野小町がなびくことがなかったため、穴(膣)のない女と噂されたという伝説に基づき、穴のない針のことを「小町針」と呼んだことから来ていると言う。




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




デンマンさん。。。今日は六歌仙のうちの紅一点、小野小町からお話を始めるのですか?



実は、小野小町から話を始めるには訳があるのですよ。

どのような訳ですか?

おととい、「下つき」の話をしましたよね。

ええ、そうでしたわ。その「下つき」がどうだとおっしゃるのですか?

おとといの記事の中に次のリンクを貼ったのですよ。

■ 『下つきだねって言われて。。。(2006年3月18日)』

この記事はWABLOGの『宇宙の摂理ブログ』に掲載されているのですよ。

それがどうしたのですか?

このリンクをクリックして「下つき」の記事を上のブログへ読みに行った人が多かったのですよ。最近の『レンゲ物語』は歴史の話題が多くなったので、めっきり読む人が少なくなったと思っていたら、おとといと昨日は、いつもの2倍以上の人が上の記事を読んだのですよ。やはり、シモい話題と言うのは読む人の関心を惹くのですよね。

そうでしょうか?

ちゃんと統計に表れるものなんですよ。ちなみに、興味をそそったと言う一昨日書いたその部分をここに書き出しますよ。


実は、レンゲさんのエロい話があまりないので、読む人が少なくなったのですよ。うへへへへ。。。

デンマンさんは。。。、デンマンさんは、やっぱり、あたしがエロい女だと思っているのですわね?

違いますよう。レンゲさんはエロい女ではありませんよ。僕はエロい話題が少なくなったので、最近、この『レンゲ物語』を読む人が少なくなったと言っているだけですよ。

でも、エロい話題は読まれているのですか?

そうですよ。僕はびっくりしているのですよ。

何をびっくりしているのですか?

ちょっと次の「リンク元キーワード」のリストを見てくださいよ。



分かるでしょう?“下つき”が3位なんですよ。つまり、“下つき”と言うキーワードを検索エンジンに入れて検索した結果、表示されたページの中からリンクをクリックして『宇宙の摂理ブログ』にやって来た人が過去30日に77人居ると言う事なんですよ。

どの記事を読みに来るのですか?

次のレンゲさんの記事ですよ。

■ 『下つきだねって言われて。。。(2006年3月18日)』

なんと、2年ほど前に書いた記事ですよ。レンゲさんも覚えているでしょう?

ええ。。。よ~く覚えていますわ。

どうしてこの記事が読まれるのですか?

だから、エロいからですよ。エロいと言う言葉が適切でないのならば“シモい”話題だからですよ。この30日の間に急に読みに来る人が増えたのですよ。




『愛と陰謀 (2008年2月27日)』より


この部分を読むとね、例えば、エロい話題が嫌いな人でも、“それ程急に読まれるようになった記事というのは、一体どのようなものなんだろう?”。。。このように、興味を惹かれるものなんですよ。

そうでしょうか?

だから、僕だって上の部分を読めば『宇宙の摂理ブログ』に掲載されている記事を読みに行きたくなりますよう。

デンマンさんはエロい話題が好きだからですわぁ。

やだなあああぁ~。。。こういう時に、日ごろの憂さを晴らさないでくださいよう。僕に調子を合わせてくださいよう。。。も~~。。。やりにくいなあああぁ~

分かりましたわ。デンマンさんのおっしゃる事が正しいとして、それがどうだとおっしゃるのですか?

だから、僕は上の小町の説明を『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜き書きしたのですよ。

なぜ。。。?

なぜって。。。ここまで説明してくれば、なぜだかレンゲさんにも分かるでしょう?

分かりませんわ。

やだなあああぁ~。。。とぼけないでくださいよう。

とぼけていませんわア。あたしは本当にデンマンさんの“ねらい”が分かりませんわ。

小町針ですよう。。。小町針。。。

小町針がどうだとおっしゃるのですか?

ちょっと読んでみてくださいよ。


小町針

裁縫に使う「待ち針」の語源は小野小町にちなむという俗説もある。

言い寄ってくる多くの男に小野小町がなびくことがなかったため、

穴(膣)のない女と噂されたという伝説に基づき、

穴のない針のことを「小町針」と呼んだことから来ているという。


説明の最後に急にシモい話になっているのですよ。

だから。。。?

僕は小野小町があの世で迷惑していると思うのですよ。

このようなシモいうわさが広まってしまった事をですか?

そうですよ。うへへへへ。。。僕が小野小町ならば、絶対に頭に来てしまいますよ。レンゲさんだって、このようなうわさが広まれば頭にくるでしょう?

デンマンさんは。。。。デンマンさんは、一体何が言いたいのですか?

だから、僕は言いたいのですよ。紀貫之は「小町針」の説明のために六歌仙の一人に小野小町を選んだわけじゃないのですよ。

つまり、興味本位のうわさやシモネタが小野小町の伝説として現在に伝わっているとデンマンさんはおっしゃりたいのですか?

そうですよう。「小町針」のエピソードが最も端的な例ですよ。紀貫之が聞いたら、あの世で吹き出して笑い転げてしまいますよう。うしししし。。。

デンマンさん。。。そうやって、一人で喜ばないでくださいな。。。で、紀貫之さんは何のために小野小町を六歌仙の一人として選んだのですか?

紅一点ですよう。六歌仙のうちのただ一人の女性ですよ。

だから。。。?

つまり、扇の要のようなものですよ。どうしても小野小町に注目が集まるのですよ。それで、歴史に関心の無い人は興味本位にシモい方向に話が向かってしまう。それで「小町針」のような逸話ができてしまったのですよ。

歴史に興味のある人は小町針という発想にはならないのですか?

なりません。次の2点をのぞいて、あとは伝説だと言っていいでしょう。


1) 「町」の字は後宮に仕えた女性に用いられる。

2) 京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、

   小町は晩年この地で過ごしたとの説もある。


紀貫之が強調したかったのはこの2点ですよ。だから「小野小町」でなければならないのですよ。

つまり、紀氏との関係を強調した訳ですか?

そうですよ。後宮に使えた女性だったと言うことで紀氏との関係も見えてくる。小野小町は仁明(にんみょう)天皇の更衣だったらしい、と書いてある。また文徳天皇の頃も仕えていたらしい、と書いてあるのですよ。この文徳天皇の更衣に紀静子が居るのですよ。

惟喬(これたか)親王と斎宮・恬子(やすいこ)内親王を産んだ女性ですね?

そうですよ。この紀静子の別名は小野宮なのですよ。

ちょっと偶然にしては、できすぎていますわね。。。

実は、「小野小町」として誰でも知っているこの女性の実名は分かっていないのですよ。

「小町」は実名ではないのですか?

違うのですよ。天皇の妻は、皇后・中宮・妃・女御・更衣という順に位があった事をレンゲさんも知っているでしょう?

ええ。。。一応「日本史」で勉強しましたわ。

女御までは殿舎が与えられたのですよ。でも、後宮の中で一番身分の低い更衣は、常寧殿(じょうねいでん)という建物の中を屏風や几帳などで簡単に仕切って、その区画を与えられていたのです。長方形に仕切られたこの部屋のことを町(まち)と言っていたのです。

それが、小町と呼ばれるようになったゆえんですか?

そうですよ。 続日本後記には、平安前期の承和9年(842年)、仁明(にんみょう)天皇の後宮で、正六位上に任じられた小野吉子(きちこ)という女性が記録されているのです。小野吉子は、更衣の位であったことから、彼女こそが小野小町だったと考える説もあります。また、彼女には姉がいたらしいのですよ。それで、妹だと言う意味で小町と呼ばれたとも考えられているのですよ。だから、小野小町は、この吉子本人である可能性が強いのですよ。

デンマンさんも、そう思っているのですか?

僕は、紀静子が小野宮と呼ばれていたので、この人もその可能性があると思っているのですよ。しかも、文徳天皇の更衣でした。この当時で90歳近くまで小野小町は生きたと言うことになっていますからね、一人だけではないと思うのですよ。

つまり、「小野小町」というのは紀氏と小野氏にゆかりのある女のコラージュだとおっしゃるのですか?

僕は、そう思っているのですよ。とにかく、紀氏と小野氏に密接な関係があったことは充分に分かるのですよ。紀貫之が小野子町を六歌仙に選んだ裏にはこのような背景があるのですよ。

伏線になっているのですわね?

そうですよ。

それで、惟喬(これたか)親王には、どのような不幸があったのですか?

この惟喬親王は母親が藤原氏の女でなかったので文徳天皇の第一皇子であったにもかかわらず天皇になれなかったのですよ。時の権力者・藤原良房の娘・明子が産んだ第四皇子の惟仁(これひと)親王が清和天皇として即位する事になるのです。

それで惟喬(これたか)親王は、どうしたのですか?

結局、要職にはつけなかったのですよ。そう言う訳で、みきりをつけて出家して近江国滋賀郡小野に隠棲するのです。つまり、小野氏ゆかりの里ですよ。その地で在原業平や紀有常らと交流したのですよ。

ここでも六歌仙の一人である在原業平が出てくるのですね。

そうですよ。ところで、六歌仙の1人に喜撰(きせん)法師という隠遁者が居ますが、この人は実は紀名虎の子であると伝えられているのですよ。

。。。と言う事は、喜撰法師は紀氏の一員で惟喬親王の叔父ということになりまわね?

その通りですよ。また、六歌仙の1人である僧正遍照(そうじょうへんじょう)は、もともとは惟喬親王の幼少時に傍に仕えていた側近だったのですよ。この人は桓武天皇の孫です。俗名は良岑宗貞(よしみねのむねさだ)と言うのですよ。

どうして、お坊さんになってしまったのですか?

文徳天皇の皇太子を誰にするかと言う時に、惟喬親王の側近の良岑宗貞(後の僧正遍照)は当然のことですが、第一皇子の惟喬親王を皇太子にすべきだと主張したのですよ。時の権力者の藤原良房は孫の第四皇子・惟仁親王を皇太子にしたかった。

つまり、藤原良房と対抗する事になって、良岑宗貞は身の危険を感じたのですか?

その通りですよ。藤原良房の息子には藤原基経(もとつね)と言う権謀術策に長(た)けた男が居ますからね。この基経が「応天門の変」の裏で暗躍していたのが史書を読めばすぐに感じられますよ。

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