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デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

忠臣蔵のウソ

2020-08-08 02:24:39 | 歴史四方山話


 

忠臣蔵のウソ

 


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デンマンさん。。。今日は 忠臣蔵のウソ についてお話になるのでござ~♪~ますか?


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そうです。。。いけませんか?

でも、忠臣蔵に嘘があるなどと言えば、この記事を読んでいる忠臣蔵ファンが嫌がらせのコメントを書くと思うのですわ。。。

そういう事はありません。。。僕の記事に嫌がらせのコメントを書くと、どういうことになるか? 僕の記事を読んでいるネット市民の皆様はよ〜♬〜く理解しているはずです。。。

つまり、デンマンさんの記事に嫌がらせのコメントを書いた あの「現実主義者」と名乗る人物のように足掛け4年にもわたって晒されてしまうということですか?

そうです。。。

 


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『現実主義者 馬鹿の見本』

 



僕はもちろん、真面目で率直なコメントは歓迎しますよ。。。でも、悪ふざけや、嫌がらせのコメントを書いたら、徹底的に晒すつもりです。



でも、こうして 忠臣蔵のウソ を書いたら、それに対して「ウソじゃない!それは真実なのだ!」と信じているネット市民の皆様が、きっと反対意見を書くと思うのですわ。。。

だから、真面目で率直な意見をコメントに書いてくれれば、僕も真面目で率直な反論を書きますよ。。。ただし、あくまでも 真摯な気持ちで書いて欲しいのですよ。。。あの「現実主義者」のように「クソ野郎」とか「アカチンコ」とか、「クソでもチビッてろ!」とか、「オマエの母さんデベソ」だとか。。。、そのたぐいの悪タレを並べて、嫌がらせのコメントを書いたら、それこそ僕はネットで晒しまくります。。。

分かりましたわ。。。で、今日は、どのウソを暴露するのでござ〜まあすかァ?

いや。。。僕が、これから嘘を暴露するというわけじゃないのですよ。。。

でも、タイトルを見たら、デンマンさんが忠臣蔵の嘘を暴露するように思いますわァ〜。。。

いや、僕の他にも忠臣蔵にはウソがあるんじゃないかと考えているネット市民が居るのですよ。。。

マジで。。。?

ちょっと次のリストを見てください。。。

 


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『拡大する』

『蕎麦屋と忠臣蔵』


 



これはライブドアの僕の「徒然ブログ」の日本時間で8月1日の午後5時24分から午後9時21分までのアクセス者の記録です。。。赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しい。。。



あらっ。。。8月1日の午後7時47分に GOOGLE で検索して『蕎麦屋と忠臣蔵』を読んだネット市民がいたのですわねぇ〜。。。

そういうことです。。。実は、福岡市でOLをしている船田沙織(ふなださおり)さんが読んだのです。。。

IPアドレスを調べて沙織さんが読んだことを突き止めたのですか?

そうです。。。

 


(ip124170.png)

 



沙織さんはどのようにして検索したのでござ〜ますか?



次のようにして検索したのです。。。

 


(gog20-08-01.jpg)


『拡大する』

『現時点での検索結果』

『蕎麦屋と忠臣蔵』


 



あらっ。。。蕎麦屋 忠臣蔵 徒然 と入れて検索したのですわねぇ〜。。。



そうです。。。

つまり、沙織さんは忠臣蔵の蕎麦屋の場面に嘘があると疑っていたのですか?

そうなのですよ。。。実は、沙織さんは大学では「江戸の文化と生活」について卒論を書いて、忠臣蔵が実際に起った元禄時代の生活を調べたことがあったのです。。。その時以来、忠臣蔵の映画を観たりすると、蕎麦屋のシーンんがいつも気がかりになったのですよ。。。

そういえば、討ち入りする前の晩に赤穂浪士たちが蕎麦屋の2階に集まるシーンが出てきますわねぇ〜。。。

そうです。。。まだ、その場面を観たことのない人のために『忠臣藏 花の卷・雪の卷』(予告篇) を貼り付けます。。ここでじっくりと観てください。

 



 



あらっ。。。 世界のネット市民の皆様が解るように英語の解説が流れていますわねぇ~。。。



卑弥子さんにも分かりますか?

あたくしは、これでも英語を勉強してきましたわ。 バンクーバーにも出かけて実地に英語会話を身につけましたァ。

だったら、上の予告編を観て蕎麦屋のシーンが出てきたのが分かったでしょう!?

お蕎麦屋さんのシーンがありましたかしら?

あのねぇ~、この上のYouTubeのクリップは、せいぜい5分にも満たない予告編なのですよ。 だから蕎麦屋だと、すぐに判る場面は出てこないのです。 でもねぇ~、よ~く見れば赤穂浪士の47人のメンバーが集まっているシーンが出てくるのですよ。


(sobaya2.jpg)

 



この上の場面がお蕎麦屋さんの2階に赤穂浪士の47人が集まっているシーンでござ~ますか?



その通りですよ。 僕はそのシーンをソフトカメラで撮って貼り付けたのです。

デンマンさんは上の映画をマジで観たのですか?

もちろんですよ。 バンクーバー市立図書館でDVDを借りて観たのですよ。 その証拠にちゃんと観た後でコメントを書き込みました。

 


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『実際のカタログページ』

 



信用できないのならば卑弥子さんも実際のカタログページをクリックして確かめてくださいね。



そのような事はどうでもよろしゅうござ~ますわ。 それよりも、デンマンさんは日本語が解るネット市民の皆様のために日本語まで書き入れたのでござ~ますわねぇ?

いけませんか?

でも、この映画は1962年に作られたのでしょう!? もっと新しい映画があるではござ~ませんか!

あのねぇ~、この映画に出演している俳優さんを見てくださいよ。 これだけの豪華キャストの映画はもう日本では見れませんよう。

あらっ。。。 それほど素晴らしい俳優さんたちが出ているかしらァ~?

やだなあああァ~。。。 もう一度上の予告編を見てくださいよ。 原節子さんも出ているのです。

 


(hara901.jpg)

 



大石 内蔵助(くらのすけ)の妻(りく)を演じているのが原節子さんですよ。



もう、ずいぶんのお年なのでしょう?

あのねぇ~、1962年当時、原さんは42歳の熟女だったのですよ。 残念ながら2015年に95歳で亡くなってしまいました。

。。。で、お蕎麦屋さんの嘘とは、いったいどのようなウソなのでござ〜ますかァ?

あのねぇ~、実は、お蕎麦屋さんの2階に赤穂浪士47人が集まったというのは嘘なのですよ。

ええっ。。。? 赤穂浪士の皆様方は、お蕎麦屋さんの2階に集まったのではないのでござ~ますか? 。。。でも映画では、お蕎麦屋さんの2階に赤穂浪士の面々が集まるシーンがあるのでしょう!?

確かに、そのようなシーンが出てくる。 でもねぇ~、文献を紐解(ひもと)くと赤穂浪士の討ち入りが行われた元禄15年旧暦12月14日(新暦では1703年1月30日)には、赤穂浪士47人が集まれるような2階を持つ蕎麦屋は江戸中を捜してもなかったのですよ。

マジでござ~ますか?

例えば半藤一利さんも次のように書いている。

 


吉良邸討ち入り・そば屋の二階


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本所のそば屋の二階に浪士集結の一席がある。
町人姿あり医者姿あり職人姿あり、三々伍々に集まる面々、ここで揃いの家事装束に身を固める。
すべての打ち合わせをすませ、腹ごしらえの力そばをすすると、刻限もよしと立ち上がる。
御大将の大石内蔵助を先頭に階段を駆けおりる。
トントントントン。
仰天するそば屋の主人、おかみ、お手伝い。
いちばんしんがりの浪士が「おやじ、勘定だ」と小判を主人の前に投げる。
チャリン…… という名場面。
これまた、絵空事とされてしまったのである、ああ。

この場面が嘘っ八の根拠は、いかなる文献をひらこうとも、元禄15年12月には、今日のように堂々たる店構えをもつそば屋が、本所くんだりにはまだ存在していなかったから、ということである。


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なるほど、そばが江戸町民の食べ物となったのは寛文年間で、同4年(1664)にはじめて江戸でそば切りの販売がみとめられ、二八そば(小麦粉とそば粉の混合の割合)とか、けんどんそばという呼称とともに、そば切りが流行していった。
そして元禄のころには、江戸町民のすこぶる好むものとなる。
で、寛文で8文の値が元禄では7文、需要がふえて値を引き下げたことがわかる。 (略) 忠臣蔵の元禄15年当時は俗に夜鷹そば、つまり振り分け屋台のそば屋で、担いでいって町なかで商いをするのがほとんどで、店舗を構えたそば屋なんか寥々たるものであった。
というのが、かけ値なしの事実というわけで、47人もの多勢が二階に集まれる座敷があって、梯子段をトントン、チャリンという具合にはいかないのである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




201-202ページ 『ぶらり日本史散策』
著者: 半藤一利
2010年4月15日 第1刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋


 



でも、デンマンさん。。。 赤穂浪士47人が眠る、あの有名な泉岳寺の近くにはお蕎麦屋さんがあって、ちゃんと「討ち入りそば」を売っていますわよう。

 


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あのねぇ~、赤穂浪士47人が蕎麦を食べたとしてもそれは本所ですよ。 泉岳寺の近くの蕎麦屋じゃない。 つまり、泉岳寺の近くの蕎麦屋さんは『忠臣蔵』ブームに乗って「討ち入りそば」を作って950円で売っているのですよ。 場所も蕎麦も全く違うものですよ。



じゃあ、赤穂浪士の皆様方はどこに集まったのでござ~ますか?

普通の旅籠ですよ。 本所にある大きな2階建ての旅館ということでしょうね。 やはり、大きな店構えの蕎麦屋はなかった。 実際、『真説 赤穂銘々伝』の中には赤穂浪士の一人・杉野十平次が「夜鳴きそば屋」になって情報を集めている話が出てくる。

 


俵星玄蕃との交友

俵星玄蕃(たわらぼしげんば)は、本所松倉町で道場を開いていた。
たいへんな力の持ち主で、槍の穂先で米俵を1俵ずつ突き上げては宙に放り投げるという荒業を持っていた。

このころ、吉良邸の前で毎夜のように店を出す夜鳴きそば屋がいた。


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吉良邸の様子を探るために変装した杉野十平次(じゅうへいじ)である。
俵星玄蕃はよく十平次の夜鳴きそばを食った。
そして、十平次の人柄が気に入った。
ある夜、夜鳴きそばを食べながら玄蕃はこういった。
「この吉良家とまた吉良家の息子殿が養子に入っている米沢の上杉家からおれに仕官の口がかかってきた」

杉野はびっくりした。
なにしろ槍の穂先で米俵を1俵ずつ空中へぶん投げるような荒業の持ち主なのだから、こんな槍の名人がもしも吉良家で雇われて、用心棒になられたらたいへんなことになる。
義士側で相当な犠牲が出る。
そこで十平次は、なんだかだといって結局は俵星玄蕃が吉良家にも上杉家にも仕官しないように仕向けてしまった。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




219ページ 『真説 赤穂銘々伝』
著者: 童門冬二
1999年11月17日 初版第1刷発行
発行所: 株式会社 平凡社


 



つまり、この頃も浮世絵で描かれているような「夜鳴きそば屋」が主流だったのですよ。


(28soba05.jpg)



だから、上の絵に描かれているような「夜鳴きそば屋」になって吉良邸の前で毎夜のように杉野十平次のは店を出したのですよ。



でも、店を構えたお蕎麦屋さんもあったのではござ~ませんか?

確かに、あったのです。 でもねぇ~、浮世絵で見ると小さなものですよ。


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上の絵のどこに、お蕎麦屋さんがあるのでござ~ますか?



よく見ると橋の袂(たもと)に「二八そば」という看板が出ているのですよ。 この絵は歌川広重(安藤広重)の「東海道五十三次」の保土ヶ谷宿の場面です。 この絵が描かれたのが1833年ですからね。

討ち入りが行われたのは1703年ですわよねぇ。。。

そうです。 つまり、広重は討ち入りから 130年後に上の絵を描いたのですよ。 その時でさえ、この蕎麦屋さんは小さな藁葺(わらぶ)き屋根の平屋の店ですからね。 保土ヶ谷と言えば今では横浜の賑(にぎ)やかな場所ですよ。

 


(hodogaya2.jpg)

 



それに上の『忠臣蔵』映画では俵星玄蕃と交友があったのは杉野十平次ではなく堀部安兵衛ということになっている。



だから、俵星玄蕃は杉野十平次と堀部安兵衛の二人と交友があったのですわよ。

違うのですよ。 「ウソ」は、そればかりじゃなくて堀部安兵衛は「呑んべえ安さん」で有名だけれど、実は、安さんは酒呑みではなかった。

つまり、お酒が嫌いだったのでござ~ますか?

そうです。 『真説 赤穂銘々伝』にはそう書いてあります。 高田馬場の有名な敵討ちの日、安さんは酔っ払って寝込み、目が覚めた時にはすでに高田の馬場で菅野が討たれていたというのも真っ赤な嘘だと言うのですよ。

つまり、安さんはお酒を飲んで酔っ払ってはいなかったと。。。?

そうです。 素面(しらふ)だったのですよ。 安さんは菅野と高田馬場へ同行している。 村上側は3人で、安さん側は二人。 戦闘では助太刀であった中津川と言う薙刀(なぎなた)の名人と、村上の弟・三郎右衛門がきたない真似をしようとしたので、「卑怯!」と叫んで、安さんが二人の助太刀を切り倒した。 平和な元禄時代だったので、『忠臣蔵』と同じように、この事件はたちまち有名になってしまった。 

つまり、同様に『忠臣蔵』にも、たくさんの嘘が出てくるのでござ~ますか?

その通りですよ。 こういう事はよくあるのです。 例えば、あの有名な遠山の金さんねぇ。。。

江戸町奉行の遠山金四郎さんでござ~ますか?

そうです。 桜吹雪(さくらふぶき)の刺青(いれずみ)をしているということも、どうやら真っ赤な嘘らしい。 当時の東京地方裁判所の所長のような人がヤクザでもないのに、もろ肌になって「これが見えねえかァ~!」なんて啖呵(たんか)をきるようなことは絶対なかったらしい。

でも。。。

それに、あの水戸黄門さんねぇ~。。。 あの人も諸国を歩き回ることなんて一度もなかったらしい。 今で言えば、セキュリティの問題があるから副将軍である水戸黄門様は諸国を歩き回るようなことは絶対に許されないのですよ。

でも、越後の商人に化けて。。。

あのねぇ~、遠山の金さんにしろ、水戸黄門さんにしろ、そんな風に振るまわさせたのは勧善懲悪を望んでいる庶民が「スーパースター」を求めていたからです。 その気分に便乗して作られた話が『忠臣蔵』、『安さんの高田馬場の決闘』、『桜吹雪の刺青の遠山の金さん』、『水戸黄門様の諸国漫遊』の話なのですよ。


 


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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ〜。。。

あなたも四十七士が蕎麦屋の2階に集まったのは

真っ赤なウソだと思いますか?

ええっ。。。「そんな事は今となっては、どうでもいいのだ! それより、他にもっと面白い話をしろ!」

分かりましたわ。。。では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 



 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


(sayuri5.gif)

 

あなたは ご存知でござ~♪~ますかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


(hand.gif)


メチャ面白い、

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(linger65.gif)

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


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■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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『センスあるランジェリー』



(surfing9.gif)



(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




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(byebye.gif)
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禁断の愛

2020-08-08 02:00:07 | 即興の詩・愛のコラボ
 

禁断の愛

 



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デンマンさん。。。、どないなわけで 禁断の愛 というタイトルにしやはったん?


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ちょっと次のリストを見て欲しいねん。。。

 


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『拡大する』

『禁忌の愛を探して』


 



これはライブドアの わての「徒然ブログ」の日本時間で9月14日の午前4時53分から翌日15日の午前2時20分まで約21時間半の「生ログ」の一部やねん。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しい。。。 



あらっ。。。 わたしの「即興の詩」サイトから あんさんが「徒然ブログ」に投稿しやはった『禁忌の愛を探して』を9月14日の午前4時53分に読みはったネット市民がいたのやねぇ~。。。

そういうことやがなァ~。。。

 


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『拡大する』

『禁忌の愛を探して』


 



。。。で、もしかしてリストの写真の女性が読みはったん?

 


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そういうことやァ~。。。 さいたま市に住んでおる金城真奈美 (きんじょう まなみ)さんが読みはってん。。。



あんさんは、またIPアドレスを調べて真奈美さんがアクセスしたことを突き止めはったん?

そうやァ~。。。

 


(ip138131b.png)

 



。。。で、赤いアンダーラインが引いてあるリファラをクリックすると どのページが出てきよるのォ~?



次のページやがなァ~。。。

 


(mer31028e2.png)


『拡大する』

『実際のページ』


 



あらっ。。。 わたしが2013年10月28日に投稿した『不思議な感じで未来がやってきた』のページですやん。。。



そういうことやがなァ~。。。 最新トラックバックから  禁忌の愛を探して  をクリックして読みはったわけやァ~。。。

。。。で、真奈美さんはさいたま市で何しておるのォ~?

実は、さいたま市緑区にある浦和大学の総合福祉学部で社会福祉士になる勉強をしておるねん。。。

 


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浦和大学で社会福祉士になる勉強をしておる真奈美さんが、どないなわけで『禁忌の愛を探して』を読みはったん?



あのなァ~、真奈美さんは最近「禁忌の愛」の歴史に興味を持ったのやがなァ~。。。

「禁忌の愛」の歴史。。。?

そうやァ~。。。 平安時代や、さらに奈良時代にさかのぼって「禁忌の愛」について調べてみようと思い立ったわけやァ。。。

そいで、『禁忌の愛を探して』を読みはったん?

そないなわけやァ~。。。

記事の中で真奈美さんは興味を満たしてくれるエピソードを見つけやはったん?

見つけたのやがなァ~。。。 めれちゃんも読んでみたらええやん。。。


恬子(やすいこ)内親王の事は書いてある!


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『伊勢物語』の第69段の最後には、「斎宮は水の尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王の妹」と記されているのですよ。この斎宮になった妹は恬子内親王以外には居ないのです。

あらっ!ちゃんと書いてあるのですわね?

レンゲさん、とぼけないでくださいよ。この資料はレンゲさんが持ち出してきたのですよ。

そうだったかしら?

やだなあああぁ~。。。次の記事の中でレンゲさんと対話している時にレンゲさんが持ち出したのですよ。

■ 『年上の女の情念 (2007年1月21日)』

もう1年以上も前の事ですわ。言われて思い出しましたけれど、すっかり忘れていましたわ。

とにかく、上の説明の中で最も重要な事は「藤原道長の時代に公けの場で語られ」たと言う事ですよ。

つまり、今風に言えば、国会、あるいは予算委員会の場で議論されたという事になるのですね?

その通りですよ。公の場で語られるほどに、恬子(やすいこ)内親王が斎宮であった時に子供を身ごもった事実が公然の秘密になっていたと言う事ですよ。単なる御伽噺(おとぎばなし)やうわさを国会や予算委員会で取り上げたら、その国会議員は笑いものになってしまうでしょうね。その事を考えれば、「斎宮懐妊事件」は当時でも知る人ぞ知る「某重大事件」になっていた事が、このような資料から充分に理解できるのですよ。

つまり、デンマンさんは斎宮寮の記録は意図的に抹消された可能性があるとおっしゃるのですか?

そうですよ。だから当時の記録には、在原業平(ありわらのなりひら)が狩の使で伊勢に派遣された事が記載されてないのですよ。

そうでしょうか?

記録が抹消されたにもかかわらず、なぜ恬子(やすいこ)内親王と在原業平の関係が伊勢物語の中で語られているのか?

なぜですの?

語って世に伝えなければならないと考えた人が居たからですよ。

その人とは。。。?




『愛と真実 (2008年2月21日)』より


 




つまり、ラウさんは恬子内親王に興味を持ったのですわねぇ~。。。



そうです。。。


恬子内親王(やすいこないしんのう)


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生まれは848年頃
延喜13年6月18日(西暦913年7月24日)に亡くなる。
第31代伊勢斎宮。
父は文徳天皇、
母は更衣・紀静子。
同母兄に惟喬親王がいる。

貞観元年(859年)、清和天皇の即位にともなって斎宮に卜定
貞観3年(861年)に伊勢に下る。

『三代実録』によると、発遣の儀は天皇自身ではなく、
右大臣の藤原良相が代理であたったという


貞観8年(866年)2月、母親の静子更衣が亡くなるも退下の宣勅は下りず
貞観18年(876年)、清和天皇が陽成天皇に譲位したことにより、ようやく斎宮を退下。

翌元慶元年(877年)4月、妹・珍子内親王を亡くす
恬子内親王本人は比較的長命だったらしく、その後、陽成天皇以下三代の天皇が交代し、醍醐天皇の治世まで生きた。

古典『伊勢物語』において、一説には書名の由来ともされる人物。




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




「卜定(ぼくじょう)」と言うのは、亀の甲羅(こうら)を火であぶって、ヒビ割れのしかたを見て占うものです。これによって誰を斎宮にするか選んだ。



この卜定に何か問題があるのですか?

全く無いとは言えないのですよう。

どう言うことですか?

右大臣の藤原良相(よしみ)は、早くから恬子内親王を“危険人物”だと見ていたようです。

“危険人物”って、どう言うことですかァ~?

この藤原良相の経歴を読むと分かりますよ。


藤原良相(よしみ)

弘仁4年(813年)に生まれる。
貞観9年10月10日(西暦867年11月9日)に亡くなる。
父は藤原冬嗣、母は藤原美都子。
兄弟に長良、良房らがある。
号は西三条大臣。

834年(承和元年)に蔵人になる。
承和の変に際して近衛兵を率いて兵仗を収める。
848年(嘉祥元年)に参議、右大弁などを経て、851年(仁寿元年)従三位中納言となり、857年(天安元年)右大臣となる。

清和天皇に娘の多美子を入内させ、また周囲からの人望も厚かったことから、政権の首座にあった兄良房からは常に警戒される存在であった
866年(貞観8年)の応天門の変に際し、伴善男(とものよしお)の告発を受け一旦は左大臣源信(みなもとのまこと)の逮捕命令を下すが、信の無実を訴えた良房によってこれを阻止され、以降は影響力を失った。
翌867年(貞観9年)に死去。贈正一位。

今昔物語集に収録された説話の中では、一旦病を得て死去し地獄で閻魔大王の目前に引き据えらるが、小野篁(おののたかむら)の執り成しによって赦され冥界から帰還した、と記されている。




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




藤原良相は自分の娘を清和天皇に差し出したのですよ。つまり、娘が天皇の子供を身ごもって男の子が生まれれば、自分は外祖父として権力が握れる。そう言う考えを持っていた。だから、時の権力者だった兄の藤原良房からは常に警戒される存在だったのですよ。



でも、その事と恬子内親王と、どのような関係があるのですか?

やだなあああぁ~。。。惚(とぼ)けないでくださいよ。知能指数が140もあるレンゲさんに分からないはずが無いでしょう?藤原良相の目から見れば恬子内親王は自分の娘のライバルですよ。

つまり、藤原良相は自分の娘を天皇に嫁がせるために、できるだけ候補者を少なくしようとしたと。。。

そうですよ。そのためには美しくて聡明で将来娘のライバルとなるような娘は都から遠ざけるに限るのですよ。それで、藤原良相は恬子内親王を斎宮として伊勢へ閉じ込めてしまったのですよ。。。上の経歴を読むと、そう考えるのがごく自然ですよ。

それはデンマンさんの個人的な見解だと思いますわ。

分かりました。では、僕の個人的な見解ではない事を語りましょう。

どう言う事ですか?

上の経歴を読むと不自然な事が書いてあるのですよ。

不自然な事ですか?

そうですよ。

貞観8年(866年)2月、

母親の静子更衣が亡くなるも

退下の宣勅は下りず


慣例では、母親が亡くなった場合には斎宮は勤めを辞める事ができたのですよ。それが慣(なら)わしだった。実際の例を次に書きますよ。


徽子女王(よしこじょおう)

延長7年(929年)に誕生。
寛和元年(985年)に亡くなる。
歌人。醍醐天皇皇孫。

承平6年(936年)、時の斎宮斉子内親王(醍醐天皇皇女)の急逝により、8歳で伊勢斎宮に選ばれる。
天慶元年(938年)、10歳で伊勢へ下向。
この時の発遣の儀(出発前の儀式)は朱雀天皇が物忌中のため、外祖父の摂政忠平が執り行い、また群行には長奉送使(斎宮を伊勢まで送り届ける勅使)として伯父の中納言藤原師輔が同行した。
天慶8年(945年)、母の死により17歳で退下、帰京。

天暦2年(948年)、叔父村上天皇に請われて20歳で入内し、同3年(949年)女御の宣旨を受ける。
局を承香殿としたことから承香殿女御、また父重明親王の肩書から式部卿の女御などと称されたが、前斎宮であった故の「斎宮女御」の通称が最もよく知られている。




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




天皇の娘ならば“内親王”と呼ばれるのだけれど、この女性は醍醐天皇の娘ではなく孫娘だった。それで女王と呼ばれているのです。この女性の経歴を見れば分かるように「母の死により17歳で退下」と書いてあります。これが慣(なら)わしだったのですよ。



なぜ、恬子内親王はお母さんが亡くなったのに斎宮を辞める事ができなかったのですか?

だから、藤原良相が辞めさせなかったのですよ。

なぜ。。。?

徽子女王の経歴を見てくださいよ。お母さんが亡くなったので17歳で斎宮を辞めて京に戻ったのですよ。すると、叔父の村上天皇に請われて20才で入内した、と書いてある。つまり、村上天皇の妻の一人になったのですよ。

お母さんが亡くなった時、恬子内親王は18才ですよね?。。。と言う事は、恬子内親王が斎宮を辞めた場合、天皇が内親王を妻の一人として招くかもしれない。藤原良相は、その事を心配して恬子内親王を斎宮のままにしておいたのですか?

その通りですよ。とにかく藤原氏以外の女性に天皇が子を産ませる事を藤原氏は極力避けていたのですよ。恬子内親王は紀氏出身ですからね。

つまり、紀氏は藤原氏のライバルだったのですか?

そうですよ。この当時、紀氏の中から優秀な人が出始めていたのですよ。

紀氏を退けようとする動きが実際にあったのですか?

あったのですよ。「応天門の変」と言う政治事件があったのですよ。


応天門の変


(rashomon6.gif)

応天門の変(おうてんもんのへん)は、平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件である。

大納言・伴善男(とものよしお)は左大臣・源信(みなもとのまこと)と不仲であった。
源信を失脚させて空席になった左大臣に右大臣の藤原良相がなり、自らは右大臣になることを望んでいたともされる。

応天門が放火され、大納言・伴善男は左大臣源信の犯行であると告発したが、太政大臣・藤原良房の進言で無罪となった。
その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。
これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。
藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされている。

藤原良相は源信の逮捕を命じて兵を出し、邸を包囲する。放火の罪を着せられた左大臣・源信家の人々は絶望して大いに嘆き悲しんだ。

参議・藤原基経(もとつね)がこれを父の太政大臣・藤原良房に告げると、驚いた良房は清和天皇に奏上して源信を弁護した。
源信は無実となり、邸を包囲していた兵は引き上げた。

朝廷は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪して死罪、罪一等を許されて流罪と決した。
伴善男は伊豆国、伴中庸は隠岐国、紀豊城は安房国、伴秋実は壱岐国、伴清縄は佐渡国に流され、連座した紀夏井らが処分された。
また、この処分から程無く源信・藤原良相の左右両大臣が急死したために藤原良房が朝廷の全権を把握する事になった。

この事件の処理に当たった藤原良房は、伴氏・紀氏の有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり藤原氏の勢力を拡大することに成功した。




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




この事件は結局、藤原良房に“漁夫の利”をもたらす事になったのですよ。伴氏・紀氏ばかりか、ライバルの藤原良相を退(しりぞ)ける事もできた。また、そうなるように藤原基経(もとつね)が裏で動いていたのが見えてきますよ。結果として藤原良房は、伴氏・紀氏の有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり藤原氏の勢力を拡大することに成功したのですよ。



『伊勢物語』の中に登場する藤原高子(たかいこ)の兄がこの藤原基経ですか?

そうですよ。在原業平と藤原高子が駆け落ちするのですよ。その妹を連れ戻しに来るのが兄であるこの藤原基経ですよ。つまり、この基経は政略・陰謀に長(た)けていて裏で動き回るだけでなく、恋路(こいじ)の邪魔をする男としても伊勢物語の中に書かれてしまっているのですよ。

でも、この「応天門の変」と恬子内親王は関係があるのですか?

なさそうに見えるでしょう?。。。ところが、関係があるのですよ。この事件に連座して処分を受けた紀夏井(きのなつい)を調べると次のような事が分かるのですよ。


紀夏井(きのなつい)

生没年未詳。
天安2年(858年)に讃岐守、貞観7年(865年)には肥後守に任じ、いずれの任国においても善政を施し領民に慕われた。
その一方、能書家しても名高く、特に楷書の分野においては聖とまで言われるほどの才能を発揮した。
さらに囲碁の分野でも名人として名を馳せるなど、多様な才能を持つ能吏として、中央においても徐々にその名を浸透させていった。

862年(貞観4)、任期満了の処、讃岐国百姓等の懇望により讃岐守を2年延任。
865年(貞観7)1月27日、肥後守に任官。
866年(貞観8)9月22日、応天門の変の罪人との血縁から連座の適用を受け土佐国へ配流となる。
異母弟の紀豊城(きのとよき)が首謀者の一人として逮捕される。
夏井もこれに連座し、官職を解かれて土佐国に配流となった。
その後の詳細は分かっていないが、配所で没したと言われている。

土佐国へ護送中、肥後国百姓等は肥後国外への移送を拒もうとしたり、讃岐国百姓等は讃岐国内から土佐国の境まで付き随い別れを惜しんだという。


【逸話】

紀夏井が讃岐守の任期を終えて二十余年後に、菅原道真が讃岐守として赴任するが、讃岐国の百姓は紀夏井の善政を忘却していなかったため、道真は紀夏井と比較され国政運営で難渋したという。


中央・地方を問わず人望のあった彼の失脚は、武内宿禰(たけのうちのすくね)以来の名家である紀氏(きし)の政界における没落を決定的なものとした。
この事件の後、同氏は宗教界や歌壇において活躍する氏族となっていく。




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




どのように読んでも、この紀夏井と言う人物は素晴しい人なんですよね。この人は事件とは全く関係ないのですよ。でも、異母弟の紀豊城(きのとよき)が首謀者の一人として逮捕されたために、血のつながりがあると言うだけで逮捕されてしまった。つまり、有能な人物を退けるための口実ですよ。紀夏井が凡人でアホだったら逮捕される事は無かったでしょう。



そうでしょうか?いくらなんでも、藤原氏がそれ程ひどい事はしないと思いますが。。。

現代人にはそう思えるかもしれないけれど、この当時は、そうすることがむしろ常識だったのですよ。

でも、人には良心があるでしょう?

その当時の良心とは、家系を守ると言うことに尽きたのですよ。なにしろ藤原氏にはバイブルが伝わっていますからね。

なんですの?。。。そのバイブルって。。。?

ここで書くと長くなるので次のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


(machiavelli.jpg)

■ 『あなたもビックリ、マキアベリもビックリの藤原氏のバイブルとは。。。?』



でも、これほど酷(ひど)いのでしょうか?



それが、この当時の藤原氏の常識ですよ。だからこそ、上のような事件が起きるのですよ。陰謀が渦を巻いている。その渦の中心に藤原基経がいた。。。。で、漁夫の利を得るのが父親の藤原良房ですよ。僕はこのように見ているのですよ。

紀夏井と言う人は、確かに素晴しい人だったようですよね。でも、同じ紀氏出身と言えども恬子内親王は皇族ですよね。内親王の身の回りでは、そのような理不尽な処分を受けた人は居ないのでしょう?

それが居るのですよ。

誰ですか?

恬子内親王の妹に、上の経歴の中にも書いてあるけれど、珍子(よしこ)内親王という女性が居るのですよ。この女性は恬子内親王が29才の時に無品で亡くなっているのですよ。

無品ってどう言う事ですか?

つまり、官位を与えてもらえなかったのですよ。

それって重要なものですか?

重要なものだったのですよ。今だって“あの人は品の無い人だ”という言い方があるでしょう? レンゲさんだって“品の無い女だ!”なんて言われたくないでしょう?

もちろんですわ。

この“品”と言うのは官位の“品”から派生したのですよ。あの聖徳太子が制定したと言う官位ですよ。平安時代になると臣下の場合には正一位とか従五位のように呼ばれたものなのですよ。でも、皇族の場合には一品(いっぽん)、二品(にほん)、三品(さんぽん)、四品(しほん)と呼ばれた。

それで、品が無いままで亡くなるのは異常な事ですの?

かなり異常ですよ。ちょっと、次の事件を読んでみてください。


神護景雲3(769)年5月の巫蠱(ふこ)事件


(dokuro3.gif)

 

この事件では、県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)らが不破内親王(ふわないしんのう)のもとで氷上志計志麻呂(ひかみのしけしまろ)を皇位に就けようとする巫蠱厭魅(ふこえんみ)を行った。
称徳女帝(かつての阿部内親王)の髪を盗んできて、佐保川の髑髏(ドクロ)に入れて呪詛(じゅそ)するという、おぞましいものだった。

この事件のあと、不破内親王は「厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)」と名前を改めさせられて京外に追放された。
つまり、“台所で働く下女”という名前に変えさせられたと言うわけです。

姉妹喧嘩も、ここまでやると滑稽になってきますよね。
不破内親王に対する永年の冷遇は、このような事件が原因だと言われています。

実際、史実を見てみると、不破内親王が初めて官位を授かるのが、天平宝字7(763)年です。
実に41才の時で、親王位としては最低の四品です。

ちなみに、同腹の姉の井上内親王は天平19(747)年、31才の時に二品を授かっています。
待遇の違いが歴然としています。





『愛と憎しみの原点?(2006年6月9日)』より




不破内親王というのはあの有名な道鏡と肉体関係を持ったのではないか?と疑われている称徳女帝の腹違いの妹です。この妹が姉を逆恨みして起こした事件と言うのが真相のようです。しかし、この不破内親王は“台所で働く下女”と言う汚名まで着せられたのに、41才の時に親王位としては最低の四品をもらっているのです。



でも、恬子内親王の妹の珍子(よしこ)内親王はもらってないのですか?

何も悪い事をしていなかったのに、母親が紀氏出身だったのでもらえなかったのですよ。文字通り“品が無い女”として死んでいったのですよ。

でも、死後に追贈する事ができるでしょう?

担当の者が追贈すると、時の権力者に睨まれてしまうから、珍子(よしこ)内親王に四品を追贈したくてもできなかったのでしょうね。応天門の変では、何の罪も無い紀夏井までが、ただ紀氏の血縁だったと言うだけで官職を解かれて刑罰に服したのですからね。。。

つまり、紀氏に同情する者や組する者は徹底的に排除されたのですね?

そうですよ。紀氏の中には珍子(よしこ)内親王や紀夏井を含めて、恨みを呑んで死んでいった者がたくさん居るのですよ。

つまり、そのような人たちが怨霊になって祟(たた)りを引き起こすと思われたのですね?


怨霊信仰


(majo.gif)

 

非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、
これを融和してその崇りを免れ安穏を確保しようとする信仰。

原始的な信仰では死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀(まつ)られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。

『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる。

しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになる。

その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名については異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真)を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」




SOURCE: 国史大辞典




その通りですよ。だから、怨みをのんで死んだ者の霊をその子孫が祀って御霊(みたま)を鎮(しず)めてあげなければならないのですよ。



つまり。。。つまり。。。そのようにして紀氏の怨霊の御霊(みたま)を鎮(しず)めた人が『伊勢物語』を編集したとデンマンさんはおっしゃるのですか?

そうですよ。『伊勢物語』には紀氏との関わりの多い人物が多く登場していますよ。在原業平(ありわらのなりひら)は紀有常(実名で登場)の娘を妻としています。その有常の父・紀名虎の娘(紀静子)が惟喬親王と恬子内親王と珍子(よしこ)内親王を産んでいます。作中での彼らは古記録から考えられる以上に零落した境遇が強調されているのですよ。

なぜですか?

つまり、藤原氏との政争に敗れた事を強調しているのですよ。それにもかかわらず、優美であったという紀氏の有り様を美しく描いているのです。それが『伊勢物語』ですよ。

つまり、編者は紀氏の一員なのですね?

そうです。 紀氏の子孫が怨みをのんで死んだ一族の霊を祀ったのが『伊勢物語』だと僕は考えているのですよ。 ここまで言えば、その編者が誰だかレンゲさんにも分かるでしょう?

もしかして。。。もしかして。。。紀氏の一員で有名な人と言えば。。。あのォ~。。。紀貫之(きのつらゆき)ですか?

さすが、レンゲさんですねぇ~。。。僕もそのつもりで話を進めてきたのです。

。。。で、香港の劉嘉玲(ラウ・ガーリン)さんも この話を読んで感銘を受けたのですか?

そうです。。。 恬子(やすいこ)内親王は時代を間違えて生まれてきてしまったのです。。。 でも、すでに没落貴族になりつつある紀氏の一員だというにもかかわらず、自分の考えに忠実に生きたのですよ。。。

つまり、愛に生きたのですわねぇ~。。。

そうです。。。 それでラウさんも、恬子(やすいこ)内親王について知れば知るほど涙なしには読めないと。。。

マジで。。。?

信じてください。。。 ラウさん本人がそう言っていたのだから。。。




『禁忌の愛を探して』より
(2017年5月11日)




この上の詩を読んで真奈美さんは平安時代の「禁忌の愛」がどのようなものだったのか? そして、「禁忌の愛」が芽生えた時代的な背景が理解できたと言うねん。。。



ホンマかいなァ~。。。? そいで真奈美さんは、どないに思いはったん?

つまり、恬子(やすいこ)内親王は、権力闘争のコマの一つとして自分の人生を無為にされるのに抵抗しやはった、と言うねん。。。 要するに、恬子内親王は自分の人生を自分の手に取り戻したのやがなァ~。。。 “人生は愛することやァ”と、恬子内親王は、そう信じたのやァ~。。。

あんさんが、そう思うたわけやのォ~? 

ちゃうねん。。。 真奈美さんが、そう言うのやから間違いあらへん。。。

つまり、真奈美さんは、あんさんにメールで感想を伝えやはったん?

そういうことやがなァ~。。。

ちょっと信じられへん。。。 

そればかりやあらへん。。。 真奈美さんは、めれちゃんの「禁忌の愛」も見つけたのやでぇ~。。。

ホンマかいなァ~。。。

真奈美さんは めれちゃんの次の短歌を見つけたのやがなァ~。。。



 

くちづけ

 


(kiss003.gif)

 

罪深き

ことと知りつつ

この夜も

きみのくちづけ

もとめて止まぬ


 


(merange52.jpg)

 

by めれんげ

2009.01.14 Wednesday 14:21




『即興の詩 冬枯れ』より
(デンマン注: このサイトはめれんげさんが
閉鎖したので現在アクセス不可)


『めれんげさんと六条の御息所』に掲載
(2010年2月12日)




あらっ。。。 2010年の記事まで探して読みはったん? ちょっと信じられへんわァ~。。。



真奈美さんは、めれちゃんの愛の詩と短歌に どうしようもなく惹かれたのやがなァ~。。。

ホンマかいなァ~。。。?

あのなァ~、真奈美さんが、めれちゃんのブログで『不思議な感じで未来がやってきた』を読みはったのは、そもそも次のように検索した結果を見たからなんやでぇ~。。。

 


(gog90627a.png)


『拡大する』

『現時点での検索結果』


 



愛のコラボ デンマン めれんげ」 を入れて検索すると、こないに 4,730件もヒットするねんでぇ~。。。



そいで真奈美さんが どないに思いはったん。。。?

そやから、愛のコラボというのは、めれちゃんがきみのくちづけもとめて止まぬ人とコラボするようになったということや、と思いはったわけやァ~。。。

わたしがきみのくちづけもとめて止まぬ 相手が あんさんやと。。。 つまり、デンマンさんやと言いたいわけやのォ~?

そういうこっちゃがなァ~。。。 真奈美さんも、そないに思うたわけやんかァ~。。。

そないなこと、信じられますかいなァ~。。。

あのなァ~、昔の人は “信じる者は救われる!” と言うたのやでぇ~。。。 そやから、めれちゃんも素直にわての言葉を信じて、救われたらええやん。。。



(laugh16.gif)


【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。

あなたは、めれんげさんとデンマンさんの「愛のコラボ」が素晴しいことだと思いますかァ~?

ええっ。。。 「そんなことはどうでもいいから、何か もっとお面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で、あたくしにご命令なさるのでござ~ますかァ?

分かりましたわ。。。

あなたは、結婚にやぶれたかもしれません。

でも、そんなに落ち込むことはないのですわよう。。。

なぜなら、あの有名なアインシュタインは次のように言ったのでござ~ますわァ。


結婚とは、ひとつの偶然から

永続的なものを作りだそうという、

成功するはずのない試みだ。



(einstein2.jpg)

---アルバート・アインシュタイン


分かるでしょう!

結婚は永続しないものでござ~♪~ますわァ。

だから、今晩も、近くの居酒屋によって一人でお酒を飲めば いいのでござ~ますわァ。

 

ええっ。。。? 「そのような、慰めはいいから、気晴らしに、もっと面白い話をしろ!」

あなたは、更に、あたくしにご命令なさるのでござ~♪~ますか?

分かりましたわァ。。。 では、ちょっと次の検索結果を見てくださいまし。。。

 


(gog60409a.png)

『拡大する』

『現時点での検索結果』

 

「卑弥子 ヴィーナスのえくぼ」と入れてGOOGLEで検索する殿方が多いのでござ~ますわァ。

つまり、あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”を目当てにやって来るのですわよう。

うふふふふふふ。。。

あなたも、ビックリするでしょう?

ジムに毎日通って“ヴィーナスのえくぼ”をゲットしたのですわァ。

 


(buttdimp5.jpg)

 

どうでござ~ますかァ?

ええっ。。。 あたくしのお尻だとは思えないのでござ~ますかァ~?

どうしてよう?

ええっ。。。 スタイルがよすぎると、おっしゃるのござ~ますかァ~?

あたくしが十二単を一枚、一枚脱いでゆくと、

最後には上のようなおヌードになるのですわよう。

信じてくださいましなァ~。。。

ところで、話は変わりますけれど、

かつて、レンゲさんの親友の めれんげさんは 一生懸命にブログを更新していたのでした。

でも、時には、他のことに夢中になって、会費を滞納したことがあったのでござ~ますわァ。。。

そのために、サイトを削除されてしまったのです。

それでも、2013年の6月にライブドアで『即興の詩』サイトを再開しました。

めれんげさんの『即興の詩』サイト

再開して間もないのに 検索結果 3,960,000件中の 9位に躍り出るなんてすごいですよねぇ~。。。


(gog30703.gif)

『現時点での検索結果』

現在、めれんげさんは お休みしています。

でも、これからも、ブログを通して「愛のコラボ」を続けて欲しいですよねぇ~。。。

かつて めれんげさんの「即興の詩をはじめました!」の『極私的詩集』サイトは 次の検索結果で見るようにトップを占めていたのです。


(gog30928a.png)

また、ブログを更新して トップに返り咲いて欲しいものです。

ところで あなたは「どうしたら、上位に掲載されるのォ~?」と考えているかもしれません。

その秘訣を知りたかったらデンマンさんが面白い記事を書いていますわ。

次のリンクをクリックして読んでみてください。


(seo001.png)

『おばさんの下着に見るSEO』

話は変わりますけれど、めれんげさんは可愛い猫を飼っています。

あなたも、猫ちゃんを飼っていますか?

ええっ。。。 ワンワンちゃんを飼っているのですか?

そういえばデンマンさんが『ワンワンちゃん』という面白い記事を書いていました。

気が向いたら下のリンクをクリックして読んでみてください。


(dog202.jpg)

『ワンワンちゃん』

とにかく、次回も興味深い話題が続きます。

あなたもどうか、また読みに戻ってきてくださいね。

では、また。。。


(hand.gif)



(surfing9.gif)

メチャ面白い、

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(linger49.gif)


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(june06.jpg)

こんにちはジューンです。

バンクーバーでは例年に無い暑さを記録しました。

1960年7月30日に記録した33.3度を破って

今年の7月30日に 33.8度を記録したのです。

でも、日本の暑さと比べれば

たいしたことはありませんよね。


Hottest Day Ever Recorded

in Vancouver


Source: The Canadian Press
Posted: 07/30/09 8:09AM
VANCOUVER, B.C.


(june08c.jpg)

The city of Vancouver has registered its hottest day on record.

Environment Canada says a temperature of 33.8 C was recorded at Vancouver airport on Wednesday, shattering the previous high of 33.3 C that was set in 1960.

"A very strong ridge of high pressure is currently dominating all of B.C.," said Gary Dickinson, a meteorologist with Environment Canada.

"The ridge of high pressure also brought up from the south very warm air, which was responsible for the record-breaking temperatures."


ところで、今日は8月7日ですけれど、

最高気温は18度でした。

夏というよりも、もう秋という感じです。

わずか1週間しか経っていないのですが

変われば変わるものです。

あなたの地方では、いかがですか?

まだまだ暑さが続いているのでしょう?


(valent1.gif)

話は変わりますが、

デンマンさんがレンゲさんの記事を集めて

一つにまとめました。

もし、レンゲさんの記事をまとめて読みたいならば、

次のリンクをクリックしてくださいね。

■ 『最近のレンゲ物語 特集』


(wildrose.jpg)

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。



(bikini84b.jpg)


(kissx.gif)

コメント
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