狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

神の「御心」である「運命」を素直に受け入れると言う事・・・「置かれた場所で咲きなさい」を読んで

2013-11-11 01:24:23 | エッセイ・コラム
 旧約聖書・伝道者の書3章1~2節「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。」
 同書3章11節「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠の思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」
 「置かれた場所で咲きなさい」(著者:渡辺和子氏、出版日:2012/4/25、出版社:幻冬舎)
 上記の本を読みました。
 カトリックのシスターとして、そのカトリックと言う組織はともかくとして(別として)、「聖書」を基にした考え方や捉え方、判断の仕方、生き方、人の心の理解の仕方等を持っておられ、そこから出てくる「言葉」が本書には存在します。
 世間の考えや評判に依らず、自分の考えや欲望にも依らず、神の「御心」に従う謙遜・謙虚さが、本書に在る言葉から伺えます。
 本書にはその「聖書」を基にした「指針」が書かれています。タイトルの「置かれた場所で咲きなさい」とは、創造主から一人ひとりの人全てに与えられている「運命」、「使命」を素直に受け入れて、神に大きく委ねて従わなければならないと言う事を意味しています。つまり、自分の意志や目的、目標、欲望をも捨てて、神の意志・計画である「御心」に従わなければならないと言う事です。
 その「指針」の内で、「一人格」として生きる事の大切さを述べられています。
 「便利さ・安楽さ・スピード」が、「待つ事・耐える事・静かに考える事」を奪ってしまったとして、「まず考えるということ、次に感じる余裕を持ち、その次に行動するという順序こそが、『一人格』としての生き方」(本書より)と言われています。
 また、「人間は一人ひとり『人格』、『Person(パーソン)』なんだと。自ら判断して、その判断に基づいて選択、決断して、その決断したことに対しては責任をとる、そういう人がパーソンと呼ばれるに値する。右を向けといわれてただ右を向き、一人では渡らないのに、みんなが渡るから赤信号でも渡る。そういう人は人間だけれども人格ではない」(本書より)とも言われています。
 「人格」とは、個性・人柄・人品であり、また、道徳的意志を主体として自己決定権と自律的意志を有する個人を言います。つまり、道徳を持ちながら自分が主体的に考える「一人称」として自律出来ている人の事です。
 その様な人は「独り」で考えて行動出来るので、世間一般的な「群れ」で行動する「0人称」の人達よりはレベルが高いですが、その「一人称」を超えて、自分を捨てて神の「御心」に従い神に委ねる事が最もレベルが高く、最も人間として「成熟」した姿であると言う事が出来ます。

 
置かれた場所で咲きなさい置かれた場所で咲きなさい価格:¥ 1,000(税込)発売日:2012-04-25



敏感で太い「鈍感力」と、「alone」と「maverick」の「孤独力」による「心の安定」・・・「人間関係は浅くていい。」を読んで

2013-11-11 00:54:05 | 孤独・独立・自尊心
 総タイトル:【敏感で太い「鈍感力」と、「alone」と「maverick」の「孤独力」による「心の安定」・・・「人間関係は浅くていい。」を読んで】

 旧約聖書・箴言29章25節「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」
 「人間関係は浅くていい。」(著者:おちまさと氏、出版日:2012/6/1、出版社:扶桑社)
 上記の本を読みました。
 私は、人間関係がとても苦手です。また、組織には馴染めません。そして、「群れ」で行動する事で却って「ストレス」を感じます。独りでマイペースに居る事がストレスを生じる事も無く、寂しさも感じず、悠々と、飄々と生活する事に心地好さを感じます。その様に、世間離れする様な状態の方が、超然と、却ってゆったりと落ち着いて生活する事が出来ます。俗世間からの解放によって自分の精神・心が自然な状態となる「自分にとっての普通」を、私は好みます。しかしそれは同時に、「世間にとっての奇人・変人」を甘受する必要も有ります。
 また元々、偉いサンや上の身分の者に抵抗感・反発感を持っており、権威や権力に対しての「反骨」も持っています。その様な事からも、自由で居られる「孤独」、「独立」を好みます。
 「孤独」には、必ずしも寂しいと言う事を含意しない「alone」と、寂しいと思う「lonely」が有ります。「alone」は独りで考えて行動出来る「一人称」やそれを超えた「神と共に居る0人称」であり、「lonely」は常に誰かにしがみつかないと居られない「0人称」です。私は、「alone」である様に思います。
 また、無所属の芸術家や政治家、反体制派、異端者、「一匹狼」の事である「maverick」は、群れず、つるまず、属さず、俗世間から離れた「孤高」な人を意味します。
 ところで「鈍感力」とは、「敏感」でありながらも太くて折れない力の事であり、決して何も気付かない「鈍感」ではありません。気付きながらも、自分の内で情報処理しながら進む事です。「雑音」や「外野の声」に気付いても、自分の内で適当に処理して、無意味で空虚な要らない情報は棄てる。決して周囲に惑わされず、動かされず、自分を堅持して見失う事無く、「泰然不動」で居られる事が「鈍感力」なのです。そして、神に委ねて従う事で、本当の「敏感で太い」、心が安定する泰然不動の自分が得られます。社会的な地位や身分、職等の安定では無く、「心の安定」です。つまり、どの様な境遇に遭おうとも、心が常に平静であると言う事です。「心の余裕」
 旧約聖書・詩編11章1節「主に私は身を避ける」
 人間関係を重く見過ぎると、出世や社会的成功、欲望の為に、癒着、馴れ合い、迎合、媚びへつらい等から「偽善」に繋がります。特に金銭的癒着はしがらみを生み、倫理的な悪化に繋がっています。実際、現実、この世の中は「偽善」だらけです。「理想郷」では無いこの社会・世間から少し身を引いて、客観的に眺めてみる。そうすると、その「偽善」や「矛盾」が見えて来ます。世間体、見栄、ウソ、欺瞞。ついつい、その社会や世間に対しての批判や皮肉を感じて述べてみたくもなって来ます。
 その様に、決して社会・世間の中での「常識」や「空気」、「普通」、「慣例」、「既成観念」等が正しい訳では無く、「多数派」の意見が正しい訳でも無いので、無理に我慢して組織やグループに入って合わす必要は有りません。独りで考えて判断し、行動する。但しその場合においては、自分の中に正しい「基準」となるもの、「規範」が必要になります。その「規範」を考え方や判断の仕方、捉え方、生き方等の「根拠」として、生活する必要が有ります。
 人は一時的で不完全で変動・流動しやすい者の為に、人に頼って期待しても所詮裏切られます。一方、神は永遠で完全で不変である為に裏切りません
 ところで、「挑戦」する事が持て囃されたりしますが、「欲望」は「際限無き冒険」や、目標、夢、向上心を持つ事に繋がっている面が有ります。一方で過去の経験は、足るを知り、満足して、精神的な安定をもたらします。同様に「前に進む」と言う言葉もよく持て囃されますが、この理想とはかけ離れた社会・世間の中で生きて来る上で付着した「汚れ」を落とす為に、一旦立ち止まって自分をリセットし、この世に生まれて来た時の「純粋」な状態に「戻る」必要が有ります。一旦立ち止まる「断食」は、世俗・欲望を断ち、黙想し、自分を顧みる事です。
 私がこの様なレビューや自身のブログを書く事の理由として、自分の考えや気持ちの整理の為に、自分のその時の思いのアーカイブの為であったりするので、賛否両論が有っても構わなく、嫌われても構わなく、顔色や反応も気にしていません。
 会社等で、「使えない」と言うレッテルを貼られる事を恐れている人が多いと思います。しかし、イエス・キリストはその「無用性」をこの世において表現されました。旧約聖書のイザヤ書52章13~15節と53章1~12節には、預言者イザヤの在世時の約700~800年程後に救世主として降臨される、イエスの「聖なる無用性」の事が預言されて書かれています
 自分で立てた計画に則って行う事や、自分で秩序立てて行う事よりも、神の業(わざ)・意志・計画で行われる「偶然」や「奇跡」の方が、実は意味が有ります。「想定外」は人の予想や想いを超えるもので、超科学的な自然や宇宙の事です。その自然や宇宙をも造った創造主は、全てを超える存在です。
 人間関係を浅くして「孤独な時間」を持ち、祈り、黙想、沈思黙考をして、世俗から離れて神と向き合います。

 
 
人間関係は浅くていい。 (扶桑社新書)人間関係は浅くていい。 (扶桑社新書)価格:¥ 777(税込)発売日:2012-06-01