デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

メデューズ号の筏

2022-02-16 02:33:06 | 歴史四方山話


 

メデューズ号の筏

 


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デンマンさん、メデューズ号の筏 に乗ったのですかァ〜?


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メデューズ号の筏(いかだ)というのは、絵の題材にもなった200年前に作られた筏なんですよ。。。すでに、バラバラになってこの世には存在しない筏です。。。

上の絵がそうなのですか?

そうです。。。

どういうわけで、急に200年前のメデューズ号の筏 を取り上げたのですか?

実は、バンクーバー市立図書館でDVDを借りて次のドキュメンタリーを観たのですよ。。。

 


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『拡大する』

『実際のページ』


 



The Louvre, the seat of great French regents for centuries, is today one of the largest and most visited museums in the world. The invaluable collection, dating back to Jean, Duc de Berry (1340-1415), contains masterpieces from antiquity to the present day. Among its highlights are the museum pieces presented here"




何世紀にもわたって偉大なフランスの摂政の拠点であったルーブル美術館は、今日、世界で最大かつ最も訪問されている美術館の1つ。ジャン、デュクドベリー(1340-1415)にまでさかのぼる貴重なコレクションには、古代から現在に及ぶ傑作が多数含まれている。そのハイライトの中には、このドキュメンタリーで紹介される作品もある。

 (デンマン訳)




DVD のカバーから引用


 



 



つまり、ルーブル美術館に収められている作品を紹介するドキュメンタリーなのですか?



そうです。。。

紹介された作品の中に『メデューズ号の筏』があったのですか?

そういうことです。。。

 


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僕は何度か本や映画でこの絵を見たことがある。。。でも、画家の想像で書いたものだた思っていた。。。実際にあった事故を取材して画家が描いたものだとは知らなかったのですよ。。。



どういう事故だったのですか?

次のような事故だったのです。。。

 



メデューズ号


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メデューズ(Méduse)は、フランス海軍のパラス級40門帆走フリゲート。
1810年進水、就役。
ナポレオン戦争後期、1809年から1811年にかけてのモーリシャス侵攻に参加し、またカリブ海でも活動した。
メデュース号、メデューサ号などと表記されることもある。

ブルボン王政復古後の1816年、輸送船並みの武装に改修され、植民地の返還を受けにセネガルのサンルイに赴くフランス官僚を輸送することになった。
しかし艦長は政治的理由で任命された亡命貴族で、海軍士官として不適格であり、メデューズはその不適切な航海指揮によってアルガン岩礁に乗り上げ、破壊された。

難破の後、乗員乗客は筏を作ってそれに乗り移ったが、艦の短艇が牽引を放棄したため、筏は漂流することとなった。
この試練を生き延びたものはわずか15名だった。

筏の運命は大衆の関心を呼び、メデューズの事件は帆船時代における最も有名な海難事故のひとつとなった。

画家テオドール・ジェリコーはこの事件に取材して、フランスロマン主義絵画の象徴とされる『メデューズ号の筏』を描いた

 

事件の経緯

150人が筏に移ったが13日後に生き残ったのはわずか15人だった
船に搭載された端艇で、100 km近く離れた海岸に乗客と乗組員を運ぶ計画が立てられたが、それに使用できるボートは2艘だった。

メデューズを軽くして速やかに離礁させる計画もいくつも立てられたが、採用されたのは筏を作ってメデューズの貨物をそこに移すというものだった。
筏は直ちに造られ、長さ20メートル、幅7メートルのそれは乗組員によって「ラ・マシーヌ(la Machine、「機械」の意)」と呼ばれた。

7月5日になると、強風が募り、メデューズは解体の兆候を示した。
乗客と乗組員はうろたえた。
艦長はただちに艦を放棄して146人の男性と1人の女性をひどく不安定な筏に移し、メデューズのボートでそれを引かせることを決定した。

筏にはほとんど必需品が積まれず、また操舵や航海のための手段もなかった。
そしてその床面のほとんどは水没していた。
メデューズ上に残留することを決めた者も17人いたが、残りは船の長艇に乗り込んだ。

2艘のボートの乗組員はすぐに、筏を牽引することが不可能であることに気づいた。
彼らは、必死になった筏の生存者たちに圧倒されることを恐れ始め、ロープを切って、筏とその居住者を運命に任せることを決めた。

ボートはロープを切ると安全な場所に去った。
何人かは間もなくアフリカの海岸に上陸し陸路でセネガルに向かったが、他の大部分はサンルイに向けてボートで航海した。
そしてその過程で数名が死亡したものの、ほとんどが無事サンルイに到着することができた。

筏では事態は急速に悪化した。
樽に入っていたのは水でなくワインだった。
士官および乗客と、水兵・陸兵との間で争いが起こった。
漂流が始まった最初の夜の内に、20人が殺されるか、自殺した。

嵐の気配があったが、そうなると安全なのは筏の中央部だけだった。
何十人もが、筏の中央部を争って、または波にさらわれて死んだ。
食糧はすぐになくなった。

4日目までには筏の生存者は67人だけとなり、人肉食を行うものもあった。
(生存者はそれを否定する証言をしている。)


元気の残っているものは弱ったり傷ついたりした者を海中に投じ始め、8日目には15人が残るだけとなっていた。
そしてその15人は全員、7月17日に偶然遭遇したアルギュスに救出されるまで生き残った。

 

事件の影響

アルギュスは筏の生存者をサンルイに運んだ。
最後のアフリカ人乗組員であるジャン・シャルルを含む5人は数日のうちに死亡した。
ド・ショマレーはまだメデューズに積載されている黄金を回収しようと決め、サルベージ作業員を派遣したが、彼らが見つけたのはまだ無傷のメデューズであった。

メデューズに残留することを選んだ17人のうち3人は54日後にもまだ生きていた。
フランス海軍大臣からの救援が間に合わなかったため、生存者はイギリス海軍士官の助力でフランスに帰国した。

メデューズの生き残った船医アンリ・サヴィニが当局に提出した報告書は反ブルボンの立場を取る新聞「ジュルナル・デ・デバ(Journal des débats)」にリークされ、1816年9月13日の紙面に掲載された。

サヴィニと、もう一人の生存者である地理学者アレクサンドル・コレアールは、それとは別に事件の記録(『フリゲート艦メデューズの難破(Naufrage de la fregate Méduse)』)を書き、1817年に出版した。
この本は1821年までに5版を重ね、英語、ドイツ語、オランダ語、イタリア語に翻訳された。
本の内容は版を重ねるに従って改訂され、政治的な傾向を増していった。

この事件はフランスの政治スキャンダルとなり、当局はそれを完全に隠蔽しようとした。
1817年のロシュフォール港における軍法会議で、ド・ショマレーは5つの罪状で裁かれたが、船団の遺棄、船の離礁の失敗、および筏の遺棄については無罪となった。

しかし、不適切で漫然とした操艦と、すべての乗客が離艦する前にメデューズを放棄した件では有罪が言い渡された。
この評決は死刑を意味するものであったが、ド・ショマレーに下された処罰は海軍からの追放、勲章の剥奪とわずか3年の収監であった。
ド・ショマレーは事件の14年後、68歳で死んだ。

この軍法会議は上辺の糊塗に過ぎないというのが一般の認識だった。
シュマルツ総督は1818年に強制的に辞任させられた。
後に、グーヴィオン=サン=シール法により、フランス軍における昇進が功績に基づくべきであることが明確にされた。

 

ジェリコーの絵画



 

この難破事件の報告に強い印象を受けた25歳の画家・テオドール・ジェリコーはこの事件に基づく絵を描くことを決意し、1818年に報告者たちに連絡をとった。
ジェリコーの作品は生存者の1人によって語られた瞬間を描いている。

救出の前、乗客らは水平線上に船を認めたが合図を送ろうとしたとき、姿を消してしまった。
生き残った乗員の1人は「我々は狂喜の頂点から深い落胆と悲嘆に突き落とされた」と語っている。
その船(アルギュス)は2時間後に再び現れ、生き残った人々を救出した。

 

映画

1987年から1990年にかけて、イラジ・アジミ監督は1998年に公開された映画「メデューズ号の筏」を制作した。
主演:ジャン・ヤンヌシャウマレイ司令官、ダニエル・メギッチ中尉、アラン・メイス、サヴィニー博士、クロード・ジャド知事の妻、レイン・シュマルツ、フィリップ・ローデンバック、知事ジュリアン・シュマルツ、ローラン・テルジェフ、画家ジェリコー。

 






出典: 「メデューズ (帆走フリゲート)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



現代のモーリタニア沖でメデューズ号は難破したのですわねぇ〜。。。モーリタニアというのは、アフリカにある国ですか?



そうです。。。

 


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モーリタニアという国がアフリカにあるということは漠然と知ってましたけれど、たくさんの難民が悲惨な生活を送っているとは知りませんでしたわァ。。。



僕もどういう国なのか?…全く知りませんでした。。。メデューズ号が難破した当時は、まだ この国はなく原住民が暮らしていただけだったから、難破したことは原住民は知らなかったのでしょう。。。知っていたとしても助ける手段はなかったかもしれません。。。

。。。で、この事故を知ってデンマンさんは衝撃を受けたのですか?

何が衝撃か?…それは150人が筏に移ったが13日後に生き残ったのはわずか15人だったということですよ。。。しかも、4日目までには筏の生存者は67人だけとなり、人肉食を行う者もあったのですよ。。。

でも、生存者はそれを否定する証言をしていますねぇ〜。。。

人肉を食べて生きながらえたとは、当時は口が裂けても言えなかったのですよ。。。

デンマンさんも生存者は人肉を食べたと思っているのですか?

15人のうち、まず殆どが人肉を食べて生きながらえたと思いますよ。。。実は、同じような事故が 1972年に起きてます。。。

 



ウルグアイ空軍機571便遭難事故


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ウルグアイ空軍機571便遭難事故は、1972年10月13日にウルグアイ空軍の571便機がアンデス山脈に墜落した航空事故である。

乗員乗客45人のうち29人が死亡したが、16人は72日間に及ぶ山中でのサバイバル生活の末に生還した

この出来事は奇跡的として多方面からの注目を浴びるが、同時に生存者が死者の人肉で飢えを凌いでいたことをめぐり物議を醸すこととなった

ステラ・マリス学園 (Stella Maris College) のキリスト教徒からなるラグビー選手団とその家族や知人を合わせた一行40人が、チリのサンティアゴでの試合に向かった。
一行と乗員5人の計45人はウルグアイ空軍の双発ターボプロップ機フェアチャイルドFH-227Dをチャーターし、モンテビデオにあるカラスコ国際空港を出発したが、アンデス山脈での天候不良のため、アルゼンチンのメンドーサで一泊することとなった。

飛行機の上昇可能高度上限が9,000 m (30,000 ft)である上に悪天候であったために、メンドーサから直接アンデス山脈を越えてサンティアゴまで飛行することは出来なかった。

そこで、メンドーサからアンデス山脈にそって南下し、山脈の切れ目であるプランソンを西に通過してクリコ のすぐ南の地点で山脈を抜け、そこから山脈のチリ側を北上してサンティアゴへ向かうこととなった。

天候が回復したため、飛行機は午後にメンドーサを出発してすぐに山脈の切れ目を通過していた。
ここでパイロットはサンティアゴの航空管制官に対して現在地点がクリコであると通知したが、これは後に致命的な過ちだったと判明した。
コースが雲に覆われていたので、パイロットは標準的な通過時間を計算することで西から北に方向を変えるタイミングを図った。

しかし、実際には、強い向かい風で機体が減速していたために、山脈の切れ目を抜けるには通常よりも長く時間がかかるはずだった。
そのため、山脈の西側に十分に達していないうちに北上を開始した。

山々を深く覆う雲の中に突入して間もなく、当時は無名だった峰と1度目の衝突をした。
この峰は後にセレール峰と名付けられた。
衝突地点はソスネアド峰とティンギリリカ火山の間の人里はなれた山地であり、チリとアルゼンチンの国境にまたがる高度4,200メートルの地点だった。
吹き飛んだ右翼で垂直尾翼が切り取られ、胴体後部に穴が空いた。

別の峰との再度の衝突で左翼もなくなり、機体はただの空を飛ぶ胴体だけとなった。
機体は、飛んできたプロペラによって切り裂かれたのちに、地面に衝突し、険しい崖を滑落して最終的に雪に埋まって停止した。
また機体の尾部は多くの荷物を積んだまま胴体とは分離して別の場所へ滑落した。
乗客3人と乗員2人が機外に放り出され、9人が即死し、負傷が元で初日中に3人が死亡した(死亡12人、行方不明5人、生存28人)。

残った28人は凍てつくように寒い高山でどうやって生存するかという難問に直面した。
防寒着や雪を踏み分ける防寒靴などの装備がなかった。
雪眼炎を防ぐサングラスもなく、最後の生存者のひとりである24歳のアドルフォ・"フィト"・ストラウチは、操縦室のサンバイザーを加工してサングラスを作り、目を守った。

多くの人が墜落直後に席から放り出されたことによって足を骨折していたが、医療品もなく、生存した医大生2人が航空機の支柱で添え木を作った。

ウルグアイ、チリ、アルゼンチンの3か国からなる捜索隊が捜索を開始したが、フェアチャイルド機の外装は白かったので、積雪に混じり合い、空からの発見は非常に困難だった。
捜索は開始から8日後の10月21日に中止された

墜落から11日後に、生存者のロイ・アルレーは、機内にあったトランジスタラジオで捜索が中止されたというニュースを聞いた。



ニュースを聞くと、ロイの周りに居た生存者たちは、パラード以外全員すすり泣き、祈り始めた。
パラードは冷静に西にそびえる山を見上げた。

グスターボ・ココ・ニコリッチは、機体から出て、彼らの顔を見て、彼らが何を聞いていたかを悟った。
そして、スーツケースとラガーシャツで薄暗い胴体の入り口へ登り、振り返ると「ほら、少年!」と叫んだ。
「朗報だ! ラジオを聞いた。捜索が中止された。」機体の中は沈黙していた。

皆は見込みのない状況に涙した。パエスは怒って「一体それのどこが朗報だ?」と叫んだ。
「その意味するところは」とニコリッチは言った。

「我々が自分たちでここを脱出するということだ。」この1人の少年のおかげで、完全な絶望に陥ることは防がれた。




ピアス・ポール・リードの著書『生存者(原題: Alive: The Story of the Andes Survivors)』より


生存者たちは板チョコレート数枚と、その他のスナック菓子、ワイン数本という少量の食料を持っていた。墜落後の数日間、彼らはこの食料が尽きないように少量を分配した。

救援を求めるために、コックピット無線機を使用しようとしたが、無線機の出力が全くないことが判明した。
その後死亡する航空機関士は、墜落後に脱落した機体の尾部にバッテリーが積み込まれていたために電源がなくなり通信ができないと説明した。

10月21日(土)
スサーナ・パラードが彼女の兄であるナンドの腕の中で死去した(死亡13人、行方不明5人、生存27人)。

10月22日(日)
配給管理された食糧が尽き、自然植生植物も動物も雪で覆われている山には存在しなかった。
機体内で議論が行われ、ロベルト・カネッサは仲間の遺体を人肉食して生存を続けることを主張した。
何人もの生存者が食べることを拒否したが、ロベルト・カネッサが主導権を握った。
この決定は人肉食する相手のほとんどが彼らの親友・級友であったので軽い決定ではなかった。



高山では、身体に必要なエネルギーは膨大だった。
…新たな食料を発見するという望みはなく、我々は本気で飢えていた。
我々は新たな食料を探し求めて機内を捜索した。

…何度も胴体の中を探し回り、モーゼルで山を登った。
我々は、荷物の断片である革片を、それに使われている化学物質が身体に与える益よりも害が大きいことを知りながら食べようとした。

我々は藁を見つけようとして多くの座席やクッションを切り裂いたが、藁は使われていないことがわかった。
…我々は何度も同じ結論に達した。
我々が着ていた衣服は食べられないし、アルミニウム、プラスチック、氷、岩石以外に何もここにはなかった。




生存者のひとりナンド・パラードの著書(2006年に出版)
『アンデスの奇跡:72日間を生き延びて山脈から生還』より


乗客は全員カトリック教徒だったが、ピアス・ポール・リードが、問題となっている行為は聖餐(せいさん)と同一視されると主張した。
それは唯一の生存の方法であった。
他の人々は、そのことを祝福したが救出後にその行為が発覚したときには態度を翻している。

10月29日(日)
生存者たちが機体の中で眠りにつこうとしていたとき、雪崩がすさまじい勢いで機体の中に流れ込み、機体の中で横たわっていた全員を埋め尽くした。
比較的浅く埋まった人は、雪で埋まった人を救おうとしたが、19人の生存者を残して8人が死亡した(死亡26人、生存19人)。
3日間、機体は数フィートの雪の下に埋まり、生存者たちは非常に狭く閉じ込められた中で生き延びた。

11月28日(火)
パラードとビシンティンがより多くの食料を尾部へ運んで来た。生存者たちはトランジスタラジオによってウルグアイ空軍のC-47が彼らの捜索を再開したことを知った。

12月11日(月)
捜索機が上空を通過するときに備えて、雪の中にスーツケースで大きな十字を描いた。
アルフレド・"パンチョ"・デルガドの親友であったヌマ・トゥルカッティが死亡した(死亡29人、生存16人)。

12月12日(火)
寝袋の完成後、ロベルト・カネッサは出発をためらっている者を最終的に説得し、ロベルト・カネッサ、ナンド・パラード、アントニオ・"ティンティン"・ビシンティンの3人がチリへ向かう谷を見つけるために最終的な遠征に出発した。パラードが先頭に立ち、行進速度を緩めるために頻繁に声をかけた。登りの行程は、厳しい長旅となった。夜、巨大な岩の横で仲間たちが縫い上げた寝袋で眠った。厳寒であったが、寝袋によって数夜を生き延びることができた。

12月15日(金)
朝、機体に残った13人の男たちが何かが山を滑り降りて来るのを発見した。初めは岩石だと思ったが、ビシンティンが機体の座席を利用したソリを使っていることがわかった。到着と同時に、ビシンティンはカネッサとパラードがまだチリに向かって遠征を続けており、ビシンティンの分の食料を2人に預けたと説明した。前日にアドルフォ・"フィト"・ストラウチ、グスターボ・セルビーノ、ホセ・ペドロ・アルゴルタが外で遺体を探している間に、他の生存者たちがラジオを聴き、彼らがスーツケースで雪上に描いた十字をウルグアイ空軍のC-47が発見したことを知った。

12月17日(日)
機体の生存者たちは、彼らがスーツケースで雪上に描きウルグアイ空軍のC-47によって発見された十字が、アルゼンチンの気象学者が融雪量測定のために円錐形のマーカーで描いたものであると公表されたことに驚愕した。

12月20日(水)
パラードは、最初はカネッサの想像にすぎないと思っていたが、少しして、川の向こう岸で誰かが叫んでいるのを聞くと同時に、馬の背にウアッソの男性が3人乗っているのを確認した。
カネッサとパラードは、川に走り寄り、自分たちが絶望的で、助けを求めていることを身振りで示した。
乗り手の1人は、馬を抑制しながら何かを彼らへ大声で叫んだ。
乗り手の1人、セルヒオ・カタランは、2人に、「明日」と叫んだ。
明日助けられれば、それで十分だった。

2人はこの時点で救助されることを確信し、歓喜に震えながら川のそばで寝入った。出発から9日が経過していた

12月21日(木)
機体の生存者たちは、2人の遠征隊が発見され無事に救出されたというニュースをラジオで聞いた。

12月22日(金)
10月13日に起きた墜落事故を生存者たちが厳しい環境下で生き延びたというニュースは世界中の報道機関を注目させ、その後関係者の下には洪水のようにレポーターたちが訪れた。
パラードとカネッサは朝食を摂り、増加する報道陣に会った。
彼らは熱心に質問に答えたが、どうやって生存できたかについては話すのを避けた。

午後に、小さな村(ロス・マイテネス村)にヘリコプターが到着した。同乗したパラードによって誘導され、フェアチャイルド機が横たわる墜落地点までの谷を飛び、生存者たちは2人の捜索隊、救出登山家によって救出された。
救出されたとき、生存者の数は事故直後の半分以下の16人に減っていた

ヘリコプターの到着は、歓喜に満ちた14人の生存者たちに歓迎された。
1回目に救助されることとなった追加の最大積載人員である6人は、救出されることを山に対して感謝した。
生存者たちがロス・マイテネス村に到着したとき、彼らは喜びの頂点にあった。
草を抱擁し、笑い、転がり回り、自分たちの救出を祝った。
数時間後に、全員がサンフェルナンドのセント・ジョン聖病院へ収容された。

 

ドキュメンタリー映画

アンデスの聖餐(1975年)
ドキュメンタリー映画『アンデスの聖餐』(原題:La Odisea de los Andes)は、1975年にブラジルで公開された。監督はアルバロ・J・コバセビッチ (Alvaro J. Covacevich) 、脚本はマリオ・バルガス・リョサ。墜落・遭難事故の再現と、遺族が墜落現場を訪れる模様を描いている。日本では1976年9月に公開された[8]。邦題の冒頭に「人肉で生き残った16人の若者」の副題がつく。

Alive: 20 Years Later(1993年)
ドキュメンタリー映画 Alive: 20 Years Later は、1993年のアメリカ映画。監督・脚本はジル・フレートン=スミス (Jill Fullerton-Smith) 、ナレーターはマーティン・シーン。事故の20年後に生存者たちの人生を振り返っている。また、ハリウッド映画『生きてこそ』の制作に参加した生存者たちについて議論している。日米ともに劇場未公開。

劇映画

アンデス地獄の彷徨(1976年)
『アンデス地獄の彷徨』(原題:Supervivientes de los Andes)は、1976年のメキシコ映画。監督はレネ・カルドナ (René Cardona) 、製作はレネ・カルドナとレネ・カルドナJr. (René Cardona Jr.) 。クレイ・ブレアJr. (Clay Blair Jr.) の著作『アンデスの聖餐』 Survive! (1973年)を原作としている[10]。日本では劇場未公開。邦題には「航空機墜落・極限の乗客たち」の副題がつく。

生きてこそ(1993年)
『生きてこそ』(原題:Alive)は、1993年のアメリカ映画。監督はフランク・マーシャル。P.P.リード (Piers Paul Read) の著作『生存者』 Alive: The Story of the Andes Survivors (1974年)を原作としている。生存者のナンド・パラードは映画の技術顧問を務め、カルロス・パエスとラモン・サベージャは墜落地点の胴体部分を訪れ、撮影の際はセットの細かいところや、実際の出来事に関して指示した。日本では1993年5月に劇場公開された。

 






出典: 「ウルグアイ空軍機571便遭難事故」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



すごい事故だったのですわねぇ〜。。。



この事故で生存者がいたことは世界中に大きなニュースとして報道されたのですよ。。。僕は当時、日本で暮らしていたけれど、日本にでも大ニュースとして報道されました。

私はまだ生まれていませんでしたわァ。。。

当然、生き延びるために人肉を食べて良いものかどうか? 日本でもマスコミで、ずいぶんと議論されたものですよ。。。

デンマンさんは、同じような状況に追い込まれたら人肉を食べますか?

僕はキリスト教徒でもないし、特に神様を信じているわけではないので、死んだ人の肉を食べることは、それほど抵抗はありません。。。もちろん、生きるか死ぬかの状況に追い込まれたときだけですけどね。。。

普段の生活で死んだ人の肉を食べたら法律で罰せられるのでしょう?

死体遺棄罪という、死んだ人を埋葬もしないで置きっぱなしにするだけで罪に問われるほどだから、死体の肉を食べたら遺体損壊罪で当然罰せられるでしょうねぇ〜。。。

上の事件で死体を食べて生き延びた人たちは、罪に問われたのですか?

救助から34年後の2006年、生存者のナンド・パラードさんが書いた本『アンデスの奇蹟』に次のように書かれてますよ。。。

 



事実上、我々の生還は国家のプライドの問題となった。
我々の試練は輝かしい冒険譚として祝われていた

…私はあの山脈には栄光などなかったと彼らに説明する方法を知らなかった。
それは、全ての醜悪さと、恐怖と、自暴自棄と、とても多くの罪無き人々が死にゆくのを見る不快だった。

また、私は報道が我々が生存するために食べたものに関することを扇動したことに動揺した。
我々の救出後すぐに、カトリック教会の職員たちは、教義に照らしても我々が死者の肉を食べたことは罪に当たらないと発表した。

ロベルトが山で論争したように、教会は罪は自分たちが死にゆくことを許容することにあると世界に発表した。
私にとっての素晴らしい満足だった出来事は、死んだ少年の両親の多くが、我々が生き残るために選択した行為を理解し、受け入れたことを世界に公表し支持を表明したという事実だった。

…これらのジェスチャーにも関わらず、多くの報道が無思慮で強引な方法で我々の食事に焦点を合わせた。
中には薄気味悪い写真を一面に飾り、恐ろしい見出しで報道した新聞もあった。



 



普段の生活の中で人肉を食べたら、当然罪に問われるでしょう。。。でも、この場合は、事故に遭遇して生きるか死ぬかの極限状態で人肉を食べたのですよ。。。上の引用の中で教会が判断を下したように、罪は自分たちが死にゆくことを許容することにある ということですよ。。。どこかの首相が「生命は地球よりも重い」と言いました。

 


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『命の値段』

 



両親から授かった命は粗末にしてはならない。。。生命を粗末にすることこそ罪なのですよ。。。ところで、ジュンコさんは、同じような事故に遭遇して、生きるか死ぬかの状況に追い込まれたら人肉を食べられますか?



私には食べることができないと思います。。。なぜなら、亡くなった人たちは、殆どが親友か級友なのですわァ〜。。。私には食べる気がしないと思います。。。

食べれば生存できるのに、食べないということは、ジュンコさんが自分の生命を粗末にすることになるのですよ。それは罪なのです。。。

私は、亡くなった親友の後を追うように静かに死ぬのを待ちますわァ〜。。。

そういうロマチックなことを言ってる場合じゃないのですよ! 生きるか死ぬかですよ! 食べてください!

デンマンさんは、私に亡くなった親友の肉を食べるように強要するのですかァ〜?

あのねぇ〜、亡くなったジュンコさんの親友の死体は、すでに魂も、精神も、意識もない ただの物体なのですよ。。。普段 食べている豚や牛の肉と同じなのですよ。。。だから食べてね。。。。

私には、そうやってデンマンさんのように割り切ることができませんわァ。。。

つまり、あくまでもロマンチックに生きたいのですねぇ〜。。。

そうですわ。。。死んだ親友の肉まで食べて生きようとは思わないのです。。。人間はいつかは死ぬのです。。。だから、私は親友の後を追ってあの世に逝くことを選ぶと思いますわァ。。。

僕は、何がなんでも、地球より重い自分の命を大切にします。。。親友の死体を食べても、上の本でも書かれているように、親友の両親は僕の決断を認めてくれると思います。。。



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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたは、同じような状況に追い込まれた時に親友の死体の肉を食べることが出来ると思いますか?

ええっ。。。 「そんな仮定の話は どうでもいいから、他に何か面白いことを話せ!」

あなたは、そのように わたしにご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわ。。。 じゃあ、面白い動画をお目にかけますわ。。。

ワンワンちゃんが人間の言葉をしゃべります!

 


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ええっ。。。? 「そんな馬鹿バカしい動画など、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

あなたは、また そのような命令口調で わたしに強要するのですか?

わかりましたわァ。。。

では、たまには日本の歴史の話も読んでみてくださいなァ。

日本の古代史にも、興味深い不思議な、面白いお話がありますわァ。

次の記事から興味があるものをお読みくださいねぇ~。。。


天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。


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定慧出生の秘密

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古事記より古い書物が

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今、日本に住んでいる人は

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マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?



ところで、他にも面白い記事がたくさんあります。

興味のある方は次の記事も読んでみてくださいね。

 


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『くだらない話』

『大蛇が破裂』

『グルーヴ』

『タスマニアデビル』

『女と反戦』

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『カクセンケイ』

『博士の異常な愛情』


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『パレートの法則』

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『いないいないばあ』

『食べないご馳走』

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『露出狂と反戦』

『オナラとサヴァン症候群』

『検疫の語源』

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『馬が合う』

『オックスフォードの奇人』

『風馬牛』

『未亡人の苦悶』

『群青の石deロマン』

『露出で検索』



とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。


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『スパマー HIRO 中野 悪徳業者』

 


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ィ~ハァ~♪~!

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