道鏡伝説の起源 (PART2 OF 3)
芥川が「知っている」書の中に、『如意君伝』なるタイトルが見える。 この本は、作家・駒田信二氏によれば、「中国風流本の四大奇書」の一書だそうである。 他の三書は『痴婆子伝』 『肉蒲団』 『杏花天』 だそうで、芥川は全部読んでいたことになる。 駒田氏の教示に従い、『如意君伝』の素性を紹介しよう。
この本は中国では禁書となり、押収されて滅びてしまった。 ところが、わが国に伝わり、宝暦13(1763)年に日本橋南通3丁目の小川彦九郎、同庄七の手で和訓本の体裁で発行された。
その4年後、翻訳書が出版された。 『通俗如意君伝』である。 翻訳者は「自辞矛斎蒙陸(じじむさいもうろく)」という。 中野三敏氏の研究では、この狂号のぬしは山口輝雄(きゆう)という。 通俗は、わかりやすいという意味である。
(中略)
本編の主人公は、独裁者、則天武后である。 この恐るべき女傑のお相手をつとめるのが、「如意君」、彼は何者であるか?
薛敖曹(せつごうそう)という。 背が高く、色白のはなはだ美しい若者で、色男に似ず頭が優れており、読書を好み諸芸に通じ、おまけに酒が強い。 変わっているのは、「肉具ハナハダ壮大ニシテ常ノ人」ならず、男の一物が馬鹿に大きかったというのである。 何でも頭から根まで筋ばっていてミミズのようで、怒ると頭は蝸牛(かたつむり)の如く、竿は皮を剥ぎたる兎の如し、突き立つ雁首に一斗の粟(あわ)を入れた袋を下げてもたるることなし、というから力も強い。 遊郭の女は皆恐れて、叫びながら逃げ去る。
(中略)

「頃(このころ)太后スデニ六十余歳に及ビ玉ヘドモ。 淫心サカンナルママニ」肉具の大なる男を召し入れては寵愛する。
牛晋卿(ぎゅうしんけい)という宦官(かんがん)が、武后のかすかな溜息を聞き、恐れながら、としゃしゃりでる。 声をひそめて奏上することは、かの薛敖曹のことである。 武后の目が光る。 晋卿の郷里の者という。 聞くに従い、よだれをが流れだした。 そなた、早速その者を連れて参れ、と命ず。
(中略)
晋卿、ささやきていわく、君の肉具に合う容器は武后以外に無し、この機会を逸すと君は、人道(男女の交わり)を知らないで終わるぞ。 この時、敖曹、30歳である。 晋卿の、人道うんぬんに、たちまち心がぐらついたというのだから、まあ大した男ではない。 もっとも大した男だったら、春本に登場するはずがない。 春本の読者にすれば、こんな嬉しい人物はいないのである。
(中略)

奈良後期の女帝、孝謙帝に重用された、河内の人、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は実在の僧だが、彼は宮中に入って病気を治した功で帝に信頼されたのだった。 このくだりは、ロシア帝政末期の怪僧ラスプーチンと似ている。 道鏡は太政大臣禅師に昇任し、ついには法王にもなった。 野望はさらに募り、宇佐八幡のお告げと称して皇位の継承を企てた。 孝謙帝が亡くなられて失脚したが、道鏡が女帝に目をかけられた理由が巨根だったから、という俗説は、恐らく『如意君伝』がわが国に伝えられてからのことと考えて間違いあるまい。
『如意君伝』が成立したのは明代らしく、日本の室町時代である。 いつごろ原本が伝来したのか不明だが、江戸期には知識人の間で読まれていた様子である。 紹介した『通俗如意君伝』が出版された前後から、道鏡と巨根を結びつけた川柳が、続々と詠まれている。
「道鏡はすわるとひざが三つ出来」
「ちんぽこめらと公卿(くげ)を嘲弄す」
「公家めらがやきおりますと道鏡言い」
(注: 写真はデンマンが貼り付けました)
175-187ページ 『春本を愉しむ』
著者: 出久根達郎 2009年9月20日発行
発行所: 株式会社 新潮社

ずいぶん長々と引用しやはったけど、『通俗如意君伝』が日本で読まれるようになってから道鏡さんの巨根伝説が生まれたと、あんさんは言わはるの?

そうや。。。めれちゃんかて上の文章をじっくりと読めば中国の則天武后と薛敖曹(せつごうそう)の話が孝謙女帝と道鏡のエロ話の元になっているのが判るはずやねん。
そやけど、則天武后は唐時代の女帝ですやん。 当時の日本は奈良時代やった。 それなのに江戸時代まで則天武后のエロ話が日本に伝わってき~へんかったと言うのはおかしいんとちゃうん?
あのなァ~、則天武后が生きていた時代に則天武后が登場するエロ話を書いて出版したら首が飛ぶねん。 則天武后が亡くなったあとかて中国の女帝になった人をエロ話に登場させて出版したら、当局の役人に睨(にら)まれて出世の道はなくなってしまうねん。
つまり、則天武后が悪女やと言う事が世間で受け入れられる明の時代まで『如意君伝』のような書物は出版できへんかったと、あんさんは言わはるの?
そうや。。。それが証拠に明朝の時代といえども『如意君伝』は禁書となって押収されて滅びてしまったのやがな。 日本に密輸入された物が日本に残って、その原本が 1767年に翻訳されて出版された。 それが『通俗如意君伝』やんかァ!
要するに、『如意君伝』が中国で出版されへんかったら道鏡伝説は日本に広まらなかったと、あんさんは言わはるの?
そうやァ。。。
そやけど、日本の庶民が独自に道鏡さんの巨根伝説を作ったと言う事だって考えられるんとちゃうん?
それは、ありえないと、わては思うでぇ~。。。
どうして。。。?
あのなァ~、もともと道鏡さんは悪い事をしてへん。 藤原氏が政権を奪い取って思いのままに日本を動かそうとすることに対して孝謙女帝と道鏡さんが立ち向かったのやがな。 そやから、道鏡さんをからかうような戯(ざ)れ歌など奈良時代や平安時代にできるわけないねん。
その証拠でもあるん?
そのことでは、すでに、わては記事の中で書いたのや。 めれちゃんも読んでみィ~なァ!

道鏡は本当に悪者だったのか?
当時僧を目指すということは、言葉を換えれば人間にある全ての欲を絶つことでした。
色欲、物欲、権力欲など、相当な覚悟とそれに打ち勝つ強靭な精神力が必要だったのです。
生半可な人間にはとうてい真似の出来ないことでした。
道鏡は語学にも才能があったと見え、留学僧でもない道鏡が兄弟子・良弁に付き添って唐招提寺の鑑真を訪れた時、二人の会話が理解できたと言います。
道鏡はさらに難解なサンスクリット語にも精通していたのです。
辞書も教科書も、ましてやテープもない時代に異国語を習得することは大変なことだった。
したがって、相当の頭脳の持ち主であったことはまず間違いないようです。
しかし、当時、悪い僧侶も確かに居ました。
仏教が隆盛するに伴い、様々な問題も現れ始めていたのです。
まず、僧侶としての戒律を守る者が少なくなってきました。
生活の苦しい多くの庶民が、税を免れるために、勝手に出家し僧を名乗るようになってきたのです。
これに困った朝廷は、正式に僧侶としての資格を与える“受戒”を行える僧を、唐から招請することを決め、それに応え、鑑真和上が多くの困難を乗り越えて来日したわけです。
以来、僧侶として認められるためには、“受戒”の儀式を受けなければならない決まりとなりました。
この“受戒”の儀式を行える場所=「戒壇」(かいだん)を持つ寺院が、畿内の東大寺、九州諸国の筑紫観世音寺、そして東国の下野(しもつけ)薬師寺の3カ所と定められました。
これらは、総称して「三戒壇」と呼ばれました。
道鏡のレベルの僧侶になると、セックスにむちゃくちゃをするような僧はまずその地位を保つことが出来ません。
この当時の宗教界は、それ程腐ってはいません。とにかく鑑真和尚が居た頃の話です。
なぜ道鏡は藤原氏に憎まれたのか?
称徳天皇が亡くなると、道鏡は下野(現在の栃木県の県域とほぼ一致する)にある薬師寺に左遷されてしまいました。
称徳天皇がまだ健在だった時に、道鏡は臣下としては最高の太政大臣まで上りつめたのです。
多くの歴史書は道鏡が天皇になろうとした、と伝えています。
もちろん、称徳天皇と道鏡は夫婦同然に性生活をエンジョイしていた、ということになっています。
こうした一連のことを考えると、その概要が見えてきます。
なぜこの女帝と道鏡がこれほどまでに貶(おとし)められねばならないのか?
それは、その後権力の座に返り咲いた藤原氏(主流派)に憎まれたためです。
称徳天皇もれっきとした藤原氏の一員です。
一員どころか、一見して藤原氏の中核の座を占めていたように見えます。
あの有名な光明皇后と聖武天皇の娘です。
この光明皇后という人は自分が藤原氏の出身であることを終生忘れませんでした。
忘れないどころか、署名には『藤三女』と書いたほどです。
つまり藤原不比等の三女であることを肝に銘じていた人です。
称徳天皇というのはこの皇后の娘ですから、当然ながら藤原氏であることを認識していないわけではありません。
しかし、この人は藤原氏にあって反主流派の立場を貫いたようです。
この称徳天皇という女帝は二度天皇になっています。
最初の時は孝謙天皇と呼ばれました。
しかし、この時の実権は母親である光明皇太后と彼女の甥である藤原仲麻呂(藤原氏主流派)によって握られていたのです。
のちに『藤原仲麻呂の乱』を起こして殺されるのですが、この仲麻呂は藤原氏特有の権力欲に駆られており、政治を自分の思いどうりに操ろうとしたのです。
そういうわけで、孝謙天皇と衝突したわけです。しかも、母親は、すっかり仲麻呂の言いなりになっているわけです。
つまり自分の娘が天皇であるにもかかわらず、ないがしろにしていたわけです。
これではおもしろいはずがありません。娘として母に反抗する気持ちが頭をもたげてきました。
要するに、光明皇后と藤原仲麻呂(主流派)に対する称徳天皇と道鏡(反主流派)という図式になります。
光明皇后が亡くなると仲麻呂と孝謙上皇は完全に敵対関係になりました。
これは、『藤原仲麻呂の乱』という形で決着を見るわけです。つまり、反主流派が政権を奪取したわけです。
しかし、主流派は黙って手をこまねいていたわけではありません。
藤原永手を中心にして、例の『六韜』の教えに基づいて暗躍を開始しました。
この『六韜』がどういうものか、まだ読んだことがない人は次のリンクをクリックしてじっくりと読んでみてください。
これは、何を隠そう藤原氏のバイブルです。
『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』
この藤原永手らの暗躍によって称徳天皇は病気という表向きの理由を掲げられて暗殺され、道鏡は下野の薬師寺に左遷されたわけです。
道鏡が現在伝えられているほど悪い事をしていないということは、彼が左遷されたにすぎないということが何よりも良い証拠です。
伝えられているように天皇位を望み、厳しい戒律を破って女帝と夫婦関係を結んでいたとしたら、まさに『大逆罪』のうえに『姦通罪』という汚名を着せられて死刑になっていたでしょう。
『日本女性の愛と情念の原点』より
(2006年5月30日)

つまり、道鏡さんが法王になって日本を乗っ取ろうとした企みが事実とすれば『大逆罪』のうえに『姦通罪』という汚名を着せられて死刑になっていた。 そうならへんかったのは藤原氏の陰謀があったという何よりの証拠やと、あんさんは言わはるの?

その通りやァ。。。明治時代の「大逆事件」を見れば、すぐに分かろうと言うものやァ。
大逆事件
(たいぎゃくじけん)
1882年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908年に施行された刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称。
日本以外では皇帝や王に叛逆し、また謀叛をくわだてた犯罪を、大逆罪と呼ぶことがある。
特に一般には1910、1911年(明治43、44年)に社会主義者幸徳秋水らが明治天皇暗殺計画を企てたとして検挙された事件を指す。
幸徳事件ともいわれる。
概要
政治制度として天皇制を重視した大日本帝国憲法下の日本政府は大逆罪を重罪とし、死刑・極刑をもって臨んだ。
裁判は非公開で行なわれ、大審院(現・最高裁判所)が審理する一審制(「第一審ニシテ終審」)となっていた。
堺利彦や片山潜らが「平民新聞」などで、労働者中心の政治を呼びかけ、民衆の間でもそのような気風が流行りつつあった中の1910年(明治43年)5月25日、信州の社会主義者宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された「信州明科爆裂弾事件」が起こる。
以降、この事件を口実に全ての社会主義者、アナキスト(無政府主義者)に対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、根絶やしにする弾圧を、政府が主導、フレームアップ(政治的でっち上げ)したとされる事件。
敗戦後、関係資料が発見され、暗殺計画にいくらかでも関与・同調したとされているのは、宮下太吉、管野スガ、森近運平、新村忠雄、古河力作の5名にすぎなかったことが判明した。
1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進された。
これに関して最高裁判所は1967年以降、再審請求棄却及び免訴の判決を下している。
信州明科爆裂弾事件後、数百人の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、検察は26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴した。
松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事、小山松吉神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。
平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした。
検挙されたひとりである大石誠之助の友人であった与謝野鉄幹が、文学者で弁護士の平出修に弁護を頼んだ。
1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決(鶴丈一郎裁判長)。
1月24日に幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新見卯一郎、内山愚童ら11名が、1月25日に1名(管野スガ)が処刑された。
特赦無期刑で獄死したのは、高木顕明、峯尾節堂、岡本一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5人。
仮出獄できた者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治。
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

道鏡さんが企てたことが本当やとしたら大逆事件以上に日本国に対する最大の罪やん。 少なくとも藤原氏の目には、そう見えたはずや。 死刑にしてもまだ足りないはずやったのに、なぜ下野(しもつけ)の国にある寺に左遷だけやったのか?

なぜやの?
つまり、藤原氏の側に後ろめたさがあったのや。 悪いのは孝謙女帝と道鏡さんではなくて、自分たちだと言う事をよ~く知っていたのやがなァ。
その証拠は。。。?
その当時の刑罰には5つの刑が定められていた。
笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)
大逆事件以上の事件を起こしたのやさかいに道鏡さんは死刑になっても当然なのやがなァ。 それなのに死刑にせんかった。 それよりも軽い流(る)罪やった。
だから、どうして。。。?
あのなァ~、当時の人はマジで霊魂を信じていたのやァ。 無実の人を罪に陥(おとしい)れて死なせたりしたら、どうなるのか? 藤原氏の人たちはよ~く知っていたのやァ。
無実の人を死に追いやると、どうなるん?
恨みを持って死んでいった人の霊魂の祟(たた)りに遭うのやがなァ。 そういう事件が実際に起きてしもうた。
(すぐ下のページへ続く)
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