デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

ヌードとロマン PART 1 OF 3

2008-05-29 14:16:24 | 恋愛・失恋・不倫・性の悩み・セクハラ
 
ヌードとロマン




エマニエル夫人の自由恋愛



秋の日のある朝。
パリのアパルトマンの一室で眼を覚ましたエマニエル(シルビア・クリステル)は薄いガウンを羽織ったまま寝室からキッチンへ降りる。
朝の陽ざしがカーテンを通してふりそそいでいる。
エマニエルは今日、タイのバンコクへ旅立つことになっている。

外交官である夫のジャン(ダニエル・サーキイ)は一足先にバンコクへ赴任していてあとからエマニエルが行くことになっていたのだ。
飛行場へは彼が出迎えにきていた。久びさの邂逅、二人は蚊帳の中で激しく愛し合う。
バンコクは乾いた空気が肌に心地よいエキゾチックな町である。
エマニエルが加わることになったフランス人の集まりは、とりわけサロン的ムードが濃く男も女も自由に交際している。

ある日の昼下がり、バンコクの庭園でパーティが催される。
ここに集うのは気ままな独身の男女、外交官、芸術家といった人たちである。
エマニエルは、ここでさまざまな男女と出会い、やがて彼らによって大きく変わっていくことになる。



ロッカールームでのエマニエルとマリー(右)

マリー・ルイズ(ジャンヌ・コレティン)は、カモシカのような肢体を持つ奔放な少女で、彼女はパーティのあとエマニエルの屋敷を訪ねてくる。
性への好奇心が旺盛で、エマニエルにあけすけな質問をして顔を赤らめさせる。
しかも、驚いた事にマリーはエマニエルの前でオナニーを始める。

アリアンヌ夫人(クリスティーヌ・ボワソン)は性的に充たされない有閉マダムでレズ趣味がある。
エマニエルをスマッシュに誘ったとき、彼女を抱きしめ、それから時々更衣室で彼女を誘惑するようになった。
ビー(マリカ・グリーン)は、たくみなフランス語を話すアメリカ人の美女で、エマニエルは姉を慕うように魅かれ、やがて深く愛するようになってゆく。

さらにエマニエルは老紳士マリオ(アラン・キュニー)とめぐり逢う。
彼は社交界でも特異な存在である。
それはひとえに彼のもっている不思議な性の哲学のため。
女は誰でも彼の哲学の洗礼を受けることになっていた。
まさに、英語の man about town です。
社交界の有閑紳士、通人、遊び人、粋な人、と言ったところ。。。




“文明人の性というのは複数セックスでなければならない。
単数のセックスではなく二人以上と肉体関係を持ちたい。
それも時や場所を選ばずに。
それを私は反文明のセックスと呼び、
そうした性の中にこそ真の喜悦を発見していくべきである。"


これが彼の性哲学です。
エマニエルはマリオにとってそうした哲学を実践するにまたとない素材なのです。



ある一夜、エマニエルはマリオとデートすることになります。
食事のあと、彼はエマニエルに己れの主張を説きながら、さまざまな場所でさまざまな男たちと性関係を持たせる。
アヘンの巣窟で輪姦させ、キック・ボクシングの勝者に彼女の肉体を提供した。
こうした一夜の、恥辱としかいいようのない体験のあと、エマニエルの表情は不思議にさわやかだった。
マリオのいう性の自由の世界に魅せられつつあったのかも知れない。




『バンコクのファンタジー (2008年2月8日)』より




今日は、また『エマニエル夫人』に逆戻りですか?おとといはデンマンさんがさんざ長い前置きをタラタラと書きましたよね。今日は大切なお話があるのですよね。そうでしょう?



もちろんですよう。レンゲさんは『エマニエル夫人』が嫌いなのですか?

別に、嫌いではありませんわ。でも、今日は余計なお話をしないで、すぐに本題に入ってくださいな。そうじゃないと、またクライマックスがあさってになってしまいますわ。

でもね、『エマニエル夫人』を出さない訳にはゆかないのですよう。

どうしてですか?

1970年代の後半から1980年代にかけて、『エマニエル夫人』は世界的にブームを巻き起こしたのですよう。いわば、エマニエル旋風が世界的に巻き起こったのですよう。ある意味で“愛と性の社会的現象”だった。

デンマンさんもその影響を強く受けたのですか?

そうですよ。

どのように。。。?

だから、僕がブルックリンでマリアさんとアンナさんに出会った頃、三作目の“Goodbye, Emmmanuelle (さよなら、エマニエル夫人)”を映画館で上映していましたよ。

それで、デンマンさんもマリアさんとアンナさんと一緒に観に行ったのですね?

そうですよう。僕はとりわけ感動した訳ではないけれど、詩的イメージが僕の脳裏に焼きつきました。

その詩的イメージって。。。?

シャーロット・アレクサンドラ(Charlotte Alexandra)と言うフランスの女優が出ていたのですよう。



この女性ですか?

そうですよ。面影がちょっぴりアンナさんに似ているのですよう。僕はこの映画で初めて見たのだけれど、このシャーロットがビラ(villa)。。。、日本で言うならば葉山のウォーター・フロントにあるようなしゃれた別荘で、美と健康をそのまま象徴しているような見事な肢体を見せるのですよう。

つまり、一糸もまとわずヌードで登場するのですか?

そうなのですよう。この時、僕はマリアさんとアンナさんの間に座って映画を観ていたのですよう。急にライトハウス・ビーチ(Lighthouse Beach)で見たアンナさんのヌードが思い出されてきて、スクリーンのシャーロット・アレクサンドラに重なったのですよう。まさに、僕はシャーロットのヌードではなく、アンナさんのヌードをスクリーンに見ていたのですよう。しかも、僕のすぐ左隣にアンナさんが座っていたのですよう。





それで、デンマンさんにとってヌードとエマニエル夫人の自由恋愛は強く結びついているのですか?

そうなんですよう。ヌードと自由恋愛がワンセットになっているような印象を持ったのですよう。

でも、もともと関係ないのでしょう?

多少は関係あるでしょうね。恋愛の行き着くところ。。。それは、たいてい裸になって愛し合うのですからね。裸。。。つまり、ヌードですからね。でもアンナさんによると裸とヌードは違うのですよう。


ヌードと裸の違い



古代ギリシャではヌードと言えば男性のヌードだったのを知ってる?



でも、女性のヌードもたくさんあるよ。例えばミロのビーナスとか。。。



でもね、オッパイは見せてもプッシーちゃんまで見せている女性ヌードってないのよう。

う~~ん。。。確かに、言われてみれば、そうだよね。

古代ギリシャでは、鍛えられた男性の裸は当時の美意識に沿って積極的に誇示されたのよう。でも、女性の裸は着衣で隠すべきものという価値観があったのよね。

なぜ。。。?

やっぱり、女性の肉体は男性の鍛えられた躍動的な肉体に比べて劣っているものと言う考え方があったみたいよう。オリュンポス十二神の男性神と女性神の扱いなどを見ると分かるのよう。

東洋美術専攻でも、アンナは、古代ギリシャ美術のことを勉強したんだ?

古代ギリシャと古代ローマの美術は、美術を専攻する学生の必須科目だったのよう。

。。。で、アンナがナチュリスト(naturist)になったのは「3人のカリス」と関係あるの?

あるのよ。上の「3人のカリス」を読めば、古代ギリシャの頃でも女性の肉体の美しさは充分に認められていたのよう。分かるでしょう?でも、古代ギリシャは男性社会だったから、女性のヌードを一段低いものと考えるようにしたのよね。

それがアンナには気に喰わないんだ。

だってぇ、今ではヌードと言えば女性ヌードをまず考えるでしょう。素直に考えれば、性別の関係なくヌードって美しいものなのよう。 ケイトーも、そう思わない?

うん、うん、うん。。。もちろん、僕はアンナのヌードは素晴しいと思っているからね。うへへへへ。。。

ありがとう。。。。で、ケイトーは裸(naked)とヌード(nude)が違うと言う事を知ってる?

同じじゃないの?どちらも何も身につけないからね。

それが違うのよう。

どう違うの?

「裸」って、服をすべて脱いだ自然そのままの肉体を言うのよう。

。。。で「ヌード」は?

ヌードは、裸になった体を芸術家が理想的な形態に手を加えたものを言う訳なのよう。つまり、ヌードはバランスがとれた自信満々な肉体を意味するわけよね。

それはアンナの考え、それとも。。。?

イギリスの美術史学者ケネス・クラークが、そう言ったのよう。

じゃあ、アンナのヌードは本当にヌードなんだ?

ありがとう。。。ケイトーは、本当にそう思ってくれるの?

もちろんだよ。僕は、アンナのヌードを初めて見た時に中学生の時に見たプレーボーイのプレーメートが目の前に現れたような気がしたんだ。うしししし。。。

ずいぶんと褒めてくれるのねぇ?ケイトーって、女心をくすぐるコツを知っているのよね。。。




『ニューヨークの混浴露天風呂 (2008年5月22日)』より


アンナさんの話を聞いてね、ヌードが、裸になった体を芸術家が理想的な形態に手を加えたものであるならば、自由恋愛も、それに対応するように、愛し合う二人が社会的な“足かせ”や“しがらみ”を乗り越えて自由に愛し合う、いわば理想的な恋愛ではないかと。。。

つまり、自由恋愛とは、社会的な制約に縛られずに、自分の心に素直に自由に愛し合うと言うことですか?

うん、うん、うん。。。僕もそう思ったのですよう。

要するに今日のタイトル『ヌードとロマン』はヌードと自由恋愛について語り合うためにつけたのですか?

まあ。。。そうですね。。。

それで、『エマニエル夫人』はヌードと自由恋愛を賛美している。。。デンマンさんが『エマニエル夫人』を持ち出したのは、その事を言いたいためですか?

実は違うのですよう。僕は『エマニエル夫人』は詩的映像として観る時、素晴しい映画だと思うけれど、あの映画は理想的な自由恋愛を追求しているとは思えないのですよう。

なぜですか?

ジューンさんが次のように言ってましたよう。


「愛の形」と「性の形」



こんにちは。ジューンです。

お元気ですか?

『チャタレイ夫人の恋人』では、

確かに愛とセックスがテーマになっていると思います。

でも、『エマニエル夫人』の場合には、

どちらかと言うと

レズビアンや露出、

自分の恋人を他の男性に抱かせたりといった、

通常の男女の愛情表現としての性行為から

外れた新しい「愛の形」、

もっと端的に言ってしまえば「性の形」を描いた

ファンタジーと言えるのではないでしょうか?

あなたは、どう思いますか?





『愛と性の一致 (2008年2月9日)』より


僕もジューンさんと同感なんですよう。つまり、あの映画は「性の形」を描いたファンタジーだと思うのですよう。

つまり現実感がないと言うことですか。

そうですよ。あの映画で描かれている事が現実に起きた事だとか、あの映画の中の恋愛が理想的だとか。。。そう言う事を真に受けて、それを現実世界で実現させようとすると、馬鹿を見ると。。。僕はしみじみ痛感しましたよう。

なんだかデンマンさんがおっしゃるのを聞いていると実感がこもっていますわねぇ。うふふふふふ。。。

だから、僕はそのためにアンナさんのエピソードを記事に書いたのですよう。

つまり、デンマンさんは『さよなら、エマニエル夫人』という映画を観て、その中で繰り広げられている「性の形」のファンタジーと、アンナさんとの現実の恋愛体験の違いを痛感したとおっしゃるのですか?

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