デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

女帝の怨念 PART 1

2008-09-27 12:00:11 | 日本史


 
女帝の怨念





雲場池(スワンレイク)の小百合さん



投稿日時: 2008/09/22 03:58 (ロンドン時間)
日本時間: 9月22日 午前11時58分
バンクーバー時間: 9月21日 午後7時58分



防人の歌碑のところまで行って、
新しい道を探して 見つかった時の 新鮮さ。
長男や次男のこと、デンマンさんのことも
忘れて 自分だけのことで 走り回ってました。




■ 『ビバ! 白鳥の湖 (2008年6月15日)』
(防人の歌碑については上の記事を読んでみてね。)

“防人の歌”。。。懐かしいですねぇ~。

そうです。そうです。
あの防人の歌の歌碑も、小百合さんと一緒に見たいものですね。




日の暮れに

うすひの山を

越ゆる日は

背なのが袖も

さやに振らしつ

 
 

(巻第十四 東歌 三四〇二

詠み人知らず)

現代語訳:

日の暮れ時に、碓氷の山の峠を越える日に、
我が夫が、別れの時に目につくほどはっきりと袖を振っていたわ。

峠を越えて去ってゆく夫を慕う妻の心情を詠んでいる。





ひなぐもり

うすひの坂を

越えしだに

妹が恋しく

忘らえぬかも

 
 

(巻第二十 四四〇七

他田部子磐前 [おさたべの子いわさき])

現代語訳:

ひなくもり(碓氷を導く枕詞)碓氷の坂を越える時は、
国へ置いてきた妻のことが恋しくて忘れられない。

碓氷峠越えの別れの恋歌。


■ 『夢のホテル (2008年5月8日)』より



昭和25年ごろの手書きのマップを見つけ
コピーして 今大切に見てます。
大きくして額に入れようかな~ 

本当に 雲場池のところに ニュー グランドホテル
と書いてあった。 
1度見てみたい 竈岩(かまどいわ)
白人はジャイアントチェアー と呼んでいたらしい。
南のプリンススキー場の裏側なので 見たこと無いです
ごめん ごめん 私の事ばかり


うん、うん、うん。。。
小百合さんの事を、もっともっと書いてくれてもいいよう。


お母さんは 封筒の宛先は どうやって 書いてるの?
封筒だけ デンマンさんが たくさん書いて おいてきたりするの?


弟が書いてやっているようですよう。
僕は書いた事が無い。




私 今月末と思ったら 10月末 よね。
ネットカフェ・コンコルドであわてて デンマンさんの旅程表を見たから
勘違いしてました。
あと1ヶ月ですね。


まだ1ヶ月以上ありますよう。
でも、1ヶ月なんてすぐに経ってしまいますからね。

僕は1ヶ月分の記事を用意しなければならないので、
この1ヶ月間は大変です。


これ SUBMIT できるかな
何だか お気に入りが減ってるし、マウスはどっか
無くなってるし やりずらいなー

これが 現実の世界ですよ、今日も次男坊と
喧嘩がはじまりそうー。

では 今日も洗たく 掃除...
今から始めます。

では、また。。。

小百合より




そうですよう。そうですよう。
軽井沢は、小百合さんにとって“今一つの世界”なのですよう。

日常茶飯事から開放されて、小百合さんの“夢とロマンの生活”を軽井沢に求めているのですよう。
つまり、それこそ小百合さんの“女の世界”です。
デンマンの“ロマンポルノ天国”と重なると思うのですよう!
うしししし。。。

行田で元気に再会しましょうね。
“恍惚のハグ”を楽しみにしていますよう!
じゃあね。








投稿日時: 2008/09/22 07:16 (ロンドン時間)
日本時間: 9月22日 午後3時16分
バンクーバー時間: 9月21日 午後11時16分

『帰省スレッド』より
ロンドンの“ビーバーランド e-XOOPS”




防人の歌が多少、持統天皇と関係あるので、デンマンさんは、また小百合さんのメールを持ち出してきたのでござ~♪~ますか?



そうですよう。やっぱり話題と無関係なものを書くわけにはゆきませんからね。それに、万葉集に防人の歌を取り上げたのは、まず間違いなく万葉集の編者と考えられている大伴家持ですよう。

どうして、そのような事が分かるのでござ~♪~ますか?

大伴家持は仕事で防人の世話をする役目についていた事があるのですよう。かつて僕は次のような記事を書きました。関連箇所を抜き書きしました。ちょっと読んでみてください。


万葉集で政治批判?



天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。

この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。

 (中略)

天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7年(西暦775年)に、東国の国々から防人の歌を集めさせたのです。
集まった歌は166首でしたが、家持が選んで84首を万葉集に残しました。
この時は、すでに防人の制度が始まってから、100年近くが経過していました。

歌のほとんどは、家族と離れ離れになる悲しさや、夫が遠くに行ってしまう悲しさ・不安・無事を祈る気持ちで詠(よ)んだものです。
なぜ大伴家持は、防人の歌を集めさせたのか?
上に引用した彼の経歴を見れば明らかです。
家持はこの制度に批判的だったんですよね。

大伴家持は当時の政府の役人を務めてはいますが、心の中は反政府的なんですよね。
彼自身も反政府運動に加担していた。
少なくともそのような嫌疑をかけられて罰を受けたことがある。
反骨精神のある人だったことが分かります。

武器を持って反政府運動を繰り広げて政府を転覆したいと思っていたかもしれませんが、それが現実的でないので万葉集という歌集を編纂して、その中に反政府的歌をあつめて歴史の真相を後世に伝えようとしたわけです。




『性と愛と批判 - 万葉集の中の政治批判?』より
 (2006年5月8日)


大伴家持が防人の歌を万葉集に載せたのも当時の藤原政権に対する批判だったのでござ~♪~ますか?

日本社会特有の“本音と建前”は、おそらく大伴家持あたりが持ち込んだのでしょうね。

つまり、建前では、身分にとらわれずに広く大和の民衆から歌を集めると言いながら、防人の歌を集めて本音で藤原政権を批判するつもりだったのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。それ以外に批判の道は残されていなかった。

。。。んで、その事が柿本人麻呂とどのように関わっているのでござ~♪~ますか?




紀貫之は柿本人麻呂が「正三位」であったと『古今和歌集』の仮名序に書いているのですよ。ちょうど、明治政府が明治37年に紀貫之に「従二位」を追贈したように。。。



なぜですの。。。?

だから、僕は紀貫之は真相を知っていると思っているのですよ。

どのような真相ですか?

持統三年(689)草壁皇子(持統天皇の皇子、軽皇子の父)の挽歌に始まり、翌四年の吉野行幸や六年三月の行幸に関する歌を柿本人麻呂は多数残しているのですよ。しかも六年冬に行われた軽皇子(後の文武天皇)の安騎野行きにも御付きとして従っている。十年七月には高市皇子(天武天皇の皇子)の死去にあたって「渾身の傑作」と後世評価される挽歌も捧げている。それなのに、柿本人麻呂の「死」に対し「妻」以外、誰一人として哀悼の意を表し、歌を捧げた人がいなかった。しかも、正史に、この人のことが1行も書かれていない。この事は歴史の謎になっているのですよ。

つまり、柿本人麻呂が正三位であった事は正史に書かれていないのですか?

正史に書かれてないのですよ。

それなのに紀貫之は柿本人麻呂が「正三位」だったと『新古今集』の序文に書いたのですか?

そうですよ。出鱈目(でたらめ)ではないのですよ。

どうしてですの?

だから、このような形で政治批判をしているのですよ。現在にまで謎が残る形で奈良朝の政治の暗黒部分を我々に伝えようとしている。ちょうど大伴家持が、持統天皇の平凡な歌を載せたように。。。でもその歌の裏には政治の混乱が隠されていたのですよ。

つまり、『伊勢物語』もそのようにして紀貫之が本音では“政治批判の書”として編集した、とデンマンさんはおっしゃるのですか?

そうですよ。

。。。で、具体的には。。。?




『愛と怨霊 (2008年2月25日)』より




デンマンさんの古い記事を持ち出してきて何を言おうとなさるのでござ~♪~ますか?

これまで読んでくれば卑弥子さんにも僕が何を言おうとしているか分かるでしょう?

デンマンさんのお話は、あちらに飛んだり、こちらに飛んだりするので、何がなんだか良く分からなくなってしまうのでござ~♪~ますわ。今度は紀貫之までが登場していますわ。

大伴家持も紀貫之も日本の古典や日本史を知っている人であれば誰もが記憶している名前だと思うのですよう。卑弥子さんだって知っているでしょう?

もちろんですわ。これでも、あたくしは古典文学を専攻している者でござ~♪~ますから。。。

ちょっと考えてみてください。大伴家持も紀貫之も歌人としてしか知られていない。

だってぇ~、歌人ですものォ~。。。あたりまえでござ~♪~ますわア~

確かにその通りですよう。でも見方を変えれば、藤原氏以外の人物にとって政治に関わりたくても関わることができなかった。有能であれば有能であるほど藤原氏によって政界から蹴り落とされていったのですよう。菅原道真などがその良い例ですよう。

菅原道真以外にも居るのですか?

たくさん居ますよう。

デンマンさんは記事にも書いているのでござ~♪~ますか?

もちろんですよう。藤原氏内部でも主流派と反主流派があって、反主流派の人たちは追い落とされてしまったほどですよう。




この世をば

わが世とぞ思ふ

望月の

欠けたることも

なしと思へば

 
 
藤原道長


藤原道長は“氏の長者”になって権勢を欲しいままにして、このような歌を詠んだのですよう。でも、それまでには、すさまじい権力闘争があったのですよう。


当子(まさこ)内親王と

藤原道雅(みちまさ)の悲恋






簡単に言ってしまえば、藤原氏内部の主導権争いだったわけですよ。道長は道隆の四男だった。道隆の長男が道雅の父親である藤原伊周(これちか)だった。道長に野望が無く、何事も起こらなかったならば、藤原氏の実権は黙っていても道雅の手に入ってくるところだった。分かるでしょう。当子内親王と藤原道雅の恋物語の裏には、このような藤原氏の陰謀が渦をまいていた。



この悲恋にも道長の手が伸びていたのだと。。。デンマンさんはそうおっしゃるのですか?

そうですよ。このようなやり方は藤原鎌足から受け継いでいる藤原氏の伝統的なやり方ですよ。自分の主導権を正当化するためならば何でも利用するのですよ。前にも書いたことだけれどね、次の2つの記事を読めばよく分かりますよ。

■ 『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』

『藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた』

でも。。。でも。。。なんだか飛躍しすぎているような説明ですわぁ~。

今から千年前の悲恋ですからね、真相は謎ですよ。でも、藤原氏の長い歴史を見ると見えてくるモノがありますよ。




『愛と性と不良娘 (2007年2月8日)』
『愛と性に萌えて (2007年2月6日)』より

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