狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

確たるベース・根拠の裏付け無き世間の低次元の評価を恐れる事により偽善・欺瞞・裏切りの罠に陥る

2016-04-10 11:56:52 | 世間・空気
 心理学者のアルフレッド・アドラー思想を紹介している本「嫌われる勇気」(著者:岸見一郎氏・古賀史健氏、出版社:ダイヤモンド社、出版日:2013/12/13)が、ミリオンセラーとなり、韓国・台湾等でもベストセラーとなっているとの事である。
 先日2016年2月には、水曜夜22:00からのNHK・Eテレ「100分de名著」において、アドラーを特集していた。
 自分と他者の課題に線引きをして、自分の課題に踏み込ませないこと、他者の課題に踏み込まないことを徹底出来た時に、対等な関係を築く事が出来、対人関係がシンプルになると言っている。
 プライバシーの侵害、ストーカー行為をする事は、自分と他者の間に境界線を引かず、私と公の間に線引きをしないではっきりと区別しない事である。そしてその上で、干渉・介入行為が行われているのである。日本は戦後、アメリカから常に干渉・介入・監視・管理されて来た為に、米国との対等な関係が築けず従属関係となっているのである。

 古代イスラエルの王ダビデの子で栄華を極めたソロモンの言葉。

 旧約聖書・箴言29章25節
   人を恐れるとわなにかかる。
   しかし主に信頼する者は守られる。


 人を恐れるとは、人の雑音に値する様な言葉を聞き入れたり、人に嫌われない様にしようと努めたり、人から笑われない様にしようと努める事で、その様に人からの評価・承認を求めようとする事である。その様にして他人の評判や反応、顔色を気にして、それらを当てにして、基準にして言動に繋げる事は、偽善行為を自ら行う事や欺瞞や裏切りを被る「わな」に繋がるのである。 
 そして続く26節には、

 同書・29章26節
   支配者の顔色をうかがう者は多い。
   しかし人をさばくのは主である。


 世間の大多数の人達にとっての支配者は、周囲の人・他人である。周囲・他人の評価・反応が支配者となっているのである。その周囲の人を恐れているあまりに周囲の人に従っているのである。自分の思いでは無く、周囲の人・他人の考えに同調して行動し、発言しているだけである。つまり、他人から批判やバッシング、嘲笑等をされて裁かれる事を恐れているのである。しかし、それらの裁きは間違いである。
 世間の多くの人達は、周囲・他人を自分の支配者として崇め拝んでいる奴隷状態にいるのである。そして自分自身を失くしてしまい他人になってしまっているのである。
 他人の評価・承認は当てにならない。他人の評価・承認には、正しい裏付け・証明が存在しない。根拠・基準が無い。明確な理由が無い。それらの事が解ると、人を恐れる事は無くなるのである。
 そもそも、評価・承認をする側の世間の多数派の人達の持っている教養レベル・知識レベル・思考レベル・判断レベルを見ていけば、如何に低レベルであるかが解るものである。その低レベル・低次元から生じる評価や承認が如何に低レベル・低次元な評価・承認であるかが解るものであり、その様なものが馬鹿げていて如何に間違っているかという事に気が付くものである。
 また、周囲・他人の常識・空気・雰囲気を基準・根拠にし、「みんなが言っている事だから」、「みんながやっている事だから」という理由だけで、評価・承認に繋げているだけなのである。みんながみんな間違った事をしていても、それが常識化するのである。自分自身の内に考え・主義・主張が存在せず、付和雷同しているだけなのである。組織等の或る枠内・範囲では、その様な常識化・空気・雰囲気が形成され易い。空気や雰囲気は「空(から)」である。その空である存在のものに、多くの人達は支配されているのである。
 「色即是空」においての「空」は、世の中・世間一般に充満している「欲望」の事である。世間の多くの人達は、その「空」である「欲望」にも支配されているのである。そして神社やお寺では「何々が叶います様に」と、自分の欲望を神として手を合わせて拝んでいるだけなのである。

 新約聖書・ピりピ人への手紙 3章19節
    彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。


 宗教、特に宗教組織は間違っているが、或る宗教に対する信仰心を有する者にはそこにおいての教義が自分の考えや判断の基準・規範となっている。しかし、日本の多くの世間の人達は無宗教者が多い。結婚式や葬式、初詣等の願掛け等の勝手な時だけ神仏を拝んでいるだけである。信仰心のかけらも自分の内に存在していないのである。
 因みに、聖書は宗教の書物では無い。キリスト教の書物では無い。キリスト教という宗教組織が聖書を利用しているだけなのである。
 日本の長い歴史・伝統・文化を基にしたものであれば、「歴とした(れっきとした)」証拠・裏付けとなり得る。しかし、最近は、戦後は、アメリカの占領政策で洗脳されて、アメリカン・デモクラシー化、アメリカナイズされて、日本の歴史・伝統・文化が蔑ろにされ、軽んじられ、或いは否定されてしまっているのである。
 何事においても、確かな証拠・証明・裏付けとなるものが存在しない物事を信じる事は、騙される結果となる。つまり、ろくな根拠も基準も無く発せられた評価や承認を信じる事によって騙される訳である。人からの裏切りはそれらが所以となっているからである。つまり、他人を恐れるがあまりに他人を信じようとすると、裏切り・欺瞞を被る「わな」にかかるのである。
 日本の世間の多くの人達は、性善説・ヒューマニズムを信じている。故に騙され易い。日本国憲法も性善説で書かれている。この憲法で平和を保てる等と思い込んでいると、外国に騙されて日本国は潰される。反対に、聖書は性悪説である。聖書は、人間はみな悪の性質である「原罪」を持っていると言っているのである。
 あくまでも本当に正しい、真実の裁きをする事が出来るのは、絶対者である創造主の唯一である。その絶対者である唯一の主を恐れて従う事は正しいのである。主は真実であられるからである。

 本ブログ過去の関連記事
   ・2013/03/19付:「人に従うより、神に従うべき」
   ・2013/11/11付:「敏感で太い『鈍感力』と、『alone』と『maverick』の『孤独力』による『心の安定』・・・『人間関係は浅くていい。』を読んで」
   ・2014/02/23付:「オリンピックを通して、世間の人達が自分で判断出来ない考え方・捉え方を見る」
   ・2014/06/28付:「『絶対的』では無く『相対的』に、周りの人達の顔色や反応を基準・規範にするのが世間の人達・・・『『空気』と『世間』』を読んで」
   ・2014/06/29付:「『『普通がいい』という病』を読んで・・・絶対的基準・規範も持たずにお互いの顔色・反応を確かめて『普通』と認め合っているに過ぎない世間の人達」
   ・2015/08/13付:「何も世間の人達と同じ事をする必要性は全く無い。もっと高いレベルの現実を見るべきである。」
   ・2015/08/15付:「人を恐れる、つまり人からの評価を求めると偽善となる:『この世の偽善 人生の基本を忘れた日本人』を読む」
   ・2015/08/15付:「人の褒める言葉も私の心を引かず・・・『世の楽しみよ去れ 世の誉れよゆけ』」
   ・2015/11/29付:「精神的に自立した本当の大人は自分で勉強する・・・セックスを基準に大人と判断する世間の低レベル」

 参考記事
  ・2015/02/17付・神戸新聞朝刊:番組・教養「100分de名著・アドラー」
  ・2016/02/19付・神戸新聞夕刊:「『嫌われる勇気』がミリオンセラー」

  ・NHKオンライン~ドキュメンタリー・教養~100分de名著:「名著51・人生の意味の心理学 アドラー」

 関連文献
 固有タイトル
嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え


 関連動画
 

YouTube:『判断基準をどこにおいたらいいのか?~日本の伝統文化に根ざしたもの①』久保田信之 AJER2015.7.8(7)
 

YouTube:【遠くの声を探して】日本人の気概、自らの価値観に拠って立つ強さを[桜H27/7/8]


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