逝く者と残る者(PART 1)

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デンマンさん、お元気ですか?
先月末(4月29日)、久しぶりで芳江さん(注:デンマンの母親)を訪ねてきました。
暮に伺った時「春の彼岸頃また来るから」といって…。
数えたら5ヶ月も経っているのですね。
この冬は例年になく寒く私も含めて高齢者に近づいた人には厳しかった。
芳江さんも大変だったのではと行く前に心配が大きく
電話をして様子を確かめたところ張りのある声が聞こえてきました。
会うと顔色も非常によく案じていたよりは、はるかに健康的で、私の方が薬負けしているせいか、ずっと病的だなあと思いました。
4次元の会話もほとんどなく、しっかりと的を得ていました。
(泥棒の話がひとつだけ出てきましたが。。。)
あと半年したらデンマンさんが帰ってくるからと、もう楽しみにしている状態です。
私はこの日も「芳江さん、りっぱだね」と長寿のことを誉めましたが必要以上に誉めそやすと油断するのが怖いので楽な気持ちで今まで通り気張って欲しいと勇気付けてきました。
人は皆 死に行く道を歩んでゆくわけですが、私は最近すんなりと逝ければいいなあと願うようになっています。
デンマンさんの誕生日のすぐあとに私の誕生日で、この好きな桜の季節にまた年を重ねました。

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隠遁生活者の僻(ひが)みでしょうか?
小さいながらも事業を起こし、それが失敗したことが今でもストレスとなって追いかけてきます。
この僻み根性が顔に出ないうちに喘息という病症から抜け出たい。
デンマンさん想像してみてください。
例えば口を塞がれて鼻が詰まりながらも、かすかに息ができる。
こんな状態が続くと、もう肩で呼吸し体で息が苦しいと叫んでいます。
通常薬で抑えていますが薬は麻薬であって切れると前記のような禁断症状となります。
薬を離そうと何度も試みるのですが繰り返すばかりです。
ある程度健康に関する本は読んでいるので今更どうの、こうのということもないので、この喘息とじっくり向き合っていくより方法はないと近頃へこんでいます。
「健康は人が与えるものでなく 自分で創るもの」
中学校3年間を担任だった理系の先生が後日結核になり見舞った時の言葉を思い出します。
デンマンさんが偉いなあという点はたくさんありますが、そのひとつには健康であるということ。
その健康であるという裏打ちとは、格好をつけて言えば倫理を踏まえた自立かなあと。。。
私にはすべてにそれが欠けていた。
私の年齢では遅しですが、今から出発しようと思います。
実家の両親や芳江さんのように90歳の声は望んではいませんが念じることがとおるなら あと20年は生きたいと思います。
そして指折れば3つばかり成就したいものがあります。
今、そのひとつに挑戦しています。
明日は子供の日で休日です。
佐保姫さまの到来なくして若葉になり 冷暖房の要らない過ごしやすい時期にやっとなりました。
台湾の歌手テレサテンさんのようにならないよう私も気張って生きます。
では、お体に気をつけて。。。

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九条多佳子
2012年5月4日
『テレサテンと叔母』より
(2012年5月11日)

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デンマンさん。。。 どういうわけで4年も前の手紙を持ち出してきたのですか?

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しばらくぶりで忘れかけている手紙を読むのも懐かしいでしょう?
上の手紙は実際に私が書いたものですか?
そうですよ。。。 僕が創作したものではありません。。。 マジで多佳子さんが2012年5月に書いた手紙ですよ。。。
どうして4年前の上の手紙を貼り出したのですか?
この記事を読む人に、多佳子さんを紹介するつもりで貼り出したのです。。。
でも、どういうわけで私を紹介する気になったのですか?
あのねぇ~、実は、土曜日の11月5日に多佳子さんの家を訪ねて、久しぶりに映画音楽を一緒に聞いて盛り上がったでしょう!

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つまり、懐かしいサウンドトラックを聴いて盛り上がったので、その事を言うために わざわざこの記事を書こうと決めたのですか?

いや。。。、1年ぶりに多佳子さんに会って久しぶりに盛り上がったのは、この記事のクスグリのようなものですよ。。。(微笑) それから多佳子さんが作ってくれたエビフライを食べながら、尽きるともない話の途中で、『夢遊伝』という短編小説の原稿を見せてくれたでしょう。。。
自分の作品は人様には見せないのですけれど、ついつい話の流れで取り出してしまったのですわ。。。
実は、その短編小説を僕は何度も読んだのです。。。 ここにその作品全部を書き出したいのは やまやまなのだけれど、ネットで公開すると、多佳子さんが作品を発表する時の妨げになると思ったので、僕はあえてここでは公開したくない。。。
つまり、この記事で私が書いた小作品の批評をするつもりなのですか?
批評と言うほどの大げさなものじゃありません。。。 ただ、多佳子さんの作品を読んで、僕はインスピレーションをもらったのですよ。。。 そして書いたのが次の小文です。。。 ちょっと読んでみてください。
逝く者と残る者

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逝く者は残る者に何を残してくれるというのだろうか?
百歳にあと数歩、母は寿命をまっとうしてあの世へ逝った。
一人残された私は抜け殻同然になった。
脱皮する生き物は身も殻も輝いて美しいが、私には跡形すらもない。
正気を失った顔は垢まみれで人相まで変わってしまった。
延び放題の無精ヒゲがよけいに哀れだ。
母は自由奔放に生きてきた女だ。
私が物心ついた頃には、すでに何人かの男と暮らしてきていた。
新進気鋭の画家としてマスコミにも注目され、美術界にも相当な影響を与えてもいた。
しかし、当時、私が父と思い込んでいた人物は私の実父ではなかった。
もちろん、私はその人物を実父だと信じていたのだけれど中学生になった頃に、ふとしたことで母の女友達から実父の存在を知らされた。
その人物は酒びたりで廃人のようになっており、私には到底彼を実父だと認める心のゆとりなど持ち合わせてはいなかった。
私は、その秘密を封印して心の奥底に仕舞い込んだのだ。
養父は母を師と仰ぎ、また母を愛した年下の画家だった。
私には実父以上に父のごとく接してくれ、むしろ母以上に私に愛情を注いでくれた人だった。
しかし自由奔放で我儘な母にとって、養父はやがて物足りない人物に見え始めたに違いない。
母は別の男を愛人に持つようになった。
それからの波乱に富んだ母の長い歳月は、ここに書き出すこともないだろう。
それは私にとって不快で不幸な記憶でしかなかった。
社会人になった私は母とは一貫して距離を置いた。
出生に問題を持った私は母を誹り、実父を呪い、養父に感謝しながらも、心のどこかで自分を責めた。
母の死をきっかけに一人残された私は会社を辞め四国巡礼の旅に出た。

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■『拡大する』
弘法大師ゆかりの88か所の寺院を訪ね歩く旅は、私の心に不思議な平穏をもたらすかのように思えた。
ところが、45番札所の岩屋寺に向かう時に私は不思議な体験を持った。
標高700m。奇峰が天を突き、巨岩の中腹に埋め込まれるように堂宇がたたずむ典型的な山岳霊場である。
神仙境を想わせる境内は、昔から修験者が修行の場としていたようで、さまざまな伝承が残されている。
中腹で私は粗末な僧衣をまとう老人に出くわした。

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手には南天竹の瘤杖を持っている。
杖で地面を突っつきながら私を見て言った。
「供人になれ」
だみ声である。
怪訝な様子でたじろいでいる私にさらに脅威のだみ声が響いた。
「ついて来い」
老人の後を追った。
深い森に入ると常緑樹で日差しは遮られ薄暗い。
私は急ぐことも走ることも不慣れだが、仕方なく疾走する老人の背を見ながら転がるようにあとから続いた。
やがて老人は言った。
「儂は、ここからは行けぬ」
遠くに連なる峰を杖で指して続けた。
「あの頂に御堂がある。
その裏手の坂道を下ると一間四方の鏡がある。
それは己のすべてを映す鏡だ。
特と見るがよい」
私は老人に言われたとおりに御堂に参拝し裏手の坂道を下った。
やがて、ひっそりとした池に出た。
老人の言う鏡とは、この池であり、私を映すのも、この池に違いない。
私は深く透き通った池の水面を見つめた。
その水面に突如老人が出現した。
そして次のように言った。
「生きよ。力強く、強く生きよ」
やがて老人は影もなく消えた。
再び淵に身を乗り出す。
そこには老人よりも更に老いた私がいた。
驚愕のあまり、後ろに退くと尻餅をつき、反射的に手にした石を水面に投げた。
さざ波が輪を広げ、やがて静寂があたりを覆った。

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しかし、私の心は平穏ではなかった。
涙があふれてきた。
私の人生、母の人生、過ぎ去った日々のことが、走馬灯のように私の脳裏を横切ってゆく。
私は夢の中を長い間彷徨していたにすぎないのだろうか?
秘匿した遺骨を母の故郷に納骨したのは、没後13年になろうとする秋だった。

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By デンマン

あらっ。。。 私が書いた『夢遊伝』とは似ているようで、核心の所がだいぶ違ってますわねぇ~。。。

そうです。
でも、どうして上の小文を私に読ませるのォ~?
僕が多佳子さんの作品を批評すると、多佳子さんは表面上はともかく、心の奥でムカつくと思うのですよ。。。
それは、デンマンさんの独断と偏見ですわ。。。 私は批評する方の意見をありがたく受け止めるだけの心のゆとりを持っているつもりです。
そうですか? とにかく、僕は多佳子さんの気持ちを逆なでしたくないので、批評のつもりで上の小文を書いてみたのです。
結局、デンマンさんは何が言いたいのですか?
だから、上の小文を読んでもらえば、聡明で文学の素養がある多佳子さんならば、僕が言おうとしていることを察することができると思うのですよ。
できませんわ。。。 回りくどいことは言わないで細木数子さんのようにズバリ!と言ってくださいなァ。。。
多佳子さんがそのように言うならば一言だけ付け加えたいと思います。
それは何なのォ~?

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“枯山水の水”

僕は多佳子さんの『夢遊伝』を読んで主人公の心の悩みが見えてこなかった。。。 つまり、多佳子さんの作品が上の写真だとしたら、僕には水を見ることができなかった。。。要するに、枯山水は枯山水のままだったのですよ。
それは、デンマンさんの想像力が足りなかったからですわ。。。 (モナリザの微笑)
確かに、そう言われてしまうと身も蓋もありません。。。 でもねぇ~、凡人でも解るように、僕の小文には主人公の心の悩み見えていると思うのですよ。。。
デンマンさんが、もっと心を研ぎ澄まして私の作品を読めば、枯山水の中に水の流れを読み取ることができますわよう。(更に微笑)

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