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大久保独裁政権(PART 1)

2020-02-07 03:40:39 | 歴史四方山話
 

大久保独裁政権(PART 1)

 


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デンマンさん。。。 どういうわけで急に 大久保独裁政権 を持ち出してきたのでござ~ますかァ~?


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実は、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。

 



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幕末、イギリスの外交官アーネスト・サトウは『一外交官の見た明治維新(下)』の中で、今日の情勢を聞くために薩摩屋敷の西郷を訪ねた時のことを次のように書いている。

西郷は、現在の大君の政府の代わりに国民会議を設立すべきであると言って、大いに論じた。

私は友人の松根青年から、反大君派の間ではこうした議論がきわめて一般的になっていると聞いていたが、これは私には狂気じみた考えのように思われた。

サトウは西郷の開明的な意見にひどく驚いているが、島津斉彬がしようとしていたことが、幕府だけでなく諸藩の合議で国を動かしていこうということだったとすれば、西郷が国民議会を口にすることは異とするに足りない。

だからこそ、西郷は廃藩置県に断を下し、封建制度を一掃することもできたのだ。

 (44-45ページ)




今回の旅でよく聞いたのは、小倉処平(おぐらしょへい)という名だ。
いまでも飫肥(おび)では、
「小倉さんは偉かった」と言い伝えられている。

小村寿太郎も藩校時代に小倉に見出され、東京へ出る道を開いてもらった。
いわば恩人である。

その小倉が政府に使えて出世しなかったのは、明治10年(1877)の西南戦争の際、一隊を組織し薩軍に身を投じ、戦死したからだ。

 


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【小倉処平 (1846~1877)】

小村寿太郎とは親戚関係にあり、終生、師と慕われた。
江戸で儒学者の安井息軒に学び、藩校振徳堂の師範となる。
明治になると、小村らを長崎に留学させる。(略)

英仏に留学したが、征韓論争を知って帰国。
副島や西郷隆盛らが下野すると、飫肥に戻る。

1874年の佐賀の乱では、敗れた江藤新平らが頼ってきたのを土佐へ逃がし、罪に問われた。

後に大蔵省に勤めたが、1877年に西南戦争が起こると、帰郷して薩摩軍側に加わった。


 (85-87ページ)

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




『曙光を旅する』
著者: 葉室麟
2018年11月30日 第1刷発行
発行所: 朝日新聞出版


 



つまり、上の記事を読んで明治維新政府は大久保独裁政権だと思ったのでござ~ますかァ?



もちろん、そればかりじゃないのだけれど、上の文章を読んで、ますます大久保が独裁政権を築こうとしていたという思いを強くしたのですよ。。。

それはどうしてですか?

かつて、僕は次の記事を書いたのですよ。。。

 


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『放屁女に罰金』

 



でも、このオナラをして罰金を取られた女性と大久保独裁政権が関係あるのですか?



大いに関係があるのです。。。 卑弥子さんも、もう一度読んでみてください。。。

 


放屁した女を邏卒が連行し、

罰金75銭を支払わせた




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罰金だ!


 

現代では公共の場において放屁することはあまり良くないとされる。
日本では「屁=汚い・臭い」など良いイメージを持たない者が大多数であるからである。

車の中やバス、満員電車など人が密集する可能性の場所で屁をすることは、面白半分でも、多くの人に不快感を与える恐れが強い。
誰もいない場所やトイレでするのが一般のマナーとされている。

1873年(明治6年)2月8日、東京・押上の土手において放屁した女を邏卒が連行し、罰金75銭を支払わせた。

これに憤慨した女は罰金額が法外であるとして警視庁に抗議。

1872年(明治5年)の東京違式詿違条例では立小便や落書きといった現在の軽犯罪にあたる行為などを規制していたが、放屁に関する規定はなく罰金刑は不当なものであった。

このことは当時の新聞で議論を呼び、放屁の規制も条例に加えるべきとする意見と生理現象であり規制すべきでないとする意見とに分かれた。

のちに司法卿の江藤新平は通達を出し、放屁は規制の対象外として罰金も返還された。

また、当時開業したばかりの鉄道では客車内での放屁に罰金を科す旨の掲示があった。

俗説では、欧米諸国等では放屁は比較的失礼とされず、ゲップのほうが失礼とされるが、文化圏、階層、個人などにもよる。

マラウイ共和国では、「公序良俗を遵守する」という目的で、2011年2月、公共の場所での放屁を禁止する法案が提出された。




出典: 「屁」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 




あらっ。。。 今から150年近くも昔のことではござ~♪~ませんかァ!



とにかく、オナラをぶっぱなして罰金をもらった女性が居たということですよ。。。

でも。。。、でも。。。、その女性は音を立てずに すかしたのかもしれませんわァ~。。。

すかしたのじゃなくて、ぶっぱなしなのですよう!

どうしてデンマンさんは見てきたようなことをおっしゃるのでござ~ますかァ~?

あのねぇ~、もし、すかしたのだとすれば、この女性は「いいえ、あたくしは、そのようなハシタナい真似はいたしませんわァ。。。 ほらっ。。。 御覧なさい。。。 あたくしの前を行くあの男がすかしたのですわァ」と、言い逃れをするのですよ。。。

なるほどォ~。。。 でも。。。、でも。。。、その時、罰金のチケットを書いたお巡りさんは、どうして見逃さなかったのですか?

あのねぇ~、この当時の警察官(巡邏、邏卒、あるいは巡査)になる人は薩摩藩の下級武士が多かった。。。 当然、男尊女卑の考え方が当たり前だった。。。 当時の東京では、特に江戸っ子と言われた人たちは、巡査になった薩摩の田舎侍を馬鹿にしていた。

どうして。。。?

江戸が東京になり、薩摩の田舎侍が巡査になって「コラ、コラ、。。。 そこで立ち小便しちゃダメだ!」とえばりくさっていたから、江戸っ子は、心の中じゃ不満タラタラだった。

つまり、このオナラをぶっ放した女性は江戸生まれの姉御肌(あねごはだ)の女で、巡査を馬鹿にしていたのでござ~ますかァ?

まず間違いないでしょう! 巡査も、そういうことをウスウス察していたから、女が自分のすぐそばでオナラをぶっ放すのを耳にしたら、まるでこの女が自分を馬鹿にしていると思ってムカついたわけですよ! しかも、この女がデブで、ブスで、しかも人を小バカにしたような表情をしていたから、なおさら見過ごすわけにはゆかなかった。。。

 


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それで、罰金刑にすることにしたわけですか?



それ以外に考えられないでしょう!?

要するに、明治になった頃は、巡査になった旧薩摩藩の下級武士は馬鹿にされていたのですわねぇ~?

そういうことです。。。

つまり、この事を言うために、わざわざオナラをぶっ放したデブで、ブスの女を持ち出してきたのでござ~ますかァ?

もちろん、それだけじゃありませんよ!

他に何を言いたいのでござ~ますかァ?

のちに司法卿の江藤新平は通達を出し、放屁は規制の対象外として罰金も返還された」と書いてある。

つまり、江藤新平・司法卿は、オナラをぶっ放したデブで、ブスの女の味方だったのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。 庶民の味方だったのですよ。。。

 


江藤新平


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天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)

政府内における急進的な民権論者であり「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。
また官吏の汚職に厳しく新政府で大きな力を持っていた長州閥の山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及、予算を巡る対立も絡み2人を一時的に辞職に追い込んだ。

だが、その一方で英仏を範とする西欧的な三権分立の導入を進める江藤に対して行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持ちプロイセン王国(後のドイツ帝国)を範とする政府内の保守派(大久保利通たち)からは激しく非難された。

また急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省の井上馨との確執を招いた。

明治6年(1873年)には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に10月24日に下野。
明治7年(1874年)1月10日に愛国公党を結成し1月12日に民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意する。

大隈・板垣・後藤らは江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破し慰留の説得を試みる。
しかし江藤はこれには全く耳を貸さず1月13日に船便で九州へ向かう。

江藤は直ぐには佐賀へ入らず2月2日、長崎の深堀に着きしばらく様子を見ることになる。
この一方、大久保は江藤の離京の知らせを知った1月13日には佐賀討伐のための総帥として宮中に参内し、2月5日には佐賀に対する追討令を受けている。

 

佐賀の乱

2月11日、江藤は佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談を行い2月12日、佐賀征韓党首領として擁立された。
そして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を計画する。

2月16日夜、憂国党が武装蜂起し士族反乱である佐賀の乱(佐賀戦争)が勃発する。
佐賀軍は県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村通俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃、その約半数に損害を与えて遁走させた。

大久保利通の直卒する東京、大阪の鎮台部隊が陸続と九州に到着すると、佐賀軍は福岡との県境へ前進して、これら新手の政府軍部隊を迎え撃った。
政府軍は、朝日山方面へ野津鎮雄少将の部隊を、三瀬峠付近へは山田顕義少将の部隊を前進させた。
朝日山方面は激戦の末政府軍に突破されるが、三瀬峠方面では終始佐賀軍が優勢に戦いを進めた。

また朝日山を突破した政府軍も佐賀県東部の中原付近で再び佐賀軍の激しい抵抗にあい、壊滅寸前まで追い込まれている。
しかし、政府軍は司令官の野津鎮雄自らが先頭に立って士卒を大いに励まし戦い辛うじて勝利する。
この後も田手、境原で激戦が展開されるが政府軍の強力な火力の前に佐賀軍は敗走する。

江藤は征韓党を解散して逃亡し、3月1日に鹿児島鰻温泉の福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。
続いて3月25日、高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった。

このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。
しかしその途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。
手配写真が出回っていたために速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は江藤自身が明治5年(1872年)に確立したもので、皮肉にも制定者の江藤本人が被適用者第1号となった。

4月8日、江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌の最初から死刑ありきの暗黒裁判ともいうべき不当な裁判によって裁かれることとなった。
4月13日に河野により除族の上、梟首の刑を申し渡され、その日の夕方に嘉瀬刑場において処刑された。

判決を受けたとき「裁判長、私は」と言って反論しようとして立ち上がろうとしたが、それを止めようとした刑吏に縄を引かれ転んだため、この姿に対して「気が動転し腰を抜かした」と悪意ある解釈を受けた。
その後、江藤の首は嘉瀬川から4km離れた千人塚で梟首された。

 

逸話

明治政府に仕えていた頃、40人ほどの書生の面倒を見ていたといわれ、そのため、死後に借金が残った。

江藤が出した意見書は非常に画期的で民主的である。

その代表として「国の富強の元は国民の安堵にあり」という意見書の一文がある。

江藤が処刑された後、佐賀では「江藤新平さんの墓に参拝すると百災ことごとく去る。」と城下の人々にいわれ、参拝客が多かった。
そのため、県庁が反乱の萌芽を恐れ柵を設けて参拝を禁止した。
従って、夜間に参拝する者がいたという。




出典: 「江藤新平」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



あらっ。。。 江藤さんは、マジで民主的な方だったのでござ~♪~ますわねぇ~。。。



そうなのですよ。。。 三権分立を唱え、あまりにも民主的な政府を目指すので保守派の大久保利通から毛嫌いされた!

。。。で、大久保利通に殺されたのでござ~ますか?

そうです。。。 殺されたようなものですよ。。。 江藤新平が消されたのは大久保利通の策謀によるものです。 大隈・板垣・後藤らも江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破し慰留の説得を試みた。。。 でも、江藤は大久保と対決するつもりだった。。。 それで佐賀に帰ったのです。

つまり。。、つまり。。。、坂本龍馬の暗殺の黒幕も大久保利通だ、とデンマンさんは断定するのでござ~ますか?

そうです。。。 坂本龍馬と江藤新平はどちらかといえば、民主主義・共和主義をよりよく理解している人物だった。。。 だから、保守派には憎まれた。。。 大久保利通は保守派の中でも特に権力志向の強い人物で、自分が“お山の大将”にならないと気がすまない人だった。

そうなのでござ~ますか?

“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”と言うけれど、大久保利通は徹底的に江藤新平を憎んだ。。。 “死人に鞭(ムチ)打つ”ほどだった。 もちろん、鞭は打たなかったけれど、それほど憎んだ。 だから、大久保利通が撮影させた獄門に処せられた江藤新平の写真がいまだに伝わっている。

あらっ。。。 そうなのでござ~ますか?

見たかったら、次のリンクをクリックしてみてください。


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『大久保利通が撮影させた

 江藤新平の獄門首』
 (別窓)




板垣は江藤とも懇意にしていたけれど、江藤よりも坂本龍馬の死をより惜しんだ。。。 つまり、それほど坂本龍馬という人物は大久保利通の先を見ていた人物だった。。。 だから、大久保に恨まれて暗殺されてしまった。




『放屁女に罰金』より
(2019年1月16日)


 



つまり、大久保さんは自分と考え方が違う人間を徹底的に排除したのですわねぇ~。。。



そういうことです。。。 もちろん、大久保さんは自分では日本を西欧列強と並ぶような国にしたいと考えていた。。。 金銭欲に関しては淡白だったけれど、権力に関しては貪欲で、とにかく自分流にやろうと硬く決心していた。。。

西郷さんと袖(たもと)を分かつことになったのも、大久保さんの権力欲でござ~ますかァ?

端的に言ってしまえば、そういうことです。。。 西郷さんは、どちらかと言えば大久保さんよりも江藤新平さんに共感するようなタイプだったのですよ。。。

。。。で、小倉処平さんは。。。?

1874年の佐賀の乱では、敗れた江藤新平らが頼ってきたのを土佐へ逃がし、罪に問われたほどだったから、当然、小倉さんの考え方は江藤さんと同じように開明的な思想を持っていた。。。 後に大蔵省に勤めたが、1877年に西南戦争が起こると、帰郷して小倉さんは薩摩軍側に加わった事実からも判るように、大久保独裁政権には馴染めずに、敢えて西郷さんの軍に加わって戦死したのですよ。。。 生きていたら小村寿太郎以上の仕事をした人ですよ。。。

惜しい人を死なせてしまったのですわねぇ~。。。

歴史に“もし”はないけれど、大久保さんに言わば殺されてしまった、坂本龍馬、西郷さん、江藤さん、小倉さんが生きていたら、日本はもっと ましな国になってましたよ。。。



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 (すぐ下のページへ続く)









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