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食べないご馳走(PART 1)

2019-11-29 10:56:29 | 歴史四方山話
 

食べないご馳走(PART 1)

 


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デンマンさん。。。 上のクリップのワンちゃんは、ご馳走を食べたくて食べたくて仕方がないのに、飼い主が“食べてよし!”と言ってくれないので、あきらめたようですわァ~。。。 なんだか、とっても可哀相ですわねぇ~。。。


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ジュンコさんならば、食べさせてあげますか?

もちろんですわ。。。 見ているだけでも、あまりにも可哀相じゃありませんか!

確かに、よく訓練されてますよ。。。 飼い主が“よし!”と言うまで、じっと待っているのですからねぇ~。。。 感心させられますよ。。。 僕が犬なら、痺れを切らして喰いついてしまいますよ!

叱られるのが怖いので、じっと待ているのですわ。。。 ところで、今日はワンちゃんの訓練の仕方について お話しするのですか?

いや。。。 犬とは直接 関係ないのですよ。。。 実は、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのです。。。


将軍を取りまく器

 


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江戸城内の行事は、正月年始参賀から始まる年中行事、誕生、元服、将軍宣下などの人生儀礼、オランダ・琉球・朝鮮などとの外交儀礼の公式なものから、快気・法事・祭礼など私的なものまで頻繁に行われている。

 

徳川将軍家が行っていた儀式や行事の礼法は、武家の規範となっており、家の家格、伝統、あるいは経済状況などによって相違はあるものの基本的には共通の指向性を持っていた。

こうした中で最も格式が高い儀礼は、将軍の権威に関わる儀礼である朝鮮通信使接応や大名への御成りであろう。

 

格式高い儀礼に使われる陶磁器を説明するにあたって、御成を中心に取り上げたいが、ここでは「かわらけ」「茶道具」「饗膳具」の3つの陶磁器が重要となる。

 (中略)


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饗膳具

 

御成書院で行われる饗応では、かわらけと白木の膳などで出される儀礼膳としての七五三の膳(ほとんどが食べない料理で構成される)の後に、引替膳と呼ばれる食べるための料理が出される。

 


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これらの料理を載せる器には、主に漆器や陶磁器が利用される。

 

元禄15年(1702)の将軍綱吉の前田家への御成では、坪皿・縁高・大ちょくなどが使用されている。

 

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




166-172ページ 『近世城郭の考古学入門』
編者: 中井均・加藤理文 
2017年3月20日 第1刷発行
発行所: 高志書院




あらっ。。。 七五三の膳というのは、ほとんどが食べない料理で構成されるのですかァ~。。。 つまり、引替膳と呼ばれる食べるための料理が出されるまで、ワンちゃんのように“おあずけ”をさせられるのですわねぇ~。。。 うふふふふふふ。。。



そういうことなのですよ。。。

どうして、そういうことになってしまったのですか?

あのねぇ~。。。 上の文中に「元禄15年(1702)の将軍綱吉の前田家への御成では、坪皿・縁高・大ちょくなどが使用されている」と書いてあるけれど、江戸幕府の第5代将軍である徳川綱吉という人は「御成」が好きだった。

つまり、大名や臣下の屋敷に足を運んでは ご馳走になるのですか?

そういうことですよ。。。



江戸時代の御成り

 


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江戸時代には、将軍(時には大御所)が、臣下の邸宅を訪問することを特に御成と表現した。

御成りは、世間に主従関係を知らしめるための機会であり、それを受ける各藩は名誉と受け取っていた。

元和9年、江戸時代に最初の大規模な御成りが行われ、その際、尾張藩が徳川秀忠を迎えた際のもてなしかた(茶の湯、観能など)は「元和御成記」として記録され、以後、江戸時代を通じて御成が様式化した。

簡素化された時代もあるが、御成りにあたっては、大規模な江戸屋敷の大改装(庭園や能舞台の造成、改装)や諸道具の新調や随伴者の土産品の調達まで多額の労力と費用が費やされた。

元禄15年初頭、徳川綱吉から加賀藩(当時の藩主は前田綱紀)に対して御成りの意向が下知されると、加賀藩はさっそく本国から職人を呼び寄せて準備を開始、同年4月の御成りまでにかかった総費用は約36万両(仮に1両30万円換算だと約1,080億円)に達し、元禄時代ならではの華やかさが伝えられている。




出典: 「御成」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




徳川綱吉は、どうして「御成」が好きだったのですか?



綱吉には悪い癖があったのです。。。

どのような。。。?

ジュンコさんは綱吉がワンちゃんを大切にしていたのを知っているでしょう?

ええ。。。 確か徳川綱吉は「生類憐みの令」を出して ワンちゃんをはじめ生き物を大切にしなさいと庶民にお触れを出したのですよねぇ~。。。

そうです。。。 この綱吉は、もちろん良い事もしたのだけれど、人の迷惑になる事を考えるだけの分別にかけていた。

たとえば、どのような迷惑をかけたのですか?

綱吉は色っぽい女性に目がなかった。

 


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あらっ。。。 色っぽい女性がいると聞くと 居ても立ってもいられない性分だったのですか?



そうなのですよ。。。 だから、ジュンコさんが色っぽい女だという噂が立てば、ジュンコさんの家に「御成」するような将軍だったのです。。。

実際に、そのようにして色っぽい女性の家に「御成」したことがあるのですか?

あるのですよ。。。 綱吉は臣下だった牧野成貞の妻・阿久里の噂を聞きつけて、牧野邸に「御成」したのです。。。

それで牧野成貞さんは、名誉なことだと思って作法どおりに七五三の膳を出してもてなしたわけですか?

そうです。。。 でも、綱吉は食べない。。。 もちろん、目的はご馳走を食べるためではなかった。。。 

それで、本膳の七五三の膳は、その後 誰もが手をつけないようになったのですか?

そうだったのかもしれません。。。 でも、これは僕の個人的な解釈です。。。

本当はどうだったのですか?

あのねぇ~、本膳料理というのは、多くが「見る」料理だったのですよ。。。 つまり、神饌(しんせん)や仏供と同様に飯・餅などを「高盛」と呼ばれる飾り盛で出した。。。

 


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だから、実際に食べる事ができる料理は決して多くは無かった。。。 本膳料理が形骸化すると実際に食べる部分が少なくなったことから、食べるための膳として引替膳が編み出されるようになった。。。



つまり、ご馳走よりも、色っぽい女性がお目当てで、徳川綱吉が七五三の膳に手をつけなかったのは、食べないご馳走の“仕来(しきた)り”とは直接関係がないのですわねぇ~?

直接関係がありません。。。

ところで、牧野成貞の奥さんの阿久里さんは、どうなったのですか?

興味がありますか?

教えてくださいなァ。。。

綱吉は阿久里さんに手を出しただけでなく、驚いたことに 阿久里さんの娘の安子さんも無理やり自分のものにしてしまった。。。

あらっ。。。 マジで。。。?

安子さんには婿の成時さんがいて、彼は憤激のあまり割腹自殺をしてしまったのです。。。

あらっ。。。 最悪の事態になってしまったのですわねぇ~。。。

そうなのですよ。。。 さらに綱吉は、腹心の柳沢吉保の側室・染子さんも 「御成」を口実に わがものにしてしまった。。。

あらっ。。。 徳川綱吉はずいぶんと女癖が悪い将軍だったのですわねぇ~。。。

そうなのですよ。。。 「御成」を口実にして 色っぽい女をご馳走代わりに手を出したのですよ。。。 つまり、徳川綱吉はご馳走を食べないで、色っぽい女性をいただいたわけです。。。



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 (すぐ下のページへ続く)











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