デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

灰の記憶

2024-06-05 01:29:50 | 歴史四方山話


 

灰の記憶

 


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ケイトー。。。、今日はナチスのユダヤ人虐殺の話をするのォ〜?


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いけませんかァ〜?

おぞましい話は聞きたくないわァ〜。。。

あのねぇ〜。。。「臭いものには蓋(ふた)」という例(たと)えがあります。。。確かに、おぞましいモノからは目を背けたくなるのが人情です。。。でもねぇ〜、「臭いもの」から目を背け続けると、いつまで経っても「臭いもの」がなくならないのですよ。。。だから、時には「臭いもの」を直視する必要があるのです。。。例えば、神武君です。。。この男は、おぞましい、臭い男です。。。

それほどおぞましい臭い男なのォ〜?

女性の敵です。。。ちょっと次のページを見てください。。。

 


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『拡大する』

『実際のページ』


 



この神武君というおぞましい男はデッカイーブーツさんに執拗にセクハラコメントを書いてネットから追い出してしまった。。。しかも、すでに3年以上も前に亡くなっているメグさんに対しても、他人に成りすましてまで 未だにセクハラコメントを書き続けている。。。



なぜ、神武君は そういう事をするわけぇ〜?

神武君は悪い家庭環境で育ったために性格がひねくれてしまった。。。なかばアル中の母親に虐待されたので女性恐怖症になり、憎悪の矛先が、すべての女性に向かうようになってしまった。。。あたかもナチスがユダヤ人に対して憎悪を向けたようなものですよ。。。

つまり、悪の元凶のナチスを亡き者にしたように、この神武君もネットから葬り去らねばならないのねぇ〜。。。

そういうことですよ。。。

でも、いったい、どういうわけで急にナチスのユダヤ人虐殺を取り上げるのォ〜?

つい最近、バンクーバー市立図書館で DVD を借りて話題作の『灰の追憶』を観たのですよ。。。

 


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『拡大する』

『実際のページ』


 



 



灰の記憶

 


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『灰の記憶』(原題: The Grey Zone)は、2001年に制作されたアメリカ合衆国の映画。
監督・脚本はティム・ブレイク・ネルソン。

実在のユダヤ人医師、ミクロシュ・ニスリの手記を基に、ティム・ブレイク・ネルソンが映画化した。
ポーランドのアウシュビッツ強制収容所のガス室で奇跡的に生き残った少女の命を守るユダヤ人たちの葛藤と勇気を描く。
本作は第26回トロント国際映画祭出品作品である。

日本では2003年に公開され文部科学省選定作品となっている。

 

あらすじ

1944年、アウシュビッツ強制収容所。

ユダヤ人のホフマンは、同じユダヤ人をガス室に送るなどの特別任務を担う“ゾンダーコマンド”としてナチスのために働いていた
その見返りは食事と4ヵ月の延命。

一方で彼は、密かに同じユダヤ人である焼却場のアブラモヴィッチや軍需工場で働く女囚ダイナらと死体を焼き続ける焼却炉の破壊を計画していた。
それは、彼らにできる最後の抵抗だった。

そんなある日、ホフマンはガス室で死体処理中、奇蹟的に生き残った少女を発見する。

ニスリ医師の手当で一命を取り留めたその少女を、彼は危険を承知で匿うのだった。




出典: 「灰の記憶」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



同じユダヤ人でありながらナチスの手先になって、ユダヤ人をガス室に送るなどの特別任務を担ったユダヤ人がいたのねぇ〜。。。



そうです。。。そういうユダヤ人の部隊を“ゾンダーコマンド”と呼んだのですよ。。。ナチスのために働いたので一般のユダヤ囚人よりも豊かな食事が与えられ、4ヵ月以上長く生きられた。。。

つまり、この“ゾンダーコマンド”の一人がユダヤ人のホフマンで、この映画の主人公になるのねぇ〜。。。

そういうことです。。。

 



強制収容所のゾンダーコマンド

 


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レンベルク・ヤノウスカ強制収容所で使われた骨粉砕機の横に立つゾンダーコマンド。
同収容所が1944年に解放された後、ソ連側によって撮影された一葉


 


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ドイツ・ダッハウ強制収容所の火葬場で撮影されたゾンダーコマンド。
解放の直後、当時の状況を再現して撮影された一葉と推測される


 

強制収容所におけるゾンダーコマンド(独: Sonderkommando in den Konzentrationslager)は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツが強制収容所内の囚人によって組織した労務部隊である。

ドイツ語でゾンダーコマンドという言葉は「特殊部隊」や「特別分遣隊」、「特命隊」といった意味で、第二次世界大戦中には親衛隊(SS)および国防軍が指揮する様々な部隊の名称として使われた。ただし、本項で解説する部隊はそれらの部隊とは全く性質が異なるため、注意を要する。

部隊にいた囚人のほとんどはユダヤ人で、多くの場合、囚人達は収容所に連れて来られた時にナチスによりその仕事に就くように強制され、死を恐れて指示に従うことになる。

主な仕事はガス室などで殺されたユダヤ人の死体処理である。
彼らはユダヤ人の殺傷には直接関わっておらず、その仕事自体はナチスの人間がおこなっていた。
また、どのような仕事をするのか事前に知らされることはない。

悲惨なことに、囚人の中には作業中に自分の家族の遺体を見つけ、それを処理しなければいけないという残酷な場面に直面する者もあった。
自殺をする以外にこの仕事を辞める、または拒否する方法はなかった。

収容所の場所にもよるが、ゾンダーコマンドは「ユダヤ人労働者 (Arbeitsjuden)」を遠回しに表現する言葉として使われることもあった。
また、「補助員」ないし「助手」 (Hilflinge)と呼ばれることもあった。

ポーランドのビルケナウ強制収容所では1943年までに400人ものゾンダーコマンドが存在しており、1944年にハンガリーのユダヤ人が大量に収容されるようになってからは、その膨大な数の死体処理のために900人にものぼるゾンダーコマンドがいたとされる。

ナチスは死体処理を行うことができるゾンダーコマンドの囚人を必要としていたため、彼らは他の囚人よりも比較的ましな生活環境にいたとされる。
彼らは他の囚人とは異なるバラックに住み、ガス室に送られた人たちから没収した煙草や薬、食べ物を手に入れることができた。

また、その他の囚人とは異なり、収容所の兵士や監視員から無差別に殺される心配もなかった。
ゾンダーコマンドの囚人たちの命や必要性は、彼らがどれだけ効率的に死体処理を行うことができるかによって決められていた。

それにより、ゾンダーコマンドの囚人は他の囚人よりも比較的長く生き延びることができたが、戦後まで生き残ることができた者はあまり多くなかった。

ゾンダーコマンドはその仕事内容から、ナチス・ドイツの大量虐殺を認識しているため「秘密保持者(Geheimnisträger)」とされており、ガス室に送られるユダヤ人以外の囚人達からは隔離されていた。

また、外部への情報漏えいを防ぐため、ゾンダーコマンドの囚人はほとんどが3か月から長くて1年以内にガス室に送られて殺され、新しく連れてこられたユダヤ人が代わりとなっていった。

特別な技術があれば、他の囚人より長く生き延びることができる可能性もあった。
新人ゾンダーコマンドの初仕事は、彼らの前にこの仕事を行っていた囚人たちの死体処理である。

ゾンダーコマンド結成後、収容所解放までに14サイクルもの入れ替えがあったとされる。

 

反乱

1944年にアウシュヴィッツ強制収容所でゾンダーコマンドによる反乱があり、火葬場が一部破壊された。

エステル・ヴァイツブルム、アラ・ガルトナー、そしてレジーナ・ザファーシュタインなどの女性囚人たちが数か月に渡りアウシュヴィッツ内の軍需工場から火薬を少しずつ盗み出し、ビルケナウ収容所の衣類格納庫で働かされていたロージャ・ロボタなどのレジスタンスの手に渡った。

女性囚人たちは警備の目をかいくぐりながら少量の火薬を小さな布や紙に包んで体に隠し、それをレジスタンスの手に渡らせた。
ロージャ・ロボタは火薬を手にした後、それを仲間のゾンダーコマンドに渡し、彼らはガス室と火葬場を破壊し、暴動を起こすことを企てた。

収容所のレジスタンスから1944年の10月7日に自分たちが処刑されることを知らされると、ゾンダーコマンドはナチス親衛隊 (SS) やカポ(労働監視員)をマシンガンや斧、ナイフで攻撃し、ナチスは怪我人12人、死者3人もの死傷者を出した。

数人のゾンダーコマンドは計画通り脱走することにも成功したが、その日のうちに捕らえられた。
反乱で生き残ったゾンダーコマンドのうち200人もの囚人がその後頭を撃ち抜かれ殺された。
その日に殺されたゾンダーコマンドは451名にも上る。

1943年の8月2日には同じくポーランドのトレブリンカ強制収容所で反乱が起こり、100人もの囚人が脱走に成功した。
また、1943年10月14日にはポーランド東部のソビボル強制収容所でも似たような反乱が起こっている。

『脱走戦線 ソビボーからの脱出』はソビボル強制収容所での反乱を舞台にした映画である。
ソビボル第三強制収容所のゾンダーコマンドは第一収容所の反乱には参加していなかったが、次の日にナチスにより殺された。

トレブリンカ強制収容所とソビボル強制収容所はその後すぐ閉鎖された。
収容所解放までに数千名いたゾンダーコマンドのうち、生き残った者は20名余りとされる


 

証言

1943年から1944年の間、ビルケナウ収容所のゾンダーコマンドの数名が筆記用具やカメラなどを手に入れ、収容所内の様子を記録することに成功している。
これらの情報は収容所内の火葬場近くなどの地面に埋められ、戦後の1980年から掘り起こされた


この原稿は劣化が激しく、2010年代の最新技術でようやく判読出来るようになった。
掘り起こされた原稿などで作者がわかっている人物にザルマン・グラドフスキ、ザルマン・レヴェンタル、レイブ・ラングフス、Chaim Herman そして マルセル・ナジャリがいる。

最初の3名はイディッシュ語で文章を記述しており、Hermanはフランス語、そしてナジャリはギリシャ語で記述している。
ほとんどの記録や原稿はアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所博物館に保存されている。

記録の一部は「スクロールズ・オブ・アウシュヴィッツ (The Scrolls of Auschwitz)」というタイトルで出版されている。
また博物館はその他の記録を「アミッド・ア・ナイトメア・オブ・クライム (Amidst a Nightmare of Crime)」という名前で出版している。

2020年8月16日には、日本のNHK総合テレビが、発見されたメモや生存していた隊員を取材したNHKスペシャル『アウシュビッツ 死者たちの告白』を放映した。

ゾンダーコマンドの生存者シュロモ・ヴェネツィアの体験をインタビュー形式でまとめた『私はガス室の「特殊任務」をしていた』(原題は"Sonderkommando")は、作業内容を知らされないまま選抜され、それがわかった時には逃げ場がなくなっていたが、以下のように証言した。

「1,2週間すると、結局慣れてしまった。すべてに慣れた。むかつくような悪臭にも慣れた。ある瞬間を過ぎると、何も感じなくなった。回転する車輪に組み込まれてしまった。でも、何一つ理解していない。なぜなら、何も考えていないんだから」




出典: 「ゾンダーコマンド (強制収容所)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



この映画の英語の原題は「Grey zone(グレーゾーン)」というのです。。。日本語では「灰色の領域」と訳されている。。。実は、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の生き残りであるプリーモ・レーヴィという人物が収容所内での経験を基に提起した概念なんですよ。。。。



具体的には、どういう意味なのォ〜?

当時、強制収容所またはゲットー内でユダヤ人が置かれていた複雑な境遇、あるいはその環境を言い表した概念なのです。。。

もっとわかりやすく説明してよ。。。

あのねぇ〜、強制収容所という極限的環境では、ユダヤ人の立場は単純に加害者と被害者に二分出来ないのですよ。。。なぜなら、特別労務班(ゾンダーコマンド)の一員になって同じユダヤ人をガス室に送ったり、その後で死体処理にかかわっても、やがて自分もガス室で焼き殺される運命にある。。。つまり、「対独協力者」であり犠牲者でもあるユダヤ人の行動は、客観的に加害者と被害者に二分出来ないということです。。。

要するに、善悪、白黒を付け難いので「灰色の領域」と言うわけねぇ〜。。。

そういうことですよ。。。強制収容所という極限的環境では、ユダヤ人の間に、善悪を判断すると言うよりも「抵抗 resistance」、「協力 collaboration」以外に「忍従・隠遁 passivity」という行動原理が働くと言うのです。。。

じゃあ、神武君がデッカイブーツさんや、すでに4年前に亡くなっているメグさんに対して 未だにセクハラコメントを書いていることも 善悪では判断できないと言う事ねぇ〜。。。なぜなら、神武君のその行為は、いわば女性に対する抵抗、敵対行動なんだから。。。

それは違います。。。ネット社会は強制収容所じゃないんだから。。。極限的な状況にあるわけじゃない! 強制があるわけじゃない! 自由がある! だから、神武君のセクハラコメントは悪行です。。。決して善行ではない! 悪い行いです。。。犯罪です! デッカイブーツさんが訴訟を起こせば、神武君は刑務所行きです。。。そこで、神武君は極限状態に置かれて 「灰色の領域」を体験することになるのです。。。

 


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最近、カナダのケベック州にある刑務所で30人の女性を殺した連続殺人犯人・ロバート・ピックトンが同僚の囚人に殺された。。。極限的な状況にある刑務所では、「抵抗 resistance」、「協力 collaboration」が極限的な行動として現れる。



神武君も刑務所に入ると、その被害者になる可能性が大きいのねぇ〜。。。

そうです。。。すでに4年前に亡くなっているメグさんに対してストーカーのようにセクハラ、嫌がらせのコメントを書き続けている神武君は囚人にも蛇蝎(だかつ)の如く嫌われるのですよ。。。



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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

神武君と現実君はネット社会から排除されるべきだと思いますか?

貴方は、どう思いますか?

ええっ。。。「そんな事はどうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で あたしにご命令なさるのですか?

分かりましたわ。。。

でも、たまには、古代のお話も読んでみてください。

興味があったら、あなたも古代の謎に挑んでくださいねぇ~。。。


天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?



ところで、他にも面白い記事がたくさんあります。

興味のある方は次の記事も読んでみてくださいね。

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『角さんと原発と天罰(2013年1月5日)』

『真紀子落選(2013年1月14日)』

『野火(2013年1月18日)』

『タイタニックと国際化(2013年2月1日)』

『宮澤理恵@Macao(2013年2月28日)』


(sunwind2.gif)

『アクセス急増!』

『超アクセス急増!』

『アクセス急増@Ameba』

『オッペンハイマーと吊し上げ』



とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。


(hand.gif)




(spacer.png+betty5de.gif)
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『スパマー HIRO 中野 悪徳業者』

 


(surfin2.gif)

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

ためになる関連記事



平成の紫式部、橘卑弥子でござ~ます
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『卑弥子の源氏物語』

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愛情はふる星のごとく

2024-06-05 00:54:39 | 歴史四方山話

 

愛情はふる星のごとく

 








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ケイトー。。。 なんだかロマンチックなタイトルじゃない!?


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シルヴィーもそう思う。。。

でも、どうして急にロマンチックな気分になたのォ~?

あのねぇ~、僕は急にロマンチックな気分になったわけじゃないのですよ。 この話題は9月14日に書いた次の記事の続きなのですよ。



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このホテルが麻薬の売人の溜まり場なのォ~?



やだなあああァ~。。。 シルヴィーはどうして。。。、どうして、麻薬にこだわるのォ~? 

別に拘(こだわ)っているわけじゃないけれど、なんだか、やばい雰囲気のホテルじゃない!? なんだか、アメリカの禁酒法時代のアール・カポネが泊まっていそうなホテルじゃないのォ~!

あのねぇ~、実は、このホテルは昔。。。 つうかあああァ、1920年代、30年代には "Cathay Hotel"と呼ばれて世界的に有名なホテルだったのですよ。 その当時のアメリカ映画などにもよく出てきます。 上海市の中心部・外灘(ワイタン、The Bund)に面して建っていて、かつて世界的なユダヤ人の財閥、サッスーン・ファミリーが所有していたビルですよ。

あらっ。。。 ケイトーってぇ、詳しいのねぇ~。。。

僕は歴史にはまっているので、かつてゾルゲ事件を調べたことがある。 そしたら、リヒャルト・ゾルゲの仲間の一人、もと近衛内閣のブレーンで、日中戦争を推進した朝日新聞記者の尾崎秀実や、アメリカ人のジャーナリスト、アグネス・スメドレーなどがこのホテルのバーなどにやって来ては情報を交換していたのですよ。

でも、それが“007 Skyfall”の映画と関係あるのォ~?

あるのですよ。 上海が映画に出てくるのですよ。

 


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Skyfall 上海シーン



 



あのねぇ~、僕は当然のことながら和平飯店(Peace Hotel・旧cathay Hotel)が出てくるのではないか? そう思いながら見ていたのだけれど、出てこなかった。 この20年の間に、上海の中心が外灘(ワイタン、The Bund)から浦東(Pudong)に移ってしまったようですよ。


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映画の中のホテルは浦東にあるホテルです。 しかも、僕が上海に行った当時は虹橋(ホンチャオ)空港に着陸した。 新しい上海国際空港はまだ無かった。


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この上の虹橋(ホンチャオ)空港が唯一の国際空港だった。 でも、今では、浦東新区に立派な上海国際空港ができている。


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僕が1991年当時、浦東(Pudong)を散歩した時には、高層建築は一つも無かった。 スラム街のような、町工場が密集しているような場所で、どこもかしこも工事中だったのですよ。 もちろん上海国際空港もまだ無かった。 それが20年の間に次のような高層建築ができてしまったのだからビックリしましたよ。




『宮沢百恵』より
(2013年9月14日)




上の記事のどこが「愛情はふる星のごとく」と関係あるのよ? 007ジェームズボンドとは関係なさそうだし。。。



あのねぇ~、戦前・戦中の昭和史に関心のある人ならばすぐに解るのです。

私は太平洋戦争には興味はないから ちょっと解らないわ。

実は、上の記事の中に出てくる尾崎秀実と関係があるのですよ。


尾崎 秀実(おざき ほつみ)

誕生: 1901年(明治34年)4月29日
刑死: 1944年(昭和19年)11月7日


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尾崎秀実は日本の評論家・ジャーナリスト・共産主義者。
朝日新聞社記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員を務める。

近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を持ち、日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前まで政治の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えた。

共産主義者、革命家としてリヒャルト・ゾルゲが主導するソビエト連邦の諜報組織「ゾルゲ諜報団」に参加し、スパイとして活動し、最終的にゾルゲ事件として1941年発覚し、首謀者の1人として裁判を経て死刑に処された。

報知新聞記者の父・秀真(ほつま)の子として東京芝伊皿子町で生まれる。
5ヵ月後、父が台湾総督府の後藤新平の招きを受け、台湾日日新聞社漢文部主筆として赴任したことから、台湾で育つ。
台北中学、一高を経て、東京帝国大学法学部を卒業、大学院で1年学んだ。

この前後に共産主義のシンパになるが、運動には携わらなかった。
たとえば、一高時代に森戸事件が起きたが、特に社会運動に参加はしていない。
しかし、大正12年の関東大震災で無政府主義者の大杉栄、伊藤野枝、大杉の6歳になる甥が憲兵隊に殺害された事件に触発され、社会主義研究を始める。
テキストはマルクスの『資本論』をはじめ、レーニンの『帝国主義論』、『国家と革命』であり、中国問題に着目するようになったのはカール・フォーゲルの『目覚めつつある支那』を読んでからである。

上海へ

昭和2年10月から翌年の大阪朝日新聞の支那部に籍を置く。
この大阪赴任中、一高の先輩で日本共産党員の冬野猛夫に会い、影響を受ける。
上海に渡る直前に、一高、東京帝大で同期でドイツ帰りの羽仁五郎から現地の新聞の研究・分析の重要性について教わる。
その後、特派員として昭和2年11月に大阪朝日新聞社上海支局に転勤し、英語とドイツ語に堪能な尾崎は、太田宇之助支局長のもと外交方面を受け持つことになる。

上海滞在中、内山書店に通い、店主の内山完造や、そこに出入りする郭沫若や魯迅、中国左翼作家連盟の夏衍と交際する。
また中国共産党とも交流した。
昭和3年11月、イレーネ・ワイテマイヤーが経営するツァイトガイスト(ドイツ語で「時代精神」の意)書店でアグネス・スメドレーに会い、コミンテルン本部機関に加わり諜報活動に間接的に協力するようになる。
さらに、常盤亭という日本料理店において、スメドレーの紹介で、フランクフルター・ツァイトング紙の特派員「ジョンソン」ことリヒャルト・ゾルゲと出会う。
彼を通じてモスクワへ渡った南京政府の動向についてのレポートが高く評価され、南京路にある中華料理店の杏花楼で、ゾルゲから自分はコミンテルンの一員であると告げられ、協力を求められ、承諾する。
実際に尾崎をゾルゲに紹介したのはアメリカ共産党員で当時上海にあった汎太平洋労働組合(PPTUS)書記局に派遣され、満鉄傘下の国際運輸という運送会社に潜り込んでいた鬼頭銀一である。




出典: 「尾崎秀実」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




「ゾルゲ事件」というのは国際的な事件だったから聞いたことがあるけれど、尾崎秀実がこの事件に関わっていたということは知らなかったわ。



日本の昭和史では有名な人ですよ。

。。。で、尾崎秀実と「愛情はふる星のごとく」がどのように関係しているのォ~?

あのねぇ~、尾崎秀実の妻の英子さんという人は秀実の兄の配偶者だったのですよ。

つまり、兄の妻が亡くなったので、その妻を弟の尾崎秀実が面倒を見るために結婚したということォ~?

違うのですよ。 まだ兄さんが生きている間に弟の秀実さんは兄さんの嫁さんと愛し合ってしまったのですよ。

あらっ。。。 それってぇ、不倫になるのじゃないのォ~?

世間では、そういう風に見られてしまう。

戦前の日本では姦通罪は厳しかったんじゃない?

そうですよ。 不倫は戦前の日本では立派な犯罪だった。 でもねぇ、一族の間の問題だから、あまり派手に裁判で騒ぎだてるわけにもゆかなくて、結局、二人は不倫の果てに結婚することになったのですよ。

要するに、二人は相思相愛の仲だったわけね? でも、尾崎秀実はスパイ罪で投獄されてしまったのでしょう。。。

そうですよ。 尾崎秀実は拘置所に入っている間に、こまめに妻子に宛てて手紙を書いたのです。 その手紙を尾崎が刑死してから英子さんが書簡集として出版したのが『愛情はふる星のごとく』という本なのですよ。

 


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あらっ。。。 ラブレターを出版したのォ~?



あのねぇ~、拘置所から手紙を出したのですよ。 当然、検閲がある。 だから、シルヴィーが期待するようなラブレターは書けないのです。

じゃあ、それ程面白い書簡集じゃないのね?

でもねぇ~、この『愛情はふる星のごとく』は隠れたベストセラーになったのですよ。 手紙を読むと、あの息も詰まるような戦争中に自分の意志を貫き通して生きる尾崎の姿が見えてくる。 しかも、行間には妻子を思う夫としての尾崎、それに父親としての尾崎の愛情がにじみ出ている。 そういうところが特に女性の共感を得たようですよ。

あらっ。。。 そうなのォ~? もし英訳が出ているのなら私も読んでみたいわ。

でもねぇ~、一部では、尾崎は上海でアグネス・スメドレーと情交を重ねていたという人もいるのですよ。


アグネス・スメドレー

 (Agnes Smedley)



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1892年2月23日 - 1950年5月6日)

アグネス・スメドレーはアメリカ合衆国のジャーナリスト。
中国大陸の近代事情、特に中国共産党に関する著作で知られる。
第一次世界大戦においてはインドの英国からの独立のためドイツ政府からの経済援助を受けながら合衆国内で活動し、世界革命論を促進するコミンテルンのために共に長期間活動している。
コミンテルンから資金援助を受けて対外宣伝活動を行っていた。

スメドレーは1892年にミズーリ州のオスグッドで農家の5人兄妹の1人として生まれた。
10歳の頃コロラド州へ移り、学校へと通いながら家計を助けるために働いていた。
彼女は正規の教育を受ける機会はなかったが、学習に対する興味は失わなかった。
1911年から1912年にかけて、スメドレーはアリゾナ州テンピの師範学校で特待生として学んだ。
学内では学生新聞の編集を行っている。

その後、スメドレーはアーネスト・ブラディン(Ernest Brudin)と結婚し、カリフォルニア州へと移住した。
この地で社会主義の思想に触れた彼女は、6年後に離婚するとニューヨークへと向かった。
ニューヨークではマーガレット・サンガーと共にBirth Control Review誌で働いている。
インド人の共産主義者ヴォレンドラナート・チャットパディア(Virendranath Chattopadhyaya)と関係を深めると、彼とともにドイツへ渡った。
1929年には初の自伝を書き上げている。

チャットパディアと分かれたスメドレーは次なる興味の目標を中国大陸へと定め中華民国の上海へ向かった。
上海ではソビエト連邦のスパイであったゾルゲと親密に親交し、後に彼の協力者となる尾崎秀実を紹介した。
尾崎はスメドレーの著作を日本語に翻訳している。

このような経緯から、マッカーサーの部下であったチャールズ・ウィロビーはスメドレーをソビエトのスパイであると主張していた。
スメドレーはこの主張に対し戦後告訴を試みている。

スメドレーは1930年代に始まった国共内戦と日中戦争の取材を行い、記事をフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥングやマンチェスター・ガーディアン紙などへ投稿した。
中国共産党傘下の八路軍へ密着した取材などで詳細なレポートを表している。
1937年には戦場の第一線の取材を離れ、医薬品の供給や総括記事の執筆などを、1938年から1941年にかけては国民党と共産党双方の上層部の取材を行っている。
このような精力的な活動は中国大陸での戦争を取材する外国人記者としては飛び抜けたものであった。

その後アメリカに戻り、第二次世界大戦及び国共内戦における中国共産党への援助に関する活動に従事している。
この間数冊の著作を執筆した。
印税ほ全て社会のために使い、友人の家に間借りするような質素な生活を送っていた。
戦後1947年になり、東西両陣営の間の冷戦が深まる中で、彼女はスパイの容疑をかけられた。

スメドレーの活動も影響してか、アメリカからの支援が減った国民党軍は敗北し台湾島に遷都し、1949年には国共内戦に勝利した中国共産党によって、中華人民共和国が設立された。
その翌年の1950年に、米下院下院非米活動委員会からスメドレーに召喚状が発せられたが、彼女はその日にロンドンに飛び、その晩急死した。




出典: 「アグネス・スメドレー」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




つまり、上海でアグネス・スメドレーと不倫していたのォ~? それってぇ ヤバいんじゃない!?



いや。。。 僕は、そういう事はなかったと思うのですよ。

でも、誰が尾崎とアグネス・スメドレーが不倫していたと言いふらしたの?

あのねぇ~、1946年2月、アメリカに在住していたスメドレーを石垣綾子が訪ねた時に、スメドレーは石垣から、尾崎が1944年にすでに刑死していると聞かされたのですよ。 その時、スメドレーが「私の夫は亡くなっていたのォ~!?」と絶句したと言うのです。

 


石垣 綾子


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(1903年9月21日 - 1996年11月12日)

石垣綾子は、評論家、社会運動家。
東京生まれ。
自由学園卒業。
1926年米国に渡り、反戦・社会運動に参加する。
のち画家・石垣栄太郎と結婚する。
日中戦争、太平洋戦争中は、日本兵に対する反戦の呼びかけ運動を行う。

1951年にマッカーシズムにより、国外退去となり帰国、1955年「主婦という第二職業論」で「第一次主婦論争」の火蓋を切る。
以後女性問題で活躍した。
その女性論はしかし、裕福な家庭に生まれ優れた能力を持ち理解ある伴侶に恵まれた者のブルジョワ女性解放論でしかなく、むやみと「愛」を強調するばかりだという意見もある。

ほかに、滞米時に交友があった、パール・バックの作品の翻訳、スメドレー伝などがある。




出典: 「石垣綾子」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



尾崎が結婚していることはアグネス・スメドレーは初めて会った頃から知っているのですよ。 だから、スメドレーが尾崎と結婚するはずがないのです。 また、そのような記録もない。



でも、石垣綾子はスメドレーが「私の夫は亡くなっていたのォ~!?」と絶句したのを目撃したのでしょう?

あのねぇ~、スメドレーにとって尾崎は東洋人としては他に得がたい友人であり、また同じ志を抱いていた同志だったはずなのですよ。 それだけに尾崎が刑死したという事を知らされた時のショックは、まさに“自分の夫”が亡くなったような衝撃を受けた。 その気持ちを「私の夫は亡くなっていたのォ~!?」という言葉で表現したのですよ。

つまり、石垣綾子はスメドレーの言葉を文字通りに受け取ってしまったわけねぇ~?

それ以外に考えられないでしょう!




初出: 2013年9月21日



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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。
あなたはどう思いますか?

石垣綾子さんは、スメドレーの言葉を文字通りに受け取って、「上海で二人は結婚していたの!?」とショックを受けたのかもしれませんわ。
もちろん上海で二人が結婚していた事実はありません。
でも、石垣綾子さんにとっては、ショックが大きかったので、そのままの言葉を日本に帰ってからメディアに伝えたのかも知れませんよね。

ところで、ゾルゲ事件について関心のある人は次のビデオ・クリップで詳しく学習することができます。

ゾルゲ事件(講義)



1940年代の上海に興味があったら、ぜひ次のクリップも見てください。

1940年代の上海の風景・生活



1973年の上海風景・生活



デンマンさんのお話によると1991年当時、上海を訪れた時も 1973年当時と さほど変わっていなかったということです。

ところで、シルヴィーさんの事をもっと知りたかったら次の記事を読んでくださいね。





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『犬と人間と戦争』

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とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。


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ィ~ハァ~♪~!

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