男女の性のあり方
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デンマンさん。。。、どういうわけで 男女の性のあり方 を取り上げるのでござ~♪~ますかァ~?
実は、最近、バンクーバー市立図書館で借りた本を読んでいたら次の章に出くわしたのですよ。。。
第4章 女性をめぐって
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ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは16世紀の中ごろ、1562年に日本に来て、1597年に世を去るまで、35年間、日本で生活をしました。
その生活のなかで、日本の習俗とヨーロッパの習俗との間に非常なちがいがあることをつぶさに見て、そのちがいを項目別に書き上げたものが、この『日欧文化比較』ー『日本覚書』という本なのです。
その第2章に「女性のその風貌、風習について」という一節があります。フロイス自身もびっくりしたのでしょうが、われわれ自身もこれを読むと、ちょっとドキッとするようなことが、そこにいくつかあげられております。
たとえば、「日本の女性は、処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わなければ結婚もできる」。
「ヨーロッパでは財産は夫婦のあいだで共有である。ところが日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付ける」。
さらにまた、「ヨーロッパは妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって名誉を失わないし、また結婚もできる。日本ではしばしば妻が夫をを離別する」というように、これまでの常識から考えると、これは本当かな、と思うようなことをのべているわけです。
さらに、「日本では娘たちは、両親に断りもしないで、一日でも数日でもひとりで好きなといころへ出掛ける。日本の女性は夫に知らせず、好きなところに行く自由を持っている」。
「日本では、堕胎はきわめてふつうのことで、二十回も堕ろした女性がある。日本の女性は赤子を育てていくことができないと、みんな のどの上に足を乗せて殺してしまう」。
「にほんでは比丘尼の僧院はほとんど淫売婦の町になる」。
これを一読したとき、これはフロイスの偏見ではないかという印象を私自身も持ちました。これは相当に史料批判がいるのではないかと思いましたし、全体として、日本の女性のあり方に批判的な角度を、たしかにフロイス自身持っていると思います。
しかし一方、前にも文字のところでふれましたけれども、「ヨーロッパでは女性は文字を書かないけれども、日本の高貴な女性はそれを知らんければ価値が下がると考えている」ということもあげていますので、すべてが偏見であるとは決していえないのです。
そこで少し詳しくフロイスの指摘を検討するうちに、私は、どうもこれはみな本当のことではないか、と思うようになってきました。
男女の性のあり方
フロイスより多少遅れてまとめられたスペイン人の神父コリャードの『懺悔録』(岩波文庫)などを見ておりますと、そのなかに出てくる女性は、懺悔のなかでずいぶん露骨に多くの男性と関係したことを詳しく述べています。
(中略)
西日本ではいわゆる「夜這い」の習俗が、各地に生きていたことは間違いない。
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私が実際に岡山の北のほうのある町の方にうかがったところですと、昭和30年代まで、私自身も(夜這いを)やっておりましたとおっしゃっていました。
備中の山のほうのことですから、すぐに出雲に行けるわけですが出雲の男たちが備中から夜這いに来させてなろうものかというので、国境で待っている。それを追い払い追い払いして行ってきたという武勇伝なども私に話してくださったのです。
(中略)
寺社への参籠の場合も同じだったのです。寺院や神社にお籠りをしている状況は、絵巻物にときどき描かれていますが、仏前や神前で男女が入り混じって寝ているわけです。
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絵巻物は絵ですから、明るく見えるように描かれていますけれども、実際は真っ暗だったにちがいありません。
大きな木を置いて、それを枕にして男女がごろ寝しているという場面も、絵巻物のなかに見つけることができます。
(中略)
さらに興味深いことは、弘安8年(1285年)、後宇多天皇が石清水八幡宮に対して宣旨を出し、「宝殿参拝ならびに通夜のとき、男女は雑居すべからざること」と規定しています。
これはお籠りの場所での男女の雑居が普通に行われていたことをよく示しており、おそらくはこの禁令が発せられたあとでも、そういう事態が続いていたとみてよいと思います。
さきほどのお祭りのときや法会のときも同じだと思いますが、神前や仏前は神仏のお力のおよぶ場所であり、そこでは世俗の縁が切れる。
万葉集、風土記などに出てくる歌垣の場のように、そこには世俗の妻や夫の関係は持ち込まれない場所であり、それゆえに、男女が自由に交渉することができたと考えても、決しておかしくないのではないかと思います。
実際、神社、寺院に参籠して子供を授けられた話、その子どもが神仏の霊力を身につけていると考えられた話がよくありますが、これは現実にあり得たことだと思います。
(写真とイラストはデンマン・ライブラリーより)
pp. 144-151『日本の歴史をよみなおす(全)』
2017年1月25日初版第一刷発行
著者:網野善彦
発行所:株式会社筑摩書房
あらっ。。。山村の村々では昭和30年代の頃まで「夜這い」があったのでござ〜ますわねぇ〜。。。デンマンさんも実家のある山村で「夜這い」したのでござ〜ますかァ〜?
あのねぇ〜、僕の実家は行田市ですよ。。。山村じゃありません。。。「夜這い」なんてぇ聞いたことも見たこともなかったですよ。。。僕の青年時代には、もう「死語」になってました。。。遠い昔の江戸時代の風習だと習ったものです。。。
でも、信じられないことに昭和の30年代頃まで続いていた風習なのですわねぇ〜。。。
今で言えば、「フリーセックス、自由恋愛」なんだろうけれど、弊害もあったのですよ。。。
どのような。。。?
卑弥子さんは「津山事件」という事件を知ってますか?
いいえ。。。知りませんわァ〜。。。
次のような事件なのですよ。。。
津山事件
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津山事件は、1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件。
司法省による事件名は津山事件で、犯人の姓名を取って都井睦雄事件(といむつおじけん)とも呼ばれることもある。
都井 睦雄(とい むつお)が村人たちの家を猟銃と刀で次々と襲い、1時間半の間に28名を即死させ、5名に重軽傷を負わせた(そのうち12時間後までに2名が死亡)。
都井は犯行後に自殺し、被疑者死亡で不起訴となった。
日本が明治維新後に西洋式の近代法制を整備して以降、戦争行為を除く犯罪としては、京都アニメーション放火殺人事件が発生する2019年までの81年という長きに渡って最多の犠牲者数だった。
横溝正史の小説『八つ墓村』、および西村望の小説『丑三つの村』のモチーフになった事件である。
犯人の都井 睦雄(とい むつお)は1917年(大正6年)3月5日、岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現・津山市加茂町倉見)に生まれた。
1918年7月18日に祖父、同年12月1日に父、1919年4月29日に母を亡くした。
全員が肺結核であった。
当時は結核感染者が多く出る家をロウガイスジ(労咳筋)として忌み嫌う傾向があり差別の対象とされたため、都井に家督を継がせるべきかという議論が都井一族内で巻き起こった。
結果として都井に継がせるべきではないとの判断が一族の大半を占め、最終的に都井宗家を継ぐのは、祖父の代で既に分家していた祖父の弟の一人(都井の大叔父)となった。
以降は祖父の後妻である、血縁関係のない祖母が後見人となり、その直後一家は加茂の中心部である塔中へ引っ越した。
さらに、都井が6歳のときに一家は祖母の生まれ故郷の貝尾集落に引っ越した。
都井は両親より約13,000平方メートルの田畑と、約8,000平方メートルの山林を相続したが、いずれも倉見に存在する資産であった。
また都井一家が暮らしていた倉見の屋敷も遺産に含まれたが、それら全てを合わせても都井宗家の資産全体のうち僅かなものだった。
都井は尋常高等小学校を卒業直後に肋膜炎を患って医師から農作業を禁止され、無為な生活を送っていた。
病状はすぐに快方に向かい、実業補習学校に入学したが、姉が結婚したころから徐々に学業を嫌い、家に引きこもるようになっていき、同年代の人間と関わることはなかった。
なお、事件後に岡山地裁検事局からの照会により西賀茂尋常高等小学校長が回答した昭和14年4月19日付「被疑者学業成績性行等回答書」によれば、都井の学業成績は尋常科および高等科の計8年間を通じ、体育科目も含めて全教科において10段階中全て8以上であった。
また同回答書中の「性質素行」欄には「勤勉親切ヨク命ヲ守リヰタリ」、「正直ニシテ約束ヲ守リ礼儀ヲ重ンジ緻密ナリ」等と記載されている。
1937年5月22日(昭和12年)、都井は徴兵検査を受け、結核を理由に丙種合格とされた。
そのころから都井は、それまで関係を持った女性たちに、都井の丙種合格や結核を理由として関係を拒絶されるようになる。
そして、心ない風評に都井は不満を募らせていった。
以前懇意にしていたもののその後都井の元から去り、他の村へ嫁いでいた女性が村に里帰りしてきた1938年(昭和13年)5月21日の未明、犯行は行われた。
決行
都井は、近隣の住人を約1時間半のうちに次々と改造猟銃と日本刀で殺害していった。
当時の貝尾集落では、夜間に施錠している家はなかった。
被害者たちの証言によると、この一連の犯行は極めて計画的かつ冷静に行われたとされている。
最終的に死者30名(即死28名、重傷のち死亡2名)、重軽傷者3名の被害者が出た。
死者のうち5名が16歳未満(最年少は5歳)である。
被害者の年齢表記は数え年となる。
1950年に満年齢使用が義務化されるまでは数え年表記が一般的であり、都井は犯行当時満年齢21歳だったが、数えでは22歳となる。
11軒の家が犯行に遭い、そのうち3軒で一家全員が殺害され、4軒の家は生存者が1名だけであった。
都井による激しい銃声と怒鳴り声を聞き、すぐに身を隠すなどした者だけが生存者となった。
また、2名は襲撃の夜に村に不在だったため難を逃れた。
また、ある家では、主人からの「決して動かんから助けてくれ」という必死の哀願に「それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん」と応え、その場を立ち去っている。
出典: 「津山三十人殺し」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あらっ。。。ずいぶんと凄(すさま)まじい、酷(ひど)い事件だったのですわねぇ〜。。。
そうなのですよ。。。とにかく単独犯の人殺しで、30人殺したというのは、京都アニメーション放火殺人事件が発生する2019年までの81年という長きに渡って最多の犠牲者数だったのですよ。。。ちなみに京アニ放火事件では社員36人が死亡、33人が重軽傷。。。
。。。で、この津山事件が「夜這い」と関係あるのでござ〜ますかァ〜?
あるのですよ。。。犯人の都井睦雄の遺書を読んでみてください。。。
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愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。
思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺元ゆり子が貝尾に来たから、又西山良子も来たからである、しかし寺元ゆり子は逃がした、又寺元倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸本順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。
もはや夜明けも近づいた、死にましょう。
— 「津山事件報告書」より
都井睦雄の遺書
(犯行直後の興奮状態での遺書。誤字などあるが原文のままとする。)
都井は遺書の中で、この日に犯行を起こす決意をしたのは、以前 都井と(夜這いによって)関係があったにもかかわらず他家に嫁いだ女性(寺元ゆり子)が、貝尾に里帰りしてきたからだとしている。しかし、この女性は実家に都井が踏み込んで来たとき逃げ出して助かり、逆にこの家に逃げ込んだ隣家の家人が射殺されることとなった。
でも、どうして夜這いによって関係があったと判るのでござ〜ますかァ〜?
都井睦雄が遺書の中で次のように書いている。
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寺元倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつもの(裕福な者)ばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない…
つまり、寺元倉一と言う男は、特に裕福な未亡人を狙って夜這いしたのですよ。。。しかも、この寺元倉一という男は貝尾集落のほとんどの女と夜這いしていたのですよ。。。この集落では夜這いが ごく普通に行われていたことが この遺書から判る。。。
それにしても なんだか凄まじいですわねぇ〜。。。でも、どうして30人も殺さねがならなかったのでござ〜ますか?
都井睦雄は不幸な生い立ちで、両親を早いうちに亡くしていた。。。勤勉で優秀だったのだけれど、家族が肺結核で亡くなっていたことで村の者から嫌(いや)がられた。。。当時、肺結核にかかったら、先が短いと思われたのですよ。。。しかも徴兵検査では結核を理由に丙種合格。 甲種、乙種、その次の丙種です。。。使い者にならないクズの兵隊だと馬鹿にされるわけです。。。しかも、女にも捨てられた。。。もう、夢も希望もない人生に嫌気がさして、かつて馬鹿にした集落の者を道連れにして あの世に旅立ったのですよ。。。秋葉原無差別殺人事件を起こした加藤 智大(ともひろ)死刑囚と同じような動機です。。。
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【卑弥子の独り言】
ですってぇ~。。。
あなたは三遊亭圓朝作の『牡丹燈籠』を聴いたことがありますかァ〜?
殺人事件ではありませんが、幽霊が出てくる怖いお話です。。。
もし、聴いたことがなかったのでしたら『牡丹燈籠』のクリップを貼り出しますので是非聴いてくださいまし。。。
ええっ。。。「そんな事はどうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」
あなたは、そのような強い口調で あたくしに御命令なさるのでござ~ますかァ~?
分かりましたわ。。。
デンマンさんが10年以上も前にアンケートを作りました。
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じゃあ、また。。。
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こんにちは。ジューンです。
“本音と建前”
よく聞きますよね。
さて、英語で何と言うのでしょうか?
考えてみた事がありますか?
いろいろと言い方があると思います。
appearance and reality
見かけと実物そのまま
これも本音と建前と言い換えることができますよね。
form and substance
外観と実体
これも本音と建前と同じですよね。
one's real intention and
what one says on the surface
本音と建前を説明しているのですよね。
real motive and stated reason
これも間違いなく本音と建前ですよね。
what one says and what one means
本音と建前をこのように言うこともできますよね。
では、「本音と建前を使い分ける」を
英語でどのように言うのでしょうか?
ちょっと考えてみてください。
次のように言うことができます。
You should be tactful as to
when to tell real intention
and when to show form.
ところで、英語の面白いお話を集めました。
時間があったら覗いてみてくださいね。
■ 『あなたのための愉快で面白い英語』
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。