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デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

行田物語 社長 (PART 1)

2017-07-26 11:29:09 | ふるさと 行田市
 

行田物語 社長 (PART 1)

 


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姉 向田邦子の「遺書」


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お葬式の喪主は本来母がなるべきものを、長男の保雄が自分でさっさと決めてしまって、保雄になったんです。
私たち妹が何かを言うと収まらないので黙っていたんですが、まあ、そこまでは母も何も言わない。
ところが、今だから言えるんですが、姉と一緒に旅行に行った方々にお香典を出す、と兄が言い始めたんです。
それが、私が見てもケタはずれの金額だった。

一番の年長者で比較的名があったかもしれませんが、姉が主催した旅行ではないですし、そもそも趣旨が違いますね。
兄はそこを混同して少しいい気になっちゃったのかもしれません。
母は世間に出て勤めた経験もない人間ですが、「それは筋ではない」と頑として許さなかった。

今度は青山斎場でどなたかに弔辞を読んで頂くかを決める段になって、兄が黙って東邦生命の社長に頼んでしまったんです。
東邦生命は、もう亡くなっていた父の敏雄が勤めていた会社です。

そうしたら、紙巻に筆で書かれた、秘書が代筆したらしき弔辞が送られてきたんです。
その内容を読んだらもうびっくりしちゃった。


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ふんぞり返ったすさまじいいヘンなものなんです。
そんなのを読んだら、みんなあきれ返っちゃうだろうと思いました。

ところが母はそれを読みもしないのに、「これは邦子の葬儀であって、お父さんのじゃない。 ここに出て頂くべき方ではない」と言って、後は兄が何を言っても受け付けず、結局、いただいた弔辞は葬儀では読みませんでした。

 (中略)

保雄は、しっかりした長女で (略) あった邦子がいなくなって、家長のような振る舞いがしたかったんですね。
台湾へ行って地獄絵を見たわけで、少しおかしくなったか、そんな事私どもに思いやれる余裕もなく心ない事で。

兄は台湾のことは生涯、母や妹に一言も話しませんでした。
それは長男としてすごい事。
ありがたかったと思うんです。

 

(122-123ページ 向田和子)

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


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『「文藝春秋」で読む戦後70年』
【第2巻】安定成長期から天皇崩御まで
編集人: 石橋 俊澄
2014(平成27)年8月4日 第1刷発行
発行所: 株式会社 新潮社






デンマンさん。。。 今日は行田物語でしょう?


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そうです。。。

だけど、向田邦子さんと行田が関係あるのですか?

いや。。。 直接の関係はないのですよ。。。 真由美ちゃんは向田邦子さんを知ってますよねぇ~。。。

名前は聞いたことがありますわァ。。。 確か、飛行機事故で亡くなったのでしたよねぇ~。。。

そうです。。。 面白いエッセーを書く作家で、僕はファンでしたよ。。。 記事でも取り上げたことがあるのです。。。 51歳で亡くなってしまったのだから、惜しいです。。。 もっともっとたくさん面白い戯曲やエッセーを書いて欲しかったですよ。。。


向田邦子


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向田 邦子(むこうだ くにこ、1929年(昭和4年)11月28日 - 1981年(昭和56年)8月22日)は、テレビドラマ脚本家、エッセイスト、小説家。
第83回直木賞受賞。
週刊誌のトップ屋時代は幸田 邦子名義で執筆していた。共同ペンネーム「葉村彰子」の一員でもある。

東京府荏原郡世田ヶ谷町若林(現・東京都世田谷区若林)生まれ。

父親は高等小学校を卒業したあと第一徴兵保険(東邦生命保険。現、ジブラルタ生命保険)に給仕として入社し、そこから幹部社員にまで登りつめた苦労人。

なお転勤族であったため一歳で宇都宮に転居したのを初めとして、幼少時から高等女学校時代まで日本全国を転々としながら育つ。
菊池寛を輩出した四国の香川県の高松市立四番丁小学校卒業、東京都立目黒高等女学校、実践女子専門学校(現・実践女子大学)国文科卒業。

新卒で財政文化社に入社し、社長秘書として勤める。
その後雄鶏社に転職し、「映画ストーリー」編集部に配属され、映画雑誌編集者として過ごす。
雄鶏社を退社した後は脚本家、エッセイスト、小説家として活躍する。

1981年(昭和56年)8月22日、旅行中の台湾苗栗県三義郷で遠東航空機墜落事故にて死去。享年51。

法名は、芳章院釋清邦。墓所は東京都府中市の多磨霊園。墓碑銘は森繁久彌による「花ひらき、はな香る、花こぼれ、なほ薫る」。
遺品はかごしま近代文学館に寄贈され、常設展示されている。
寄贈を決めた時の母・せいの言葉は「鹿児島に嫁入りさせよう」であった。

 

エピソード

小学生の頃には、父の赴任に伴い鹿児島県鹿児島市の鹿児島市立山下小学校で数年を過ごした。
この多感な時期に鹿児島の温暖な気候や地元の風習、文化、食べ物、家族や先生、同級生との間に様々な体験をし、忘れ得ない思い出として、代表作エッセイ『父の詫び状』に詳しく綴っている。

なお、この作品のモチーフは、鹿児島時代の家族団欒であると言われている。
飛行機事故の直前には、雑誌の企画で鹿児島を訪問し、「故郷の山や河を持たない東京生れの私にとって、鹿児島はなつかしい「故郷もどき」なのであろう」と締めくくっている。

戦後の混乱期には、一家は父の度重なる転勤により仙台に居を構えていた。
最初の社宅は、現在の住居表示で仙台市青葉区国分町二丁目(現在は仙台市都心部の歓楽街だが、当時はオフィス街の裏道)、後に同市同区大手町(旧・琵琶首丁。広瀬川沿いの住宅地)に引っ越した。

邦子は実践女子への通学のため、東京・麻布市兵衛町の母方の祖父母宅に下宿し、夏冬の休みだけ仙台に帰省していた。
「当時は東京が極度の食糧不足にあえいでいたが、仙台は別天地のように豊かであった」と語っている。
1950年に父親が東京本社勤務となり、杉並区久我山の社宅に住み、邦子もまた両親と一緒に暮らし、定年退職の後は杉並区天沼に転居する。

雄鶏社という出版社に就職したばかりの頃は、黒いニットのトップスに黒いロングスカートという服装が多かったため、同僚からは「黒ちゃん」と呼ばれていた。
後に妹の向田和子が自著の文中にて「その黒いロングスカート姿で仙台へ帰省してきた姉が、当時は黒い服を礼服以外の目的で着ていた人が少なかったこともあり、町へ出るととても目立った」と当時を回想している。

洋裁が得意であり、一時はコートまで仕立てていた。
戦中~戦後の物資の乏しい時期には弟妹達の手袋、マフラーも手編みで用意し、2人の妹にはセーラー服まで作った。
生地の入手自体が困難だったため、古着を仕立て直すなど工夫していた。

愛猫家としても知られ、実家暮らしの頃から亡くなるまで、常に複数の猫を飼っていた。
その中でもコラット種のオス「マミオ」はタイ旅行した際に一目惚れした種であり、エッセイにも度々登場させている。
邦子の逝去後は、母・せいと妹・和子が引き取り、16歳で癌によって亡くなるまで愛育していた。

精力的に海外旅行をしていたが、実は飛行機嫌いであった。1981年5月に「ヒコーキ」(『霊長類ヒト科動物図鑑』)というエッセイで、「私はいまでも離着陸のときは平静ではいられない」と書き、あまり片付けて出発すると「やっぱりムシが知らせたんだね」などと言われそうで、縁起を担いで汚いままで旅行に出ると述懐していた。
しかしながら、験担ぎも虚しくこの僅か3か月後には飛行機事故で命を落とすこととなった。

当時珍しかった留守番電話を早い時期に導入していた。
機械に慣れない人々が面白いメッセージを多く残したが、中でも秀逸は黒柳徹子で、一分/一通話のシステムでは足りなかったらしく、特有の早口で九通話連続で吹き込まれていたというものであった。
しかし用件には全く触れられておらず「後で直に会って話すわね。」という楽しいオチであったため、消去せずに保存して来客に聞かせて、もてなしの一つとしていた。



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幼少時より虫が大嫌いだった。
虫偏の漢字も嫌いだったが、唯一「虹」だけは好きだった(『クイズダービー』にてこのエピソードが出題された)。

グルメとしても有名であった。
料理も得意で自炊したが、著述活動の傍ら「女性が一人でも気軽に寄れるお店を作ろう」と、妹の和子と東京都港区赤坂で小料理屋「ままや」を開店した。

「ままや」は邦子の死後も妹の和子によって営業が続けられたが、1998年(平成10年)に閉店した。
その経緯は和子著の「かけがえのない贈り物」に詳しい。

1970年代には倉本聰・山田太一と並んで「シナリオライター御三家」と呼ばれた。




出典: 「向田邦子」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




僕は『父の詫び状』を読んだけれど、これは実に面白く読めましたよ。。。 邦子さんのお父さんは苦労人で、人の嫌がる転勤もしばしば遣ったらしい。。。 それで、邦子さんもずいぶん転校したことが書いてありました。



「父親は高等小学校を卒業したあと第一徴兵保険(東邦生命保険。現、ジブラルタ生命保険)に給仕として入社し」たと書いてありますけれど、デンマンさんのお父さんも小学校を卒業したあと忍町尋常高等小学校(現在の行田中央小学校)の給仕をしながら独学で教員検定試験を受けて18歳で先生になたのでしたよねぇ~。。。


忍町尋常高等小学校


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(このような校舎でした。 実物ではありません)

 

市庁舎、産業文化会館、体育館の北が、忍城東方の守りの内行田沼を埋め立てた地で、忍町尋常高等小学校が大正11年1月に竣工した。
だから昭和54年現在71歳の人が第1回卒業生で、20数歳の人が最後の入学生ということになるから、この忍町尋常高等小学校の大校舎を知っている人は市民に多いと思う。 (略)

教員数32名、児童数1,888名という小学校で、昭和12年星川村が合併を機に小学校が東西南北となり忍町南小学校になり、16年には忍町国民学校、22年また忍町南小学校となり、24年市制により行田市立南小学校、29年に南小学校が分離して行田市立中央小学校と名前も6回替り、現在に至っている。

玄関の前に軍艦の大砲があった。
郷土出身の小山与四郎大佐の口添えで、須加小学校と忍町小学校の2校が払い下げを受けたことを、知っている人は少なくない。

また昭和4年4月7日、今の体育館のところにロシア軍艦の11メートルの主砲で立派な表忠碑が立っていた事も、昔の語り草となってしまった。
児童数も昭和20年度には3,020人、新制中学で高等科がなくなっても、28年度は教員数67人、児童2,878人というマンモス小学校となった事も、当時の人には思い出深い事であろう。

 

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




113-115ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社

『行田物語 ピアノ』に掲載。
(2017年6月8日)




戦前に生まれた人は、けっこう苦労人が多いのですよ。。。 苦労した甲斐があって僕のオヤジは最後は校長先生になって退職しました。



つまり、邦子さんの父親とデンマンさんのお父さんが同じ苦労人なので、この記事を書こうと思い立ったのですか?

いや。。。 そうじゃないのです。。。 たまたまバンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら妹の和子さんが書いた姉 向田邦子の「遺書」という箇所に出くわしたというわけです。。。 赤字にした箇所に注目してください。。。

東邦生命の社長と書いてありますわねぇ~。。。

そうです。。。 東邦生命と聞いて真由美ちゃんは何か思い出すことはありませんか?

確か、亡くなったデンマンさんのお母さんは、若い頃に東邦生命の外交員をしていたのではありませんかァ~。。。

そうです。。。 頑張って成績を上げ社長賞をもらいに本社に出向いたことがあったのですよ。。。 かつて、その事で真由美ちゃんとメールで語り合ったことがあるのです。。。 覚えてますか? 次のようなメールです。。。


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 (前略)

たまたま母と話しをしていたら、“行田の伯母さん”、つまり、デンマンさんのお母さんが入院したという事を聞いたのです。
私が、「どのような人なの?」と尋ねたら、
母には、とても優しくしてくれた人だということで、とても感激して話していました。

デンマンさんに初めて電話した時に、偶然にも「お葬式まで準備していたのに、母親が奇跡的に助かって。。。」というお話を聞いて、なんだか私の心まで暖かくなるようなお話だと思いました。
デンマンさんのお母さんは 人に優しくしているので “神様”が奇跡を起こしたのではないだろうか?
私は、そんな風に考えることができました。

もともと子供の頃から、私は海外に行くことと語学に憧れを抱いていました。
それでも本当にやりたいことを自分から行動に移せず、甘えた環境でずっと生きてきた自分を、今になって改めて考えるようになりました。
やりたいことをやらないと、一生、この思いは引きずるんだろうな?

このような思いに捉(とら)われていた時に 母が“行田の伯母さん”の長男に デンマンさんという人がいて、20代でカナダに移住し、今でもカナダで暮らしているという話を初めて聞いたのです。
その時、私の中で一気に込み上げてくる思いがありました。

実際こうして、親戚の方と、海を越えて、何十年越しにコンタクトをとれるというのは、私にとって信じられないほど嬉しい事です。
デンマンさんの“海外飛躍遺伝子”の記事を読んで、なんとなく素直に信じることができました。

 (後略)

by 真由美

2014年3月25日 午後10時20分


 



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真由美ちゃん、おはよう!
さわやかにお目覚めですか?

バンクーバーの今朝は素晴らしい!。。。の一言に尽きる朝です。
気温は13度!
さわやか! すがすがしい!
しかも、快晴に近い空でした!
雲がほとんどない青空が広がっていましたよ!

ルンルン気分でスキップしたくなりましたよ!
きゃはははははは。。。


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私は毎朝4時に起きて5時に自宅を出て
車で40分くらい運転をしながら
朝日を浴びて出勤しています(*^_^*)

出勤まで結構な時間と距離があるので、大変ね。。という方もいますが、
私はこの時間が嫌いではなく、
むしろ気持ちの良い時間です(*^。^*)




 

事故に遭わないように安全にはくれぐれも気をつけてね。
僕は、もう ほとんど車を運転しません。
健康のために歩いています。
歩いて すべての用が済ませることができるマンションに住んでいるのでラッキーですよ!

毎日、図書館の往復の1時間が 楽しいです。
今朝のように、快晴の日には、マジでスキップしたくなります。 (微笑)

夕べ、図書館から帰って、夕食を食べ終えたら、お袋から電話がかかってきましたよ。
10時近かったでしょうか?

今は、介護施設「ハートフル行田」から退所して、実家でのんびりと暮らしているようです。
元気な声で話していたので、僕も安心しました。
ただ、耳が遠くなったので、僕の話は半分ぐらいしか聞き取れていないようですよ。
補聴器をつけなければと いつも言うのですが、まだ補聴器を買ってないようです。

40代の頃から腎臓が悪くて 体に“むくみ”が出ていましたからね。
子供心に、長くは生きられないようだと、悲しい気持ちで見ていたこともありました。
とにかく、よく働き、ぼくら 子供を心からよく面倒見ていましたね。

実は、お袋は小学校だけしか出てないのですよ。
旧・南河原村(現在は行田市に編入)の実家は、お袋が子供の頃にはお金に困っていた。
その当時は、どこの農家も貧しかったのです。
それで、母親の実家の遠い親戚が池袋で寿司屋さんをしていたので、
10代の頃は、僕の母親は その寿司屋さんで女中奉公をしていたのですよ。

店が忙しいときには、店の手伝いもさせられたそうです。
小学生の頃から畑仕事をさせられ、
娘時代は女中奉公。
自分の好きな事は何もできなかったそうです。

実家のために、ずっと働き通しだったそうです。
稼いだお金は、ほとんどすべて実家に入れたそうですよ。
僕の祖父(真由美ちゃんには曽祖父)が、寿司屋までお金を取りにいったそうです。

そういうわけですから、“子供には自由に人生を歩んでもらいたい。”
お袋は僕が小学校の頃から よくそう言ってましたね。
僕が、とにかく自分の好きな人生を歩んでこれたのは、そういう経緯(いきさつ)もあるのです。

要するに、「自分の自由な人生を歩む」ということは、母親がやろうとしてできなかったことです。
母親は実家のために女学校にも行けず、娘時代には女中奉公して働かねばならなかった。

たまに実家に帰って田んぼで田植えなどしていると、
お袋よりも成績が悪かった同級生の女の子が自転車に乗って行田の女学校に通う姿を見ることがある。

“どうして? どうしてなの? どうして自分は、こんな惨めな境遇に生まれなければならなかったの?”
そう思ったことも、あったと言います。
でも、そんなことを思っても、どうにもならないので、とにかく、毎日毎日、”お天道様(てんとうさま)”が見ているので、しっかり働いたと言います。

だから、僕も、母親の分まで自由に生きたいと。。。 (勝手な言い分ですが。。。)

お袋は 苦労しながら働くことに慣れていたのでしょうね。
僕が大学生当時、お袋は東邦生命の保険の外交員をやっていたのですが、
成績が全国で3番になるほどで
社長賞をもらいに、東京の本社まで出かけていったことがありました。



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旧東邦生命ビル


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3人のうちで、他の二人はファッション雑誌から抜け出てきたようなドレスを着ていたけれど、
“私が一番みすぼらしかったよ!” と苦笑していました。

贅沢する気になれば、ドレスも買えたのですが、そのような事は する気になれない人でした。
家のため。。。子供のため。。。そういう気持ちが身についてしまったのでしょうね。

“お天道様(てんとうさま)”は見ていたのですよ。
あれだけ体が弱かったお袋が これまで長生きできたのですからね。。。

そして、夕べ 僕に電話をかけてよこしたのです。
涙が出てくるほどうれしいことです。 ホント。。。

お袋が 真由美ちゃんのお母さんに優しい気持ちになれるのも、いろいろと苦労した過去があればこそです。
そういうわけですから、真由美ちゃんも“お天道様(てんとうさま)”が見ていることを忘れずに、
マイペースで、しっかりと人生を送ってね。

じゃあね。
バイバ~♪~イ。。。


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05月31日 04:16 AM

(Vancouver Time: Friday, May 30, 2014 12:16 PM)


 




 

デンマンさん、こんにちは(*^_^*)
私は仕事を終えて今日はビデオ屋さんによってから今帰宅しました。

昨日デンマンさんが送ってくれたメールの返信をゆっくりしたいと思い、今日になってしまいました。
デンマンさんがくれたメール、昨日の朝読みました。
デンマンさんのお母さんの話を、沢山してくれて、とても嬉しかったです。

そして、なぜですかね。。。
デンマンさんのメールを読んでいたら、お母様の素晴らしい人間性と、デンマンさんの、人生感、本当に感動しました。

デンマンさんのお母様は、本当に素晴らしい方ですね。
人間皆、そんな心の持ち主だったら。。。
なんて思います。

お母様の話を聞いて、もっと会いたい気持ちが膨らみました。




40代の頃から腎臓が悪くて 体に“むくみ”が出ていましたからね。
子供心に、長くは生きられないようだと、悲しい気持ちで見ていたこともありました。
とにかく、よく働き、ぼくら 子供を心からよく面倒見ていましたね。

実は、お袋は小学校だけしか出てないのですよ。
犬塚の実家は、お袋が子供の頃にはお金に困っていた。
その当時は、どこの農家も貧しかったのです。

それで、犬塚の遠い親戚が池袋で寿司屋さんをしていたので、
10代の頃は、僕の母親は その寿司屋さんで女中奉公をしていたのですよ。
店が忙しいときには、店の手伝いもさせられたそうです。

小学生の頃から畑仕事をさせられ、
娘時代は女中奉公。
自分の好きな事は何もできなかったそうですよ。

実家のために、ずっと働き通しだったそうです。
稼いだお金は、ほとんどすべて実家に入れたそうですよ。
僕の祖父(真由美ちゃんには曽祖父)が、寿司屋までお金を取りにいったそうです。

そういうわけですから、“子供には自由に人生を歩んでもらいたい。”
お袋は僕が小学校の頃から よくそう言ってましたね。
僕が、とにかく自分の好きな人生を歩んでこれたのは、そういう経緯(いきさつ)もあるのです。

要するに、「自分の自由な人生を歩む」ということは、母親がやろうとしてできなかったことです。




 

本当に素晴らしいですね。。。
苦労を沢山分かっているからこその人間性なんでしょうか。
こればかりは真似しようと思ってもきっと真似できないでしょう。
けれどもこんな母親はお手本にしたいばかりです。




 

母親は実家のために女学校にも行けず、娘時代には女中奉公して働かねばならなかった。
たまに実家に帰って田んぼで田植えなどしていると、
お袋よりも成績が悪かった同級生の女の子が自転車に乗って行田の女学校に通う姿を見ることがある。

”どうして? どうしてなの? どうして自分は、こんな惨めな境遇に生まれなければならなかったの?”
そう思ったことも、あったと言います。
でも、そんなことを思っても、どうにもならないので、とにかく、毎日毎日、”お天道様(てんとうさま)”が見ているので、しっかり働いたと言います。

だから、僕も、母親の分まで自由に生きたいと。。。 (勝手な言い分ですが。。。)

お袋は 苦労しながら働くことに慣れていたのでしょうね。
僕が大学生当時、お袋は東邦生命の保険の外交員をやっていたのですが、
成績が全国で3番になるほどで
社長賞をもらいに、東京の本社まで出かけていったことがありました。

3人のうちで、他の二人はファッション雑誌から抜け出てきたようなドレスを着ていたけれど、
“私が一番みすぼらしかったよ!” と苦笑していました。
贅沢する気になれば、ドレスも買えたのですが、そのような事は する気になれない人でした。
家のため。。。子供のため。。。そういう気持ちが身についてしまったのでしょうね。

“お天道様(てんとうさま)”は見ていたのですよ。
あれだけ体が弱かったお袋が 長生きしているのですからね。。。

そして、夕べ 僕に電話をかけてよこしたのです。
涙が出てくるほどうれしいことです。 ホント。。。




 

デンマンさん...

私はこの記事を読んで朝から泣きました。


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でもその涙はとっても気持ちのよい涙で。。
心が晴れたように、とても澄んだ気持ちになりました。
お話して下さって、本当にありがとうございます。




 

お袋が 真由美ちゃんのお母さんに優しい気持ちになれるのも、いろいろと苦労した過去があればこそです。
そういうわけですから、真由美ちゃんも”お天道様(てんとうさま)”が見ていることを忘れずに。。。


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デンマンさんのこの言葉で、私は朝から頑張ろう!っと気持が漲ってこれました。
デンマンさんのお母様は、お天道様のような人ですね。

本当にお会い出来る事を楽しみに、というより、
逢えるということに感謝です。。。

では、デンマンさんも
お気をつけてウオーキングに読書、楽しんで下さいね(*^_^*)


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2014年06月01日 18:26


 




 

真由美ちゃん、おはよう!
今朝のバンクーバーはすがすがしい、素晴らしい天気です。

マジで、ルンルン気分でスキップしたくなりました。
お天道様が、ニコニコしながら見ていましたよ。
きゃははははは。。。




 

デンマンさんこんにちは(*^_^*)
私は仕事を終えて今日はビデオ屋さんによってから今帰宅しました。
昨日デンマンさんが送ってくれたメールの返信をゆっくりしたいと思い、今日になってしまいました。

デンマンさんがくれたメール、昨日の朝読みました。
デンマンさんのお母さんの話を、沢山してくれて、とても嬉しかったです。
そして、なぜですかね。。。




やっぱり、血のつながりでしょうねぇ。
この事については記事にも書いたのですよ。


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真由美ちゃんと電話で話したこと、メールの内容なども拝借して記事の中で使っています。
真由美ちゃんは、まだ読んでないかも。。。?

やっぱり、真由美ちゃんがカナダに住んでいる僕に関心を持ったということは、
“血のつながり”と共に“生き方”を同じくする者という共感もあるのでしょうね。
それで、僕も 真由美ちゃんに対して“身内の話”もしたくなるのですよ。




 

デンマンさんのメールを読んでいたら、お母様の素晴らしい人間性と、デンマンさんの、人生感、本当に感動しました。
デンマンさんのお母様は、本当に素晴らしい方ですね。
お母様の話を聞いて、もっと会いたい気持ちが膨らみました。

デンマンさん、、
私はこの記事を読んで朝から泣きました。

でもその涙はとっても気持ちのよい涙で。。。
心が晴れたように、とても澄んだ気持ちになりました。




そうですか。。。そうですか。。。

実は僕自身も、メッセージを書きながら、お袋の30代や40代の頃の面影がオツムに浮かんできて、思わずホロリとする瞬間がありましたよ。
でも、電話では、母親は 昔の苦労話や、悲しかった事などはおくびにも出しませんでした。

初めから、お互いに元気であることを喜び、声が聞けたことに感謝して、笑い転げながら話しましたよ。
実に、愉快な人です。

真由美ちゃんも、僕のお袋と話せば、面白い楽しい人だということが すぐに解りますよ。
でも、内面には、ずいぶんと苦労して耐え抜いてきた悲しみを持っている人です。




 

デンマンさんのこの言葉で、私は朝から頑張ろう!っと気持が漲ってこれました。
デンマンさんのお母様は、お天道様のような人ですね。

本当にお会い出来る事を楽しみに、というより、
逢えるということに感謝です。。。

では、デンマンさんも
お気をつけてウオーキングに読書、楽しんで下さいね(*^_^*)




真由美ちゃんも、今日一日、素晴らしい日になるように、ルンルン気分で過ごしてください。
じゃあね。
バイバ~♪~イ。。。


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06月02日 03:48

(Vancouver Time: Sunday, June 1, 2014 11:48 AM)


 




 

デンマンさん!こんにちは(‐^▽^‐)!
今日、芳江さんに会ってきましたよー!!
もぅ、話したい事が沢山あります!o(〃^▽^〃)o

昨日から、私の母の実家に泊りに来たので、
今日、芳江さんのところにお邪魔しようと思って、午前中に、自宅の方に連絡を入れてみたところ、
正造さんが出まして、お伺いしますと伝えたら、
正造さん自身は出掛けてしまうけども、
「母と次兄がいます」と言って電話を切ったら、すぐに、芳江さんからまた電話をいただいて、
ご自分は「耳が遠いもんで。。。、でも、来てくれるのを楽しみにしていますよ」、と言ってくれました。

それから母とすぐに向かい30分くらいで芳江さんの家に着き、玄関の扉が開いて、その先には車椅子が置いてありました。
茶の間の椅子に腰掛けている芳江さんにお会いして、その元気さと若さにびっくりしました!

自分では「少しボケてしまってね〜(笑)」なんて言っていたけど、
全然そんなことなく、はっきりとお話されていました!

芳江さんに、デンマンさんとよく連絡をとっている事
カナダの事についてデンマンさんがいろいろと相談、
協力してくれている事、カキフライの話。(笑)
とても嬉しそうに聞いてくれました。(-^□^-)

私の母とも、昔のトモエおばさんの話をしたり、
親戚の人たちの話をしていましたよ(‐^▽^‐)

デンマンさんの話になった時には、
デンマンさんが病院を変えてくれて、「どうにか生かせてくれ!」と言ってくれたんで、今こうして生きてるんですよ。
そのように話してくれた時には母と涙をこらえましたよ('-^*)/。。

ベーグルも食べて貰いたくて持っていきました(*^▽^*)
喜んでくれました!


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母が介護の仕事をしていますが、芳江おばさんの歳であそこまで綺麗な健康な自分の歯なのは、本当に珍しいですよ!とびっくりしていました!
喜代司(きよし)さんは わたしたちが話しているのを、隣でずっと聞いていましたよ。

芳江さんがお昼の時間をすごく気にしてくれていて、
何も用意していなくてすまません。と(。>0<。)

「近くに美味しい親子丼があるから、そこのでも食べるかい」、などと気を使ってくれました。
わたしと母もそろそろお邪魔するとこだったので
「芳江おばさん、本当にお気遣いなく。。。」
と言って、1時間くらいお話をしてきました。

もっと沢山お話したかったくらい、本当に穏やかで
素敵な方でした。
そして素敵な時間でした。

デンマンさんは帰ってくると「いろいろ連れてくれて いろいろ食べさせてくれる」と嬉しそうに話していました。
また10月にでもデンマンさんが帰くる時には
また遊びに来ますと伝えてきました(=⌒▽⌒=)

帰りに芳江おばさんと写真をとりました^ - ^
母と、私と一枚ずつ。(‐^▽^‐)
わたしは何故だか涙が溢れてきちゃって。(ノ◇≦。)


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芳江さんは 「せっかく来てくれたのに、お構いできなくて、すみませんね」、と何度も何度も気にされていて、
帰ってしまう私達を玄関の奥で手を振って見送ってくれました。
また涙です(笑)

母と帰りの車の中で、芳江おばさんと会えて、よかった。
本当によかったねと。
話しながら帰ってきました。

ちょうど母と到着した頃、芳江おばさんからおばあちゃんの家に電話を頂きました。
今日はありがとうございましたとの事で、
わたしのおばあちゃんと少しお話をされていました。^ - ^!

本当に今日は素敵な素敵な日でした。
今も芳江おばさんの笑っている笑顔が頭に焼きついていますよ。

とっても優しくて、とっても可愛らしくて素敵な方でした✨
また会えるのが本当に楽しみです^ - ^!!

デンマンさんがこのメールを開く頃にはちょうど、わたしは夢の中ですが(笑)
今日はとてもよい夢を見れそうです。✨
ありがとうございました^ - ^!

わたしもカナダ就職に向けて、一歩一歩がんばりますね!
デンマンさん、よろしくお願いします☺️


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真由美より

2014年06月16日 17:35


 




真由美ちゃん、おはよう!
元気で会えて良かったね。

芳江母も 生きていて良かったと幸せを感じたことでしょう!
僕も涙が出てくるほどうれしいですよ。




 

自分では「少しボケてしまってね〜(笑)」なんて言っていたけど、
全然そんなことなく、はっきりとお話されていました!!




病気は気からと昔の人は言いましたが
気分がいいと、気持ちもしっかりするものですよ。

僕がお袋と話をすると、
たまに会うものだから話が尽きないのですよね。

それに昔話だとかお袋の若い頃の話をしますから、
お袋の気持ちが次第に若返って、二人で笑い転げるのですよ。

すると、お袋は言うものです。
「あれっ。。。起きた時には頭痛がして、気分が悪かったのに、
あんたと話していたら、ずいぶん笑ったせいか朝の気分の悪さも、頭痛もすっかり飛んでしまったよ。。。
やっぱり、病気は気からと言うけれど、笑って暮らさないと駄目なんだねぇ~。。。」

正に、そのとおりだと思いますよ。




 

芳江さんに、デンマンさんとよく連絡をとっている事
カナダの事についてデンマンさんがいろいろと相談、協力してくれている事、カキフライの話。(笑)
とても嬉しそうに聞いてくれました。(-^□^-)

私の母とも、昔のトモエおばさんの話をしたり、
親戚の人たちの話をしていましたよ(‐^▽^‐)

デンマンさんの話になった時には、
デンマンさんが病院を変えてくれて、「どうにか生かせてくれ!」と言ってくれたんで、
今こうして生きてるんですよ。

。。。と話してくれた時には母と涙をこらえましたよ('-^*)/。。




うん、うん、うん。。。
母が幸せを感じている姿が目に見えるようですよ。
真由美ちゃんと、とも子さん母娘に会えて、お袋も久しぶりに楽しいひと時を過ごしたことでしょう。

母親の病気が重くなっていると、親戚の皆さんが感じているので、尋ねて来る人も少なくなっているのですよ。。。
だから、たまに親戚の人が見えると、お袋も気分がいいのですよ。




 

ベーグルも食べて貰いたくて持っていきました(*^▽^*)
喜んでくれました!


(bageloyst.jpg)


(baglesand2.jpg)

母が介護の仕事をしていますが、芳江おばさんの歳で
あそこまで綺麗な健康な自分の歯なのは、本当に珍しいですよ!とびっくりしていました!




確かに、あの年で“自分の歯”を持っている人は珍しいでしょうね。
30代、40代の頃には 母は体が弱かったけれど、もともと健康体で生まれてきたのですよ。

母親の上に、先に生まれた二人の男の子が 幼くして亡くなっているのです。
女の子は男の子よりも健康に生まれてくると言いますよね。
だから、一姫二太郎と言うのですよ。

つまり、初めに生まれてくる子は女の子の方がいいのですよ。
健康で育てやすいから。。。

子供の頃から無理して働いたので、母は、体を壊してしまったのです。
でも、もともと健康体だから、僕ら子供たちは、母親からは、健康に生まれたのですよ。

その証拠に、僕は 小学校3年生を最後に、医者にかかったことがない。
未だに、医者に診てもらったことがないほど健康なのですよ。




 

もっと沢山お話したかったくらい、本当に穏やかで
素敵な方でした。そして素敵な時間でした。

デンマンさんは帰ってくるといろいろ連れてくれていろいろ食べさせてくれると嬉しそうに話していました。
また10月にでもデンマンさんが帰くる時には
また遊びに来ますと伝えてきました(=⌒▽⌒=)




うん、うん、うん。。。
母も、きっとその事を楽しみにしていますよ。
また、寿命が延びるでしょう。 (笑)




 

帰りに芳江おばさんと写真をとりました^ - ^
母と、私と一枚ずつ。(‐^▽^‐)
わたしは何故だか涙が溢れてきちゃって。(ノ◇≦。)




母も、きっと幸せをかみ締めて喜んでいたことでしょう。
ほんとうに、ありがとう!




 

本当に今日は素敵な素敵な日でした。
今も芳江おばさんの笑っている笑顔が頭に焼きついていますよ。

とっても優しくて、とっても可愛らしくて素敵な方でした✨
また会えるのが本当に楽しみです^ - ^!!

デンマンさんがこのメールを開く頃にはちょうど、わたしは夢の中ですが(笑)
今日はとてもよい夢を見れそうです。✨
ありがとうございました^ - ^!




はい、はい、はい。。。
こちらこそ、ありがとうございました。

真由美ちゃんも、元気で また、ルンルン気分でベーグルを焼いてください。
10月に会えるのを楽しみにしています。
じゃあね。
バイバ~♪~イ。。。


(denman01.gif)

2014年06月17日 02:58

(Vancouver Time: Monday, June 16, 2014 10:58 AM)




(laugh16.gif)

 (すぐ下のページへ続く)



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行田物語 社長 (PART 2)

2017-07-26 11:28:13 | ふるさと 行田市




 

行田物語 社長 (PART 2)


【デンマンの独り言】


(kato3.gif)

真由美ちゃんは、ノース・バンクーバーでホームステーしながら
VCC (Vancouver Community College)にかよって
パン職人・ベーグル職人の勉強と実習に励んでいました。

去年(2016年)の9月に卒業式を終えて、
現在、バンクーバー市内の旨いベーグルを提供するカフェ・レストランで働いています。

忙しい時間を割いて、真由美ちゃんも僕の母親の葬式には参列してくれました。

学生時代には、先生やクラスメートとの英会話には、まごつくことがあったそうです。
外国語というのは習得するのが実に大変です。

あなたは英会話を勉強してますか?
できれば、英語を話している国へ行って英会話を勉強するのが一番です。

でもねぇ~、英会話を勉強する方法に王道はありません。
人それぞれです。。。
自分に合った勉強法を見つけるのが、英会話の上達の早道だと僕は思いますね。

同じことを同じように勉強しても、人によって上達が違うのですよ。
僕の経験で言っても、人によって、語学の才能というのはまちまちです。

太田将宏老人のように、40年もカナダに住んでいるのに
英会話が満足にできずに 6人に成りすまして日本語でブログにコメントを書きなぐって余生を過ごす人もいます。


なかには、日本語を忘れてしまうほど、英語にどっぷりと浸かってしまう人もいます。
20年以上英語圏で英語を話してますけれど、
僕は、漢字を忘れることはあっても、日本語を忘れることはありません。

もちろん、今でも、英語を話すよりも日本語を話す方が楽に話せます。
僕自身は語学の才能があるとは思ってませんが、
僕が、カナダ人と笑いながら話しているのを聞いていると、
真由美ちゃんには さっぱり 何を話しているのか解らないと言うのですよね。

僕がペラペラと英語を話しているように見えるのだそうです。
早くデンマンさんのように 英語がしゃべれるようになりたい、と真由美ちゃんは言います。

しかし、僕は、常に、英語を日本語のように しゃべれたら いいなと思っているのですよ。
外国語を母国語のように話すのは、本当に難しいと思います。

いずれにしても、真由美ちゃんは小さい頃からの夢が叶ってぇバンクーバーにやって来たのです!


(inflight2.jpg)


(airport1b.jpg)

ところで、あなたはバンクーバーに行ったことがありますか?

とっても素敵な街ですよ。


(stanley50.jpg)


(seawall3.jpg)


(seawall2.jpg)

世界で最も住みやすい街バンクーバー

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<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/g-fsEkcBAZM" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/Ze0G_iBjyMI" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(wetsuit.jpg)


(wetsuit3.jpg)


(gastown20.jpg)

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/IH_5xsua-NQ" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(canplace22.jpg)

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/-8HtDY9WRhU?feature=player_embedded" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

ビデオを見ても、なんだかワクワクしてくるでしょう?

卑弥子さんが バンクーバーにやって来たのは 2008年の元旦の2週間ほど前でした。

クリスマスをバンクバーで過ごして、それから元旦の“Polar Bear Swim (寒中水泳)”に参加したのです。


(polar10.jpg)

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/ThBHKGr0IoY" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

上のビデオを見ると、まるで真夏のようでしょう?

ところが気温は確か2度ぐらいでした。 

水の中の方が暖かかったのです。

とにかく、バンクーバーには面白い人たちがたくさん居ますゥ。

あなたも、お暇と お金の余裕があったらぜひ出かけてみてください。

では、また興味深い、面白い記事を書くつもりです。

だから、どうか、あなたも またやって来てくださいねぇ~~。
じゃあね。


(hand.gif)




If you've got some time,

Please read one of the following artciles:





(santa85b.jpg)

『サンタ マユミちゃん』

『お汁粉@海外』

『お汁粉@カナダ』

『支払いでトラブル』

『風邪で甘えてる場合じゃねぇ~!』

『バレンタインのお菓子』

『結婚、仕事、人生』

『命の力だね』

『英語と真由美ちゃん』

『海外に目を向ける』

『カーネギーホールじゃないよ』

『やる気があれば道は開ける』

『ニャンニャンと人生』



(spacer.png+betty5de.gif)
(hiroy2.png+betty5d.gif)
『スパマー HIRO 中野 悪徳業者』

 


(juneswim.jpg)

『ピラミス@美術館』

『夢のバンクーバー』

『バンクーバーの屋上で』

『オランダ移住』

『カナダ移住の夢』

『ディープコーヴ』

『浴衣のバンクーバー』

『黒豚テリマヨ』

『イタリアのベーグルとサルサ』

『花火大会』

『乙女老い易く学成り難し』

『真由美ちゃん@英語』

『真由美ちゃんダントツ』

『日本よい国天国だ!』

『やっぱりどこか狂ってる』

『日本で再会』


(utsunomiya10.jpg)

『乙女力@宇都宮』

『いい出会いの連鎖』

『笑顔の乞食おばさん』

『ニュートンの暗い秘密』

『新年@バンクーバー』

『スープキッチン@新年』

『猫と癒し』

『猫と犬と癒し』

『大通りde水の滑り台』

『イルカとワンちゃん』

『カワウソ@スタンレー公園』

『生パンツ系男子とベトナム兵』

『愛と癒しの涙』

『ダンスとノーベル賞』

『おもてなし』

『思い出ポロポロ』

『ロブソンの5月』


(biker302.jpg)

『ネットが不倫を連れて来る』

『ペットと良心』

『夢のデニッシュ』

『パンツァネッラ』

『12歳少女の短命』

『行田の伯母さん』

『パン職人修行』

『タイムマシーン』

『ルンルンdeサルサ』

『天国のワンちゃん』

『万の風になって』

『プロシュット』


(juneswim.jpg)

『なせば鳴る音楽』

『日本人女学生行方不明』

『日本人女学生死亡』

『ガレット』

『那須高原の紅葉』

『希望とロマン』

『錯視 錯覚』

『マンボ@バンクーバー』

『オリーブオイル』

『スコーンとプディング』

『5月のロブソン』

『病院食の間違い』

『プレミアム・ジャパン』

『自然の摂理を無視すると…』

『夢のデニッシュ・悪夢のマーガリン』

『パリ風カフェ』

『どこか狂ってるわ』

『行田遠野物語』

『行田物語 ピアノ』

『行田物語 猫』

『行田物語 母の懐』

『行田物語 ケネディ暗殺』

『行田物語 病院食』

『行田物語 お股の花々』

『晩香坡物語 ジャズ』

『行田物語 悪夢』



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(girlxx.gif)
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行田物語 坊つちゃん (PART 1)

2017-07-14 11:11:25 | ふるさと 行田市
 

行田物語 坊つちゃん (PART 1)

 


(oshi1.jpg)


(soseki008.jpg)


(mayumi55.jpg)


清と坊つちゃん


(kiyo001.jpg)

 

肉親は誰一人彼を可愛がってくれなかった中で、奉公人の清だけが異様に彼を可愛がったのはなぜだろう。

父は「こいつはどうせ碌なものにはならない」と言い、母は「乱暴で乱暴で行く先が案じられる」と言った。
兄とは「十日に一編位の割で喧嘩をして居た」そうだから、要するに俺は嫌われた子として育ったのである。

その彼を清は庇い続け、父が勘当すると怒ったときは泣きながら詫びた。
清はその「駄目」な子供を「下女」にもかかわらず、なぜ可愛がったのだろう。
この時期「下女」はあり余っていたから、主人の意に反する行為は職を失うことになりかねない。

清は「もと由緒のあるもの」だったが、明治維新の大変動で「奉公迄する様になったのだ」と「俺」は聞いている。
真偽のほどはわからないが、「俺」はそう信じている。

強引過ぎる推測を承知で言えば、「俺」は草双紙に出てくるような、父と清の間に生まれた子供だったという感じさえ生じてくる。
「婆さん」と言っても、当時の感覚では四十女は婆さんである。


(kiyo004.jpg)

 (中略)

ここでは試みに、その小さな可能性を追ってみると、以下のようになる。

十数年勤めている清が、「俺」の家に雇われたのは「俺」がやんちゃ盛りのころ、もちろん実の母とは絶対に名乗らないことが条件である。
清が「俺」と話をするのは台所で二人になったときで、内緒で食物や文具などを貰った。

清は「俺」の真っ直ぐな気性を誉め、「自分の力でおれを製造して誇ってるように見え」、「少々気味がわるかった」。
兄は父の死後すぐに家や代々伝わった骨董品を売り払い、「実業家」になるべく九州に行った。

別れるときに「俺」に六百円の金をくれ、清にと五十円を託した。
「下女」の退職金としては大金である。
仮に当時の月給を一円とすれば、五年分に近い給与である。

母は当然として、兄は父から清の身元を知らされていたのではないか。

 (中略)

「俺」は山嵐と一緒に赤シャツと野だを散々に打ち据えて溜飲を下げ、辞職して東京に帰るのだが、「街鉄」(後の東京市電となる電車の一つ)の「技手(ぎて)」になって清と一緒に暮らした。
清は肺炎で死ぬ前日に、

「後生だから清が死んだら、坊つちゃんの御寺へ埋めて下さい。
御墓のなかで坊つちゃんの来るのを楽しみに待って居りますと云った。
だから清の墓は小日向(こびなた)の養源寺にある」

……が物語の結びである。

死んでも「親子」の縁は切れないという、清の告白が伝わるような言葉である。 (略)

「待つ」ことに馴れている清は、あの世でも「俺」の幸福を念じ、いつまでも待つのであろう。

 

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
イラストはデンマン・ライブラリーより)




136-139 ページ 『夏目漱石』
著者: 十川信介
2016年11月18日 第1刷発行
発行所: 株式会社 岩波書店






デンマンさん。。。 行田と夏目漱石の『坊つちゃん』が何か関係あるのですか?


(kato3.gif)

あるのですよ。。。 全く無関係じゃない!

。。。で、どのような関係があるのですか?

あのねぇ~、これまでに僕は『坊つちゃん』について記事を書いたことがあるのですよ。。。 例えば次の記事です。。。 この箇所を読んでもらえば、多少関係があることが解ってもらえると思うのです。。。


弘中先生と坊っちゃん

 


(bocchan6.jpg)


(himiko22b.gif)

デンマンさん。。。 夏目漱石の“坊っちゃん”に弘中先生という人物が出てくるのでござ~♪~ますかァ~?


(kato3.gif)

出てきません。。。

それなのに、どういうわけで“弘中先生と坊っちゃん”というタイトルにしたのでござ~ますか?

それに答えるには、ちょっと次のリストを見て欲しいのですよ。。。


(liv70304a.png)

『拡大する』



これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の3月3日の日本時間で午後7時23分から3月3日の午前9時26分までの約14時間の「生ログ」の1部です。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しい。



あらっ。。。 3月3日の午後7時29分にYahoo! で検索してデンマンさんの「徒然ブログ」の『弘中先生と熊谷』を読んだのですわねぇ~。。。

そうです。。。 『徒然ブログ』にやって来たネット市民は次のように「弘中先生 熊谷」と入れてYahoo!で検索したのですよ。。。


(yah70307a.png)


『拡大する』

『弘中先生と熊谷』

『現時点での検索結果』




「弘中先生 熊谷」と入れてYahoo!で検索したネット市民は、どういうわけで弘中先生と熊谷を結びつけたのでしょうか?



あのねぇ~、実は 僕は埼玉県の熊谷高校の出身なのですよ。。。

弘中先生というのは熊谷高校の先生なのですか?

そうです。。。 もう とっくの昔に亡くなりましたけれど。。。 ちょっと『ウィキペディア』で紹介されている僕の母校の「熊谷高校」のページを見てください。


熊谷高校


(kumako3.jpg)

1895年(明治28年)、埼玉県第二尋常中学校として創設された。
県下の公立校としては埼玉県第一尋常中学校(現埼玉県立浦和高等学校)に次ぐものである。
戦後、新制埼玉県立熊谷高等学校となった。
開学以来男子校である。
早くから私服での登校が認められており、校風は極めて自由である。

校訓

「質実剛健」
「文武両道」
「自由自治」
部活動への加入率は高く、また自由な校風を有している。

校風

自由な校風を有することが特徴である。
その中のひとつとして、「カクト」と呼ばれる制度がある。
これは、担当教員の出張などにより授業が休講となる場合に出される自習時間のことであり、「各自図書館自習」の略称である。

しかしながら、実質的には何をしても良い時間であり、自習時間の利用方法は生徒各々の自主性に任される。
また、カクトの時間を最終時限目と入れ替え、放課を早めることができる場合もある。
この行為は「トを上げる」と呼称される。
このため、同校においては生徒が授業時間中に校内を歩いていたり食堂で食事をしていたとしても、教員がそれをとがめることは通常ない。

このほかの同校の自由な校風を象徴するものとして以下のようなものがある。
例えば文化祭の出し物はクラス単位で行われることが一般的であるが、同校の熊高祭においては仲の良いグループを募って「サークル」を形成し、そのサークル単位で行うことが恒例となっている。
また、修学旅行に関してもほとんどがグループ単位での行動であり、宿泊地もグループ単位で異なる。
また、服装検査や頭髪検査、持ち物検査などの校規検査は一般的に行われない。

このほか、小規模な行事であろうと肩を組んで校歌を斉唱する習慣がある。
文化祭や体育祭、生徒集会や全校集会などの行事では必ず肩を組んで校歌が斉唱される。
生徒が自ら好んで校歌を歌うことが多い。

40キロハイク

毎年5月中旬から下旬ごろに行われる行事。
熊谷の荒川河川敷から秩父線上長瀞駅までのおよそ40キロを歩いたり、走ったりする。
服装は基本的に自由であるが、大半の生徒は仮装をして参加する。
仮装の内容は社会風刺や下ネタなどがある。
完歩率は高く、例年90パーセント以上を維持している。

臨海学校

1年次の7月中旬に行われる行事。
新潟県柏崎市の鯨波海岸で、主に遠泳が行われる。
県内では浦和高校と蕨高校と同校の3校のみでみられる行事である。
開始以来無事故。これまで毎年行われてきたが、2007年度は開始予定前日に発生した新潟県中越沖地震の影響で初めて中止となった。

熊高祭

毎年9月に行われる、文化祭と体育祭の総称である。
前者については、先述の通り仲の良い者同士や部活動単位で「サークル」を形成し、そのサークル単位で出し物を行うことが特徴である。
また、応援団による「勝利の伝統」や、「秩父支部劇」、女装してパフォーマンスなどを行う「ミス熊高」などが行われる。
体育祭に関しては、珍棒(ちんぼう)を用いる「珍百足」(ちんむかで)や、水泳やタイヤ引きなどを連続して行い体力と気力を試す個人競技「鉄の男」といった特徴的な種目がみられる。

修学旅行

2年次の11月頃に行われる。
例年の行き先は関西地方や九州地方、北海道などであるが、行き先は1年次に決定される。
このほか、先述の通り宿泊地をグループ毎に各自選択することができることが大きな特徴である。

例えば、行き先が関西地方の場合は、初日の広島が宿泊地として指定されているのみで、それ以降の宿泊地は岡山、神戸、高松、大阪などからグループごとに選択することができる。
初日が広島、2日目が岡山、3日目が大阪、4日目が京都というグループがある一方、初日が広島、2日目が神戸、3日目が高松、4日目が京都、というグループがあるなど、自由に選択できる幅が広い。

部活動

「文武両道」の精神にのっとり、部活動への加入率は高い傾向にある。
なお、2008年度における部活動への加入率は、運動部が63.8%、文化部が14.6%、愛好会(サークル)が15.6%であり、これらを合計するとのべ94%である。
2つ以上の部活動を兼部することもできる。

硬式野球部が1951年、1982年などに3回夏の甲子園に出場しており、うち1951年の大会においては準優勝した。
このほか、剣道部、陸上部、軟式野球部、ラグビー部、水泳部、弓道部、ソフトテニス部、バレーボール部、山岳部、将棋部なども県大会や全国大会へ出場を果たしている。

主な出身者・関係者

政治・行政 (略)

経済 (略)

 (中略)

芸術・雑

弘中又一: 夏目漱石の小説「坊っちゃん」の主人公のモデルとなった第二中学の教員
小林秀三: 田山花袋『田舎教師』モデル

須田剋太: 日本画家

(後略)




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




あらっ。。。 弘中先生というのは「坊っちゃん」の主人公のモデルになったのでござ~♪~ますか?



そうなのですよう。。。 実は僕も知らなかった。 高校時代には田山花袋が書いた『田舎教師』に僕は興味を持っていた。

なぜでござ~ますか?

『田舎教師』の主人公のモデルになったのが小林秀三という人物なのですよ。。。 校長室の前の廊下にガラスケースがあって、その中に埼玉県第二尋常中学校の第2回か3回目の卒業写真が飾られてあって、僕も何度かその記念写真に写っていた小林秀三の姿を見たことがあった。

弘中又一さんの事は高校時代にデンマンさんは聞いた覚えがないのでござ~♪~すか?

誰からも聞いた覚えが無いのですよう。。。 『田舎教師』よりも小説「坊っちゃん」の方が良く知れわたっていると思うのに、どう言う訳か僕は弘中又一先生の話を聞いたことがない。 今から思えば、実に意外だった。

小説「坊っちゃん」の方が良く知られているのに、なぜ弘中先生のお話が出なかったのでござ~♪~ましょうか?

あのねぇ~、僕は思うのだけれど、小林秀三が田山花袋が書いた『田舎教師』のモデルだと言うことは、ほぼ間違いないのですよう。 つまり、文学に多少関心がある人の間では、誰も認めている事実なんですよう。

弘中先生が「坊っちゃん」のモデルだと言う事は夏目漱石ファンの誰もが認めているわけではないのでござ~♪~ますか?

僕も夏目漱石のファンだけれど、僕は知らなかった。 夏目漱石自身が「坊っちゃん」のモデルだと、僕は素朴に思い込んでいましたよう。

なぜでござ~♪~ますか?

ただ素直に、そう思い込んでいた。 「坊っちゃん」の主人公と夏目漱石が僕のオツムの中では重なり合っていた。

つまり、私小説だとデンマンさんは思っていたのでござ~♪~ますか?

志賀直哉が書くような私小説だとは思わなかったけれど、「坊っちゃん」の主人公は、明らかに夏目漱石の生い立ちや経歴に基づいて書かれていますよう。

たとえば。。。?

『ウィキペディア』の作品解説には次のように書いてあるのですよう。



(soseki008.jpg)

作者(夏目漱石)が、高等師範学校(後の東京高等師範学校)英語嘱託となって
赴任を命ぜられ、愛媛県尋常中学校(松山東高校の前身)で
1895年4月から教鞭をとり、1896年4月に熊本の第五高等学校へ
赴任するまでの体験を下敷きに、後年書いた小説である。




つまり、漱石の松山時代の体験に基づいて書かれた小説なのですよう。 だから、私小説とは言わないまでも、漱石自身の体験がそこ、ここに書かれている。



例えば。。。?

漱石が子供の頃に一緒に居た女中のお清さん。 孫が書いた本にも次のように紹介されている。



(soseki009.jpg)

漱石の『坊っちゃん』には、父親に嫌われる主人公を無条件に愛する使用人の清という女性が描かれる。
清が「まっすぐで、よいご気性です」と坊っちゃんをほめると、坊っちゃんは「おれはお世辞は嫌いだ」といいかえす。
が、「それだから、よいご気性です」といわれて閉口するのである。

そこで愛されているのは、坊っちゃん本人であり、彼自身の気性である。
彼の生まれた家柄や、父親といった、彼自身に選べない属性ではない。
だからこそ坊っちゃんも清を愛し、恩を返そうと思う。これは「ひいき」ではない。

漱石自身は、坊っちゃんではない。
もっと複雑で多重人格的な人だが、清のようなまっすぐな愛情を尊ぶ性向は、明らかに漱石のものだったと思う。





148ページ 『漱石の孫』 著者・夏目房之介
2003年4月22日 初版第一刷発行
発行所・株式会社 実業之日本社




確かに、漱石自身は坊っちゃんではない。 でも、漱石自身も坊っちゃんの姿に自分自身のあるべき姿を見ていたはずですよう。



どうしてデンマンさんは、そのような事をおっしゃるのでござ~♪~ますか?

孫の房之介さんは、更に次のように書いていた。


本当の自分を持つ


(natsume.jpg)

「真に目覚める日本」とは、個人におきかえれば「本当の自分」を自覚することになる
いわば「坊っちゃん」のように、内面と外面が一致する偽善のない姿を意味するのだろう。
これを問うことが漱石の文学的主題にもなったが、一方で、つねに自分の内面に問い続ける、資質的で内面的な視線を強化することにもなった。
また漱石は、その主題を「個人主義の確立」という公共社会的な課題にして、本当に「中身」のある近代を視野に入れようとした。

 (中略)

ともあれ漱石は、日露戦争直前の、明治国家が世界における存亡を強く意識して極度に緊張した時期に留学したのである。
自己肥大どころか、自分は、日本は、貧弱な猿真似をしているに過ぎないのではないか、という意識を心に抱いて帰った。
そのことが、以後の日本の自己肥大化から距離をおいた文明論的な場所を漱石に与えたともいえる。

 (中略)

「国家は大切かもしれないが、そう朝から晩まで国家国家といってあたかも国家に取り付かれたような真似はとうてい我々にできる話ではない。(略)
事実出来ないことをあたかも国家のためにするごとく装うのは偽りである。(略)
国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見えることです。
元来国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありゃしません。
詐欺をやる。誤魔化しをやる、ペテンにかける、滅茶苦茶なものであります。」
(夏目漱石 『私の個人主義』 135-137ページ所収)

見事な指摘である。これを漱石は、日露戦争(1904-1905年)および第一次世界大戦(1914-1918年)の戦勝国となった日本で語っている。
国家と個人、国家と国家の関係において、この言葉は今でも説得力を持つ。

日本は、そののち「朝から晩まで国家国家」といわねばならない、「出来ない事」をできるといいはる国になり、「徳義」もないくせに「徳義」ヅラして(この点は欧米だって同じだが)、そして手ひどく(太平洋戦争で)負けた。
漱石の文明論的な視点は、そのあたりまで届いていた。




131-134ページ 『漱石の孫』 著者・夏目房之介
2003年4月22日 初版第一刷発行
発行所・株式会社 実業之日本社

『夏目漱石と成りすまし馬鹿』に掲載。
 (2009年8月11日)




つまり、僕は『漱石の孫』の上の部分を読んで、夏目漱石は当時の自己肥大しつつある日本帝国という国に居て、本当の自分を持つために苦悩していた。その事を赤裸々に小説化したのが「坊っちゃん」だと思えたのですよう。



要するに、苦悩する自分の姿を坊ちゃんになぞらえて書いたとデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか?

そうです。 




『弘中先生と坊っちゃん』より
(2017年4月7日)




つまり、行田で生まれて熊谷高校に通ったデンマンさんは弘中先生を介して『坊つちゃん』と 少しは関係があると言いたいのですか?



そういうことです。。。

でも。。。、でも。。。、デンマンさんは弘中先生に教わったことはないのでしょう!?

もちろん、教わったことはない。。。 時代が違いますよ。。。

。。。で、どうして冒頭の清と坊つちゃんを引用したのですか?

バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら その部分に出くわしたわけなのです。。。

それで、何か感じるものがあったのですか?

そうです。。。 「俺」は草双紙に出てくるような、父と清の間に生まれた子供だったという感じさえ生じてくるという箇所を読んで、ハッとしたのですよ。。。 そういう事を僕はこれまでに考えたこともなかった。。。 ごく自然に、書かれていたままに、清さんは「坊つちゃん」とは血のつながりのない年寄りの女中だとばかり思い込んでいた。。。 でもねぇ~、上の部分を読んだら、清さんは「坊つちゃん」の実の母親だと僕は信じるようになった。

それは、またどういうわけですか?

真由美ちゃんの その問いに答える前に、まず、僕が実家に出した手紙を読んでみてください。


2017年4月24日 月曜日

 

昨夜は突然の喜代司(きよし)さんの死亡の知らせを受け、
全く予期していなかったので驚きました。

喜代司さんの体は以前と比べれば弱っているとは言うものの
少なくとも まだ2年か3年ほどは生きているだろうと予測していたので
死亡の知らせは青天の霹靂でした。

考えてみると、お袋の死が喜代司さんに生きることの儚(はかな)さと
希望を失わせたのでしょうね。


 


(gorinju01.png)


(soshiki02.png)

 

高校生の頃電車に飛び込み自殺をしようと試みたことがあったけれど、
「俺が死んだらかあちゃんが悲しむだろうなァ~……」
そう思って思いとどまった
ということをお袋から聞かされた覚えがあります。

そう言う訳で私も去年の11月に帰省した時に、
「お袋よりも先に死ぬことだけはしないように……」と喜代司さんに言おうと思ったのですが……。
つい、言う機会を逃してしまいました。

しかし、喜代司さん自身にも、お袋よりも先に亡くなって悲しませたくないという気持ちがあったのでしょう!
だから、お袋が2月4日に亡くなって2ヶ月であの世に逝った言う事が
なんだか、寂しく一人でお墓に入っているお袋の話し相手にでもなろうと思って
お袋のそばに逝ったのだと…… そんな風に思えてきました。


そのように思うと喜代司さんの死が不憫ではなく、
なんだか心温まるようにも思えます。

ところで、4月28日の午後5時にお通夜をやるそうですが、
夕べ、よくよく考えた挙句、日本へ戻ってお通夜に参加することはやめます。

親父さんの葬式にも出なかった。
私は、もともとお通夜とか葬式という行事に意味を見出していないのです。

それで、親父さんが入院中には20日間ほぼ毎日見舞いに行田中央総合病院に通いました。
親父さんとは あまり話をしませんでしたが、その20日間には、
20年分ぐらいの話をしたように思います。

「死んで花実が咲くものか」と昔の人は言いましたが、
死んでから、お通夜やお葬式をしても、意味がないと思うのは、そういうためです。

お袋が亡くなったときに、通夜と葬式に参加したのは例外中の例外でした。
30年以上お葬式に出たことがない!

喜代司さんとも、お袋が亡くなった時に帰省して
食事を一緒にしたり、会ってそれなりに語り合えたことはよい思い出ができたと思います。

そういうわけで、もう20年ほど前から遺書を書き換えていますが、
つねに、自分の葬式は要らない。。。
遺体はバンクーバーの大学の医学部に寄付。
そのようにか固く決めています。

正造さんに、すべてを任せきって、自分が何もしないということを
心苦しく、我侭だとは思いますが、
通夜と葬式だけが亡くなった者を“ともらう”、というものでもないでしょう!

心の内でお袋に対しても、喜代司さんに対しても、充分に“ともらう気持ち”を持っています。
通夜や葬式は私にとって、形式だけの 時間と金を無駄にする行為に見えて、時には滑稽にも思えてきます。

仏教が葬式仏教になって、お葬式に100万円以上がかかるというのは、滑稽としか言えず、
正式にすると400万円もかかるというのは馬鹿バカしく思えてなりません。

 


(soshiki01.jpg)

 

坊さんに、合計で60万円も包むのは、さらに滑稽としか思えません。
「坊主まるもうけ!」とは、昔の人はよく言ったものです!

そういうわけで、今回の喜代司さんのお通夜と葬式には出ませんので、
親戚の人たちには、当たり障りのないように正造さんからよろしくお伝えください。

喜代司さんの葬式は、バンクーバーで私なりに心の内で“ともらいたい”と思います。
墓参りなども、私は全く信じておりません。

今年の秋には、これまでどおり行田に帰省して また食事を一緒にしながら語り合いましょう。。。

 


(hakamairi2.png)

 

喜代司さんのお骨も、親父とお袋のお骨と並んで 仲良くお墓の中に入っていることでしょうから、
その時には、例外中の例外で、お墓参りをしてあげようと思います。
心の内のお墓参りのつもりです。

ちなみに、お袋のお通夜と葬式に泰夫さん(デンマン注:お袋の実弟、故人)の妻の安子さんが
あれほど体が弱っているのに、参加してくれたのには、本当に驚きでした。
当時、お礼に伺おうと思っていたのに、ついつい行きそびれてしまいました。

今年の秋、もし健在であれば、蓮華寺にお墓参りした後で
安子さんを お見舞いしたいと思います。

 


(rengeji01.jpg)

 

勝手ではありますが、そのようなわけで喜代司さんの通夜とお葬式には欠席します。

あしからず……。

 

追伸:

たまたま、2016年10月6日の手紙を読みなおしたら
(フラッシュ・メモリーに下書きが保存されている)

次のように書いてありました。



(jizai20.jpg)

「もし、喜代司さんが2,3日間自宅に

戻れるような機会があるなら、

私と喜代司さんの二人で 那須高原へ旅行して

由香里ちゃんが働いている「自在荘ホテル」で

泊まろうと予定しています。

喜代司さんにとっても、いい思い出になるでしょう。。。」


残念ながら旅行ができるほどの体調ではありませんでした。

このことがマジで心残りです。

多佳子さんに電話で連絡するようなことがあれば、よろしく お伝えください。


_____________________
デンマン




『行田遠野物語』より
(2017年5月27日)




デンマンさんの弟さんの喜代司さんが亡くなった知らせを聞いて私もビックリしましたわァ。。。 行田の「とんでん」で親類の方たちが集まってご飯を一緒に食べたことがあって、その時 喜代司さんはお元気そうでした。。。 そのときの面影が鮮やかに思い浮かんでくるのですわァ~。。。



確かに、急に亡くなってしまったという印象ばかりが強いのですよ。。。

。。。で、その喜代司さんと“坊つちゃん”が関係あるのですか?

あります。。。 僕の弟の喜代司は体調が思わしくなかったのだけれど、僕が最後に会ったときには まだ1年や2年ぐらいは大丈夫だと思ったのですよ。。。 それがお袋が亡くなってから2ヶ月後に亡くなってしまった。

。。。で、デンマンさんは喜代司さんが お母さんの後を慕うようにして亡くなったと思ったわけですか?

そうです。。。 寂しく一人でお墓に入っているお袋の話し相手にでもなろうと思ってお袋のそばに逝ったのだと…… そんな風に思えてきたのですよ。。。 そう考えた時に 清と坊つちゃんの関係が 僕のオツムにふと思い浮かんできた。

どういう風に。。。?

「待つ」ことに馴れている清は、あの世でも「俺」の幸福を念じ、いつまでも待つのであろうと書いてありますよねぇ~。。。 清は、やがて“坊つちゃん”が20年後、30年後、あるいは40年後にやって来ることを心待ちにしているわけです。。。 喜代司は、それを察して お袋が待ちくたびれないように気を利かせて2ヵ月後に あとを追ったのですよ。

要するに、そのような二人の関係から、デンマンさんは清さんが“坊つちゃん”の実の母親だと信じるようになったわけですか?

そうです。。。 でもねぇ~、『坊つちゃん』は小説なのですよ。。。 漱石の孫の夏目房之介さんも「漱石自身は、坊っちゃんではない。 もっと複雑で多重人格的な人だが、清のようなまっすぐな愛情を尊ぶ性向は、明らかに漱石のものだったと思う」と書いている!

デンマンさんも、房之介さんに同意するのですか?

いや。。。 決して全面的に同意するわけではない。。。 確かに、“坊つちゃん”は漱石自身ではないかもしれないけれど、漱石は自分の戸籍上の母親は清のような人であって欲しい。。。 そう思いたかったのでしょうね。。。 漱石が幼児の頃に養子に出したことで 戸籍上の母親は後ろめたい気持ちを持っているのだろう。。。 そう考えながら、漱石自身は 清と坊つちゃんの関係に 自分と戸籍上の母親を重ねていたに違いない、と思えてきたのです。



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 (すぐ下のページへ続く)



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行田物語 坊つちゃん (PART 2)

2017-07-14 11:10:33 | ふるさと 行田市


 

行田物語 坊つちゃん (PART 2)


【デンマンの独り言】


(kato3.gif)

あなたは『坊つちゃん』を読んで どう思ったでしょうか?

ところで、真由美ちゃんは、ノース・バンクーバーでホームステーしながら
VCC (Vancouver Community College)にかよって
パン職人・ベーグル職人の勉強と実習に励んでいました。

去年(2016年)の9月に卒業式を終えて、
現在、バンクーバー市内の旨いベーグルを提供するカフェ・レストランで働いています。

忙しい時間を割いて、真由美ちゃんも僕の母親の葬式には参列してくれました。

学生時代には、先生やクラスメートとの英会話には、まごつくことがあったそうです。
外国語というのは習得するのが実に大変です。

あなたは英会話を勉強してますか?
できれば、英語を話している国へ行って英会話を勉強するのが一番です。

でもねぇ~、英会話を勉強する方法に王道はありません。
人それぞれです。。。
自分に合った勉強法を見つけるのが、英会話の上達の早道だと僕は思いますね。

同じことを同じように勉強しても、人によって上達が違うのですよ。
僕の経験で言っても、人によって、語学の才能というのはまちまちです。

太田将宏老人のように、40年もカナダに住んでいるのに
英会話が満足にできずに 6人に成りすまして日本語でブログにコメントを書きなぐって余生を過ごす人もいます。


なかには、日本語を忘れてしまうほど、英語にどっぷりと浸かってしまう人もいます。
20年以上英語圏で英語を話してますけれど、
僕は、漢字を忘れることはあっても、日本語を忘れることはありません。

もちろん、今でも、英語を話すよりも日本語を話す方が楽に話せます。
僕自身は語学の才能があるとは思ってませんが、
僕が、カナダ人と笑いながら話しているのを聞いていると、
真由美ちゃんには さっぱり 何を話しているのか解らないと言うのですよね。

僕がペラペラと英語を話しているように見えるのだそうです。
早くデンマンさんのように 英語がしゃべれるようになりたい、と真由美ちゃんは言います。

しかし、僕は、常に、英語を日本語のように しゃべれたら いいなと思っているのですよ。
外国語を母国語のように話すのは、本当に難しいと思います。

いずれにしても、真由美ちゃんは小さい頃からの夢が叶ってぇバンクーバーにやって来たのです!


(inflight2.jpg)


(airport1b.jpg)

ところで、あなたはバンクーバーに行ったことがありますか?

とっても素敵な街ですよ。


(stanley50.jpg)


(seawall3.jpg)


(seawall2.jpg)

世界で最も住みやすい街バンクーバー

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<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/g-fsEkcBAZM" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/Ze0G_iBjyMI" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(wetsuit.jpg)


(wetsuit3.jpg)


(gastown20.jpg)

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(canplace22.jpg)

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/-8HtDY9WRhU?feature=player_embedded" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

ビデオを見ても、なんだかワクワクしてくるでしょう?

卑弥子さんが バンクーバーにやって来たのは 2008年の元旦の2週間ほど前でした。

クリスマスをバンクバーで過ごして、それから元旦の“Polar Bear Swim (寒中水泳)”に参加したのです。


(polar10.jpg)

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/ThBHKGr0IoY" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

上のビデオを見ると、まるで真夏のようでしょう?

ところが気温は確か2度ぐらいでした。 

水の中の方が暖かかったのです。

とにかく、バンクーバーには面白い人たちがたくさん居ますゥ。

あなたも、お暇と お金の余裕があったらぜひ出かけてみてください。

では、また興味深い、面白い記事を書くつもりです。

だから、どうか、あなたも またやって来てくださいねぇ~~。
じゃあね。


(hand.gif)




If you've got some time,

Please read one of the following artciles:





(santa85b.jpg)

『サンタ マユミちゃん』

『お汁粉@海外』

『お汁粉@カナダ』

『支払いでトラブル』

『風邪で甘えてる場合じゃねぇ~!』

『バレンタインのお菓子』

『結婚、仕事、人生』

『命の力だね』

『英語と真由美ちゃん』

『海外に目を向ける』

『カーネギーホールじゃないよ』

『やる気があれば道は開ける』

『ニャンニャンと人生』


(juneswim.jpg)

『ピラミス@美術館』

『夢のバンクーバー』

『バンクーバーの屋上で』

『オランダ移住』

『カナダ移住の夢』

『ディープコーヴ』

『浴衣のバンクーバー』

『黒豚テリマヨ』

『イタリアのベーグルとサルサ』

『花火大会』

『乙女老い易く学成り難し』

『真由美ちゃん@英語』

『真由美ちゃんダントツ』

『日本よい国天国だ!』

『やっぱりどこか狂ってる』

『日本で再会』


(utsunomiya10.jpg)

『乙女力@宇都宮』

『いい出会いの連鎖』

『笑顔の乞食おばさん』

『ニュートンの暗い秘密』

『新年@バンクーバー』

『スープキッチン@新年』

『猫と癒し』

『猫と犬と癒し』

『大通りde水の滑り台』

『イルカとワンちゃん』

『カワウソ@スタンレー公園』

『生パンツ系男子とベトナム兵』

『愛と癒しの涙』

『ダンスとノーベル賞』

『おもてなし』

『思い出ポロポロ』

『ロブソンの5月』


(biker302.jpg)

『ネットが不倫を連れて来る』

『ペットと良心』

『夢のデニッシュ』

『パンツァネッラ』

『12歳少女の短命』

『行田の伯母さん』

『パン職人修行』

『タイムマシーン』

『ルンルンdeサルサ』

『天国のワンちゃん』

『万の風になって』

『プロシュット』


(juneswim.jpg)

『なせば鳴る音楽』

『日本人女学生行方不明』

『日本人女学生死亡』

『ガレット』

『那須高原の紅葉』

『希望とロマン』

『錯視 錯覚』

『マンボ@バンクーバー』

『オリーブオイル』

『スコーンとプディング』

『5月のロブソン』

『病院食の間違い』

『プレミアム・ジャパン』

『自然の摂理を無視すると…』

『夢のデニッシュ・悪夢のマーガリン』

『パリ風カフェ』

『どこか狂ってるわ』

『行田遠野物語』

『行田物語 ピアノ』

『行田物語 猫』

『行田物語 母の懐』

『行田物語 ケネディ暗殺』

『行田物語 病院食』

『行田物語 お股の花々』

『晩香坡物語 ジャズ』

『行田物語 悪夢』



(surfin2.gif)


(dogs17.gif)


(girlxx.gif)
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行田物語 悪夢 (PART 1)

2017-07-04 10:49:46 | ふるさと 行田市
 

行田物語 悪夢 (PART 1)

 


(oshi1.jpg)


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(mayumi55.jpg)


岸和田城


(kishiwada2.jpg)

 

応仁の大乱の後、畿内では豪族たちが争い、君臣や一族の間でも戦闘がくり広げられたが、下克上の代表的な人物は、細川氏の臣・三好長慶(みよしながよし)だった。
天文17年(1548)長慶は、細川春元を追い払い、和泉国(大阪府)の実権をにぎったが、これも下克上の一例であった。

永禄4年(1561)長慶の弟・安宅冬康(あたかふゆやす)が和泉の岸和田城を守っていると、紀州(和歌山県)有田城主の畠山高政が、根来(ねごろ)衆らをひきいて襲ってきた。
急を聞いて、三好氏の本拠・阿波(徳島県)から、冬康の兄・三好実休【じつきゅう】(義賢【よしかた】)が来援した。

岸和田城の近くに陣をしいた実休は、翌日の合戦にそなえて仮眠した。
すると、自分が殺した主君・細川持隆の亡霊があらわれ、抜刀して斬りかかってきた。
驚いた実休は、「しばらく」と手をあげると、筆をとって、辞世の歌をしたためた。



 

草からす

 

霜またきょうの

 

日に消えて

 

因果はここに

 

めぐり来にけり

 



 

したため終えたとたん、目が覚めた。

不思議なこともあるものと、このことを城内の冬康にしらせてやった。

冬康は、すぐ返歌をおくって励ました。



 

因果とは

 

はるか車の

 

輪の外に

 

めぐるも遠き

 

みよし野の山

 



 

翌日、久米田池の近くで、激しい戦いが行われた。

そして実休は、根来衆の放った矢に当たって、死んでしまった。

実休が討死した、と聞くと、冬康はたちまち辞世の歌を思い出し、気味がわるくなった。
そこで城を捨てて逃げ、とうとう阿波へ帰ってしまった。

ところが3年後、冬康は、長慶によって殺された。
長慶の臣・松永久秀が讒言(ざんげん)したのである。

 


(nihonsiro2.jpg)

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




187ページ 『日本の城ハンドブック新版』
監修者: 小和田哲男
2005年11月3日 第1刷発行
発行所: 株式会社 三省堂






デンマンさん。。。 今日は行田物語でしょう?


(kato3.gif)

そうです。。。

だけど、行田にあるお城は「忍城」でしょう!? 「岸和田城」は、大阪府の岸和田市にあったお城ですわァ~。。。 行田とは全く関係ないと思うのですけれど。。。

その通りです。。。  「岸和田城」は行田とは縁もゆかりもないのですよ。。。

それなのに、どうして「岸和田城」を持ち出してきたのですか?

あのねぇ~、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら、たまたま上のエピソードに出くわしたわけです。。。

上のエピソードと行田が関係あるのですかァ~?

そうです。。。 三好実休(じつきゅう)は主君の細川持隆を殺したのですよ。。。 それで、殺された細川持隆は実休の夢の中にまで現れて恨みを晴らそうとした。

つまり、三好実休は悪夢に悩まされたわけですねぇ~。。。

そうです。。。

そのことが行田物語と関係するのですか?

関係あるのです。。。 まず、僕が実家に出した手紙を読んでみてください。


2017年4月24日 月曜日

 

昨夜は突然の喜代司さんの死亡の知らせを受け、
全く予期していなかったので驚きました。

喜代司さんの体は以前と比べれば弱っているとは言うものの
少なくとも まだ2年か3年ほどは生きているだろうと予測していたので
死亡の知らせは青天の霹靂でした。

考えてみると、お袋の死が喜代司さんに生きることの儚(はかな)さと
希望を失わせたのでしょうね。


 


(gorinju01.png)


(soshiki02.png)

 

高校生の頃電車に飛び込み自殺をしようと試みたことがあったけれど、
「俺が死んだらかあちゃんが悲しむだろうなァ~……」
そう思って思いとどまった
ということをお袋から聞かされた覚えがあります。

そう言う訳で私も去年の11月に帰省した時に、
「お袋よりも先に死ぬことだけはしないように……」と喜代司さんに言おうと思ったのですが……。
つい、言う機会を逃してしまいました。

しかし、喜代司さん自身にも、お袋よりも先に亡くなって悲しませたくないという気持ちがあったのでしょう!
だから、お袋が2月4日に亡くなって2ヶ月であの世に逝った言う事が
なんだか、寂しく一人でお墓に入っているお袋の話し相手にでもなろうと思って
お袋のそばに逝ったのだと…… そんな風に思えてきました。


そのように思うと喜代司さんの死が不憫ではなく、
なんだか心温まるようにも思えます。

ところで、4月28日の午後5時にお通夜をやるそうですが、
夕べ、よくよく考えた挙句、日本へ戻ってお通夜に参加することはやめます。

親父さんの葬式にも出なかった。
私は、もともとお通夜とか葬式という行事に意味を見出していないのです。

それで、親父さんが入院中には20日間ほぼ毎日見舞いに行田中央総合病院に通いました。
親父さんとは あまり話をしませんでしたが、その20日間には、
20年分ぐらいの話をしたように思います。

「死んで花実が咲くものか」と昔の人は言いましたが、
死んでから、お通夜やお葬式をしても、意味がないと思うのは、そういうためです。

お袋が亡くなったときに、通夜と葬式に参加したのは例外中の例外でした。
30年以上お葬式に出たことがない!

喜代司さんとも、お袋が亡くなった時に帰省して
食事を一緒にしたり、会ってそれなりに語り合えたことはよい思い出ができたと思います。

そういうわけで、もう20年ほど前から遺書を書き換えていますが、
つねに、自分の葬式は要らない。。。
遺体はバンクーバーの大学の医学部に寄付。
そのようにか固く決めています。

正造さんに、すべてを任せきって、自分が何もしないということを
心苦しく、我侭だとは思いますが、
通夜と葬式だけが亡くなった者を“ともらう”、というものでもないでしょう!

心の内でお袋に対しても、喜代司さんに対しても、充分に“ともらう気持ち”を持っています。
通夜や葬式は私にとって、形式だけの 時間と金を無駄にする行為に見えて、時には滑稽にも思えてきます。

仏教が葬式仏教になって、お葬式に100万円以上がかかるというのは、滑稽としか言えず、
正式にすると400万円もかかるというのは馬鹿バカしく思えてなりません。

 


(soshiki01.jpg)

 

坊さんに、合計で60万円も包むのは、さらに滑稽としか思えません。
「坊主まるもうけ!」とは、昔の人はよく言ったものです!

そういうわけで、今回の喜代司さんのお通夜と葬式には出ませんので、
親戚の人たちには、当たり障りのないように正造さんからよろしくお伝えください。

喜代司さんの葬式は、バンクーバーで私なりに心の内で“ともらいたい”と思います。
墓参りなども、私は全く信じておりません。

今年の秋には、これまでどおり行田に帰省して また食事を一緒にしながら語り合いましょう。。。

 


(hakamairi2.png)

 

喜代司さんのお骨も、親父とお袋のお骨と並んで 仲良くお墓の中に入っていることでしょうから、
その時には、例外中の例外で、お墓参りをしてあげようと思います。
心の内のお墓参りのつもりです。

ちなみに、お袋のお通夜と葬式に泰夫さん(デンマン注:お袋の実弟、故人)の妻の安子さんが
あれほど体が弱っているのに、参加してくれたのには、本当に驚きでした。
当時、お礼に伺おうと思っていたのに、ついつい行きそびれてしまいました。

今年の秋、もし健在であれば、蓮華寺にお墓参りした後で
安子さんを お見舞いしたいと思います。

 


(rengeji01.jpg)

 

勝手ではありますが、そのようなわけで喜代司さんの通夜とお葬式には欠席します。

あしからず……。

 

追伸:

たまたま、2016年10月6日の手紙を読みなおしたら
(フラッシュ・メモリーに下書きが保存されている)

次のように書いてありました。



(jizai20.jpg)

「もし、喜代司さんが2,3日間自宅に

戻れるような機会があるなら、

私と喜代司さんの二人で 那須高原へ旅行して

由香里ちゃんが働いている「自在荘ホテル」で

泊まろうと予定しています。

喜代司さんにとっても、いい思い出になるでしょう。。。」


残念ながら旅行ができるほどの体調ではありませんでした。

このことがマジで心残りです。

多佳子さんに電話で連絡するようなことがあれば、よろしく お伝えください。


_____________________
デンマン




『行田遠野物語』より
(2017年5月27日)




デンマンさんの弟さんの喜代司さんが亡くなった知らせを聞いて私もビックリしましたわァ。。。 行田の「とんでん」で親類の方たちが集まってご飯を一緒に食べたことがあって、その時 喜代司さんはお元気そうでした。。。 そのときの面影が鮮やかに思い浮かんでくるのですわァ~。。。



確かに、急に亡くなってしまったという印象ばかりが強いのですよ。。。

。。。で、その喜代司さんと“悪夢”が関係あるのですか?

そうです。。。 高校生の頃電車に飛び込み自殺をしようと試みたことがあったけれど、「俺が死んだらかあちゃんが悲しむだろうなァ~……」 そう思って思いとどまったということを僕は お袋から聞かされたのですよ。。。

そもそも、飛び込み自殺を試みようとしたというのは、なぜなのですか?

今でこそイジメは 珍しくも何でもないけれど、昭和40年代には 世間ではイジメについてはそれほど騒がなかった。。。 でも、イジメはずっと昔からあったのですよ。。。

つまり、喜代司さんは高校生の頃にイジメにあったのですか?

そうなのです。。。 しかも、イジメをするのが担任の教師だった。。。 ここで、喜代司の性格を知るために、多佳子・叔母が書いた手紙も読んでみてください。。。


デンマンさんへ


(aunt201b.jpg)

 

お元気でしょうか?
通夜・葬送の儀 無事に済みました。

ところで、アナログ<--->デジタル どちらも伝達手段として使うのでしょうが、私は真の意味を論理的に知りません。
時計に例えるならば、私はアナログ派。
なんでも物質的なものは体で確かめたいタイプ。

多分、後々 その先々も PCに恋することはありません。
実際、PCの前に座るとき、決してときめきはありません。 恐怖でドキドキします。

本日 4月30日 (日曜日) 午前11時にデンマンさんのメールを拝読しました。
デンマンさんに また「宝の持ちぐされ」と揶揄されるかも知れませんが、メールのやり取りは 2015年の秋、デンマンさんが帰省時 私の家にフラッシュ・メモリーを忘れたときに「自遊空間」に居るデンマンさんへ、その件でメールして以来久しく使っていません。

なので、自分のアカウント名やパスワードを入力する時にはドキドキはさらに上昇。
どうぞ笑ってください。
そもそも私のPC使用の目的は、作文用原稿の升目を埋めるだけで十分なのです。

人は人にどれほどの真実を伝えられるかという事を考えたとき、メールを作動させるときは絶対、必要以外は使用しないと決めていました。
理由は二つ。

①下手である。

②追い立てられているような強迫観念に付きまとわれる(神経疾患だと思う)。

今日はメールで返事をと考えていたのですが、なにやら入力する箇所がいくつかあって、またとんでもなくグチャグチャになる可能性が見えるので郵便に変更しました。

 


(gal132.jpg)

 

まず喜代司君のご冥福を祈ります。
私はデンマンさんと全く同じ事を考えていた事柄があります。

いろいろな説があるようですが、死没して77日経過すると死者は神の世界に入る。
これは夫の実家である東京の洗足の菩提寺の住職の説法だった記憶があります。
それまでは東雲(しののめ)の光に照らされた朝霧のように、家や家人の周りを廻り、安穏であるように導いている。

私は正造さんから訃報を受けて、すぐに芳江さん(デンマン注:僕のお袋であり、多佳子の一番上の姉)の命日から指を折ったら80日。
まさに霊から仏へと渡り行く時で、芳江さんが神様となり、デンマンさんと正造さんの苦労するであろうことを慮(おもんばか)り、また喜代司君の病苦から救い、母親の懐に呼び寄せたと感じ取りました。
この事を正造さんに話したら、デンマンさんも同じよなことを言っていたそうですね。

棺の中の喜代司君は佐吉・お父さんにそっくりでした。
考えるに加藤家の脳力(能力)の高さは父方のゲノム(genom)だと確信しました。
母方、つまり、犬塚の私の実家の脳力は並です。

精進落としの会食の際に、喜代司君の小学校の担任の先生(広田先生)と隣の席になりました。
彼の逸話、特に体育への比類ない努力と、その成果を力説していました。

どちらの家庭でもそうですが、長男・長女は特別で、喜代司君も長男のデンマンさんの影に隠れてしまっていて、私などは初耳でした。

私の健康を心配してくださりありがとう。
年齢の域だからと一言で片付けてしまえばそれまでですが、知らせがあった後、私は無理は禁物と葬儀のみに出席と正造さんに伝えました。
「ところでデンマンさんは?」
「来ないそうです」

いったん電話を置いたものの、正造さん一人で喜代司君を葬送するこの状況は考えられず、一番近い私は行くきりないと悲しさに胸の詰まるのを押さえて通夜と葬儀に伺うことを伝えました。
この時、思わず言ってしまいました。
「デンマンさんて しょうがないわねぇ~……!」

通夜は三男の修と臨席。
長男は仕事の都合で出られませんでした。
翌日の葬儀には厚子さんが車で送ってくれました。

美智子は母親のつねちゃんの代わりに出席しました。
喜代司さんの従弟の敏文君(通夜は夫婦で)と恵次君も見えました。

私はお葬式の最後のお別れで棺にお花を埋飾する際、喜代司君の知らなかった一生懸命さを想い不覚にも涙を落としました。

芳江さんの場合、日本人の平均寿命を越えた大往生。

 


(tengoku02.jpg)

 

悲しみよりはむしろ祝典の儀と勝手にとらえ、
私自身を重ねてみて、とても真似ることができない長寿にむしろ羨ましさを感じたくらいでした。

このことを正造さんに話したら、母子である正造さんと姉妹である私とでは立場上感受性の違いがあるのでしょう。
正造さんが一瞬顔を曇らせたので失言だったなと思った次第です。
でも、これは私の本当の気持ちでした。

行田の家に戻ったとき、正造さんにお願いしました。
「立派な仏壇があるのだから、宗教に関係なく3人の位牌を一緒に安置して貰いたい」
正造さんも同じ気持ちでした。

我が家の2階にある自称書斎から、前方の勝願寺の森を見ると、緑が日毎に色濃く変化しています。

 


(woods01.jpg)

 

若者たちは“この素晴らしき世界”と歌のような心地でしょうが、気温20度から25度に慣れない気だるさも手伝って、芽吹きの季節をうっとうしく感じます。

デンマンさんの言う儚さ。
私も同じく儚む方向に磁石の針が強く動いています。

今、短編・中編と2本平行しています。
いつも同じ事を言っていますが、私の死没までに家族に伝わるような編み方が完了すればと深く念じている毎日です。

正造さんが最後のお別れに棺に向かって言っていました。
「秋になったらデンマンさんと納骨しますから……」

合掌。

 


(gassho2.jpg)

 

それではデンマンさん、体に気をつけて……。

健康は自己責任でいきましょう。

お互いにね……。

追伸: 最後の方は疲れたので支離滅裂のようです。 意味不明な箇所もあるようですが宜しく読解のほどを……。

 

かしこ

 


(aunt201.jpg)

 

2017年4月30日 九条多佳子




『行田物語 母の懐』より
(2017年6月14日)




亡くなった喜代司の葬式に 僕は出席しなかったのだけれど、彼の小学校の担任の広田先生(女性)が、多佳子・叔母と精進落としの会食の際に同席して、いろいろと話をしたというのです。。。



喜代司さんは、陸上選手として頑張り屋だったのですか?

そうなのです。。。 性格も良くてクラスメートや担任の先生にも好かれるタイプだったのですよ。。。。

それが高校生になって、電車に飛び込み自殺しようと思うほどに どうして担任のT先生からイジメを受けたのですか?

あのねぇ~、高校生になってからは棒高跳びで国体を目指して頑張っていたのです。。。 でもねぇ~、先天的に脊椎に故障があったらしくて、棒高飛びを続けると半身不随になる危険があることが判って、本人はかなりショックを受けた。。。 それから、授業をサボって、グランドで自主トレーニングを始めるようになった。。。

そのことが元で担任のT先生とうまくゆかなくなってしまったのですか?

そうなのです。。。 母親も呼び出されたりして、担任の先生から「アイツは、本当にどうしようもない奴で 私の言うことなど何も聞かないのですよ」と、ムカつかれたらしい。。。

それで。。。?

「あの子は 3人の兄弟の中では一番大人しくて優しい子なのですよ。。。」と母が言ったので、担任の先生も、なんとか気持ちを落ち着けたらしい。。。 僕は、ガキの頃からイジメをやる方で、小学生の頃は、かなり憎まれた存在だった。。。 だから、弟の喜代司は僕には絶対に手向かいしなかった。 確かに大人しい優しい子供だったのですよ。。。 ところが、その大人しくって優しいはずの喜代司が、卒業してから、担任のT先生に脅迫の年賀状を出したと言うのです。


(koroshi3.jpg)



あらっ。。。 これは殺すと言う脅しの年賀状ですわねぇ~。。。!?



そうです。。。

どうして、そういう年賀状を出したと判ったのですか?

当時、僕の父親は校長を退職して鴻巣市役所で児童相談員として働いていた。。。 その脅迫の年賀状を持ってT先生は、真っ青な顔をして 親父のオフィスに出向いたと言うのです。。。 家に帰ってきてから、苦笑して僕に話したのですよ。。。 「虫も殺せない喜代司に 人が殺せるわけがない! T先生は、よほど喜代司をイジメて、後ろめたい気持ちがあったのだろうよ。。。 おそらく、悪夢に悩まされて眠れなかったのだろうなァ~。。。」

。。。で、その後 T先生はどうしたのですか?

警察沙汰にはしなかったらしい。。。 調べられると、T先生にも何か困ることでもあったらしい。。。 可笑しいのは、喜代司が「娘をよこせば許してやる」というようなことを言ったらしい。。。 (苦笑)

T先生の娘さんを人質(ひとじち)に取ろうとしたわけですかァ~? (真由美ちゃん、笑いをこらえています)

そうらしい。。。 つまり、そう言う可笑しなことを言うほど、喜代司にすれば腹に据えかねることだったらしい。。。

それで、T先生は。。。?

それでも警察に相談しなかったと言うことは、やはりT先生にも 喜代司が電車に飛び込み自殺するほどにイジメたという後ろめたい気持ちがあったのでしょう。。。 だから三好実休(じつきゅう)のように悪夢にも悩まされたようです。。。

それで、どうなったのですか?

悪夢に悩まされて、ストレスがたまって、T先生は胃癌にかかって死んでしまったのです。。。 イジメを受けた喜代司がT先生の悪夢に出てきて、安眠を妨げたのでしょうねぇ~。。。

マジで。。。? これってぇ、本当の話ですかァ~?

真由美ちゃんは、僕が冗談を言うために、こうして長々と行田物語を話したと思うのォ~?



(laugh16.gif)

 (すぐ下のページへ続く)





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行田物語 悪夢 (PART 2)

2017-07-04 10:48:45 | ふるさと 行田市


 

行田物語 悪夢 (PART 2)


【デンマンの独り言】


(kato3.gif)

真由美ちゃんは、ノース・バンクーバーでホームステーしながら
VCC (Vancouver Community College)にかよって
パン職人・ベーグル職人の勉強と実習に励んでいました。

去年(2016年)の9月に卒業式を終えて、
現在、バンクーバー市内の旨いベーグルを提供するカフェ・レストランで働いています。

忙しい時間を割いて、真由美ちゃんも僕の母親の葬式には参列してくれました。

学生時代には、先生やクラスメートとの英会話には、まごつくことがあったそうです。
外国語というのは習得するのが実に大変です。

あなたは英会話を勉強してますか?
できれば、英語を話している国へ行って英会話を勉強するのが一番です。

でもねぇ~、英会話を勉強する方法に王道はありません。
人それぞれです。。。
自分に合った勉強法を見つけるのが、英会話の上達の早道だと僕は思いますね。

同じことを同じように勉強しても、人によって上達が違うのですよ。
僕の経験で言っても、人によって、語学の才能というのはまちまちです。

太田将宏老人のように、40年もカナダに住んでいるのに
英会話が満足にできずに 6人に成りすまして日本語でブログにコメントを書きなぐって余生を過ごす人もいます。


なかには、日本語を忘れてしまうほど、英語にどっぷりと浸かってしまう人もいます。
20年以上英語圏で英語を話してますけれど、
僕は、漢字を忘れることはあっても、日本語を忘れることはありません。

もちろん、今でも、英語を話すよりも日本語を話す方が楽に話せます。
僕自身は語学の才能があるとは思ってませんが、
僕が、カナダ人と笑いながら話しているのを聞いていると、
真由美ちゃんには さっぱり 何を話しているのか解らないと言うのですよね。

僕がペラペラと英語を話しているように見えるのだそうです。
早くデンマンさんのように 英語がしゃべれるようになりたい、と真由美ちゃんは言います。

しかし、僕は、常に、英語を日本語のように しゃべれたら いいなと思っているのですよ。
外国語を母国語のように話すのは、本当に難しいと思います。

いずれにしても、真由美ちゃんは小さい頃からの夢が叶ってぇバンクーバーにやって来たのです!


(inflight2.jpg)


(airport1b.jpg)

ところで、あなたはバンクーバーに行ったことがありますか?

とっても素敵な街ですよ。


(stanley50.jpg)


(seawall3.jpg)


(seawall2.jpg)

世界で最も住みやすい街バンクーバー

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/TQqO1__1bzk" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/g-fsEkcBAZM" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/Ze0G_iBjyMI" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(wetsuit.jpg)


(wetsuit3.jpg)


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<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/IH_5xsua-NQ" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(canplace22.jpg)

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/-8HtDY9WRhU?feature=player_embedded" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

ビデオを見ても、なんだかワクワクしてくるでしょう?

卑弥子さんが バンクーバーにやって来たのは 2008年の元旦の2週間ほど前でした。

クリスマスをバンクバーで過ごして、それから元旦の“Polar Bear Swim (寒中水泳)”に参加したのです。


(polar10.jpg)

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/ThBHKGr0IoY" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

上のビデオを見ると、まるで真夏のようでしょう?

ところが気温は確か2度ぐらいでした。 

水の中の方が暖かかったのです。

とにかく、バンクーバーには面白い人たちがたくさん居ますゥ。

あなたも、お暇と お金の余裕があったらぜひ出かけてみてください。

では、また興味深い、面白い記事を書くつもりです。

だから、どうか、あなたも またやって来てくださいねぇ~~。
じゃあね。


(hand.gif)




If you've got some time,

Please read one of the following artciles:





(santa85b.jpg)

『サンタ マユミちゃん』

『お汁粉@海外』

『お汁粉@カナダ』

『支払いでトラブル』

『風邪で甘えてる場合じゃねぇ~!』

『バレンタインのお菓子』

『結婚、仕事、人生』

『命の力だね』

『英語と真由美ちゃん』

『海外に目を向ける』

『カーネギーホールじゃないよ』

『やる気があれば道は開ける』

『ニャンニャンと人生』


(juneswim.jpg)

『ピラミス@美術館』

『夢のバンクーバー』

『バンクーバーの屋上で』

『オランダ移住』

『カナダ移住の夢』

『ディープコーヴ』

『浴衣のバンクーバー』

『黒豚テリマヨ』

『イタリアのベーグルとサルサ』

『花火大会』

『乙女老い易く学成り難し』

『真由美ちゃん@英語』

『真由美ちゃんダントツ』

『日本よい国天国だ!』

『やっぱりどこか狂ってる』

『日本で再会』


(utsunomiya10.jpg)

『乙女力@宇都宮』

『いい出会いの連鎖』

『笑顔の乞食おばさん』

『ニュートンの暗い秘密』

『新年@バンクーバー』

『スープキッチン@新年』

『猫と癒し』

『猫と犬と癒し』

『大通りde水の滑り台』

『イルカとワンちゃん』

『カワウソ@スタンレー公園』

『生パンツ系男子とベトナム兵』

『愛と癒しの涙』

『ダンスとノーベル賞』

『おもてなし』

『思い出ポロポロ』

『ロブソンの5月』


(biker302.jpg)

『ネットが不倫を連れて来る』

『ペットと良心』

『夢のデニッシュ』

『パンツァネッラ』

『12歳少女の短命』

『行田の伯母さん』

『パン職人修行』

『タイムマシーン』

『ルンルンdeサルサ』

『天国のワンちゃん』

『万の風になって』

『プロシュット』


(juneswim.jpg)

『なせば鳴る音楽』

『日本人女学生行方不明』

『日本人女学生死亡』

『ガレット』

『那須高原の紅葉』

『希望とロマン』

『錯視 錯覚』

『マンボ@バンクーバー』

『オリーブオイル』

『スコーンとプディング』

『5月のロブソン』

『病院食の間違い』

『プレミアム・ジャパン』

『自然の摂理を無視すると…』

『夢のデニッシュ・悪夢のマーガリン』

『パリ風カフェ』

『どこか狂ってるわ』

『行田遠野物語』

『行田物語 ピアノ』

『行田物語 猫』

『行田物語 母の懐』

『行田物語 ケネディ暗殺』

『行田物語 病院食』

『行田物語 お股の花々』

『晩香坡物語 ジャズ』



(surfin2.gif)


(dogs17.gif)


(girlxx.gif)
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行田物語 お股の花々 (PART 1)

2017-06-24 11:02:18 | ふるさと 行田市
 

行田物語 お股の花々 (PART 1)

 





(omata03.png)



(lotus102c.jpg+cleoani.gif+spacer.png+mari92.png)


空耳力(そらみみぢから)をつける



 

「おマタのハナハナ イヤイヤよ~」

娘が今日も朝からたのしそうに歌っている。

「お股の花々が いやいや?」と思って、ことばのリズムをよく聞いてみると、「ああ、あの歌か!」とわかった。

Old McDonald's Farm (「マクドナルドじいさん」)という英語の童謡だ。

2歳になったばかりの娘としては、この歌の出だしを歌っているつもりだったのだ。

Omatano hanahana iyaiyayo!

Ol' McDonaldo had a farm E・I・E・I・O!

「おまくだーな はどふぁむ いーあいーあいおー」

空耳アワー的に聞けば、「おマタのハナハナ イヤイヤよ~」と聞こえないこともない。
子どもなりに自分の知っている日本語として解釈して歌ったのだろうか。

いや、ひょっとして逆の原理か?
娘は、Ol' McDonaldo had a farm E・I・E・I・O と歌っているのに、母親には「おマタのハナハナ……」に聞こえてしまうとか?

そういえば、親戚の女性(60代後半)は実際、この歌のビデオをいっしょに見ていると、「あらぁ、初めて知ったわ。 この最後の部分は、『イヤイヤよ』じゃなくて、『イー・アイ・イー・アイ・オー』だったのね」と驚いていた。

知らない語を自分の耳慣れたことばに引きつけてしまうというのは、おとなのほうがやりがちだ。
子どもは案外、聞いたままを覚えて使っている。

 


(oldmac01.jpg)

<iframe width="420" height="320" src="https://www.youtube.com/embed/nFX98pqzb3o" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

 

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




75-76ページ 『孕むことば』
著者: 鴻巣友季子
2008年5月22日 第1刷発行
発行所: 株式会社 マガジンハウス






デンマンさん。。。 上のYouTubeの歌を聴いても 私には“お股の花々が いやいやよ~”とは聞こえませんでしたけれど。。。


(kato3.gif)

僕だってぇ、そのようには聞こえませんでしたよ。。。

私の耳が英語に向いていないのかと思いましたわァ~。。。

いや。。。 そのようなことはありません。。。 真由美ちゃんは、けっこう英会話に対して敏感な耳を持ってますよ。。。

あらァ~、デンマンさんは そう思うのですか? どうして、そのように思ったのですか?

あのねぇ~、いつだったか ロブソン・ストリートを僕と真由美ちゃんで一緒に歩いている時に、“I'm fresh out. と言っているのが聞こえたのですけれど、どういう意味ですか?”と僕に尋ねた事があったのですよ。。。

そんなことがありましたァ~?

あったのですよ。。。 ん? そんな事を言っていた人があったのォ~? 僕には全く聞こえなかった。。。 つまり、真由美ちゃんは英会話を早くマスターしたいと思っていたから、耳が冴(さ)えていて、通りかったカナダ人の会話が耳に入ってきたわけですよ。。。 僕は、通り過ぎる人の会話など全く興味がないから、聞こえてないのですよ。。。 聞こえていたとしても、興味がないから記憶にないのです。。。

ところで、“I'm fresh out. ってぇ、どういう意味ですか?”

あれっ。。。 真由美ちゃんは忘れてしまったのォ~? 次のような意味ですよ。。。



Fresh Out




meaning:

The state of not having something

someone needs at a giving time.

 

The state of running out of something

just as someone needs/wants it.




example:

John: Hey, do you have any gum?

(あのさァ~、 ガム持ってるゥ?)

Matt: Sorry man, I'm fresh out.

(ごめん…、【全部 舐めてしまい】

 きらしちゃったよ。)





思い出しましたわァ。。。 駄目ですねぇ~。。。 尋ねても、使わないものだから、すぐに忘れてしまうのですわァ~。。。



仕方ないですよ。。。 英会話は、気長にボキャブラリーを溜め込むことですよ。。。 すぐには上達しないからねぇ~。。。

ところで、どういうわけで、お股の花々を取り上げたのですか?

あのねぇ~、僕のお袋は食べることと、お風呂に入ることが好きなのですよ。。。 だけど、自宅のお風呂場で転んでから、ハートフル行田という介護施設に通所して、お風呂に入りに行くことにしたのです。。。

その事とお股の花々が関係あるのですか?

お袋は、“要介護5”でしたから、足腰が弱っていて 一人で入浴は無理なのです。。。 それで、僕が帰省して実家に滞在していた時に、“お股を洗いましょうねぇ~”と言って介護師のお姉さんが ちゃんとアソコも洗ってくれるのだよ、と感心したように話してくれたことがあったのです。。。

その事がデンマンさんにとって印象的だったのですか?

そうですよ。。。 僕は、お股まで他人に洗ってもらうようになったら、たぶん生きている意味がないので自殺するかもしれない、とその時思ったものですよ。。。 (苦笑)

でも。。。、でも。。。、デンマンさんは自殺には絶対に反対なのではありませんかァ?

そうです。。。 自分の命を粗末にすることは、僕にはできないのですよ。。。 幸いに これまで自殺をしようという気持ちは一度もなかった。。。 でもねぇ~、寝たきりになったりすることを想うと、その時には、自殺して早く楽になりたいと想うようになった。。。 すると、自殺もありではないかと。。。

マジで。。。?

このような事を冗談では言えませんよ。。。 でもねぇ~、まだ20年や30年は僕の足腰は丈夫ですよ。。。

だけど。。。、何が起こるかは予測できませんわァ~。。。

確かにそうです。。。 それで、僕のお袋は亡くなってしまった。。。 注意していても、亡くなるきっかけというのは、どこにでも転がっているものなのですよ。。。 ちょっと次の記事を読んでみてください。。。



(kato3.gif)

行田総合病院の理事長の挨拶には次のように書かれています!



(docriji.png)

かけがえのない命を守る

病気の予防から治療、さらには介護や在宅医療の支援まで、
患者さま一人ひとりのニーズに応えられるサービスの提供が、
病院に求められるという考えから、医療・福祉の総合的な支援体制強化に注力。

現在では、介護老人保健施設ハートフル行田、在宅介護支援センター、
訪問看護ステーション、訪問介護ステーション、複合型介護保険施設心春(こはる)、
社会福祉法人壮幸会特別養護老人ホーム雅(みやび)を開設しています。


お気軽にお問い合わせください

TEL 048-552-1111
FAX :048-552-1116

〒361-0056 埼玉県行田市持田376





『行田総合病院の理事長の挨拶』より


そもそも、僕の母親が行田総合病院に

入院したきっかけとなったのは

「介護老人保健施設ハートフル行田」に入所していたときに

風呂場でころんで仙骨を骨折したことでした。



(heartful2.jpg)


老人保健施設ハートフル行田

〒361-0037 埼玉県行田市下忍1157-1

TEL:048-554-9700(問い合わせ)

FAX:048-554-9730




それが原因で、寝たきりのような状態になったのです。

母親の退所に関しての報告書は受け取ったものの
骨折の件に関しての報告は一切なされてない!

この報告書の作成者は担当看護師の瀧澤さんです。

当時、僕が行田にいたなら、当然、ハートフル行田の担当の介護師の責任を追及したと思います。

どう見ても“業務上過失致傷”なのです。

僕が行田に帰省したのは2016年10月19日でしたが
僕に会うのを楽しみにしていた母がハートフル行田から実家に帰ってきたのが10月18日。
しかし、その翌日、僕が成田に着いたときには、すでに行田総合病院に入院したあとでした。

担当の吉田医師は特に悪質な医師だとは思いません。
江戸川病院で医療事故を起こして逃げ回る医者と比べれば
ずいぶんましな医師です。
しかし、“事なかれ主義”に凝り固まっているようです。

日本の医療制度にそって 入院医療報酬が削減されないように
患者を安定状態にして速やかに退院させることに努めている。

高齢者は どうせ、まもなく死ぬだろうという高をくくった医療だけを施しているように見えた。
なぜなら、僕は治療の件で呼び出されたことはない!

カロリーと水分の補給に関して呼び出されたのだけれど、
要は、次の病院はどこにするのか?
話を聞いていると、それを決めるのが最重要の件だと思われた。

しかも、入院中に母は脳梗塞を起こしてしまった。
その時に吉田医師が脳外科の専門医・波多野医師に問い合わせたのです。
t-PAという脳梗塞に効く薬があるのだけれど、
それは高齢者には適さないという。

吉田医師とモニターでカルテを見ながら話したのだけれど、
そのカルテには「患者は高齢者で体力が落ちているので この治療はナンセンス」と書いてある。

この文章はまるで素人が書いたような文章です。
専門の脳外科の医者が説明する文章とは思えない。
カルテの書き方を医学部で勉強してきたのか?

人によっては、66歳は高齢者だと見なす人だっているでしょう!
脳外科の専門医ならば、少なくとも次のように説明すべきです。


患者は満90歳以上であり、会話もできず、

目を瞑ったまま病床についている。

しかも、経口で固形食物を食べることができず

点滴で栄養を補給しており、

かなり体力が落ちているのを

認めることができる。

よって t-PAの投与は不適切と思われる。


少なくともこのように書いて欲しい。
吉田医師に尋ねると脳外科の専門医の波多野医師は
患者に直接会って診ていないという!

吉田医師に「不適切」な理由を具体的に訊くと
高齢者の場合、t-PAは副作用があり、
一時的によくなっても他の部位で大出血をして
亡くなる可能性が高い。
それでt-PAを投薬しなかったという。

しかし、ネットで調べると、すぐに次のサイトに出会うことができる。


“おばあさんがよくなった!”


(banzai03.jpg)

2006年のある夜、10時頃のことでした。
その日の仕事がやっと終わった私は、SCU(脳卒中集中治療室)に向かいました。

緊急入院した90歳代のおばあさんが、重症患者用ベッドで治療を受けていました。

目は閉じたままで、名前を呼んでも返事がなく、右手足は全く動きません。
「ご高齢で、これだけ重症だと命を救えるかどうか……。うまくいっても寝たきりだろう」と思いました。

おばあさんは、ある薬の注射中でした。
新薬のt-PAです。
「ご高齢でしたが、発症から病院到着まで1時間と早く、『適正治療指針』(後で説明します)にも適合していたので……」と当直医が説明してくれました。

この患者さんのことが気になった私は、翌朝いつもより早くSCUに出勤しました。
大変驚いたことに、患者さんはベッドに座り、自力で朝食中でした。

担当看護師が「先生が帰られた後で、意識が急速に回復し、手足のまひもなくなりました」と笑顔で報告してくれました。

新薬t-PAの効果を心から実感した瞬間でした。
数日後に患者さんは退院、歩いて自宅へ帰られました。





『脳梗塞の新しい治療法』より




つまり、90歳代のおばあさんであっても回復するのです。
僕の母親も このおばあさんと同じような様態だった。

ところが脳外科の専門医である波多野医師も、内科医の吉田医師もこの事実を知らない。
要するに、二人とも自己啓発をしていない“事なかれ主義”の平凡な医者に過ぎない。




『行田総合病院と事なかれ主義』より
(2016年11月27日)




。。。で、どうして上の記事を持ち出してきたのですか?



あのねぇ~、上の記事にも書いたけれど、母親の退所に関しての報告書は受け取ったものの骨折の件に関しての報告は一切なされてなかった! 退所に関する報告書の作成者は担当看護師の瀧澤さんだったので、僕は彼女を電話で呼び出して、その事を追求したのですよ。。。

つまり、ハートフル行田の担当の介護師の責任を追及したのですか?

そういうことです。。。 僕には、どう見ても“業務上過失致傷”だとしか思えなかった。。。 “ハートブック”という家族との連絡帳があるのだけれど、そのノートブックにも事故に関する方向は一切書いてない!

それで、デンマンさんは事故報告書があるのかどうか追求したのですか?

そうです。。。 そしたら、瀧澤さんの上司の野辺ミエ子さんが代わって、“事故報告書”はご家族には提出してませんが所内ではファイルにしてあります、という返事だった。。。 「家族に報告しないのはどういうことか!」と僕はキレたのですよ。。。

それで。。。?

「一応 ご家族の方には口頭で説明申し上げました」と言うことなので、僕もキレて暴言を吐いたことを反省したのだけれど、その報告書をすぐに郵送してくださいといって送ってもらったのですよ。。。 それが次の手紙と報告書です。。。



加藤様

 

ご連絡頂いた事故報告書を遅(ママ)らせて頂きます。

ご確認頂き、ご不明な点等ございましたらお手数をお

かけいたしますが、ご連絡頂ければ幸いです。

 

平成29年2月22日 ハートフル行田

通所リハビリテーション主任 野辺ミエ子




あのねぇ~、誤解がないように言うと、「ハートフル行田」という老人保健施設は決して悪徳でいい加減な施設ではありません。。。 お袋が10日ぐらい入所している時に、僕は小百合さんと一緒にお見舞いに訪れた事もあって、所員の働き振りなども観察しているのですよ。。。


(grandma6.jpg)



この時はお元気そうですわねぇ~。。。



亡くなる2年ほど前でしたよ。。。 お袋を預けて ある程度安心していられる施設なのだけれど、やっぱり、どの施設も完璧というわけじゃない。。。 人間は不完全だから、やっぱり落ち度はあるのですよ。。。 例えば、上の手紙です。。。 小さな事だけれど、このような重要な通信文に当て字を書いている!



事故報告書を遅(ママ)らせて頂きます。



事故報告書をらせて頂きます。



小さな事だけれど、こういう重要な通信文で、しかも3行ですよ。。。 どうして2度、3度と見直しをしないのか?

でも。。。、でも。。。、それは誰にでもある間違いだと思いますわァ。。。

でもねぇ~、場合が場合ですよ。。。 ムカついて裁判になるかもしれないと暴言を吐いた相手には、もっと慎重になるべきですよ。。。 しかも、事故報告書にも誤りがある!





   事故報告書




認め印

施設長:島田  R委員会:品田  所属長:野辺




報告年月日: 28年9月3日  

報告者: 横山 琴音

利用者氏名: 加藤 春江様    要介護度: 要介護5

利用状況: 通所

発生年月日: 28年9月3日 土曜日

発生時刻: 午前11時30分頃

発生場所: 一般浴槽    第一発見者: 横山 琴音

事故の種別: 転倒・転落




発生時状況

介助中 一般浴槽から段差を上がりきった所で

尻もちされた所を発見




発生直後の対応・処置

痛みの確認行うも訴え聞かれず、

手引きにて上がり湯希望にて

対応後 W/Cに座って頂き脱衣室へ移動。

フロアNS呼び外傷確認の為 立って頂くと

仙骨部より少量出血あり ゲンタシン、ガーゼ保護行う




事故の原因

● 脱衣室の利用者様を介助行っている際、

  お一人で階段を上って来られ、

  足をすべらせてしまった。

● 浴槽内まで付き添いした際

 「出る時は呼んで下さいね」と伝えるも

  呼ぶことがなかった




対応・対策

お一人で行える方だとしてもしっかり見守り行い

安全に入浴行えるよう職員が意識を高めていく




前回発生時期とその際の対策内容

 (同様の事故を2回以上繰り返している利用者のみ記入)




リスクマネジメント委員会記録







上のどこに誤りがあるのですか?



僕のお袋の名前は春江ではなく、春恵なのですよ。。。 しかも、この間違いに認め印を押した管理職の3人が気づいてない! “めくら印”を押したのですよ! つまり、所員に気の緩(ゆる)みができている! 杜撰(ずさん)な管理体制だというしかない!

でも、それ以外は問題がないように見えますけれど。。。

問題がありますよ。。。 対応・対策の箇所を見てください!



対応・対策

お一人で行える方だとしてもしっかり見守り行い

安全に入浴行えるよう職員が意識を高めていく



僕のお袋は要介護5 で、所内でも最も介護が必要な利用者なのですよ。。。 その利用者に対して、事故があってから、“お一人で行える方だとしてもしっかり見守り行い 安全に入浴行えるよう職員が意識を高めていく”というのは、正に“業務上過失致傷”なのですよ。。。 当然、やるべきことをやってなかったのだから。。。 真由美ちゃんも、そう思いませんか?

そうですわねぇ~。。。 で、デンマンさんは裁判に持ち込むのですか?

裁判に勝ったとしても、亡くなった人は生き返りませんからねぇ~。。。

でも。。。、慰謝料が入るでしょう?

お金が欲しいわけじゃないからねぇ~。。。

じゃあ、どうして、こうして記事にまで書くのですかァ~?

2度と こういう間違いをして欲しくないからですよ。。。 それに、この記事を読んでいるネット市民の皆さんに、もし介護の必要な高齢者がご家族の中にいたら、介護施設の間違いが元で死期を早めないように注意してもらいたいと思うからです。。。


 (すぐ下のページへ続く)



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行田物語 お股の花々 (PART 2)

2017-06-24 11:01:32 | ふるさと 行田市


 

行田物語 お股の花々 (PART 2)


【デンマンの独り言】


(kato3.gif)

高齢化社会になりました。

あなたのご家族に高齢者がいたら、

ぜひ、介護施設に任せきりにしないで、

常に監視の目を向けてくださいね。

ところで、真由美ちゃんの母親は 僕の従妹です。。。

つまり、僕の母親は真由美ちゃんにとって大伯母にあたります。


(mother002.jpg)

僕の母親が亡くなる2年ほど前に真由美ちゃんと一緒に撮った写真です。

真由美ちゃんは、ノース・バンクーバーでホームステーしながら
VCC (Vancouver Community College)にかよって
パン職人・ベーグル職人の勉強と実習に励んでいました。

去年(2016年)の9月に卒業式を終えて、
現在、バンクーバー市内の旨いベーグルを提供するカフェ・レストランで働いています。

忙しい時間を割いて、真由美ちゃんも僕の母親の葬式には参列してくれました。

学生時代には、先生やクラスメートとの英会話には、まごつくことがあったそうです。
外国語というのは習得するのが実に大変です。

あなたは英会話を勉強してますか?
できれば、英語を話している国へ行って英会話を勉強するのが一番です。

でもねぇ~、英会話を勉強する方法に王道はありません。
人それぞれです。。。
自分に合った勉強法を見つけるのが、英会話の上達の早道だと僕は思いますね。

同じことを同じように勉強しても、人によって上達が違うのですよ。
僕の経験で言っても、人によって、語学の才能というのはまちまちです。

太田将宏老人のように、40年もカナダに住んでいるのに
英会話が満足にできずに 6人に成りすまして日本語でブログにコメントを書きなぐって余生を過ごす人もいます。


なかには、日本語を忘れてしまうほど、英語にどっぷりと浸かってしまう人もいます。
20年以上英語圏で英語を話してますけれど、
僕は、漢字を忘れることはあっても、日本語を忘れることはありません。

もちろん、今でも、英語を話すよりも日本語を話す方が楽に話せます。
僕自身は語学の才能があるとは思ってませんが、
僕が、カナダ人と笑いながら話しているのを聞いていると、
真由美ちゃんには さっぱり 何を話しているのか解らないと言うのですよね。

僕がペラペラと英語を話しているように見えるのだそうです。
早くデンマンさんのように 英語がしゃべれるようになりたい、と真由美ちゃんは言います。

しかし、僕は、常に、英語を日本語のように しゃべれたら いいなと思っているのですよ。
外国語を母国語のように話すのは、本当に難しいと思います。

いずれにしても、真由美ちゃんは小さい頃からの夢が叶ってぇバンクーバーにやって来たのです!


(inflight2.jpg)


(airport1b.jpg)

ところで、あなたはバンクーバーに行ったことがありますか?

とっても素敵な街ですよ。


(stanley50.jpg)


(seawall3.jpg)


(seawall2.jpg)

世界で最も住みやすい街バンクーバー

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(wetsuit.jpg)


(wetsuit3.jpg)


(gastown20.jpg)

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(canplace22.jpg)

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/-8HtDY9WRhU?feature=player_embedded" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

ビデオを見ても、なんだかワクワクしてくるでしょう?

卑弥子さんが バンクーバーにやって来たのは 2008年の元旦の2週間ほど前でした。

クリスマスをバンクバーで過ごして、それから元旦の“Polar Bear Swim (寒中水泳)”に参加したのです。


(polar10.jpg)

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上のビデオを見ると、まるで真夏のようでしょう?

ところが気温は確か2度ぐらいでした。 

水の中の方が暖かかったのです。

とにかく、バンクーバーには面白い人たちがたくさん居ますゥ。

あなたも、お暇と お金の余裕があったらぜひ出かけてみてください。

では、また興味深い、面白い記事を書くつもりです。

だから、どうか、あなたも またやって来てくださいねぇ~~。
じゃあね。


(hand.gif)




If you've got some time,

Please read one of the following artciles:





(santa85b.jpg)

『サンタ マユミちゃん』

『お汁粉@海外』

『お汁粉@カナダ』

『支払いでトラブル』

『風邪で甘えてる場合じゃねぇ~!』

『バレンタインのお菓子』

『結婚、仕事、人生』

『命の力だね』

『英語と真由美ちゃん』

『海外に目を向ける』

『カーネギーホールじゃないよ』

『やる気があれば道は開ける』

『ニャンニャンと人生』


(juneswim.jpg)

『ピラミス@美術館』

『夢のバンクーバー』

『バンクーバーの屋上で』

『オランダ移住』

『カナダ移住の夢』

『ディープコーヴ』

『浴衣のバンクーバー』

『黒豚テリマヨ』

『イタリアのベーグルとサルサ』

『花火大会』

『乙女老い易く学成り難し』

『真由美ちゃん@英語』

『真由美ちゃんダントツ』

『日本よい国天国だ!』

『やっぱりどこか狂ってる』

『日本で再会』


(utsunomiya10.jpg)

『乙女力@宇都宮』

『いい出会いの連鎖』

『笑顔の乞食おばさん』

『ニュートンの暗い秘密』

『新年@バンクーバー』

『スープキッチン@新年』

『猫と癒し』

『猫と犬と癒し』

『大通りde水の滑り台』

『イルカとワンちゃん』

『カワウソ@スタンレー公園』

『生パンツ系男子とベトナム兵』

『愛と癒しの涙』

『ダンスとノーベル賞』

『おもてなし』

『思い出ポロポロ』

『ロブソンの5月』


(biker302.jpg)

『ネットが不倫を連れて来る』

『ペットと良心』

『夢のデニッシュ』

『パンツァネッラ』

『12歳少女の短命』

『行田の伯母さん』

『パン職人修行』

『タイムマシーン』

『ルンルンdeサルサ』

『天国のワンちゃん』

『万の風になって』

『プロシュット』


(juneswim.jpg)

『なせば鳴る音楽』

『日本人女学生行方不明』

『日本人女学生死亡』

『ガレット』

『那須高原の紅葉』

『希望とロマン』

『錯視 錯覚』

『マンボ@バンクーバー』

『オリーブオイル』

『スコーンとプディング』

『5月のロブソン』

『病院食の間違い』

『プレミアム・ジャパン』

『自然の摂理を無視すると…』

『夢のデニッシュ・悪夢のマーガリン』

『パリ風カフェ』

『どこか狂ってるわ』

『行田遠野物語』

『行田物語 ピアノ』

『行田物語 猫』

『行田物語 母の懐』

『行田物語 ケネディ暗殺』

『行田物語 病院食』



(surfin2.gif)


(dogs17.gif)


(girlxx.gif)
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行田物語 病院食 (PART 1)

2017-06-19 10:52:28 | ふるさと 行田市
 

行田物語 病院食 (PART 1)

 


(hosfood01.jpg)


(hosfood05.jpg)


(nurse3.jpg)


(mayumi40.jpg)


好きなものを食べさせてください

 


(doctor13.gif)

 

「父が鰻を食べたがるのですが、大丈夫でしょうか」

申し訳ないですが、ご遠慮願います、鰻は危険です。

そういわれると予測していたが、あにはからんや、あっけらかんと、
「大丈夫ですよ」

「でも小骨が喉に引っかかったり肺に入っちゃったりしたら……?」

すると会長先生、ニッコリ笑って、
「好きなものは喉に引っかからないものなんです」

会長がさらに付け加えることには、
「イタリア人は、おいしいものが食べられなくなったら生きている意味がないと考えるそうです。私はその意見に大いに賛成でして、特別な疾患がないかぎり、『身体に悪い』と何もかも規制する前に、できるだけ『おいしい』と思っていただく努力をしたいと思っています

その考えをもってして入院患者と接してくれるこの病院に食い意地の張っている父を入れてよかったと、私はそのとき心の底から安堵した。

これからは、多少カロリーが高そうだとか老齢には脂がきつそうだとか、余計な素人判断は捨てることにしよう。

いざとなったら「我々がちゃんと診ています」とお医者様もおっしゃってくださった。

家族としては、父が「食べたい」と求めるものを食べさせればいい。

 


(banzai03.jpg)

 


(agawa01.jpg)

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




41-42 ページ 『強父論』
著者: 阿川佐和子
2016年9月10日 第5刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋






デンマンさん。。。 また“病院食”を取り上げるのですか?


(kato3.gif)

あのねぇ~、実は、バンクーバー図書館で借りていた本を読んでいたら上の箇所に出くわしたのですよ。。。

それで、また“病院食”を取り上げる気になったのですか?

そうです。。。 やっぱり、多くの高齢者の家族が年寄りが病気になったら、なるべく おいしいものを食べさせてやりたいと思っていのですよ。。。 阿川佐和子さんも、お父さんで作家の阿川弘之さんが入院した時に、鰻を食べたがるので ぜひ食べさせてあげたいと思ったわけですよ。。。

でも、年寄りの病人に鰻というのは、常識的にも、ちょっとダメですよねぇ~。。。

確かに、佐和子さんも、鰻はちょっとダメなんじゃないだろうか?。。。と思ったわけですよ。。。 でも、意外に会長先生はOKだと言ったわけですよねぇ~。。。

私も、上の小文を読んで、意外な感じがしましたわァ~。。。

でしょう?。。。 でもねぇ~、現在、日本の医者や看護師の多くが、医学的な迷信に囚われていると思うのですよ。。。 たとえば、次のように。。。



(sayuri55.gif)

デンマンさん。。。お母さんは退院なさったのですか?


(kato3.gif)

一度退院したけれど、また入院ですよ。

今度もまた行田中央総合病院ですか?

いや。。。今度は行田総合病院です。

あらっ。。。同じ病院ではないのですか?

「中央」がぬけると全く違う病院になるのですよ。

どうして行田中央総合病院ではなく、行田総合病院にしたのですか?

あのねぇ、僕は行田中央総合病院のフィードバック・フォームに医療食について苦情と要望を書いたのですよ。


皆様のご意見をお聞かせください。


(uncle006.gif)

皆様にご満足戴ける病院を目指してスタッフ一同努力しておりますが、様々な観点において皆様からお気付きの点・ご意見等がありましたら、ご遠慮なくお聞かせください。

記入日: 平成24年10月6日

207号室でお世話になっている患者(私の母)の長男、デンマンという者です。
スタッフの皆様の医療には感謝しております。

さて、母の食事表を見ますと、10月1日(月)には主食・副食ともハシをつけているようです。
しかし、日数が重なってゆき10月5日(金)、10月5日(土)を見ますと、主食・副食ともにゼロです。(食べていません。)
病院理念を見ますと「病気を診ずして病人を診よ」となっていますが、理念と現実があまりにもかけ離れているのを感じます。

貴医院のパンフレットを拝見しますと、食欲をそそられる素晴らしい(医療食の)写真が掲載されています。


(hospfood.jpg)

ところが実際の医療食を見ますと、見ただけでもまずそうで、食欲を無くすようなメニューになっています。

貴医院には専属の栄養士・調理師は居ないのでしょうか?
母の生きがいは「食」にあります。

医療食とはいえ、患者の好みに応じたメニューを提供して欲しいと強く感じます。
なぜなら、入院中の患者にとって食事が唯一の楽しみだと思うからです。

医療食が人生の最後の食事になる患者さんも居ることでしょう。
「病気を診ずして病人を診よ」という理念に基づいて病人の気持ちと病状を考慮した医療食を提供していただきたいと切にお願いします。

宜しくお願いします。
乱筆で失礼いたします。



デンマン

行田市行田 TEL: 0485 (54) 9999




『ネットと行田中央総合病院』より
(2012年10月14日)




このフォームが問題になったのですか?



そうなのですよ。 お袋の様態が悪化したので行田中央総合病院に入院させようとしたのだけれど、「医療食にきめの細かい配慮ができませんので、もっと大きな病院に入院させてはいかがですか!?」と丁重に断られてしまったのですよ。

それで、どうなさったのですか?

しかたがないから行田総合病院に連絡をとって引き受けてもらったのですよ。

。。。で、救急車で搬送したのですか?

そうです。 僕が救急車に乗って付き添っていったのです。 救急車に付き添いで乗るのは生まれて2度目の経験ですよ。

最初はどのような事故で救急車に乗ったのですか?

いや。。。事故ではなく最初の時もお袋の様態が急におかしくなったので僕が救急車を呼んで行田中央総合病院へ搬送するように頼んだのですよ。

つまり、行田中央総合病院には昔からお世話になっているのですわね?

その通りです。 でもねぇ、その時にも院長先生に苦情を言ったものだから、よほど口うるさい息子がいるというので敬遠されたのですよ。 たぶん。

。。。で、行田総合病院の対応はどうでしたの?

それがねぇ、意外にも迅速に対応したのですよ。 嬉しい驚きでしたよ。

デンマンさんが嬉しがるほどの迅速な対応だったのですか?

そうなのです。




『病院の悪い評判』より
(2012年11月4日)




つまり、病院食がまずそうなので、やがてお母さんが食べる気が無くなってしまったのですか?



僕が見ても食べたくなるようなものじゃなかった。。。 ある日、梨が食べたいと言ったので、僕は梨を持って行って、皮をむいてお皿の上に出して母親がうまそうに食べるのを眺めていた。。。 そしたら、看護婦さんがやって来て、あとで分かったのだけれど、僕があまりにも堂々と梨を食べさせているので、唖然としてそのまま何も言わずに病室から出て行ってしまったようです。。。 もちろん、その時、僕はたいして看護婦さんの行動に気をとられていなかった。

それで。。。?

翌日、見舞いに行ったら、ベッドの上に、縦横40センチぐらいのカードボードがぶら下がっていて、マジックでなにやら書いてある。。。

 


 

患者様に、病院食以外の
 

食べ物は
 

食べさせないでください。
 

宜しくお願いします。

 


 



デンマンさんに直接注意しないで、わざわざカードボードに書いたのですか?



僕はどうやらクレーマーとして病院のブラックリストに載っているらしい。。。 (苦笑) 僕に注意すると、10倍ぐらいの苦情が返ってくると思うのか、“触らぬ神にたたり無し”と思われていたようですよ。。。

つまり、病院で決められたもの以外は駄目だと言うことですねぇ~。。。

そういうことなのです。。。 お袋が梨が食べたいと言うのだから、梨ぐらいは別に病人に異常を与えるとは思えない。。。 ところが、これまでの病院の古いしきたりに従って、病院食を改善しようとしない。。。

でも、やっぱり、病院で決めたものが病人にはいいのではありませんか?

でもねぇ~、最近の医学では、必ずしも古くからのしきたりが、病人に良いとは考えない医者も出てきたのですよ。。。 たまたま、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのです。。。


病院食


(okayu02.jpg)

 

入院した経験をおもちの方はわかると思いますが、いまの病院食というのは、何かというとすぐに「お粥」を食べさせます。
とくに内臓を手術したあとの患者などには、「胃腸に負担をかけないように三分粥から始めましょう」と、いかにも体を思いやっているような言い方をします。
でも、これは大きな間違いです。

私は、胃の手術をした患者さんにも最初から普通食を提供します。
なぜお粥よりも普通食のほうがいいのか、それはエンザイムの働きを知っていればすぐにわかります。

普通食がよいのは「よくかむ」ことが必要だからです。
よくかむことは唾液の分泌を促します。
唾液の中には消化エンザイムが含まれており、かむことによってエンザイムと食物がよく混ざり合い、食物の分解がスムーズに進むので消化吸収がよくなるのです。

しかし、お粥だと最初からどろどろしているので、ろくにかまずに飲み込んでしまいます。
そのため、やわらかいはずのお粥は、エンザイムが充分に混ざっていないため消化が悪く、よくかんだ普通食のほうが消化がよいという皮肉な結果になるのです。

私は胃の手術をした3日後の昼食に、普通のお寿司を出したこともあります。
ただし、そのときは「ひとくちあたり70回はかんでください」ときちんと指導します。
よくかむということは、病人に限らず消化吸収をスムーズに行うためにとても大切なことです。
とくに胃腸の問題のない人も、普段から30~50回はかむように心がけることをお勧めします。


(shinya01.jpg)

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




68-69ページ 『病気にならない生き方』
著者: 新谷 弘美
2006年5月1日 第25刷発行
発行所: 株式会社 サンマーク出版




真由美ちゃんは、どう思いますか?



確かに“病院食”をイメージすると、“お粥”みたいな食べ物になるでしょうねぇ~。。。

でもねぇ~、真由美ちゃんは無意識のうちに「病院食がお粥だというのは間違いだ」と気づいていたようですよ。。。

あらっ。。。 どうして、デンマンさんはそのようなことを言うのですか?

ちょっと次のメールのやり取りを読んでみてください。



(foolw.gif)

真由美ちゃん、風邪を

移されないように気をつけてね。


今日は、よく僕を見つけることができましたね。
ちょっと驚きましたよ。


(library9.jpg)

バンクーバー中央図書館は 8階建ての建物で、
パソコンが置いてあるのが
2階、3階、4階、そして 6階。
全部で 350台ぐらいあるから。。。
パソコンをやっている人を探すのは大変ですよ。

真由美ちゃんが僕を見つける20分前に、
Atrium のテーブルで お昼を食べ終えたところでした。
僕がお昼を食べている時に、探していたら、もっと時間がかかっていたかもね。


(library4.jpg)

でも、Atrium を先に探したとしたら、もっと早く見つけていたかも。。。、

久しぶりに風邪を引いてしまったのですが、
それでも、熱は出ていないから、たいした風邪ではありません。

月曜日の夜は、鼻が詰まって、寝苦しくて、よく眠れませんでしたよ。
火曜日は図書館へ行くかどうか迷いました。

しかし、生活習慣は変えないのが僕の生活信条なので、
ちょっと しんどかったけれど、中央図書館に歩いてゆきました。

でも、ちょうど月曜日の夜が峠だったのか?
火曜日の夜からは、問題なく、眠れるようになりました。

今日は、鼻声だったけれど、月曜日の夜から比べれば、だいぶ楽になりました。
だいたい、風邪を引くのは、1年に1度あるかないか。。。

今回の風邪では、寝込むことはなかったけれど、ちょっとしつこいですよ。
でも、カナダの風邪で熱を出したことがないから、日本で風邪を引いた時の頭痛がないだけ、まだ楽です。

こうしてメールを書いたのは、真由美ちゃんと3時間近く話し込みましたからね。。。


(inview02.jpg)

真由美ちゃんも絶対に、僕と話している間に唾(ツバ)の飛沫(ひまつ)を吸い込んでいますよ。
。。。ということは風邪のウィルスも吸い込んだということです。

真由美ちゃんは、若いし、健康そうだから、風邪のウィルスに抵抗力があると思うけれど、
今夜は早めに寝てください。
寝不足は禁物です。
抵抗力が落ちるから。。。


(sleepgal.gif)

明日の朝は、元気がでるような朝食を食べて、抵抗力が下がらないように気をつけてね。

僕の風邪は、鼻から来ました。
鼻がグズグズして来て、鼻水が出始め、
それから、喉に来て、セキが出て、

昨日からセキが収まり、鼻水も、それほど出なくなり。
現在では、快方に向かっていますよ。

でも、熱は出ないし、寝込むことはなかったから、
僕の風邪が移ったとしても、それほどひどいことにはならないでしょう!

とにかく、気をつけてね。
じゃあ、ぐっすり眠ってください。
おやすみ。。。


(denman01.gif)

Thu, Jan 29, 2015 at 11:12 PM


 



(katosmil.gif)

真由美ちゃんが、いろいろと考えながら、

一生懸命に就職に向けて

頑張っている様子が

読み取れますよ。


真由美ちゃんも風邪を移されて寝ていると思ったのだけれど、やっぱり若いから、免疫力があるんだね。
安心しました。

今度の風邪は本当にタチが悪くて、今日は9時まで頑張ることができませんでした。
6時に自宅に帰って、寝ました。
10時10分に起きて、脱水症状にならないように、コーヒーをたくさん飲みましたよ。



(mayumi40.png)

デンマンさんの風邪も少し良くなったようなので良かったです。

でもあまり無理せずデンマンさんも栄養のあるもの食べてくださいね!



(kato3.gif)

確かに少しづつ良くはなっているけれど、
6時頃になるとしんどいです。



(mayumi40.png)

おとといは栃木県に住む母親から手紙が届き、
久しぶりに母親と会話をしたような気分になりました。

私も父親とはたまにメールのやり取りをしているのですが
心配をかけたくないので、
あまりこまめには父親にも連絡していませんでした。

母親がメールができないので、この手紙が わたしがバンクーバーにやって来てから初めてのコンタクトみたいな感じでした。
中を開けたら、2回分の手紙が入ってました。
違う日にちに 書かれたのでしょう。

その中には今年明けに埼玉県の実家に里帰りをしていたらしく
ケイジおじさんが私のことを随分の心配をしていて、
たくさん、いろんなことを聞かれたと書かれてありました(笑)

母親の手紙を読んで、
こみ上げる思いでいっぱいになりました。。。




真由美ちゃんは一人暮らしをしたことがないので、関係者は 真由美ちゃんのことを本当に心配していると思いますよ。
しかし、真由美ちゃんは10代ではないのだから、関係者が、それほど心配するのは可笑しなことですよね。

お母さんも久しぶりに 真由美ちゃんに 心の内を語ったのではありませんか?



(mayumi40.png)

昨日は私の好きな静かなカフェで
ひっそりと母親に返事を書いていました。


(tuc02.jpg)




癒しの場所を確保することはいいことですよ。



(mayumi40.png)

今日その手紙を出しに先ほど切手が売っている所まで行って送って来ました。
その足で図書館により今デンマンさんにメールを打っています。

今日手紙を出す場所も本当は切手が売っているお店を知っていたのですが
わざとそこに着くまでに通りすがる人に

"Is there a post office around here?"

"Where can I get stamps?"

"Keep going? all the way?"

"left hand side of the street?"

。。。とカタコトで聞いてみたり^^::




そうです。。。そうです。。。 何事も勉強です。

ボランティアのことは、今度,スープキッチンへ行った時にダイアンにじっくりと話を聞いてみたらいいですよ。
僕の風邪が完全に治ったら、スープキッチンへ行って見ましょう。
ダイアンも風邪を引いてしまったようで、そんなことがメールに書いてありました。



(mayumi40.png)

デンマンさんからのメールを部屋で読んでから、
今はNorth Vancouverの図書館に来ています。


はい、はい、はい。。。 僕も、できるだけ、真由美ちゃんの手助けができれば、幸せな気分になれます。
だから、遠慮せずに、何でも、書いてください。
じゃあね。


(denman01.gif)

Date: 2015/2/4, Wed 11:25PM


 



(foolw.gif)

真由美ちゃんが作ってくれた弁当を食べて

元気が出ました。


真由美ちゃんが帰ってから、すぐにベッドにもぐって寝て、
さっき、午前1時に目が覚めたばかりです。

ジンジャーを千切りにして、ジンジャー・ティーをいれて
弁当を食べました。


(bento102.jpg)

元気が出ました。



(mayumi40.png)

今日は突然押しかけて、すみませんでした。




僕もビックリしましたよ。
まさか風邪見舞いに、真由美ちゃんがやって来るとは思いませんでした。



(mayumi40.png)

ほんと、お弁当だけ渡して帰るつもりだったのに、
後々、デンマンさんの体調を考えたら長居してしまった事を申し訳なく思いました。
今日はゆっくり、休んでください。




でも、別に迷惑ではありませんでしたよ。

“メリハリ”のある生活をする。。。これが僕のモットーですから。。。
つまり、病気になっても、できるだけ日常通りに過ごすと言うのが、これまでの僕のやり方です。

だから、これまで、風邪のために休んだということはありませんでした。
やっぱり、“気が張っている”ということは病気回復効果もあるのだと思います。

真由美ちゃんが“風邪”を移されなかったのも、“風邪にかかっている場合じゃない!”という気持ちが多少は影響していると思いますよ。



(mayumi40.png)

もし、何かわたしにできる事あったら何でも言って下さいね。
わたしもデンマンさんの力になれる事は なりたいと思っています。




でもねぇ~、“あなたまかせ”の生活になってしまったら、マイナスになってしまいます。
真由美ちゃんが 初めて カレンおばさん夫婦に会った日に、カレンおばさんが旦那のことを愚痴っていましたよ。
覚えてますか?



(angry13.gif)

“あんたは、そばに面倒を見てくれる人がいるから

頼ってしまうねん。 それで、風邪がなかなか治らへん”


だから、真由美ちゃんの気持ちは充分にうれしいのですが、
誰にも頼らない生活を確立しないと、いざという時に苦労するのは自分ですからね。
頼れる人が常にそばに居るとは限らないのだから。。。

僕は、そういうつもりで、これまで生きてきましたから。。。
だから、これまでにカナダでは一度も医者にかかったことがなかったのですよ。
すくなくとも、“一匹狼の気持ち”を持っていたからこそ、健康で居られたのだと思います。

でも、今回の風邪だけは、ちょっと油断していました。
簡単な風邪だと思って、往復1時間かかって図書館まで歩いたのが、どうも風邪が長引く原因だったようです。

そう言うわけで、今日は、すぐそこのJoe Fortes Library で記事を投稿するつもりです。
なるべく早めに寝ます。



(mayumi40.png)

帰りに Joe's Market に寄って
ココナッツのパンを買いました。


(cocobun2.jpg)

パンをかじりながら帰りました。
やはり、あのパンは美味しいです!^ ^
それでは おやすみなさい。




キャルガリー(Calgary)で作られた、あのcoconut bun (椰子包)は 僕の大好物ですよ。
真由美ちゃんも気に入ったようですね。 (笑い)


(joe002.jpg)


(joe001.jpg)


(joe003.jpg)

あの、マーケットは、僕の知る限りでは、
バンクーバーのウェストエンドでは一番安い店です。

でも、品物も悪くはないです。 品揃えも、まあまあです。
醤油、味噌、豆腐も売ってます。

バナナの値段を見るのが、よい比較になります。
あのマーケットでは 1パウンドで 69セントです。

もっと安いのは、チャイナタウンだけでしょう!?

では、真由美ちゃんも、風邪を引かないように、くれぐれも気をつけて。。。
弁当、ありがとね。
おかげで、元気がでました。
じゃあね。


(denman01.gif)

Fri., Feb. 6, 2015 at 2:33 AM




『風邪で甘えてる場合じゃねぇ~!』より
(2015年2月11日)




こうして久しぶりにメールを読み返すと、しみじみと真由美ちゃんが作ってくれた弁当を食べたときのことが思い出されますよ。。。



お粥ではなく、お弁当を作ったのは間違いではなかったのですねぇ~。。。

そうですよ。。。 やっぱり、“病院食”は真心のこもったお弁当が何よりなのです。。。



(laugh16.gif)

 (すぐ下のページへ続く)




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行田物語 病院食 (PART 2)

2017-06-19 10:51:34 | ふるさと 行田市


 

行田物語 病院食 (PART 2)


【デンマンの独り言】


(kato3.gif)

真由美ちゃんの母親は 僕の従妹です。。。

つまり、僕の母親は真由美ちゃんにとって大伯母にあたります。


(mother002.jpg)

僕の母親が亡くなる2年ほど前に真由美ちゃんと一緒に撮った写真です。

ところで、真由美ちゃんは、ノース・バンクーバーでホームステーしながら
VCC (Vancouver Community College)にかよって
パン職人・ベーグル職人の勉強と実習に励んでいました。

去年(2016年)の9月に卒業式を終えて、
現在、バンクーバー市内の旨いベーグルを提供するカフェ・レストランで働いています。

忙しい時間を割いて、真由美ちゃんも僕の母親の葬式には参列してくれました。

学生時代には、先生やクラスメートとの英会話には、まごつくことがあったそうです。
外国語というのは習得するのが実に大変です。

あなたは英会話を勉強してますか?
できれば、英語を話している国へ行って英会話を勉強するのが一番です。

でもねぇ~、英会話を勉強する方法に王道はありません。
人それぞれです。。。
自分に合った勉強法を見つけるのが、英会話の上達の早道だと僕は思いますね。

同じことを同じように勉強しても、人によって上達が違うのですよ。
僕の経験で言っても、人によって、語学の才能というのはまちまちです。

太田将宏老人のように、40年もカナダに住んでいるのに
英会話が満足にできずに 6人に成りすまして日本語でブログにコメントを書きなぐって余生を過ごす人もいます。


なかには、日本語を忘れてしまうほど、英語にどっぷりと浸かってしまう人もいます。
20年以上英語圏で英語を話してますけれど、
僕は、漢字を忘れることはあっても、日本語を忘れることはありません。

もちろん、今でも、英語を話すよりも日本語を話す方が楽に話せます。
僕自身は語学の才能があるとは思ってませんが、
僕が、カナダ人と笑いながら話しているのを聞いていると、
真由美ちゃんには さっぱり 何を話しているのか解らないと言うのですよね。

僕がペラペラと英語を話しているように見えるのだそうです。
早くデンマンさんのように 英語がしゃべれるようになりたい、と真由美ちゃんは言います。

しかし、僕は、常に、英語を日本語のように しゃべれたら いいなと思っているのですよ。
外国語を母国語のように話すのは、本当に難しいと思います。

いずれにしても、真由美ちゃんは小さい頃からの夢が叶ってぇバンクーバーにやって来たのです!


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ところで、あなたはバンクーバーに行ったことがありますか?

とっても素敵な街ですよ。


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世界で最も住みやすい街バンクーバー

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ビデオを見ても、なんだかワクワクしてくるでしょう?

卑弥子さんが バンクーバーにやって来たのは 2008年の元旦の2週間ほど前でした。

クリスマスをバンクバーで過ごして、それから元旦の“Polar Bear Swim (寒中水泳)”に参加したのです。


(polar10.jpg)

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上のビデオを見ると、まるで真夏のようでしょう?

ところが気温は確か2度ぐらいでした。 

水の中の方が暖かかったのです。

とにかく、バンクーバーには面白い人たちがたくさん居ますゥ。

あなたも、お暇と お金の余裕があったらぜひ出かけてみてください。

では、また興味深い、面白い記事を書くつもりです。

だから、どうか、あなたも またやって来てくださいねぇ~~。
じゃあね。


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If you've got some time,

Please read one of the following artciles:





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『サンタ マユミちゃん』

『お汁粉@海外』

『お汁粉@カナダ』

『支払いでトラブル』

『風邪で甘えてる場合じゃねぇ~!』

『バレンタインのお菓子』

『結婚、仕事、人生』

『命の力だね』

『英語と真由美ちゃん』

『海外に目を向ける』

『カーネギーホールじゃないよ』

『やる気があれば道は開ける』

『ニャンニャンと人生』


(juneswim.jpg)

『ピラミス@美術館』

『夢のバンクーバー』

『バンクーバーの屋上で』

『オランダ移住』

『カナダ移住の夢』

『ディープコーヴ』

『浴衣のバンクーバー』

『黒豚テリマヨ』

『イタリアのベーグルとサルサ』

『花火大会』

『乙女老い易く学成り難し』

『真由美ちゃん@英語』

『真由美ちゃんダントツ』

『日本よい国天国だ!』

『やっぱりどこか狂ってる』

『日本で再会』


(utsunomiya10.jpg)

『乙女力@宇都宮』

『いい出会いの連鎖』

『笑顔の乞食おばさん』

『ニュートンの暗い秘密』

『新年@バンクーバー』

『スープキッチン@新年』

『猫と癒し』

『猫と犬と癒し』

『大通りde水の滑り台』

『イルカとワンちゃん』

『カワウソ@スタンレー公園』

『生パンツ系男子とベトナム兵』

『愛と癒しの涙』

『ダンスとノーベル賞』

『おもてなし』

『思い出ポロポロ』

『ロブソンの5月』


(biker302.jpg)

『ネットが不倫を連れて来る』

『ペットと良心』

『夢のデニッシュ』

『パンツァネッラ』

『12歳少女の短命』

『行田の伯母さん』

『パン職人修行』

『タイムマシーン』

『ルンルンdeサルサ』

『天国のワンちゃん』

『万の風になって』

『プロシュット』


(juneswim.jpg)

『なせば鳴る音楽』

『日本人女学生行方不明』

『日本人女学生死亡』

『ガレット』

『那須高原の紅葉』

『希望とロマン』

『錯視 錯覚』

『マンボ@バンクーバー』

『オリーブオイル』

『スコーンとプディング』

『5月のロブソン』

『病院食の間違い』

『プレミアム・ジャパン』

『自然の摂理を無視すると…』

『夢のデニッシュ・悪夢のマーガリン』

『パリ風カフェ』

『どこか狂ってるわ』

『行田遠野物語』

『行田物語 ピアノ』

『行田物語 猫』

『行田物語 母の懐』

『行田物語 ケネディ暗殺』



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行田物語 ケネディ暗殺 (PART 1)

2017-06-16 11:13:03 | ふるさと 行田市
 

行田物語 ケネディ暗殺 (PART 1)

 


(kennedy76.jpg)


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(mayumi40.jpg)





デンマンさん。。。、“ケネディ暗殺”が行田と関係あるのですか?


(kato3.gif)

もちろんですよ。。。 関係がないことを僕が持ち出すと真由美ちゃんは思っているのですかァ~?

でも。。。、でも。。。、ケネディ大統領はアメリカの大統領ですわァ。。。 それに一度も行田市にやって来てないと思います。

確かに、ケネディ大統領は、生涯に一度も行田市にやって来てません…。

それなのに、ケネディ大統領と行田が何か関係あるのですかァ~?

関係あるから、行田物語でケネディ暗殺を取り上げるのですよ。。。

でも。。。、でも。。。、私ばかりでなく、この記事のタイトルを見てやって来たネット市民の皆様も絶対に関係ないと思ってますわァ~。。。

あのねぇ~。。。 もし、絶対に関係ないと思っていたら、この記事を読みにやって来てませんよ。。。 何か関係あると思ったから興味が湧いて、読みにやって来たのです。

じゃあ、マジでデンマンさんのブログにやって来たネット市民の皆様の期待に沿うようなお話をするのですねぇ~。。。?

もちろんです。。。 期待に添えないような馬鹿らしい話をしたら、もう二度と僕のブログにやって来なくなりますからねぇ~。。。 (微笑)

分かりましたわァ。。。 私もなんだか、期待に胸が膨(ふく)らんできましたわァ。。。 でも、やっぱり、心の片隅でちょっと心配です。。。

あのねぇ~。。。、真由美ちゃんが何も心配することはないのですよ。。。 たとえ、僕の話にネット市民の皆様がガッカリしても、真由美ちゃんをとって喰おうとするような人は居ませんから。。。 (モナリザの微笑)

分かりました。。。 じゃあ、なるべく余計なことは言わないように、細木数子さんのようにズバリと核心を突くように話してくださいなァ~。。。

あのねぇ~、順序良く、なるべく根拠を交えながら解り易く話をしないと、誤解を招いて細木数子のようにテレビ局のお偉方に睨まれて、番組を降ろされてしまうのですよ。。。 だから、僕は誤解を招かないように、この話を聞いたネット市民の民様が、納得するような証拠を示しながら話してゆくつもりなのです。。。 それでいいですか?

分かりましたわァ。。。 では、前置きはそれぐらいにして本題に入ってくださいなァ。。。

じゃあ、まず次の“振袖火事”の記事を読んでみてください。



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“振袖火事”というのは“明暦の大火”のことです。 でもねぇ~、学校の歴史の時間でも、“明暦の大火”と言われると、なんだかピンとこないのです。 だけど、“振袖火事”と言われれば、すぐに“ああァ~、あの振袖をお寺で供養する時に燃やした。。。 その時、強い風が吹いて、それが火元になった大火事だ”と、ピンとくるのですよ。 それほど、このエピソードは一人歩きするほど庶民の間に広まった。



でも、それは幕府のお偉方が江戸の庶民に広めたデマだったと言うのですねぇ~。

そうですよ。 もともと、火元は振袖を供養したという本妙寺じゃない。 菊ちゃんの“ひいおばあちゃん”の、そのまた“ひいおばあちゃん”にあたる、忠秋さんに拾われて育ち、女中をしていた“お菊さん”が忠秋さんの部屋の行灯(あんどん)に火をともしに行った時に、大嫌いなネズミが目の前を横切ったので、ろうそくの火を落としてしまったのです。。。 それがあの大火事の火元だった。


(kiku95.jpg)



お菊さんが畳に落としたロウソクの火が マジで あの“振袖火事”と呼ばれた“明暦の大火”の火元になったのですか?



そうです。。。 当時、阿部忠秋さんは老中。。。、松平信綱さんは老中首座だった。。。 今で言えば、さしずめ江戸政府の首相と副首相のような立場にあった。

忠秋さんも、ホトホト困ってしまったでしょうね。

そうです。。。 だから、二人の間には次のような会話が交わされたのですよ。



(bushi02.jpg)

拙者が全責任を負って腹を切り、土地・家屋、所領は幕府に返上いたします。 なにとぞ他の者には罪が及ばないようにしていただきたい。 この件については、左様に御承知していただけると、幸いに存じます。


(izu910.jpg)

いや。。。それはならぬ。

。。。とおっしゃいますと、拙者の家族と縁者、すべての者が処罰されるということでございますか?

いや。。。幕府の老中の屋敷が火元とあっては、阿部殿の家族全員が死罪になったとて済む問題ではござらぬ。

。。。とおっしゃいますと。。。?

阿部殿も御承知のとおり、火事の火元に対しては幕府は厳罰主義で臨んでおります。 それゆえ幕府の老中が火元とあっては、幕府の権威は失墜してしまいます。 先年の“島原の乱”で、幕府の権威はいささか揺るいでしまいました。 今度の江戸の大火事の火元が老中の屋敷とあっては、更に反乱を誘うようなものでござる。

では、一体どうすればよろしいのでしょうか?

拙者に名案があります。。。 確か、阿部殿の屋敷の隣は本妙寺でしたな。。。

左様で。。。

それでは火元は本妙寺といたそう。

しかし、本妙寺の住職が承知いたしますまい。

ご案じなさるな。。。 幕府の方からもいろいろと手を尽くして説得に当たろう。。。 ついては、阿部殿からも、毎年供養料として相当額の寄付をしていただきたい。

金銭で済むものでしたら、住職の納得する額を毎年供養料として差し出す所存です。。。 しかし、どのような原因で火が出たとするのでございますか?

それについても名案があります。 次のような話を拙者の家臣に命じて江戸中に広めるつもりでござる。


江戸の町の一人の少女(17歳)が、偶然見かけた美少年に一目惚れ。
寝ても覚めてもその美少年のことが忘れられず、彼が着ていた服と同じ模様の振袖を作らせた。
その振袖を抱いては、彼のことを思う日々でしたが、恋の病からか、はかなく死んでしまった。

両親は憐れんで娘の棺にその振袖を着せてやった。
棺が持ち込まれた寺で働く男たちが その振袖をもらい受けた。

振袖は男たちによって売られ、別の17歳の娘の物になった。


(furisode1b.jpg)

ところがこの娘も、しばらくの後に亡くなり、振袖はまた棺にかけられて寺に持ち込まれた。
寺の男たちもびっくりしました。
しかし、そんなこともあるだろうと、またそれを売り、振袖はこれまた17歳の娘の手に渡った。


(furisode0.png)

ところが、この娘もほどなく死んでしまい、振袖は またまた棺に掛けられて寺に運び込まれた。

ここに至って さすがに寺の男たちも気味悪がり、住職に相談。
死んだ娘たちの親も呼ばれて、この振袖を寺で供養することになった。
住職が読経しながら火中に振袖を投じる。

ところが、折しも強い風が吹き、振袖は火がついたまま空に舞い上がり、本堂の屋根に落ちた。
火は屋根に燃え移り、消し止める間もなく次々と延焼、翌日には、江戸城本丸天守閣まで類焼した。


(furisode3b.jpg)




どうですかな、阿部殿。。。 庶民が飛びつくような話だとは思わぬか?



確かに。。。 さすがに“知恵伊豆”と呼ばれるだけあって、松平殿は戯作にも通じておるのですな。 (笑)

とにかく、これ以上幕府の権威を落としたくないのじゃ。。。 そう言う訳で、この一件は拙者に任してくだされ。




“知恵伊豆”の信綱さんは、何が何でも幕府の権威にこだわった。 それに対して忠秋さんは“お菊さん”を死罪にするには忍びなかったので、自分が腹を切って身代わりになろうとした。



そういうことですよ。。。 二人の性格が良く表れているとは思いませんか?

でも。。。、でも。。。、これが史実だとして、この“振袖火事”が“ケネディ暗殺”と どのように関係しているのですか?

だから、“振袖火事”にあたるものが“オズワルド単独犯行説”ですよ。。。 これを広めることによってアメリカ政府と、軍産複合体は“ケネディ暗殺事件”をうやむやに葬り去ろうとしたわけです。

。。。で、アメリカ政府の高官は、どのような会話をしたのですか?

次のような会話をしたのですよ。



(johnson2.jpg)

長官、ひどいことになりましたなァ~。。。 この事件をいったいどのように処理するつもりですか?


(hoover2.jpg)

あんたも、“タナボタ”でアメリカの大統領になれたわけだ。。。 これまでにもアメリカの大統領が暗殺されたと言うことはあったけれど、まさか第2次世界大戦のあとになってから、アメリカで大統領暗殺がおこなわれるとは、わしも思ってもみなかったよ。 とにかく、アメリカの権威が失墜するかどうかの瀬戸際だから、あんたも、心してかかる必要があるよ。

それで、真犯人は突き止めたのですか?

いや。。。 真犯人のことは、あんたも知らない方がいいだろう。。。

でも、大統領として、私も知る必要が。。。

いや。。。大統領だからこそ、あんたは知らない方がいい。。。 知っている人が増えれば増えるほど、アメリカの権威は失墜するのだから。。。

しかし、“オズワルド単独犯行説”で世間は収まりますか?

収まるか収まらないかは、今後の成り行きしだいさァ。。。 でも、オスワルドがソ連に居たということは、冷戦を絡(から)ませるいい口実になると思うよ。 ソ連の KGB の犯行を匂わせることができるからね。

しかし、長官、暗殺が起きた11月22日から27日までの6日間で行われたギャロップ(Gallup)の世論調査では52%がオズワルドの単独犯行ではなく、グループによる犯行だと。。。つまり、何らかの陰謀があったと主張する者も多いのですよ。

だから、今後、そういう考え方を改めさせるために、我々が努力しなければならないわけさァ。 “オズワルド単独犯行説”で押し通すのだよ。

どのようにして。。。?

実は、FBIの詳細な公式報告をアメリカ国民に公表することで事件の調査を終了するつもりだったのだよ。 ところが、11月25日に テキサス州の司法長官がケネディとオズワルドの死をめぐる事実関係を糾明する査問会議を行うことを発表した。 翌日には、合衆国上院が調査特別委員会を設置することを発表。 そして翌27日には 合衆国下院が独自に特別委員会の設置を発表した。

それだけ、大統領暗殺の衝撃が大きかったということですよ。

まあ、そういうことなのだが。。。 実にやりにくいよ。

しかし、長官、犯人とされたオスワルドが警察署内で殺されるという異常な展開。。。、そして動機も背後関係も一切謎のままですからね。。。、うやむやに済ませるわけにはゆかないでしょう。 だから、一応、長官の意見を入れて、私も11月29日に暗殺事件の調査を大統領直属の委員会を設置して早急に行い、国民の間に広がる疑惑や不安を払拭することに決めたのですよ。

そうすべきだよ。。。 そうすることによって上下両院の独自調査を延期させることができるからね。。。、テキサス州の調査も大統領直属の委員会に資料を提出させるべきだよ。。。

分かりました。。。で、委員長は誰に。。。

連邦最高裁判所長官アール・ウォーレンがいいだろう。。。 彼ならば、何かと操(あやつ)り易いからねぇ~。。。




つまり、FBI長官のフーバーさんは真犯人グループを知っていたのですね。



そうですよ。。。 ケネディ暗殺には2つの陰謀が絡んでいるのです。 ケネディ大統領を暗殺する陰謀。。。それに、ジョンソン大統領直属のウォーレン委員会で真実を隠す陰謀ですよ。

でも、その証拠があるのですか?

もちろん、僕には、証拠となるものには手が届かない。。。 でもねぇ~、状況証拠なら、たくさんありますよ。 まず、ウォーレン委員会で扱われたすべての資料は、1964年に ワシントンDCにある国立公文書館に保管されてしまった。 しかも、それまでに公開されてない資料は75年間、つまり、2039年まで封印されることになった。

どうして。。。?

だから、アメリカの権威を保つためですよ。 もしも、ソ連のKBGが陰謀をめぐらせてケネディ大統領を暗殺したとしたら、75年間も資料を封印する必要など全くないのですよ。

今でも、ウォーレン委員会で扱われたすべての資料は封印されたままなのですか?

いや。。。 “75年間封印される”という理不尽さを 1991年にオリバー・ストーン監督が"JFK"という映画を作って、訴えた。 


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この映画で、“ケネディ大統領暗殺の陰謀”が、再びマスコミで騒がれるようになったのですよ。



。。。で、政府の高官はどうしたのですか?

映画が公開された翌年(1992年)に、“陰謀説”を掲げてマスコミで騒ぐ民衆をなだめるために「JFK記録に関する法律(the JFK Records Act)」というのを作って、できるだけ多くの資料を公開するようにしたのですよ。

ほとんどすべての資料を公開したのですか?

いや。。。 伏せておくべき資料はやっぱり公開されなかったのです。 2017年までに、公開されることになっているのですよ。 でもねぇ、“ケネディ大統領暗殺研究家”が喉から手を出したいほど欲しい資料 1,171点は CIA によって、今でも封印されているのです。

じゃあ、やっぱり、真の犯行グループがいるのですわね。

いずれはっきりするでしょう。。。

。。。で、デンマンさんは、その犯行グループのメンバーは誰だと思っているのですかァ~?

もちろん、すべてのメンバーについて僕が解るはずがありません。。。 でもねぇ~、その黒幕が誰かは容易に想像できますよ。

その黒幕ってぇ、いったい誰ですのォ~?

ちょっと次の記事を読んでください。


ケネディ政権


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ケネディ政権には、国家の安全保障を委ねられるにふさわしい「最も聡明にして賢明な者たち」が結集しているとされた。
国家安全保障担当大統領補佐官には、ハーバード大学の学長を努めたマクジョージ・バンディが、また国防長官にはフォード社長からロバート・マクナマラが起用された。
「若いながらも、当代切っての」と謳われた逸材が綺羅星のように居並んでいた。

だが、大統領が核戦争の淵に立たされたとき、縋(すが)るようにして頼ったのは、ワシントン政界の奥深く棲むフクロウといわれた老政客(ロバート・ロベット翁)だった。

 (中略)

すでに空軍を中心に軍部は不穏な動きを見せていた。
ペンタゴンでは、キューバへの空爆の準備を着々と進めていたのだった。
大統領の最終的な命令が下れば、直ちに爆撃機を発進できるように空爆目標の選定もほぼ終わっていた。

……主戦論の中核にいたのが、空軍参謀長、カーティス・ルメイだった。
この主戦派は、かつてドイツと日本への戦略爆撃を指揮し、空の英雄と呼ばれていた。
戦後もアメリカ空軍に君臨して、膨大な軍事予算を握り、多数の国防族議員まで要して巨大な政治集団を形成していた。


そのため、ジョン・F・ケネディは、カーティス・ルメイを頂点とする空の制服組を抑えるため、ロベット翁の隠然たる政治的権威を必要としたのだった。

 (中略)

ジョン・F・ケネディは、軍部の空爆論を抑えて、海上封鎖に傾いていった。
キューバへの海上航路を遮断し、ソ連がこれ以上のミサイルを持ち込むことを断じて許さないという決意を示そうとしていた。
だが、空からの奇襲を強く主張する空軍を率いるカーティス・ルメイは、武力行使に同調しない大統領に詰め寄った。

「私は大統領とは違い、キューバを爆撃しても、ソ連がベルリンを攻撃することはないと考えております。
 空爆を断念することは、ミュンヘンの宥和主義とおなじくらい悪しき選択です」

ミュンヘン宥和主義。 ケネディ一族に対して毒を含んだ物言いだった。
1938年のミュンヘン会談で、イギリスはチェコスロバキアのズデーテン地方をヒトラーに分け与えることで一時の平和を保とうとし、それが第二次世界大戦に道を開いてしまったといわれた。
当時駐英大使だったケネディの父ジョセフは、このミュンヘンの宥和主義を支持したと批判されていたからだ。
だが、カーティス・ルメイの挑発をしりぞけて、大統領は海上封鎖に心を決めていた。

「諸君の見解は尊重する。 なぜ、海上封鎖を選択するのか。 それは全面核戦争へのエスカレーションを避けなければならないからだ

ジョン・F・ケネディがこういい残して退席したあと、将軍たちが若き大統領をあしざまに罵る様子が「ケネディ・テープ」に録音されている。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)




107 - 111ページ
『葡萄酒か、さもなくば銃弾を』
著者: 手嶋龍一
2008年6月4日 第3刷発行
発行所: 株式会社 講談社

『シルヴィーとケネディ夫人』に掲載
(2011年6月15日)




主戦論の中核にいたのが、空軍参謀長、カーティス・ルメイだった」と書いてあるけれど、この人物が黒幕ですよ。 「戦後もアメリカ空軍に君臨して、膨大な軍事予算を握り、多数の国防族議員まで要して巨大な政治集団を形成していた」ということですからね。。。



この将軍は自国の大統領まで暗殺するような精神を持った人なのですか?

自分の考えに固執して、例え大統領だろうが、国のためにならないと思えば暗殺も辞さないというタイプですよ。 ウィキペディアにも次のように書いてあります。


カーチス・ルメイ

キューバ危機勃発時には、キューバ空爆をジョン・F・ケネディ大統領に提案したが却下された。
ルメイら空軍首脳部は圧倒的な兵力でソ連を屈服させることが可能であると思っていた。
実際にはキューバ危機の時点ですでにキューバに核ミサイルが数十基配備済みであったことは、第三次世界大戦を招きかねない完全な見当違いであった。

ベトナム戦争では空軍参謀長の任にあり、「(北)ベトナムを石器時代に戻してやる」と豪語して北爆を推進した。
なお、北爆が開始された1965年に除隊した。

退役後

1965年2月に退役。1968年には、ベトナム戦争の推進を支持し、人種差別的な綱領を掲げた前アラバマ州知事、ジョージ・ウォレス大統領候補とともにアメリカ独立党 (American Independent Party)の副大統領候補として出馬するが落選。
1990年10月1日没。

評価

ルメイの行為は、多くの罪の無い民間人を殺戮したことに加え、貴重な文化財(寺院・仏閣・城郭など)を灰燼に帰す結果をもたらしたために、特に対日作戦について、前任者であるハンセル准将と違い、一部政治家、文化財研究家からは強く非難されている。
特に日本では、ルメイは残虐な無差別戦略爆撃の父として評価が定まっている。

右派においてもアメリカに批判的な者の場合、小林よしのりのように、著作で批判的に取り上げる例がある。
また、ルメイに近い戦勝国で計画を進める側の立場にあったマクナマラも『フォッグ・オブ・ウオー』で「勝ったから許されるのか?私もルメイも戦争犯罪を行ったんだ」とも述べている。

しかしルメイの立場から見れば、その戦略はあくまでも戦争において敵の損失を最大化させるという爆撃部隊における合理性と効率を追求したものであるという。


(lemay2.jpg)

ルメイ自身は「アメリカが敗戦するなら自分は戦争犯罪人として処せられる」と述べている。

また、ドイツ本土への爆撃に赴く搭乗員に対して次のようにも述べている。



(atombomb.jpg)

君が爆弾を投下し、そのことで何かの思いに責め苛まれたとしよう。
そんなときはきっと、何トンもの瓦礫がベッドに眠る子供のうえに崩れてきたとか、身体中を炎に包まれ『ママ、ママ』と泣き叫ぶ三歳の少女の悲しい視線を、一瞬思い浮かべてしまっているに違いない。
正気を保ち、国家が君に希望する任務を全うしたのなら、そんなものは忘れることだ。




ドイツ空襲の意見を聞かれて
『戦略・東京大空襲』
E・バートレット・カー著・大谷勲訳


(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)

出典: 「カーチス・ルメイ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




どうですか、小百合さん。。。 



でも、黒幕がルメイ将軍だったというのは、あくまでもデンマンさんの推測ですよねぇ~。。。

これまでの状況証拠を見ても、黒幕はルメイ将軍以外には考えられないですよ。

CIAに封印されている 1,171点の資料が 2017年までに公開されれば、解ることですわねぇ~。。。?

いや。。。 解らないはずです。

どうして。。。?

あのねぇ~、前にも言ったように、ケネディ暗殺には2つの陰謀が絡(から)んでいるのですよ。 ケネディ大統領を暗殺する陰謀。。。それに、ジョンソン大統領直属のウォーレン委員会で真実を隠す陰謀ですよ。 だから、黒幕がルメイ将軍であるという証拠は、すでに抹殺されています。。。




『振袖火事とケネディ暗殺』より
(2015年1月29日)




なるほどォ~。。。 デンマンさんのおっしゃろうとすることはよく解りました。。。 でも、上の記事に中には行田が全く出てきてませんわァ!



真由美ちゃんが知らないだけで、実は、老中の阿部忠秋さんは行田とすごく関係がある人なのですよ。。。


阿部忠秋


(tadaaki1.jpg)

 

阿部 忠秋(あべ ただあき)は、江戸時代前期の下野壬生藩・武蔵忍藩主。
(デンマン注: 江戸時代の忍藩が、後に行田市になった。)
徳川家光・家綱の2代にわたって老中を務めた。
同じく老中の阿部重次は従兄にあたる。

 

人物

慶安の変後の処理では浪人の江戸追放策に反対して就業促進策を主導して社会の混乱を鎮めた。
その見識と手腕は明治時代の歴史家竹越与三郎より「(酒井忠勝・松平信綱などは)みな政治家の器にあらず、政治家の風あるは、独り忠秋のみありき」(『二千五百年史』)と高く評価された。

鋭敏で才知に富んだ松平信綱に対し、忠秋は剛毅木訥な人柄であり、信綱とは互いに欠点を指摘、補助しあって幕府の盤石化に尽力し、まだ戦国の遺風が残る中、幕政を安定させることに貢献した。
関ヶ原の戦いを扱った歴史書・『関原日記』(全5巻)の編者でもある。

忠秋は「細川頼之以来の執権」と評せられ、責任感が強く、また、捨て子を何人も拾って育て、優秀な奉公人に育て上げた。
子供の遊ぶ様子を見るのが、忠秋の楽しみであった。

 

略歴

阿部忠吉(阿部正勝の次男)の次男。 母は大須賀康高の娘。
長兄の夭折により家督を相続する。
名ははじめ正秋、寛永3年(1626年)に徳川秀忠の偏諱を拝領し、忠秋と名乗った。

正室は稲葉道通の娘、継室は戸田康長の娘。
息子があったが夭折し、その後も子に恵まれず、従兄の阿部政澄(重次の兄)の子の正令(後に正能と字を改める)を養子として迎えた。

寛永元年(1624年)、父の遺領6000石を継ぐ。
同3年(1626年)加増され、1万石の大名となる。
同6年(1629年)、5000石加増。
同10年(1633年)、小姓組番頭から六人衆(後の若年寄)に転じ、さらに5月5日より老中格に任じられる。
同12年(1635年)、下野壬生藩2万5000石に転封され老中。

同16年(1639年)忍藩5万石。
正保4年(1647年)6万石。
寛文3年(1663年)8万石。
同6年(1666年)老中退任。
同11年(1671年)隠居。
延宝3年(1676年)に死去した。




出典: 「阿部忠秋」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




でも。。。でも。。。、上のエピソードに出てきた“ネズミを怖がる女中のお菊さん”はマジでデンマンさんのお嫁さんになりたかった“菊ちゃん”のご先祖様なのですか?



(kiku95.jpg)




(kiku006.gif)




(bride15.jpg)




もちろんですよ。。。 あのねぇ~、『ウィキペディア』にも書いてある通り、阿部忠秋さんは捨て子を何人も拾って育て、優秀な奉公人に育て上げたのですよ。。。 お菊さんはそのうちの一人だった。



でも。。。、でも。。。、お菊さんは江戸の阿部忠秋さんのお屋敷で奉公していたはずですわァ。。。

あのねぇ~、“明暦の大火”の後で江戸に居るのはまずいだろうということになって、“お菊さん”を小さな時に面倒を見た“お寅さん”というおばちゃんがお勤めを終わった後に忍藩(後の行田市)で隠居していたのですよ。。。 そういうわけで、お菊さんは“お寅さん”の養女となって忍に下って行ったのです。。。

。。。で、その後ずっと忍藩に住み続け、“お菊さん”の子孫の一人が“菊ちゃん”だ、とデンマンさんは断定するのですか?

そうですよ。。。 昔の人は言った者ですよ。。。 “親の因果(いんが)が子に報(むく)い”。。。 真由美ちゃんも聞いたことがあるでしょう?

ありますわ。。。 それが菊ちゃんと、どういう関係があるのですか?

だから、“お菊さん”が“明暦の大火”を起こしてしまったのですよ。。。 老中の阿部忠秋さんと 老中首座の松平信綱さんが話をうまくまとめて、“お菊さん”は何の罰も受けなかったけれど、人の世はやっぱり、何事も無く幸せな事ばかりが続くわけではないのです。。。 昔の人は、気づいていたのです。。。 “お菊さんの因果が子孫に報い”、女性にのみ受け継がれるY染色体に、精神薄弱の因子がやどって、それが“菊ちゃん”に受け継がれたのですよ。。。


(kikubisha.jpg)


(agawa02.jpg)


(blackcat5.jpg)

『菊ちゃんとデンマンの心の絆』

(行田物語 猫)




それで、菊ちゃんは精神薄弱児として人生を終えたのですか?



そういうことです。。。 伝説として行田市民の中では、知る人ぞ知る公然の秘密として語り継がれてきたのです。。。

マジで。。。?

だから言ったでしょう。。。 ここまで話してくれば、真由美ちゃんも納得できると思うのですよ。。。 でしょう?

私は、なんとなく、デンマンさんのお話に釣り込まれてしまいましたけれど、このお話を聞いているネット市民の皆様は、私のように素直には信じないと思いますわァ。。。

あのねぇ~、僕の話を聞いて、ムカついた人はコメントを残してくれますよ。。。 だから、真由美ちゃんが心配するほどのことではありません。。。 (爆笑)



(laugh16.gif)

 (すぐ下のページへ続く)




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行田物語 ケネディ暗殺 (PART 2)

2017-06-16 11:12:20 | ふるさと 行田市




 

行田物語 ケネディ暗殺 (PART 2)


【デンマンの独り言】


(kato3.gif)

真由美ちゃんの母親は 僕の従妹です。。。

つまり、僕の母親は真由美ちゃんにとって大伯母にあたります。


(mother002.jpg)

僕の母親が亡くなる2年ほど前に真由美ちゃんと一緒に撮った写真です。

ところで、真由美ちゃんは、ノース・バンクーバーでホームステーしながら
VCC (Vancouver Community College)にかよって
パン職人・ベーグル職人の勉強と実習に励んでいました。

去年(2016年)の9月に卒業式を終えて、
現在、バンクーバー市内の旨いベーグルを提供するカフェ・レストランで働いています。

忙しい時間を割いて、真由美ちゃんも僕の母親の葬式には参列してくれました。

学生時代には、先生やクラスメートとの英会話には、まごつくことがあったそうです。
外国語というのは習得するのが実に大変です。

あなたは英会話を勉強してますか?
できれば、英語を話している国へ行って英会話を勉強するのが一番です。

でもねぇ~、英会話を勉強する方法に王道はありません。
人それぞれです。。。
自分に合った勉強法を見つけるのが、英会話の上達の早道だと僕は思いますね。

同じことを同じように勉強しても、人によって上達が違うのですよ。
僕の経験で言っても、人によって、語学の才能というのはまちまちです。

太田将宏老人のように、40年もカナダに住んでいるのに
英会話が満足にできずに 6人に成りすまして日本語でブログにコメントを書きなぐって余生を過ごす人もいます。


なかには、日本語を忘れてしまうほど、英語にどっぷりと浸かってしまう人もいます。
20年以上英語圏で英語を話してますけれど、
僕は、漢字を忘れることはあっても、日本語を忘れることはありません。

もちろん、今でも、英語を話すよりも日本語を話す方が楽に話せます。
僕自身は語学の才能があるとは思ってませんが、
僕が、カナダ人と笑いながら話しているのを聞いていると、
真由美ちゃんには さっぱり 何を話しているのか解らないと言うのですよね。

僕がペラペラと英語を話しているように見えるのだそうです。
早くデンマンさんのように 英語がしゃべれるようになりたい、と真由美ちゃんは言います。

しかし、僕は、常に、英語を日本語のように しゃべれたら いいなと思っているのですよ。
外国語を母国語のように話すのは、本当に難しいと思います。

いずれにしても、真由美ちゃんは小さい頃からの夢が叶ってぇバンクーバーにやって来たのです!


(inflight2.jpg)


(airport1b.jpg)

ところで、あなたはバンクーバーに行ったことがありますか?

とっても素敵な街ですよ。


(stanley50.jpg)


(seawall3.jpg)


(seawall2.jpg)

世界で最も住みやすい街バンクーバー

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<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/g-fsEkcBAZM" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/Ze0G_iBjyMI" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(wetsuit.jpg)


(wetsuit3.jpg)


(gastown20.jpg)

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(canplace22.jpg)

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/-8HtDY9WRhU?feature=player_embedded" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

ビデオを見ても、なんだかワクワクしてくるでしょう?

卑弥子さんが バンクーバーにやって来たのは 2008年の元旦の2週間ほど前でした。

クリスマスをバンクバーで過ごして、それから元旦の“Polar Bear Swim (寒中水泳)”に参加したのです。


(polar10.jpg)

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/ThBHKGr0IoY" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

上のビデオを見ると、まるで真夏のようでしょう?

ところが気温は確か2度ぐらいでした。 

水の中の方が暖かかったのです。

とにかく、バンクーバーには面白い人たちがたくさん居ますゥ。

あなたも、お暇と お金の余裕があったらぜひ出かけてみてください。

では、また興味深い、面白い記事を書くつもりです。

だから、どうか、あなたも またやって来てくださいねぇ~~。
じゃあね。


(hand.gif)




If you've got some time,

Please read one of the following artciles:





(santa85b.jpg)

『サンタ マユミちゃん』

『お汁粉@海外』

『お汁粉@カナダ』

『支払いでトラブル』

『風邪で甘えてる場合じゃねぇ~!』

『バレンタインのお菓子』

『結婚、仕事、人生』

『命の力だね』

『英語と真由美ちゃん』

『海外に目を向ける』

『カーネギーホールじゃないよ』

『やる気があれば道は開ける』

『ニャンニャンと人生』


(juneswim.jpg)

『ピラミス@美術館』

『夢のバンクーバー』

『バンクーバーの屋上で』

『オランダ移住』

『カナダ移住の夢』

『ディープコーヴ』

『浴衣のバンクーバー』

『黒豚テリマヨ』

『イタリアのベーグルとサルサ』

『花火大会』

『乙女老い易く学成り難し』

『真由美ちゃん@英語』

『真由美ちゃんダントツ』

『日本よい国天国だ!』

『やっぱりどこか狂ってる』

『日本で再会』


(utsunomiya10.jpg)

『乙女力@宇都宮』

『いい出会いの連鎖』

『笑顔の乞食おばさん』

『ニュートンの暗い秘密』

『新年@バンクーバー』

『スープキッチン@新年』

『猫と癒し』

『猫と犬と癒し』

『大通りde水の滑り台』

『イルカとワンちゃん』

『カワウソ@スタンレー公園』

『生パンツ系男子とベトナム兵』

『愛と癒しの涙』

『ダンスとノーベル賞』

『おもてなし』

『思い出ポロポロ』

『ロブソンの5月』


(biker302.jpg)

『ネットが不倫を連れて来る』

『ペットと良心』

『夢のデニッシュ』

『パンツァネッラ』

『12歳少女の短命』

『行田の伯母さん』

『パン職人修行』

『タイムマシーン』

『ルンルンdeサルサ』

『天国のワンちゃん』

『万の風になって』

『プロシュット』


(juneswim.jpg)

『なせば鳴る音楽』

『日本人女学生行方不明』

『日本人女学生死亡』

『ガレット』

『那須高原の紅葉』

『希望とロマン』

『錯視 錯覚』

『マンボ@バンクーバー』

『オリーブオイル』

『スコーンとプディング』

『5月のロブソン』

『病院食の間違い』

『プレミアム・ジャパン』

『自然の摂理を無視すると…』

『夢のデニッシュ・悪夢のマーガリン』

『パリ風カフェ』

『どこか狂ってるわ』

『行田遠野物語』

『行田物語 ピアノ』

『行田物語 猫』

『行田物語 母の懐』



(surfin2.gif)
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行田物語 母の懐 (PART 1)

2017-06-13 11:17:05 | ふるさと 行田市
 

行田物語 母の懐 (PART 1)

 


(dakko01.png)


(oshi1.jpg)


(mayumi40.jpg)


用件:

喜代司の葬式に出席していただいて

ありがとうございました。



(soshiki03.jpg)


From: takako1234@yahoo.co.jp
To: denman987@gmail.com
Date: Sat. April 29, 2017 5:48 PM


 



夕べは多佳子さんの元気な声を聞いて安心しました。
まさか多佳子さんが喜代司の葬式に参加できるほど体力があり、体調がすぐれているとは思いませんでした。
かなり無理をされたのではないですか?

私が多佳子さんの立場であるなら、まず出席しないでしょう!
はっきり言って“迷惑”と感じてしまうでしょう!

私と多佳子さんには共通点もありますが、
この点に関する限り、私は母方の遺伝子をまったく保有してないようです。
冠婚葬祭は、ほぼ拒絶しています。

母親の葬式に参加したことは例外中の例外でした。。。


(judge12.gif)

“アイツは義理も人情もないのかア!”

今回の欠席のことでは たぶん、そう思われていることでしょう!
もちろん、そう思われたとて、私は自分の考えている通りに生きるだけですが……。

しかし、私のような生き方で、日本で暮らしてゆくと、まず間違いなく波風が立って 暮らしにくいと思います。
カナダに永住したことは正解でした。

ところで、今、ブログの記事を投稿し終わってから、
バンクーバー中央図書館のパソコンに向かって
このメールを書いてます。

ちなみに、フラッシュ・メモリーの多佳子さんのフォルダーを開くと
最後に書いたメールが出てきました。

次の通りです。。。


件名:

11月5日の土曜日は映画音楽で

盛り上がって楽しかったですよ!



(meikyoku01.jpg)




From: takako1234@yahoo.co.jp
To: denman987@gmail.com
Date: Tues., November 8, 2016 1:56 PM


 



その後体調はいかがですか?

11月7日の月曜日には、喜代司が外出を許可されたので、
正造と3人でお袋の見舞いに行ってきました。

話をしようとしても、意味がなかなか理解できないのですが、
3人の子供たちが来たことははっきりと理解していました。

私が肩を揉んでやったら、「ありがとう」と理解できる口調で答えました。
意識は、はっきりしているようです。

11月16日にバンクーバーに戻りますが、
それ以降にお袋が亡くなったならば、
その時は、再度行田に戻ってくるつもりです。

葬式はなるべく簡素に済ませます。

ところで、『夢遊伝』を読ませてもらいました。

純文学的な良い作品だと思いました。

インスピレーションをもらったので、そのことで記事を書きました。

ぜひ読んでみてください。


(grave02.jpg)

『逝く者と残る者』

では、今日も一日 多佳子さんにとってルンルン気分で過ごせるように祈ってますね。
また会う日までお元気で……。



 



去年の11月8日に書いたのでした。。。
“光陰矢のごとし”と申しますが 本当に月日の経つのが早く感じられます。

2月4日に母親が亡くなって 4月24日に喜代司が突然に逝ったのです。

正造さんから連絡を受けて翌日に手紙を書いたのですが、
その手紙の草稿をここに書き出します。

 


2017年4月24日 月曜日

 

昨夜は突然の喜代司さんの死亡の知らせを受け、
全く予期していなかったので驚きました。

喜代司さんの体は以前と比べれば弱っているとは言うものの
少なくとも まだ2年か3年ほどは生きているだろうと予測していたので
死亡の知らせは青天の霹靂でした。

考えてみると、お袋の死が喜代司さんに生きることの儚(はかな)さと
希望を失わせたのでしょうね。


 


(gorinju01.png)


(soshiki02.png)

 

高校生の頃電車に飛び込み自殺をしようと試みたことがあったけれど、
「俺が死んだらかあちゃんが悲しむだろうなァ~……」
そう思って思いとどまった
ということをお袋から聞かされた覚えがあります。

そう言う訳で私も去年の11月に帰省した時に、
「お袋よりも先に死ぬことだけはしないように……」と喜代司さんに言おうと思ったのですが……。
つい、言う機会を逃してしまいました。

しかし、喜代司さん自身にも、お袋よりも先に亡くなって悲しませたくないという気持ちがあったのでしょう!
だから、お袋が2月4日に亡くなって2ヶ月であの世に逝った言う事が
なんだか、寂しく一人でお墓に入っているお袋の話し相手にでもなろうと思って
お袋のそばに逝ったのだと…… そんな風に思えてきました。


そのように思うと喜代司さんの死が不憫ではなく、
なんだか心温まるようにも思えます。

ところで、4月28日の午後5時にお通夜をやるそうですが、
夕べ、よくよく考えた挙句、日本へ戻ってお通夜に参加することはやめます。

親父さんの葬式にも出なかった。
私は、もともとお通夜とか葬式という行事に意味を見出していないのです。

それで、親父さんが入院中には20日間ほぼ毎日見舞いに行田中央総合病院に通いました。
親父さんとは あまり話をしませんでしたが、その20日間には、
20年分ぐらいの話をしたように思います。

「死んで花実が咲くものか」と昔の人は言いましたが、
死んでから、お通夜やお葬式をしても、意味がないと思うのは、そういうためです。

お袋が亡くなったときに、通夜と葬式に参加したのは例外中の例外でした。
30年以上お葬式に出たことがない!

喜代司さんとも、お袋が亡くなった時に帰省して
食事を一緒にしたり、会ってそれなりに語り合えたことはよい思い出ができたと思います。

そういうわけで、もう20年ほど前から遺書を書き換えていますが、
つねに、自分の葬式は要らない。。。
遺体はバンクーバーの大学の医学部に寄付。
そのようにか固く決めています。

正造さんに、すべてを任せきって、自分が何もしないということを
心苦しく、我侭だとは思いますが、
通夜と葬式だけが亡くなった者を“ともらう”、というものでもないでしょう!

心の内でお袋に対しても、喜代司さんに対しても、充分に“ともらう気持ち”を持っています。
通夜や葬式は私にとって、形式だけの 時間と金を無駄にする行為に見えて、時には滑稽にも思えてきます。

仏教が葬式仏教になって、お葬式に100万円以上がかかるというのは、滑稽としか言えず、
正式にすると400万円もかかるというのは馬鹿バカしく思えてなりません。

 


(soshiki01.jpg)

 

坊さんに、合計で60万円も包むのは、さらに滑稽としか思えません。
「坊主まるもうけ!」とは、昔の人はよく言ったものです!

そういうわけで、今回の喜代司さんのお通夜と葬式には出ませんので、
親戚の人たちには、当たり障りのないように正造さんからよろしくお伝えください。

喜代司さんの葬式は、バンクーバーで私なりに心の内で“ともらいたい”と思います。
墓参りなども、私は全く信じておりません。

今年の秋には、これまでどおり行田に帰省して また食事を一緒にしながら語り合いましょう。。。

 


(hakamairi2.png)

 

喜代司さんのお骨も、親父とお袋のお骨と並んで 仲良くお墓の中に入っていることでしょうから、
その時には、例外中の例外で、お墓参りをしてあげようと思います。
心の内のお墓参りのつもりです。

ちなみに、お袋のお通夜と葬式に泰夫さん(デンマン注:お袋の実弟、故人)の妻の安子さんが
あれほど体が弱っているのに、参加してくれたのには、本当に驚きでした。
当時、お礼に伺おうと思っていたのに、ついつい行きそびれてしまいました。

今年の秋、もし健在であれば、蓮華寺にお墓参りした後で
安子さんを お見舞いしたいと思います。

 


(rengeji01.jpg)

 

勝手ではありますが、そのようなわけで喜代司さんの通夜とお葬式には欠席します。

あしからず……。

 

追伸:

たまたま、2016年10月6日の手紙を読みなおしたら
(フラッシュ・メモリーに下書きが保存されている)

次のように書いてありました。



(jizai20.jpg)

「もし、喜代司さんが2,3日間自宅に

戻れるような機会があるなら、

私と喜代司さんの二人で 那須高原へ旅行して

由香里ちゃんが働いている「自在荘ホテル」で

泊まろうと予定しています。

喜代司さんにとっても、いい思い出になるでしょう。。。」


残念ながら旅行ができるほどの体調ではありませんでした。

このことがマジで心残りです。

多佳子さんに電話で連絡するようなことがあれば、よろしく お伝えください。


_____________________
デンマン




『行田遠野物語』より
(2017年5月27日)


 



実に勝手な言い訳ですが、
これが偽らざる私の本音です。

人生は、マジで儚いものだと つくづく思うこのごろです。
だからこそ、自分の思い、気持ちというものをしっかりと持って生きてゆく、と言う事しかないでしょう!

多佳子さんも悔いが残らないように 自分の心に忠実に暮らしてください。
お互いに、30年、40年も生きられる人生ではありません。

今年の秋は、そういう意味からも多佳子さんのために うれしい“プレゼント”を用意したいと思います。
体調が悪いと この“プレゼント”は楽しめないと思いますので
くれぐれも体調を整えながら 元気で過ごしてください。

葬式の疲れを できるだけ早く取りさってください。
では、今年の秋に またお目にかかるのを楽しみにしています。

喜代司の葬式に出席していただいた事を 改めて感謝いたします。
正造さんも 心強く感じたでしょう。
本当にありがとうございました。

では。。。

 


(byebye.gif)

 






デンマンさんは、いつものように多佳子・叔母さんに長いメールを出したのですわねぇ~。。。


(kato3.gif)

そうです。。。 いつも長い記事を書いてますからね。。。 メールだけ短いものを出すわけにもゆかないでしょう。。。 (微笑)

。。。で、叔母さんからは どのようなご返事が返ってきたのですか?

次のように書いてよこしましたよ。


デンマンさんへ


(aunt201b.jpg)

 

お元気でしょうか?
通夜・葬送の儀 無事に済みました。

ところで、アナログ<--->デジタル どちらも伝達手段として使うのでしょうが、私は真の意味を論理的に知りません。
時計に例えるならば、私はアナログ派。
なんでも物質的なものは体で確かめたいタイプ。

多分、後々 その先々も PCに恋することはありません。
実際、PCの前に座るとき、決してときめきはありません。 恐怖でドキドキします。

本日 4月30日 (日曜日) 午前11時にデンマンさんのメールを拝読しました。
デンマンさんに また「宝の持ちぐされ」と揶揄されるかも知れませんが、メールのやり取りは 2015年の秋、デンマンさんが帰省時 私の家にフラッシュ・メモリーを忘れたときに「自遊空間」に居るデンマンさんへ、その件でメールして以来久しく使っていません。

なので、自分のアカウント名やパスワードを入力する時にはドキドキはさらに上昇。
どうぞ笑ってください。
そもそも私のPC使用の目的は、作文用原稿の升目を埋めるだけで十分なのです。

人は人にどれほどの真実を伝えられるかという事を考えたとき、メールを作動させるときは絶対、必要以外は使用しないと決めていました。
理由は二つ。

①下手である。

②追い立てられているような強迫観念に付きまとわれる(神経疾患だと思う)。

今日はメールで返事をと考えていたのですが、なにやら入力する箇所がいくつかあって、またとんでもなくグチャグチャになる可能性が見えるので郵便に変更しました。

 


(gal132.jpg)

 

まず喜代司君のご冥福を祈ります。
私はデンマンさんと全く同じ事を考えていた事柄があります。

いろいろな説があるようですが、死没して77日経過すると死者は神の世界に入る。
これは夫の実家である東京の洗足の菩提寺の住職の説法だった記憶があります。
それまでは東雲(しののめ)の光に照らされた朝霧のように、家や家人の周りを廻り、安穏であるように導いている。

私は正造さんから訃報を受けて、すぐに芳江さん(デンマン注:僕のお袋であり、多佳子の一番上の姉)の命日から指を折ったら80日。
まさに霊から仏へと渡り行く時で、芳江さんが神様となり、デンマンさんと正造さんの苦労するであろうことを慮(おもんばか)り、また喜代司君の病苦から救い、母親の懐に呼び寄せたと感じ取りました。
この事を正造さんに話したら、デンマンさんも同じよなことを言っていたそうですね。

棺の中の喜代司君は佐吉・お父さんにそっくりでした。
考えるに加藤家の脳力(能力)の高さは父方のゲノム(genom)だと確信しました。
母方、つまり、犬塚の私の実家の脳力は並です。

精進落としの会食の際に、喜代司君の小学校の担任の先生(広田先生)と隣の席になりました。
彼の逸話、特に体育への比類ない努力と、その成果を力説していました。
どちらの家庭でもそうですが、長男・長女は特別で、喜代司君も長男のデンマンさんの影に隠れてしまっていて、私などは初耳でした。

私の健康を心配してくださりありがとう。
年齢の域だからと一言で片付けてしまえばそれまでですが、知らせがあった後、私は無理は禁物と葬儀のみに出席と正造さんに伝えました。
「ところでデンマンさんは?」
「来ないそうです」

いったん電話を置いたものの、正造さん一人で喜代司君を葬送するこの状況は考えられず、一番近い私は行くきりないと悲しさに胸の詰まるのを押さえて通夜と葬儀に伺うことを伝えました。
この時、思わず言ってしまいました。
デンマンさんて しょうがないわねぇ~……!

通夜は三男の修と臨席。
長男は仕事の都合で出られませんでした。
翌日の葬儀には厚子さんが車で送ってくれました。

美智子は母親のつねちゃんの代わりに出席しました。
喜代司さんの従弟の敏文君(通夜は夫婦で)と恵次君も見えました。

私はお葬式の最後のお別れで棺にお花を埋飾する際、喜代司君の知らなかった一生懸命さを想い不覚にも涙を落としました。

芳江さんの場合、日本人の平均寿命を越えた大往生。

 


(tengoku02.jpg)

 

悲しみよりはむしろ祝典の儀と勝手にとらえ、
私自身を重ねてみて、とても真似ることができない長寿にむしろ羨ましさを感じたくらいでした。

このことを正造さんに話したら、母子である正造さんと姉妹である私とでは立場上感受性の違いがあるのでしょう。
正造さんが一瞬顔を曇らせたので失言だったなと思った次第です。
でも、これは私の本当の気持ちでした。

行田の家に戻ったとき、正造さんにお願いしました。
「立派な仏壇があるのだから、宗教に関係なく3人の位牌を一緒に安置して貰いたい」
正造さんも同じ気持ちでした。

我が家の2階にある自称書斎から、前方の勝願寺の森を見ると、緑が日毎に色濃く変化しています。

 


(woods01.jpg)

 

若者たちは“この素晴らしき世界”と歌のような心地でしょうが、気温20度から25度に慣れない気だるさも手伝って、芽吹きの季節をうっとうしく感じます。

デンマンさんの言う儚さ。
私も同じく儚む方向に磁石の針が強く動いています。

今、短編・中編と2本平行しています。
いつも同じ事を言っていますが、私の死没までに家族に伝わるような編み方が完了すればと深く念じている毎日です。

正造さんが最後のお別れに棺に向かって言っていました。
秋になったらデンマンさんと納骨しますから……

合掌。

 


(gassho2.jpg)

 

それではデンマンさん、体に気をつけて……。

健康は自己責任でいきましょう。

お互いにね……。

追伸: 最後の方は疲れたので支離滅裂のようです。 意味不明な箇所もあるようですが宜しく読解のほどを……。

 

かしこ

 


(aunt201.jpg)

 

2017年4月30日 九条多佳子

 




多佳子・叔母さんらしい手紙ですわァ~。。。 で、どういうわけで私信を公開しようと思ったのですかァ?



あのねぇ~、多佳子・叔母は、「私はデンマンさんと全く同じ事を考えていた事柄があります」と書いているけれど、似てはいるけれど、見方が対極なんだよねぇ~。。。

どういうことですか?

喜代司さんは高校生の頃 電車に飛び込み自殺をしようと試みたことがあったけれど、「俺が死んだらかあちゃんが悲しむだろうなァ~……」そう思って思いとどまったのです。。。 つまり、せめてお袋より先に逝く事だけは控えなければならないという思いがあったのですよ。。。

それで、お母さんが亡くなったので、その後を追うようにして お母さんのところへ逝ったというのですかァ~?

その通りです。。。 喜代司さんの気持ちが感じ取れる。。。 でもねぇ~、多佳子・叔母の考えは、あくまでも“母親の視点”なのですよ。。。 つまり、僕の母親の命日から指を折ったら80日。 母親が「霊から仏へと渡り行く時で、母親の霊が神様となり、デンマンさんと正造さんの苦労するであろうことを慮(おもんばか)り、また喜代司君の病苦から救い、母親の懐に呼び寄せた」というのです。。。

デンマンさんは、叔母さんの言うことが信じられないのですか?

あのねぇ~、僕は霊だとか、神様に成るだとか、そういうことは信じてないのです。。。 実は、喜代司さんのお骨は、まだ仏壇にあって、お墓の中には入ってないのですよ。。。

でも、喜代司さんの霊魂も、お母さんの霊魂とお父さんの霊魂も 一緒にお墓の中で 仲良く団欒しているのではありませんかァ?

真由美ちゃんは、そう思っているのですか?

そう信じてますわァ~。

真由美ちゃんは、意外に優しい心根を持っているんだねぇ~。。。

あらっ。。。 デンマンさんは私がドライで、心の冷たい女だと思っていたのですかァ?

そうではありません。。。 霊魂を信じているのがちょっとばかり意外でした。。。 最近のミーちゃん、ハーちゃんは、霊魂など信じてないでしょう! どちらかと言えば、僕のように墓は要らない、遺体は解剖実習のために医学部に献体して、あとは無縁仏として埋葬するか、海に散骨してくれればいいと考えているんじゃないのォ~?

現在の日本人で、デンマンさんのように そこまで割り切ってドライな考え方を持っている人は 極めて少ないと思いますわァ~。。。 でも、そういう考え方を持っているデンマンさんでも、今年の秋には喜代司さんのお骨をお墓に収めるのですか?

そうです。。。 お葬式に出ませんでしたからねぇ。。。 秋には、いつものように帰省しますから、気持ちですよ。。。 いくら、霊魂や神を信じていないとしても、実の弟がお骨になって仏壇の中で待っているのですからねぇ~。。。 僕の気持ちを、納骨する形で表すしかないでしょう!? 何もしないというのは、あまりにも情けないことですからねぇ~。。。

じゃあ、今年の秋は、私は日本へ帰れないと思いますので、私の分までよろしくお願いしますゥ。。。

そういうところは、最近のミーちゃん、ハーちゃんらしいですねぇ~。。。 (微笑)



(laugh16.gif)

 (すぐ下のページへ続く)




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行田物語 母の懐 (PART 2)

2017-06-13 11:16:19 | ふるさと 行田市




 

行田物語 母の懐 (PART 2)


【デンマンの独り言】


(kato3.gif)

真由美ちゃんの母親は 僕の従妹です。。。

つまり、僕の母親は真由美ちゃんにとって大伯母にあたります。


(mother002.jpg)

僕の母親が亡くなる2年ほど前に真由美ちゃんと一緒に撮った写真です。

ところで、真由美ちゃんは、ノース・バンクーバーでホームステーしながら
VCC (Vancouver Community College)にかよって
パン職人・ベーグル職人の勉強と実習に励んでいました。

去年(2016年)の9月に卒業式を終えて、
現在、バンクーバー市内の旨いベーグルを提供するカフェ・レストランで働いています。

忙しい時間を割いて、真由美ちゃんも僕の母親の葬式には参列してくれました。

学生時代には、先生やクラスメートとの英会話には、まごつくことがあったそうです。
外国語というのは習得するのが実に大変です。

あなたは英会話を勉強してますか?
できれば、英語を話している国へ行って英会話を勉強するのが一番です。

でもねぇ~、英会話を勉強する方法に王道はありません。
人それぞれです。。。
自分に合った勉強法を見つけるのが、英会話の上達の早道だと僕は思いますね。

同じことを同じように勉強しても、人によって上達が違うのですよ。
僕の経験で言っても、人によって、語学の才能というのはまちまちです。

太田将宏老人のように、40年もカナダに住んでいるのに
英会話が満足にできずに 6人に成りすまして日本語でブログにコメントを書きなぐって余生を過ごす人もいます。


なかには、日本語を忘れてしまうほど、英語にどっぷりと浸かってしまう人もいます。
20年以上英語圏で英語を話してますけれど、
僕は、漢字を忘れることはあっても、日本語を忘れることはありません。

もちろん、今でも、英語を話すよりも日本語を話す方が楽に話せます。
僕自身は語学の才能があるとは思ってませんが、
僕が、カナダ人と笑いながら話しているのを聞いていると、
真由美ちゃんには さっぱり 何を話しているのか解らないと言うのですよね。

僕がペラペラと英語を話しているように見えるのだそうです。
早くデンマンさんのように 英語がしゃべれるようになりたい、と真由美ちゃんは言います。

しかし、僕は、常に、英語を日本語のように しゃべれたら いいなと思っているのですよ。
外国語を母国語のように話すのは、本当に難しいと思います。

いずれにしても、真由美ちゃんは小さい頃からの夢が叶ってぇバンクーバーにやって来たのです!


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ところで、あなたはバンクーバーに行ったことがありますか?

とっても素敵な街ですよ。


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世界で最も住みやすい街バンクーバー

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ビデオを見ても、なんだかワクワクしてくるでしょう?

卑弥子さんが バンクーバーにやって来たのは 2008年の元旦の2週間ほど前でした。

クリスマスをバンクバーで過ごして、それから元旦の“Polar Bear Swim (寒中水泳)”に参加したのです。


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上のビデオを見ると、まるで真夏のようでしょう?

ところが気温は確か2度ぐらいでした。 

水の中の方が暖かかったのです。

とにかく、バンクーバーには面白い人たちがたくさん居ますゥ。

あなたも、お暇と お金の余裕があったらぜひ出かけてみてください。

では、また興味深い、面白い記事を書くつもりです。

だから、どうか、あなたも またやって来てくださいねぇ~~。
じゃあね。


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If you've got some time,

Please read one of the following artciles:





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『サンタ マユミちゃん』

『お汁粉@海外』

『お汁粉@カナダ』

『支払いでトラブル』

『風邪で甘えてる場合じゃねぇ~!』

『バレンタインのお菓子』

『結婚、仕事、人生』

『命の力だね』

『英語と真由美ちゃん』

『海外に目を向ける』

『カーネギーホールじゃないよ』

『やる気があれば道は開ける』

『ニャンニャンと人生』


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『ピラミス@美術館』

『夢のバンクーバー』

『バンクーバーの屋上で』

『オランダ移住』

『カナダ移住の夢』

『ディープコーヴ』

『浴衣のバンクーバー』

『黒豚テリマヨ』

『イタリアのベーグルとサルサ』

『花火大会』

『乙女老い易く学成り難し』

『真由美ちゃん@英語』

『真由美ちゃんダントツ』

『日本よい国天国だ!』

『やっぱりどこか狂ってる』

『日本で再会』


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『乙女力@宇都宮』

『いい出会いの連鎖』

『笑顔の乞食おばさん』

『ニュートンの暗い秘密』

『新年@バンクーバー』

『スープキッチン@新年』

『猫と癒し』

『猫と犬と癒し』

『大通りde水の滑り台』

『イルカとワンちゃん』

『カワウソ@スタンレー公園』

『生パンツ系男子とベトナム兵』

『愛と癒しの涙』

『ダンスとノーベル賞』

『おもてなし』

『思い出ポロポロ』

『ロブソンの5月』


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『ネットが不倫を連れて来る』

『ペットと良心』

『夢のデニッシュ』

『パンツァネッラ』

『12歳少女の短命』

『行田の伯母さん』

『パン職人修行』

『タイムマシーン』

『ルンルンdeサルサ』

『天国のワンちゃん』

『万の風になって』

『プロシュット』


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『なせば鳴る音楽』

『日本人女学生行方不明』

『日本人女学生死亡』

『ガレット』

『那須高原の紅葉』

『希望とロマン』

『錯視 錯覚』

『マンボ@バンクーバー』

『オリーブオイル』

『スコーンとプディング』

『5月のロブソン』

『病院食の間違い』

『プレミアム・ジャパン』

『自然の摂理を無視すると…』

『夢のデニッシュ・悪夢のマーガリン』

『パリ風カフェ』

『どこか狂ってるわ』

『行田遠野物語』

『行田物語 ピアノ』

『行田物語 猫』



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行田物語 ピアノ (PART 1)

2017-06-07 11:11:09 | ふるさと 行田市
 

行田物語 ピアノ (PART 1)

 


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『実際のページ』


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デンマンさん。。。 今日はピアノのことでデンマンさんが行田で暮らしていた頃の思い出を語るのですかァ~?


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そうです。。。 真由美ちゃんは、なんだかつまらなそうな顔をしてますねぇ~。。。

別に、つまらないと思っているわけではありませんわァ~。。。 ただ、行田とは全く関係ないような映画のポスターが出ているでしょう。。。 デンマンさんのお話がまた長くなりそうなのでちょっと心配しているのです。

あのねぇ~、真由美ちゃん。。。 長くなるといっても、1時間以上はかかりませんよう。。。 おそらく、どんなにゆっくりと読んでも30分以内には読み終えますよ。。。

分かりました。。。 それで、どういうわけでアメリカの映画を持ち出してきたのですか?

僕は上の映画をバンクーバー図書館でDVDを借りて 今年(2017年)の3月29日に観たのです。。。 残念ながら日本語の『ウィキペディア』には出てないのです。。。 意訳すると大体次のような物語なのですよ。。。


The Homesman


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メアリー・カディーは31歳で元はニューヨークで小学校の先生をしていた。
ニューヨークの生活に飽き足らず、より良い可能性を求めて中西部にやって来たのだった。

当時、まだ州に昇格する前のネブラスカ準州のループという農民が集まったに落ち着いて活発にコミュニティ活動に勤(いそ)しんでいた。
一生懸命に働いてかなりのお金をため、広大の土地を所有するようになった。
でも、まだ31歳で独身だった。


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メアリーは気丈な女で独立心が強かったが、ときには孤独と憂鬱に悩まされた。
隣に住むボブ・ギーフェンは、彼女にとって申し分のない夫になるように見えた。

ある晩、彼女はボブを夕食に招いた。
食後、ピアノはないけれど、テーブルに紙製の鍵盤を広げて、ピアノを語り弾くようなつもりで彼のために歌を歌った。


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ロマンチックな気分に浸ろうと思ったからだ。
そして、歌が終わると、彼女はボブに結婚しようと言い出した。

ところが、彼女の期待に反して、ボブは彼女の申し出を断った。
「悪いけれど、僕の理想からすればキミは、あまりにも平凡で、亭主を尻にひくような気がするんだ」
ボブは、そう言うと嫁探しに東部へ旅立って行った。

過酷な冬の後、メアリーと同じに住む3人の女性は、直面した苦難のために精神不安の兆候を見せ始めていた。
アラベラ・サウアズはジフテリアにより3人の子供を失った。

貧しい収穫が家族を飢えの危険にさらすため、テオリン・メルクナプは自分の子供を殺してしまった。
デンマークの移民であるグロウ・スヴェンドゥセンは家庭内暴力で夫に苦しめられており彼女の実の母の死後、精神に異常をきたした。


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牧師のダウドは、3名の夫の一人に3名の精神異常の女性たちを東へ向かわせ、精神病患者をケアしているアイオワ州のヘブロンの教会に連れてゆくように説得しようとした。
3名の夫たちは結局、くじ引きで決めようということになったけれど、男性の1人は、くじを引くことを拒否した。

それで、メアリーが彼の代わりにくじを引くことを申し入れた。
皮肉なことに、彼女がくじに当たってしまった。

メアリーが旅の準備をしている時、メアリーはジョージ・ブリッグスがリンチされるところに出会った。
ジョージはボブ・ギーフェンの留守の間に彼の土地を盗んで逃げようとしているところを捕まったのだ。
ジョージはメアリーに助けを求める。


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護送を一人ですることに不安を感じていた彼女は、監視をする者が誰も居ないのを幸いに、縄を解いてジョージを助けてやる。
その代償として3名の女性を護衛するように伝える。

しかし、ジョージはその仕事がうまくゆくようには思えなかったので、いつでも仕事を放棄する自由が欲しいと言い張った。
しかたなく、ジョージを護衛に縛り付けるために、彼女は「300ドルの大金を郵便で送った、アイオワ州のへブロンの教会に無事3人の精神異常の女たちを護送したら300ドルがジョージの手に入るように段取りがついている」ことを告げた。
ただしこのことはメリーとの間の秘密だと念を押した。


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ある時、怪しいインディアンのグループに遭遇する。
下手をすると殺されるかもしれなかったが、ジョージの経験で、一頭の馬を彼らに賄賂として贈ることで命は助かった。

その後、アラベラが荒くれ者に誘拐されてしまう。
ジョージが追跡して、二人は格闘するのだが、危ういところで、アラベラが正気に戻ったように荒くれ者を銃で撃ち殺してしまう。

やがて、メアリーたちはインディアンによって荒らされた11歳の少女の墓に出くわす。
メアリーは墓を元通りにするように主張するが、ジョージは、そんな面倒なことには関わりたくないので先へ行ってしまう。

やがてメアリー1人で墓を元通りに直すと、彼女はジョージと女たちの後を追う。
ところが、道に迷ってしまい、ジョージたちにい追いつくつもりが、元の墓に戻ってしまう。

翌日、最終的に、ジョージたちに追いつくけれど、砂漠を放浪して散々な目に遭ったことで気持ちがめいり、ジョージに結婚しようと言い出す。
ジョージも、これまでの男のように、「俺は野良仕事をするのはいやだ。 300ドルが欲しいだけさ!」と口実を並べてメアリーの申し出を拒絶する。

その夜遅く、メアリーは裸になるとジョージに迫る。
迷ったがジョージはメアリーと体を一つにする。

ところが、翌朝、ジョージが目覚めると、首をつったメアリーが木からぶら下がっているのを発見するのだった。
ジョージは精神異常者の3人の女たちを「オマエ等のせいで、こういうことになったのだ!」と罵倒し、彼女の遺体を埋める。
その時になって、ジョージは彼女が300ドルを彼女の荷物の中に保っていたことを発見する。

それで、その金を持って、3人の女たちを置いて逃げ出してしまう。
ところが、女たちはそれを察してか、ジョージの後を追う。

アラベラは、川の中に入って溺れかけてしまう。
仕方なく、ジョージはアラベラを救い、アイオワ州に3人を連れてゆくことを決心する。


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その旅の途中で、アロイシウス・ダッフィーが所有するホテルに着くと、食べ物と宿泊を求める。
ホテルは明らかに空(あ)いているのだけれど、ホテルのオーナーは16人の投資家のグループがまもなく来る事になっていると言って、「オマエ達が泊まる部屋はない。 それに精神異常者は御免だ!」と言って断る。
大喧嘩が始まりそうになるけれど、仕方なく、ジョージはそのホテルを後にする。

だが、夜になってから馬に乗ってジョージはホテルにやってくる。
彼は若い料理人を逃がし、ホテルに火をつけて、オーナーの足を拳銃で打ち抜く。

そして、自分たちが食べる分の子豚の丸焼きを持ってホテルを出る。
ホテルの内部に居たオーナーと仲間の従業員たちは焼け死んでしまう。


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やがてジョージはヘブロンに到着し、精神異常者の女性たちを教会の牧師の妻であるアルサ・カーターに託す。
ジョージは彼女にメアリーの死を知らせるが、真の原因は明かさなかった。
メアリーの結婚の申し出を拒否したことに後ろめたさを感じていたジョージは木製の大きな位牌に彼女の名を刻んで、それを墓にするつもりでいる。

ジョージは滞在中のホテルの働き者の裸足の若いメイドのタビタ・ハッチンソンに靴をプレゼントし、そして言った。“西部に行く若い男と結婚するくらいなら町に住んで俺と結婚したほうがましだよ。”
それに対して彼女は、“たぶん”と答えた。

その後、西部へ向かう川フェリーに乗り込んで、2人のミュージシャンと一緒に荒れ狂った歌を歌い始める。
“やめろ!”と言われると、西部にに行こうとしている桟橋の人々に向かって“オマエ等は悪魔の呪われた土地に行こうとしているのだぜ”と罵(ののし)った。

そして、また歌い始めた。
フェリーが出発すると、船頭の一人がメアリーの位牌を川の中に蹴り飛ばしてしまう。

【デンマン訳】

 


(homesman1.jpg)

   予告編

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 全編 (2時間14分)

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出典: 「The Homesman」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




なんだか、すごいお話ですわねぇ~。。。



そうなのです。。。 映画を観た後で、憂鬱な気分がしばらく続きますよ。。。 うつ病の気(け)がある人は観ない方がいいかもしれない。。。

それで、このお話のどこが行田物語と関わってくるのですかァ~?

あのねぇ~、メアリーさんは、決して悪い女じゃない。。。 ボブがどうして結婚の申し出を断ったのか僕には理解できません。。。 彼女は働き者だから、彼女の夫は、怠け者だとしても裕福な生活が送れるかもしれないのですよ。。。 


(mary126.jpg)



映画の中のメアリーさんは決してブスではありません。。。



実際は、ブスだったとデンマンさんは考えているのですか?

いや。。。 そういうわけではありません。。。 あのねぇ~、メアリーさんが あんまりロマンチックな気分にしようと盛り上げてしまったので、ボブはひいてしまったのかもしれません。。。 ディナーの後で、本物のピアノはないけれど、テーブルに紙製の鍵盤を広げて、ピアノを語り弾くようなつもりでメアリーさんはボブのために歌を歌うのですよ。。。 


(piano01.jpg)



ここの所が僕に行田物語を思い出させたのです。。。



あらっ。。。 デンマンさんにも似たような経験があって、女性の家に夕食を呼ばれ、そこの娘さんが愛のセレナーデなんかをピアノで弾いて その後でデンマンさんにプロポーズしたのですかァ?


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もし、この曲の後で、このピアニストが僕にプロポーズしたら、僕はたぶん結婚を承諾したと思いますよ。。。 (微笑)



つまり、そういうことはなかったのですかァ~?

もちろん、ありませんよ。。。 もし、そういうことがあったら、僕はカナダまでやって来ていなかったと思います。。。 日本で暮らしながら一流の松下電器産業(株)で三流の社員で一生を終えていたと思うのですよ。。。

じゃあ、メアリーさんのピアノ弾き語りで、デンマンさんは何を思い出したのですか?

あのねぇ~、僕がはまだお袋の背中に負ぶわれていた頃の話です。。。  たぶん2歳になるか?ならないか? とにかく、僕はお袋の背中に負ぶわれていたのですよ。。。


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まだ2歳にはなってないころでしょうねぇ~。。。 それで、どうしたのですかァ?



うちの親父は小学校の音楽の先生になったのです。。。 なぜなら、音楽で試験を受ける先生が極めて少なかったらしい。。。 僕の親父は小学校だけしか出ていないので、検定試験を独学で受けたのですよ。。。 音楽で試験を受けると合格し易かった、というような話を聞いた覚えがあるのです。。。

私は残念ながら、デンマンさんお父さんに お会いしたことがないのですわ。。。 写真だけでしか知りません。。。 一度でいいからお父さんが弾くピアノを聴きたかったものですわァ~。。。

ホームビデオがとってあるから、いつか真由美ちゃんに聴かせますよ。。。 僕の思い出話に戻るけど、お袋がお昼時になると弁当を作って僕を背中に負ぶって当時の行田中央小学校へ歩いてゆくのですよ。。。


忍町尋常高等小学校


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(このような校舎でした。 実物ではありません)

 

市庁舎、産業文化会館、体育館の北が、忍城東方の守りの内行田沼を埋め立てた地で、忍町尋常高等小学校が大正11年1月に竣工した。
だから昭和54年現在71歳の人が第1回卒業生で、20数歳の人が最後の入学生ということになるから、この忍町尋常高等小学校の大校舎を知っている人は市民に多いと思う。 (略)

教員数32名、児童数1,888名という小学校で、昭和12年星川村が合併を機に小学校が東西南北となり忍町南小学校になり、16年には忍町国民学校、22年また忍町南小学校となり、24年市制により行田市立南小学校、29年に南小学校が分離して行田市立中央小学校と名前も6回替り、現在に至っている。

玄関の前に軍艦の大砲があった。
郷土出身の小山与四郎大佐の口添えで、須加小学校と忍町小学校の2校が払い下げを受けたことを、知っている人は少なくない。

また昭和4年4月7日、今の体育館のところにロシア軍艦の11メートルの主砲で立派な表忠碑が立っていた事も、昔の語り草となってしまった。
児童数も昭和20年度には3,020人、新制中学で高等科がなくなっても、28年度は教員数67人、児童2,878人というマンモス小学校となった事も、当時の人には思い出深い事であろう。

 

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




113-115ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社




オヤジは、この忍町尋常高等小学校を卒業すると、家が貧しいから旧制中学校に行けなくて、給仕になって独学で勉強しながら先生になる検定試験を受けたのです。。。



デンマンさんのお父さんは ピアノも独学で勉強したのですか?

たぶん、音楽の先生に教わったのでしょう。。。 詳しいことは聞いてないのです。。。 でも、音楽の先生に教わったとしても、初めだけで、後は独学だったのですよ。。。 だから、お袋が僕をオブって弁当を持って学校に行くと たいてい講堂に直行するのです。。。 すると、講堂の舞台の前にあるピアノで練習しているのです。。。

デンマンさんはお母さんお背中で、そんなお父さんの練習する姿を何度か見たのですか?


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そうなのです。。。 で、夕方になって家に帰ってくるとメアリーさんじゃないけれど、座敷で畳の上に紙製の鍵盤を広げて、おさらいするように手を動かしながらピアノを弾くのです。。。 


(piano89.jpg)



もちろん、音は出ないし、歌も歌わなかったけれど。。。、あんなことをして練習になるのかと不思議な気持ちで見ていたことを 今でもはっきりと覚えてますよ。。。



その当時ピアノのある家というのは珍しかったのですか?

僕の知る限り、昭和の30年代に町内でピアノがある家は一軒もなかったですよ。。。 恐らく、行田市全体でもピアノがある家は 5軒もなかったでしょう!? よほどの金持ちで音楽愛好家でない限り、テレビは買っても ピアノなんかを買う時代ではなかったですからねぇ~。。。

畳の上に紙製の鍵盤を広げて、練習するなんて聞いたことも見たこともありませんわァ~。。。

そうでしょう。。。 僕だって、上の映画を観るまでは、一度も見たことがない。。。 ところで、この話には、まだ続きがあるのですよ。。。

どのような。。。?

僕は、まだ言葉がしゃべれなかった。。。 お袋から聞いた話です。。。 僕自身は忘れていたのだけれど、お袋が亡くなる2年か3年前に、僕に話してくれたのですよ。。。 2歳になる前でしょうねぇ~。。。 僕は割合 言葉を話すのは早かったらしい。。。 生後10ヶ月には、言葉を話し始めたと言うのです。。。 たまたま、雑誌か何かにピアノの絵がついているのを目にすると、僕が小さな手でピアノを弾く真似をするというのですよ。。。

つまり、まだ言葉がしべれるか、しゃべれないかの頃に、お父さんがピアノを弾いたことを覚えていて、ピアノの絵を見ると、手を動かして弾く真似をしたと言うのですか?

そうなのです。。。 するとお袋が「そうだよねぇ~。。。 そうやってお父ちゃんがピアノを弾いていたんだよねぇ~。。。」と、僕に話しかけるのだそうです。。。 すると、僕は調子に乗ってピアノを弾く真似を続けるというのです。。。

なんだか、ほほえましいですわねぇ~。。。 (モナリザの微笑)

ところで、この話には、まだ続きがあるのですよ。。。

まだ他にもあるのですかァ~。。。 どのような。。。?

すでに記事に書いたので、真由美ちゃんも読んでみてください。。。


ん? クラシックで片思い?


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そうなんですよね。
僕は多分、恵美子さんに片思いしていたと思うんですよ。


(cute0015.gif)

中学校に入学して間もなくだった頃だと思いますが、
全校生徒が体育館に集まった時に
同学年の恵美子さんが“乙女の祈り”をピアノで独奏したのです。

<iframe width="420" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/loJY25HOIr4?feature=player_detailpage" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

僕はその時初めてこの曲を聴いたのですが、すばらしいと思いました。
感動しました。

曲も良かったけれど、あの恵美子さんが弾いたのだという事も感動的でした。
この恵美子さんは小学校のとき6年間隣のクラスに居た可愛い女の子だったのです。

よく目にした事はあっても口をきいたことが一度もなかったのです。
初恋の人ではなかったのですが、僕の気に入った女の子でした。
遠くから見ていて、可愛い女の子だなぁ~と思っていたのです。

小学校ではクラス替えがなくて6年間同じメンバーだったのですが、
中学校では学年毎にクラス替えがあったので、この恵美子さんと同じクラスになる事を期待していたのです。

しかし、とうとう同じクラスになる事はありませんでした。
(こういう思い通りにならない事って、人生にはずいぶんとあるものですよね?)

とにかく、僕が気に入っていた“乙女”が弾いた“乙女の祈り”が忘れられなくて、僕はどうしてもこの曲が弾きたくなった。
大学に入学して下宿から通うようになった頃、下宿にピアノがあったので楽譜を買ってきて、独習で弾き始めたのです。

とにかく、一生懸命に独習したので、何とか全曲を弾けるようになったのです。
自分では結構マシに弾けると思ったので、ぜひ恵美子さんに聞いてもらいたいなぁ~と思い始めたんですよ。


(piano2.jpg)

そう思ったら、何が何でも恵美子さんに聞いてもらいたいと思うようになった。
それで、夏休みに帰省した時に思いきって恵美子さんに電話したのです。

当時、恵美子さんは音楽大学に通っていました。
恵美子さんはビックリするだろうと思ったのですが、極めて落ち着いて冷静に受け答えしていたので僕のほうがその落ち着き方に内心ビックリしたほどでした。


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これまでに一度も言葉を交わしたことのない女性に初めて電話して僕のピアノの演奏を聞いて欲しいと言ったのですからね。
もちろん、どうしてそういう気持ちになったのか、かいつまんで説明しましたが、
今から思うと“すっご~い心臓”を持っていたものだと、自分ながら呆れる思いです。

その後、恵美子さんがコンサートピアニストになったのかどうか、僕は、もうぷっつり連絡していないから全く分からないのです。
僕は社会人になると間もなく海外へ出てゆきましたから。。。

当時、彼女の家にはグランドピアノがあって、その頃でもピアノ教室が別棟にあって、そこで子供たちに教えていました。
とにかく、恵美子さんに会ったのは前にも後にもそれっきりなんですよね。
電話した事もなければ、手紙を書いたこともない。
本当にその時会ったのが初めで最後!

まず、このように書いても誰も信用してくれないと思いますが、これは実話です。
恵美子さんの名前は本名です。
僕の生まれは行田市です。

もしかして、この記事を恵美子さんが読む事があれば、すぐに僕が誰かと言う事が分かるはずです。
もちろん、僕は恵美子さんにまた会いたくなったから、と言うのでこの記事を書いているわけではありませんよ。

小学生のときに芽生えた“乙女”に対する思いが僕の“乙女の祈り”の演奏を聴いてもらう事によって完結した。
言ってみれば、そのような儚(はかな)くも淡い“恋”ではなかったのか?

もちろん、それは“片思い”にすぎなかったのだけれども、僕はその片思いをあのような形で完結したのだと。。。
今から思い返すと、そう思えるのです。

しかし、ずいぶんと下手くそで間違った演奏を聞かせたものだと、気恥ずかしくなりますよ。
この記事を恵美子さんがもし読む事があったら、夢のような馬鹿ばかしい思い出として、苦笑しながら思い出すことでしょう?

お恥ずかしい事ですが、クラシックだと言われている“乙女の祈り”を誰が作曲したのか?
この記事を書くまで知らなかったという“おまけ”までがついていますよ。
うへへへへ。。。。

ついさっき調べたら次のような事が分かりました。



(girlwell.jpg)

1856年作曲

乙女の祈り (La prière d'une vierge)

テクラ・バダルジェフスカ (Tekla Badarzewska)

(1834年1月1日~1861年9月29日)

生誕地:ワルシャワ、 ポーランド


なんと、この人物は27歳で亡くなっているんですよね。
冥福を祈りたいですね。

とにかく、この人物が“乙女の祈り”を作らなかったら、僕は恵美子さんに会うことはなかったんですよ。

小学生の時に、恵美子さんのことを可愛い女の子だなぁ~と思っていただけで、一生会って言葉を交わす事はなかったはずです。

クラシックの“威力”なのでしょうか???

実は、この片思いの事は6月13日に書いた記事の一部です。
全文はもっと長いのですよ。
興味があったら次のリンクをクリックして読んでみてくださいね。
クラシックに限らず音楽好きの人なら面白く読めると思います。

『ん? クラシック興味ある?』

Realogで書いた、この記事に対してRealogのメンバーの藤守美愛さんから次のようなコメントをもらいました。
ありがとね。

(デンマン注: 残念ながら、Realogは閉鎖・消滅しました。)



(gal06c.jpg)

初です☆
クラシック好きなので、
タイトルに釣られて来てしまいました。
コントラバスしてたんですか?
私はペットとパーカッション&ドラムしてました(^O^)

乙女の祈りはエレクトーンで弾いたので懐かしい~
独学でピアノは大変ですよね。
とても素敵な想い出だと思います=^▽^=

 

by 藤守美愛 2006/06/14 03:45





『ん? クラシックで片思い?』より
(2006年6月19日)




あらっ。。。 ピアノの思い出で こんなことがあったのですかァ~?



そうなのですよ。。。

ちょっと信じられないような。。。 でも、私も いいお話だと思いますわァ。。。 つまり、小さな頃 デンマンさんのお父さんが講堂のグランドピアノで練習していたことが 無意識のうちに 上の思い出の種をまいたのでしょうねぇ~。。。

僕は、その頃 全くオヤジのピアノのことは忘れていたけれど、独学でピアノを習ったというのは 無意識のうちにオヤジと同じやり方をしたのでしょうねぇ~?

デンマンさんは、お父さんにピアノを教えて欲しいとは言わなかったのですかァ~?

言わなかったし、オヤジも僕にピアノを習えとも言わなかった。。。 教えようともしませんでしたよ。。。

なんだか、不思議な親子ですわねぇ~。。。


(mary127.jpg)



上の映画を見て、メアリーがピアノを弾く真似をしながら歌うのを見て、とにかく、この思い出がよみがえってきたのですよ。。。



(laugh16.gif)

 (すぐ下のページへ続く)




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