愛の手と狂気(PART 1)



件名:小百合さん、おはよう!
日本の良さを見出して
楽しんでね。
きゃはははは。。。

Date: 02/07/2010 1:10:11 PM
Pacific Daylight Saving Time
日本時間:7月3日(土曜日)午前5時10分
From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
CC: barclay1720@aol.com

バンクーバーの空はほぼ快晴で雲がありません。
ノースバンクーバーの山の上に雲が見えるだけです。
気温17度で湿度は60%。
のどかで、すがすがしい!
ここ1週間ばかり『あらすじで読む名作能50』と言う本を寝る前に読んでいるのですよう。
もちろんバンクーバー図書館から借りてきたものです。
能が好きか?と問われれば、嫌いではない、と言えるけれど、
とりわけ好きでもない。
でも、子供の頃から能になぜか惹かれるのは、自分がやっぱり日本人の心を持っているからだと、
本を読みながらしみじみと感じましたよう。
これまでに二つだけ心に残ったエピソードを。。。

テレビで拝見したのだが、大鼓(おおつづみ)の人間国宝・亀井忠雄さんご一家のお稽古ぶりは凄まじかった。
一子相伝というけれど、一つの芸風を伝えるのに、“家”がその子らにいかに壮絶な鍛錬を科すものか、親子ともに生命を賭しておられるようにみえた。
その折息子さんがおっしゃったが、大鼓を打ちながら、曲目の詞章を全部覚えるのだそうである。
そういえば土屋さんがおっしゃったのだ。
「どの能でもそうですけれど、亀井さんが真っ先に詞章を覚えられるんです。若い人たちはかないませんよ、気迫がですね」
石牟礼(いしむれ)道子(作家・詩人)
1927年熊本県天草生まれ。
46-47ページ 『あらすじで読む名作能50』
世界文化社 2005年5月1日発行
私(亀井忠雄)は子供の頃、父と小鼓の北村一郎師の絶頂期の『道成寺(どうじょうじ)』を聴いていますが、それは考えられないような狂気の世界でした。
とにかく掛け声がすごかった。それがあったので、16歳のときに『道成寺』のお役がかかりましたが断りました。
ほとんどのものを済ませてから、ようやく披(ひら)きました(初演を演じた)。
(中略)
とにかく『道成寺』は、狂気の域(いき)に入らないと出来ない、かといってこちら側にいないといけない。
シテも、他の囃子方(はやしかた)も同じです。「離見(りけん)の見」ということを観世寿夫さんからよく言われましたが、やっていくうちにだんだん分かってくるものです。
亀井忠雄(大鼓方葛野流宗家預かり)
人間国宝 1941年東京生まれ。
56ページ 『あらすじで読む名作能50』
世界文化社 2005年5月1日発行
。。。だってよう。
そうだよねぇ~。見えない所にエネルギーを費やす。
西洋的な考えだと、馬鹿馬鹿しい話なのですよう。
大鼓を打つのに、曲目の詞章を全部覚える必要などないのだよね。
カナダ人にやれ!と言っても「どうして?」と言う返事が返ってくるでしょう!
「鼓を打つのに関係ね~じゃねえか!」
そう言われてしまいますよう。
ちょっと聞いただけでは、合理的な考え方じゃない!
「どの能でもそうですけれど、亀井さんが真っ先に詞章を覚えられるんです。若い人たちはかないませんよ、気迫がですね」
この気迫が人間国宝の値打ちなんだろうね。
子供の頃、能など良く分からなかったけれど、僕も能をテレビで見て「大鼓」の響きに魅了されたことがありますよう。
あの響きには、日本人の心を揺さぶる響きがあるのかもしれない!
ビシッと心に響き渡りましたよう。
おそらく、亀井忠雄さんのお父さんが打っていたのではないか?
何だか、そんな気がしてきました。
小百合さんには、つまらない話かもしれません。
では、いつものように日本の神様にお祈りをささげます。

行田の大長寺の大仏様。。。
高崎の観音様。。。
軽井沢の不動様。。。
栃木のお稲荷様。。。
仙台の八幡様。。。
伊豆の海の神様。。。
谷川岳の山の神様。。。
小百合さんが軽井沢タリアセン夫人になりきって、ルンルン気分で今日、一日を無事で楽しく愉快に過ごせますように。。。
そして、この夏休みには、バンクーバータリアセン夫人になって、北京ダックを僕と一緒に食べることができますように。。。
日本の神様、よろしくお願いいたします。
では、小百合さんも時間があったら次の記事を読んでみてね。

■『ふるさとの皆さん!』
(2010年7月2日)
うっとうしい梅雨にもめげずに、楽しく愉快に今日、一日を過ごしてね。
じゃあねぇ~♪~!


デンマンさん。。。今日は能のお話ですか?

特に能について話したいと言う訳でもないのですよう。
でも、最近、能の本を読んでいるのでしょう?
たまたま図書館で借りてきた23冊の本の中に能の本があったのですよう。


1番の本ですか?

そうです。
先日は14番の本について書きましたよね。
■『つまらない話』
(2010年7月23日)
そうです。
参議院選挙があったから政治の本を選んだのは、なんとなく分かりますけれど、どうして能の本を選んだのですか?
小百合さんの愛の手が選ばせたのですよう。うししししし。。。
そのような事を言っても誰も信じませんわ。
“愛の手”を持ち出せば小百合さんが、そう言うと思いましたよう。
デンマンさんはわざとらしいのですわ。そのような取って付けたような事を言っても誰も本気にしませんわ。
でもねぇ、僕がデタラメを言っている訳ではない事が最後に分かります。
能のお話から“愛の手”のお話になるのですか?
まあ。。。そう言う事ですよう。うへへへへへ。。。
分かりましたわ。。。期待しながらデンマンさんのお話を伺いますわ。
小百合さんは『道成寺』って聞いたことがありますか?
能に『道成寺』という演目があることは知りませんでしたわ。でも、「娘道成寺」というのはよく耳にしました。歌舞伎の出し物だったように覚えていますけれど。。。
さすがですね。。。そうなのですよう。。。能の『道成寺』を基にして作ったらしいですよう。
道成寺

『道成寺』は、紀州道成寺に伝わる、安珍・清姫伝説に取材した能楽作品。
観世小次郎信光作といわれる『鐘巻』を切り詰め、乱拍子を中心に再構成したものという。
後にこの能の『道成寺』を元にして歌舞伎の『娘道成寺」や浄瑠璃の『道成寺』、琉球組踊の『執心鐘入』などが作られた。
シテ: 白拍子(実は女の怨霊)
ワキ: 住僧
アイ: 能力(のうりき:寺男)
安珍・清姫伝説の後日譚に従い、白拍子が紀州道成寺の鐘供養の場に訪れる。
女人禁制の供養の場であったが、白拍子は舞を舞い歌を歌い、隙をみて梵鐘の中に飛び込む。
すると鐘は音を立てて落ち、祈祷によって持ち上がった鐘の中から現れたのは白拍子が蛇体に変化した姿であった。
蛇は男に捨てられた怒りに火を吹き暴れるが、僧侶の必死の祈りに堪えず川に飛び込んで消える。
小鼓との神経戦である乱拍子(間をはかりながら小鼓に合わせ一歩ずつ三角に回る。
大きな間をとるので、ラジオ放送では放送事故 - 無音時間過長 - になったこともある)から一転急ノ舞になる迫力、シテが鐘の中に飛び込むや鐘後見が鐘を落とすタイミング、鐘の中で単身装束を替え後ジテの姿となる変わり身と興趣が尽きない能である。
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

デンマンさんは能の『道成寺』を見たことがあるのですか?

いや、ありません。
でも、なんだか『道成寺』にこだわっているようですわね?
『ウィキペディア』で調べてみたら、僕は何度かこの話を読んだことがあると思ってね。でも残念ながら、まだ能で一度も『道成寺』を見たことがない。
。。。で、『道成寺』のお話の内容に惹かれたのですか?
あのねぇ~、以前に読んだ時には、御伽噺のような。。。子供だましのような。。。いい大人が真面目になって読む話ではないと思って、さらっと読み流していたのですよう。でもねぇ、本の中の次の箇所を読んだ時に、なぜか引っかかるものがあった。
一途な思いの果て
梅若六郎 (シテ方観世流)
『道成寺』を披(ひら)く(初演する)ことで、はじめて一人前の能楽師と認められる。
ものの本では、しばしば、そのような解説がされています。
けれど、そうではありません。
この曲は、到達点などではなく、あくまでも一人前の能楽師となるためのスタート地点。原点、というのこそがふさわしい曲なのです。
この曲には、乱拍子、鐘入り、急ノ舞(きゅうのまい)と、特殊な技術が詰まっています。
しかしよくよく取り組んでみると、そうしたすべては、徹底した能の基本の積み重ねということがわかります。
すべてが決まりごとで成り立っている。逆に言うならば、ひとつでも基本をはずしたら成り立たないのが『道成寺』なのです。
(中略)
では、その本質とは?
『道成寺』が表現しようとしているものは何なのでしょう。
それは、一途(いちず)に人を思う純粋さだと、私は考えます。
猛烈に一人の人を思い、コントロール不能に陥った情念。
思う相手を焼き殺さずにはいられないほどの一途さ。
それこそが『道成寺』なのです。

後シテの般若(はんにゃ)の面を、よくご覧になってください。
報われない恋に烈しく憤りながら、深い悲しみをたたえた静かで美しい表情が秘められています。
52ページ 「一途な思いの果て」
『あらすじで読む名作能50』 多田富雄・監修
世界文化社 2005年5月1日発行

上の文章のどこに引っかかるのですか?

般若(はんにゃ)の面を見て専門家は次のように言っている。
報われない恋に烈しく憤りながら、
深い悲しみをたたえた
静かで美しい表情が
秘められています。
人にもよるのだろうけれど、僕は般若の面を見る時、そこに「静かで美しい表情」なんて感じ取れない。
デンマンさんは何を感じ取るのですか?
狂気ですよう。人間国宝の亀井忠雄さんも次のように言ってますよう。
『道成寺』は、狂気の域(いき)に
入らないと出来ない
梅若六郎さんは一途(いちず)に人を思う純粋さだと、言っている。でもねぇ、猛烈に一人の人を思い、コントロール不能に陥った情念。思う相手を焼き殺さずにはいられないほどの一途さは、狂気ですよう。純粋さではない!
つまり、愛とは程遠いものだとデンマンさんはおっしゃるのですか?
その通りですよう。。。あのねぇ、ここまで考えてきた時に、やっぱり小百合さんの愛の手が能の本を取らせたのだと僕には思えたのですよう。
それは、どう言う訳ですか?
ちょっと、めれんげさんの次の手記を読んでみてください。
行き違う愛という言葉

わたしに必要なのは
わたしひとりを
愛してくれるひと
わたしひとりが
そのひとに抱かれる
・
愛という言葉を
ふりまくひとに
わたしは別れを告げる
by めれんげ
2009.02.10 Tuesday 11:01
『即興の詩 行き違う愛という言葉』より

どうして、めれんげさんの手記を持ち出してきたのですか?

誇張して言えば、めれんげさんと伝説の清姫には共通したものがある。良く言えば、一途(いちず)に人を思う純粋さ。悪く言えば、猛烈に一人の人を思い、コントロール不能になる狂気に似た恋心。かつて僕は、めれんげさんの上の手記にコメントを書いたことがあるのですよう。読んでみてください。

わたしに必要なのは
わたしひとりを
愛してくれるひと
わたしひとりが
そのひとに抱かれる


うん、うん、うん。。。
めれちゃんらしいなぁ~
めれちゃんは、
そういう人が現れると信じているんやろなぁ~
うん、うん、うん。。。
信じることは大切やがなぁ~
モンスターエンジンの神さんもゆうてたでぇ~
“信じる者は救われる”と。。。
でもなぁ~
例えば一神教があるよなぁ~
キリスト教、
ユダヤ教
イスラム教。。。
どれも一つの神さんやがなぁ~
でも、日本人は、もともと多神教の民族やがなぁ~
だから、一神教に入信するならば、
他の神さんを捨てな~あかん!
そいで、長い歴史を振り返ると、
宗教戦争っつうモンがあるでぇ~
あれは、一神教を信じている者が起こすのやでぇ~
フロイトがえらいと思ったのは、
一神教の世界で生まれ育ったのに、
人間の本質をじっくりと見て
しかも、既成概念や、既成道徳に囚われずに、
人間の本質を見事に言い当てた事やでぇ~
何て言うたのォ~?
次のように言うたのやでぇ~
(すぐ下のページへ続く)
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