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狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

日本人のルーツを取り戻す(4)・・・元々は多民族国家であった日本の中の一部に、アブラハム―イサク―ヤコブの血統のユダヤ人の子孫が・・・「日本人のルーツはユダヤ人だ―古代日本建国の真相」を読んで

2013-07-08 22:33:51 | 歴史・伝統・文化
 総タイトル:【日本人のルーツを取り戻す(4)・・・元々は多民族国家であった日本の中の一部に、アブラハム―イサク―ヤコブの血統のユダヤ人の子孫が・・・「日本人のルーツはユダヤ人だ―古代日本建国の真相」を読んで】

 「日本人のルーツはユダヤ人だ―古代日本建国の真相」(著者:小谷部全一郎氏、出版社:たま出版、出版日:1991/11/20) (※1929年(昭和4年)出版で現在絶版の同氏著「日本及日本国民の起源」上・下巻を編集したもの。)

 神学者・牧師・教師・哲学博士・アイヌ研究家の著者原書が出版されたのは今から84年前になります。過去に購入して読んだ本書を再読しました。元々は多民族国家であった日本の中の一部に、アブラハム-イサク-ヤコブの血統のユダヤ人の子孫が含まれている事を伺う事が出来ます。全ての日本人がユダヤ人の子孫である訳ではありません。
 本書の中からの極一部の概要を以下に記します。

 ・七草粥、門松、・・・「過越しの祭り」、七日間、無醗酵のパン(餅)、苦菜、常磐木の枝、旧約聖書・出エジプト記12章
 ・鳥居・・・鴨居と左右の柱に羊の血。旧約聖書・出エジプト記12章
 ・禊・・・洗礼。潔斎(モノイミ)。神殿前の手洗盤。履物を脱いで(足を洗って)家に上がる風習。 潔癖症。
 ・おみくじ・・・くじによる取決め。イスラエル十二部族のカナン相続地割当(旧約聖書・ヨシュア記14章2節)等。
 ・養蚕・・・桑、絹、機織り。
 ・捺印。文章右書出し(~戦前)。
 ・一日と十五日の休日(~江戸時代)・・・旧約聖書・エステル記からのプリム祭(14・15日)。
 ・相撲・・・旧約聖書・創世記32章24~30節
 ・神宮の構造・・・神殿の構造。拝殿と奥殿、聖所と至聖所。
 ・獅子・獅子舞・・・神社、神殿。
 ・榊・・・ヒソプ。清めの式、玉串の神前への供え。
 ・注連縄(しめなわ)・・・神殿の柱、神器、手洗盤等。
 ・神社の神の数詞「柱」・・・唯一の創造主である神の表示。創世記31章等。
 ・純白の尊重・・・白亜麻布の祭服・エポデ。純白の斎服、白馬、白猪、白鶴、白雉……。
 ・清めの塩・・・旧約聖書・士師記9章45節等。保存食の腐敗予防。調味、調和。死海。
 ・触穢(しょくわい)の禁忌・・・旧約聖書・民数記6章6節等。神職、祭司。
 ・お守り札・・・住居の入口、木製小箱。
 ・鳩・・・旧約聖書・レビ記12章6・8節。罪の為のいけにえ。
 ・賽銭箱・・・旧約聖書・列王記 第二12章7~16節、新約聖書・マルコの福音書12章41~44節等。献金箱。
 ・神酒・・・旧約聖書・出エジプト記29章40節等。注ぎの奉げ物のぶどう酒
 ・新嘗祭・・・ 旧約聖書・出エジプト記23章19節等。初穂、初なり、初子、初物の奉げ物。
 ・拍手とお辞儀
 ・神輿・・・契約の箱
 ・神楽舞・・・旧約聖書・サムエル記 第二6章5節等。琴、瑟(しつ)、鼓、鈴、鐃鈸(にょうはち、シンバル)、立琴(竪琴、ハープ)、カスタネット。
 ・祇園祭・・・旧約聖書・創世記8章4節、7月17日「ノアの箱舟」のアララト山漂着。シオン(Zion)→ギオン
 ・室(ムロ)・・・旧約聖書・サムエル記 第二5章9節「ミロ」。ダビデの城塞。
 ・スサノオノミコトはスサ(ペルシャ)の王・・・天孫族。 エソ人スサノオノミコトを首長として先住民クシ人と協力。
 ・土着民で出雲の「エビス人(クシ、土蜘蛛)・・・故郷カナン(現パレスチナ、エルサレム付近)。エブス人→ エビス人
 ・出雲民族「エソ人」・・・故郷カナン(現パレスチナ)。アブラハムと正妻サラとの子イサクとその妻リベカの子エサウ→エドム人→エソ人(蝦夷、イズモ人、アイヌ人)エサウの双子の弟ヤコブ(イスラエル)→へブル人→ユダヤ人
 ・武蔵一宮氷川神社・・・イズモ人の東遷。エドム→江戸
 ・高天原・・・アルメニア・タガーマ州ハラン→アメ(天)のタカマガハラ(高天原)
 ・御船代・・・伊勢神宮。三種の神器。諏訪神社「御船祭」。Ark(契約の箱、ノアの方舟)。神輿水中渡御。 旧約聖書・出エジプト記14章15~31節
 ・日本・・・アブラハムの子イサクの子ヤコブの子ガドの子「ツェフォン(Zephon、ゼポン、ツィフヨン)」→「ニッポン」。旧約聖書・創世記46章16節、同・民数記26章15節
 ・帝(御門、ミカド)・・・「御」+「ガド」→「ミカド」
 ・十二社神社・・・十二社(じゅうにそう、十二祖)。熊野三山(熊野大社)。八咫烏。ヤコブ(イスラエル)の十二子息(十二部族)。十二弁菊花紋
 日本の地名は殆どアイヌ語・・・島根(サパネ、君臨統治の所(首都))、鎌倉(カマカラ、機織る所)等。
 ・世界を動かすユダヤ人。
 ダン族の建てた英国
 
 私のブログの、過去の関連ウェブページが次に在ります↓↓
 「日本の正月に存在する古代ユダヤの風習」
 「多民族国家の日本に古代ユダヤ人」

 以下に、関連動画を添付します↓↓
 尚、次の動画は、1/5~5/5の5分割となっています↓↓
 

</object>

YouTube: 漢字に隠された聖書の物語(1/5)


 尚、次の動画は、第1回~第7回の計7回分が有ります↓↓
 

</object>

YouTube: 日本人のルーツ研究セミナー 第1回


 

</object>

YouTube: 祇園祭り・剣山の謎


 

</object>

YouTube: ヤタの鏡と日本(古代ユダヤとの関係)


 

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YouTube: 相撲は古代イスラエルの神事だった


 

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YouTube: 諏訪大社のイサクの祭り


 

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YouTube: 武蔵一宮氷川神社


 

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YouTube: 剣山本宮例大祭 御神輿 平成23年7月17日



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日本の正月に存在する古代ユダヤの風習

2013-01-04 18:53:47 | 歴史・伝統・文化
 正月三が日が過ぎましたが、昔から正月等のハレの日の縁起物の食材に欠かせない物として「餅」が有ります。又、1月7日の朝に食べる「七草粥」も昔からの風習として受け継がれて来ています。平安時代中期(A.D.905~927)に編纂された「延喜式」には、小正月1月15日七草がゆである「餅がゆ」(「望がゆ」)の記載が在ります。因みに、正月は松の内の事で、大正月が1月1日~1月7日、小正月が1月15日、又は1月1日~1月15日となります。本来は「七草」と書いた場合は秋の七草を指しますが、「七種」と書いた場合は小正月の1月15日の「ななくさ」を指します。現代では本来的意味が解らなくなり風習だけが残った事から、人日の節句(1月7日)小正月の風習が混ざって1月7日に食べられる様になりました。
 又、同様に昔からの風習として、初詣には神社や寺院へ行って賽銭を入れ、旧年の感謝や新年の祈願を多くの人が行っています。その様な風習の中に、古代イスラエル、古代ユダヤ人の風習からの由来であるものが多く有ります。下記の聖書に記載されている中の、「かもいと二本の門柱にある血」は神社の「鳥居」、「種を入れないパン」は「餅」、「苦菜」は「七草粥」、「献金箱」は「賽銭箱」です。又、1月14日夕方から1月21日夕方までの7日間は「過越の祭り」(「種なしパンの祝い」)となっており、正月と同様となっています。
 旧約聖書・出エジプト記12章1~11節主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。『この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、・・・家族ごとに羊一頭を用意しなさい。・・・あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。・・・それを朝まで残してはならない。・・・これは主への過越のいけにえである。
 同12~14節その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。」
 同15~19節あなたがたは七日間種を入れないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。また第一日に聖なる会合を開き、第七日にも聖なる会合を開かなければならない。この期間中、どんな仕事もしてはならない。ただし、みなが食べなければならないものだけは作ることができる。あなたがたは種を入れないパンの祭りを守りなさい。それは、ちょうどこの日に、わたしがあなたがたの集団をエジプトの地から連れ出すからである。あなたがたは永遠のおきてとして代々にわたって、この日を守りなさい。最初の月の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで、種を入れないパンを食べなければならない。七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない。・・・。
 同21~27節そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。『あなたがたの家族のためにを、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家にはいって、打つことがないようにされる。あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。また、主が約束どおりに与えてくださる地にはいるとき、あなたがたはこの儀式を守りなさい。あなたがたの子どもたちが、「この儀式はどういう意味ですか。」と言ったとき、あなたがたはこう答えなさい。「それは主への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。」』すると民はひざまずいて、礼拝した。
 旧約聖書・列王記 第二12章7~16節それでヨアシュ王は、祭司エホヤダと、祭司たちを呼んで彼らに言った。『なぜ、宮の破損を修理しないのか。もう、あなたがたは、自分の担当する者たちから金を受け取ってはならない。宮の破損に、それを当てなければならないから。』祭司たちは、民から金を受け取らないことと、宮の破損の修理の責任を持たないことに同意した。祭司エホヤダは、一つの箱を取り、そのふたに穴をあけ、それを祭壇のわき、主の宮の入口の右側に置いた。入口を守る祭司たちは、主の宮に納められるをみな、そこに置いた。箱の中に金が多くなるのを見て、王の書記と大祭司は、上って来て、それを袋に入れ、主の宮に納められている金を計算した。こうして、勘定されたは、主の宮で工事をしている監督者たちの手に渡された。彼らはそれを主の宮で働く木工や建築師たち、石工や石切り工たちに支払い、また、主の宮の破損修理のための木材や切り石を買うために支払った。つまり、宮の修理のための出費全部のために支払った。ただし、主の宮に納められる金で、主の宮のために銀の皿、心切りばさみ、鉢、ラッパなど、すべての金の器、銀の器を作ることはなかった。ただ、これを工事する者に渡し、これを主の宮の修理に当てた。また、工事する者に支払うように金を渡した人々と、残高を勘定することもしなかった。彼らが忠実に働いていたからである。罪過のためのいけにえの金と、罪のためのいけにえの金とは、主の宮に納められず、祭司たちのものとなった。」。
 同・歴代誌 第二24章6~14節それで、王はかしらエホヤダを呼んで彼に言った。『なぜ、あなたはレビ人に要求して、主のしもべモーセとイスラエルの集団の、あかしの天幕のための税金を、ユダとエルサレムから持って来させないのですか。』・・・彼らは一つの箱を作り、それを主の宮の門の外側に置いた。そして、神のしもべモーセが荒野でイスラエルに課した税金を主のみもとに持って来るように、ユダとエルサレムに布告した。すると、すべてのつかさたち、すべての民が喜んで、それを持って来て、箱に投げ入れ、ついにいっぱいにした。が多くなったのを見て、レビ人たちが箱を王の役所に運んで行ったとき、王の書記と祭司のかしらに仕える管理人が来て、箱をからにし、それを持ち上げ、もとの場所に返した。彼らは毎日このように行ない、多くのを集めた。そこで、王とエホヤダは、これを主の宮の奉仕の仕事を行なう者に渡した。・・・彼らは、神の宮を元のとおりに建て、これを堅固にした。彼らは、完工の際、残った金を王とエホヤダの前に持って来た。彼らは、それで、主の宮の器具、すなわち、ささげる務めに用いる用具、深皿、金銀の器などを作った。こうして、人々はエホヤダの生きている間、絶えず、主の宮で全焼のいけにえをささげた。
 新約聖書・マルコの福音書12章41~44節(※:同・ルカの福音書21章1~4節も同様)「それから、イエス献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。』」。尚、レプタは最小単位の銅貨で、128レプタ=64コドラント=1デナリです。又、1デナリは当時の一日分の労賃に相当します。


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大和の中央政権に対する播磨人の反骨精神・・・「播磨国風土記―古代からのメッセージ」を読んで

2012-11-25 16:26:13 | 歴史・伝統・文化
 播磨人に元々在る、「気概」・「気骨」・「反骨精神」が解る次の本を読みました。
 「播磨国風土記―古代からのメッセージ」(監修:上田正昭氏、編集:播磨学研究所、出版社:神戸新聞総合出版センター 、出版日:1996/08) 
 古墳時代の4世紀前半頃までに大和政権が畿内に成立し、其の後に周辺地域を順に支配して統一していきました。其の後、飛鳥時代のA.D.645年に大化の改新があって現在まで続く日本の支配階級・権力者層が作られ、694年に藤原京へ遷都710年に平城京へ遷都して奈良時代になりました。そして、712年に古事記が編纂され、713年には風土記編纂命令が朝廷から地方の諸国に出され、715年に「播磨国風土記」が編纂され、720年には日本書紀が編纂されました。
 風土記編纂命令律令制度の基、行政の一環としての税制の基準を定める為に各国に出されたもので、其々の国の中の地名、地名の由来、昔話・伝説・神話、資源・産物、土地の状態を朝廷に報告させる為に編纂させた物です。現存する風土記は播磨国の他、出雲、常陸、豊後、肥前の五つが写本の形で残っています。其々の特徴として、常陸や九州の豊後・肥前は中央系で大和政権が地方の在地の勢力を征伐した事、出雲は在地系で中央の征伐に関しては全く触れていません。播磨の場合は中央系と在地系が半々に書かれています。大化の改新で中央集権化された律令制度の基、皇族・豪族等の私有地・私有民を公地・公民化し、それらを管理する為に五畿七道を定めて交通を整備し、地方を国・郡・里と分け、里の中に50戸戸毎に戸籍を持たせました。班田収授法によって豪族への土地の集中を防ぎ、公民に最低生活を保障し、国と地方の政府の税収を確保しました。公民は米や特産品等の物納と、兵役・雑役等の労役重い税を負わされました。しかし、平安時代の925年に風土記編纂督促命令が出されている事から、税負担を初めとして余り詳しく中央に報告したくない、中央に余り従いたくないと言う様な事から、其の頃でも未だ風土記の提出を拒んでいた国が存在した事が解ります。
 記紀は中央政権の権力者の都合の良い様に編纂されましたが、播磨国に関わる神話・伝承は余り書かれていません。出雲国風土記は在地の神話のみを記し、また播磨国風土記においては記紀神話に登場しない土着・在地の「伊和大神」が記されています。伊和大神は出雲大社の大国主命(葦原志許乎)の兄だとされています。在地の伊和大神は、九州から東遷して来た新羅の王子の天日楯(アメノヒボコ)と何回も戦って勝利した事が記されています。天日楯は其の後、近江、若狭と移って、但馬の出石に納まります。伊和族は出雲系の民族でした。3~4世紀頃に最も勢力を誇った伊和族は、宍禾郡(宍粟郡)一宮を根拠地として海岸部の播磨平野の方まで勢力を拡大し、餝磨郡(飾磨)・揖保郡・宍禾郡(宍粟)・讃容郡(佐用)・神前郡(神崎)・託賀郡(多可)に登場します。播磨には山陽道が通って、畿内・播磨・出雲を結び、又畿内・播磨・九州を結んでいた為に、国内での移動や渡来人の移動によって数々の文化や産物、技術が入ってきました。
 出雲人の相撲の野見宿禰がおり、現在の龍野に葬られていますが、その子孫に土師氏、その末裔に菅原氏、大江氏、秋篠氏がいます。土師氏は皇族の葬祭を司り、埴輪や古墳を作りました。大和政権の支配地が広がる事に伴って前方後円墳が各地に作られましたが、揖保川上流の宍禾郡や千種川上流の讃容郡(佐用郡)には4世紀末~5世紀初めに作られた前方後円墳が在ります。それまで抵抗・反抗していた土着の伊和族が大和政権に其の頃支配され、在地の豪族では無く畿内から派遣された中央の者が行政を執り、その者が其の墓に葬られた事が解ります。
 伊和族は宍禾郡・讃容郡にて古くから力を持って大和政権と対抗し抵抗・反抗を続けた為に、其の後、宍禾郡・讃容郡には重い税が課されました。藤原京や平城京からは宍禾郡・讃容郡からの税や貢ぎ物の記された荷札である木簡が大量に発見されている事から、大和政権からの圧政があった事が解ります5世紀中頃に21代雄略天皇は地域国家連合体であった国家を大和王権に臣従させて中央集権を進めるために、最大の地域政権の一つで大和政権に対抗し得る勢力を持った吉備(岡山県)に対して反乱鎮圧の名目で屈服を迫り、播磨の加古川の西まで勢力を伸ばした事もある其の勢力を削減していき、飛鳥時代には備前・備中・備後、のち奈良時代に備前から美作分割しました。 
 千種川沿い、揖保川沿いは砂鉄が多く産出し、製鉄・鍛冶が盛んでした。其の鉄製の武器や農具により勢力を持ちました。隣の吉備国も製鉄が盛んでした。因みに、製塩も播磨国と吉備国共に盛んでした。
 加古川以西が反天皇・反朝廷であった事に対し、加古川以東は親朝廷でありました。土着・在地系に対する中央権力播磨国神話に対する記紀系列神話でありました。播磨人の気概・気骨・反骨精神が伺えます。   
 15代応神天皇の父で日本武尊の子の14代仲哀天皇が亡くなった時に、その妻の神功皇后印南郡の伊保山(高砂市)に棺を納めるのに良いと見定められたと書かれていますが、仲哀天皇の在位は2世紀最後とされています。現在の仲哀天皇陵は岡ミサンザイ古墳(大阪府藤井寺市)と一応されています。後年になってからそちらの大きな天皇陵としての古墳に移したのかもしれません。明石郡の五色塚古墳も同様にして後年に作られましたが、結局誰も葬られていません。其の後に、伊保山の麓の石の宝殿の石は石棺として作られ様としたらしいですが、これは聖徳太子の時代に弓削氏との関わりの深い物部守屋が作ったとされていますが、聖徳太子が摂政となったのが593年で物部守屋が其の前の587年に亡くなっている為に矛盾が有ります。神話は書いてある事を鵜呑みには出来ませんが、其の当時の背景は知る事が出来ます。
 播磨国には12の郡が存在していましたが、明石郡は2,3か所のみ記載され、赤穂郡に関しては全く書かれていません。隣の備前に含まれていたのではないかとも言われています。聖徳太子の側近であった秦河勝が、622年の聖徳太子の死後に政権を握った蘇我氏から逃れる為に赤穂の坂越まで来て647年に大避神社を建て、千種川沿いを上流に向かって開発を進めていきました。大化の改新後に蘇我氏が滅んで藤原氏系となり、元々中央の支配層にいた秦氏が開発を進めた事で、税の負担等が優遇されていたのではないかと思います。
 
播磨国風土記―古代からのメッセージ播磨国風土記―古代からのメッセージ価格:¥ 1,835(税込)発売日:1996-08


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古事記・天孫降臨、イザヤ・ナギード(イザナギ)

2012-11-25 04:32:45 | 歴史・伝統・文化
 出雲系の兄・伊和大神(伊和族)と弟・大国主命(葦原志許乎)から、出石に納まった新羅系の王子の天日楯、そして天孫降臨と、土着・在地系から渡来系へと神話が遷移しますが、古事記・日本書紀の神話の天孫降臨は、イザナギとイザナミの夫婦以下、天皇の系図について述べられています。この天孫降臨神話は、アブラハム―イサク―ヤコブの系統に似ており、古代ユダヤ人の作った可能性が高いです。
 ヘブル語解釈をすると、イザナギは「イザヤ・ナギード」で意味は「グループの長であるイザヤ」イザナミは「イザヤ・ナオミ」「イザヤと共に居るナオミ」となります。神主の長である禰宜も、ナギードの転化したものです。イザヤは旧約聖書のイザヤ書を書いた、モーセと並ぶ最大の預言者です。B.C.810年~B.C.697年に書かれましたが、ユダヤ人がバビロンに捕囚されるより前に契約の箱を運び出し、シルクロードかインド洋を通って日本に契約の箱を持って来ました。
 イザナギ・イザナミの子アマテラスの孫のニニギノミコトは初代神武天皇の先祖で、高天原から高千穂に降臨したとあります。高天原は、アブラハムの子イサクの子のヤコブが長期間住んだ「タガーマ州ハラン」で、高千穂は「タカ・ツィヨーン」で意味はエルサレムの「シオンの丘」です。
 又、黄泉の国から帰って来たイザナギが最後に生み落した3柱の3貴子は、アマテラス(太陽神)、ツクヨミ(月神)、スサノオ(海原神)ですが、旧約聖書の最初の創世記1章1節「初めに、神が天と地を創造した。」とあり、ヘブル語では、神を表す「エル」の複数形「エロヒム」となっており、三位一体を意味しています。
 
 

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法然・親鸞は古代ユダヤ人

2012-11-22 21:47:00 | 歴史・伝統・文化
 平安時代中期のA.D.10世紀頃、各地で疫病や火事、争乱が続発して社会的な不安が広まり、破滅の世の到来が近くなっていると言う末法思想が流行りました。その様な背景から死後に悩みの無い世界へ行く事が出来るという浄土教が広まり、空也等が庶民の間に布教して回りました。空也は仁明天皇の子常康親王の子ですが、草履ばきに粗末な衣を身にまとい、下層の貧しい一般庶民の間で念仏を唱えながら布教しました。又、同様に其の不安定な背景から、豪族等から武芸を積んで訓練した武士が興りました。最初武士は臨時的に治安維持や争乱鎮圧に使われましたが、11世紀に入ると貴族等の下に常時その役目を持って置かれる事になりました。其の後、12世紀になって天皇・皇族間や摂関政治の貴族の間での内部対立が起こり、その争いに武士が利用されました。1156年の保元の乱1159年の平治の乱では、平氏や源氏の武士が活躍して其の問題を武力によって解決した為に、それ以来貴族の間で武士の地位が上がりました。其の頃に出て来たのが、法然と親鸞です。 
 貴族に抑圧されていた武士が台頭して社会変革が成されていった頃に、法然が仏教界において革命を起こし、其の遺志を受け継いで戒名を無くす等をして其の改革をより一層強く推し進めていったのが親鸞です。当時、お金持ちのものであった仏教を貧乏人や女性、罪を犯した者でも成仏できるとし下層の民のものとした法然と親鸞。そして、僧侶が隠れて女性関係を持っていたのを、堂々と隠さず妻を得た親鸞。
 法然は1133年の生まれで、人間救済を本願として1175年に浄土宗を開きました。法然は秦氏が多く住んだ美作国(岡山県)で生まれ母親が秦氏、父親も秦氏の血筋の辛島氏を先祖にもつ漆間時国でありました。辛島氏は製鉄・鍛冶を行ない、その祭祀も司っていました。又、豊前国(大分県、福岡県)を根拠地としていましたが、大分県には八幡神社の総本社の宇佐八幡宮が在ります。秦氏が八幡神社と稲荷神社を作りましたが、渡来人の秦氏は新羅系で、宇佐八幡宮は応神天皇(八幡大神)、神功皇后(応神天皇の母)、比売大神の「3柱」を祭ります。秦氏は応神天皇を支援して、後に畿内へと移動します。記紀神話や風土記の天日楯(アメノヒボコ)は新羅の王子で、九州から山陽道を通って移動する間に在地の豪族と戦い、但馬の出石(兵庫県)に納まった事が書かれています。しかし、古事記・日本書紀は奈良時代の中央の権力者の意向で書かれた物で、その内容を鵜呑みにする事は出来ません。また神話も同様ですが、その記述からその時代の背景を読み取る事は出来ます。
 一方、親鸞は1173年に生まれ、法然の教えをより深く進めて、罪を犯した人も救われる事を本願とする悪人正機説を唱えて、1224年に浄土真宗(一向宗)を開きました。其の親鸞は源頼朝と源義経の甥になります。源氏は秦氏の血を受け継ぎ、後に多くの大名へと末裔が広がっていきます。哲学者の梅原猛氏は、親鸞の「人は皆悪の心を持つ」という「原罪感」が、母方の源氏の血筋から来ていると言われています。それは、聖書的な考えである、人は皆元々生まれながらにして罪を犯しやすい性質を持っていると言う「原罪」に共通しています。秦氏が景教(ネストりウス派キリスト教)の信者であった事からも理解出来ます。
 法然と親鸞、そして虐げられていた武士の台頭によって貴族の握る世の中に改革が起こされ、下層・末端の庶民への希望が与えられました。

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多民族国家の日本に古代ユダヤ人

2012-11-21 20:23:04 | 歴史・伝統・文化
 日本には、縄文時代以前の多様な原住民と、弥生時代以降に渡来して来た多様な民族が存在します。そして、やがて古墳時代に大和政権によって多くの国が統一されていき、飛鳥時代のA.D.645年の大化の改新によって日本のエスタブリッシュメント(藤原氏系統)が固められました。そして、中央の権力に従わない者達は山奥等の辺境に追いやられ、又、蝦夷として東北、北海道等へと追いやられてしまいました。
 山奥へ逃れた者達「サンカ」と呼ばれ、戸籍も持ちませんでした。又、奈良時代に仏教を国教として仏像を拝む事を強制され、創造主(唯一神)の律法の定めに忠実なユダヤ人は偶像崇拝を律法で禁じられている為に仏像を拝む事を拒否し、サンカ同様に、或いはサンカとなって山へ逃れたり、差別のエタとなり()となりました。新約聖書には、この様な御言葉が有ります。マタイの福音書24章15~17節それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。。これはイエス様が今後の世の終わりの時の事について弟子達に語られた御言葉の内の一部ですが、NWOによる世界支配の独裁者がエルサレムを中心にして立つ事に当たります。他にも地震による津波の時等も当てはまります。 因みに、大化の改新より前の権力闘争で、崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋との戦いで勝利を収めたのが崇仏派の蘇我馬子であり、其の中に厩戸王子(聖徳太子、イエス・キリスト同様に馬宿で生まれたと、ユダヤ人の側近達によって名付けられた)がいました。先の藤原氏と同様に、中央の権力に妥協し従って出世したユダヤ人も多くいました。
  差別のエタの身分とされた人達は、ユダヤ人である事が多いです。ユダヤ人は旧約聖書の時代の紀元前、神様に罪を許してもらう為に、人間・罪の代わりとして牛を犠牲にして神様に捧げました。漢字は紀元前に中国にてユダヤ人によって作られましたが(漢字に聖書の由来があります)、犠牲と言う漢字は両方共に牛偏であります。()となって牛(屠畜)や皮革加工を生業として、差別されながら生活して来ました。外国では其の様な職業に対して、差別的な捉え方は全くありません。
 「サンカ」からは忍者、服部氏は機織部、つまり秦氏能楽・猿楽の観阿弥・世阿弥は服部氏、から芸能(能役者・歌舞伎役者)や庭師(造園)の善阿弥(室町時代。京都の中世以降の石庭の多くは(御庭者)の作)等が挙げられます。
 B.C.721年に北のイスラエル王国がアッシリアに滅ぼされて世界に散らされたイスラエル十支族と、B.C.586年に南のユダ王国がバビロニア王国に滅ぼされてバビロン捕囚後に再帰還や其処に留まる等をし、そしてその後のA.D.70年にローマに滅ぼされて散らされた残りの2支族が、シルクロードを通って日本にも辿り着いて来ています。渡来人の「秦氏」はユダヤ人で、其の後に源氏、そして長曾我部氏や島津氏、毛利氏等の末裔が存在します。源氏によって中央の貴族権力に反発して武士政権の鎌倉幕府を成立させ、戦国時代には下剋上によって権力・支配者への反抗が有りました。京都の太秦を本拠地とし、景教(ローマ教会からは異端とされたネストリウス派キリスト教)の信者でありました。中国ではローマの事を「大秦」と言います。又、その京都と兵庫県の赤穂市坂越等にある大避(大酒)神社は聖徳太子の側近であった秦河勝が作りましたが、中国では「大辟」と書いてダビデを意味します。秦氏は、機織り、製鉄、鍛冶、土木工事、製塩等の技術を持って来て、日本に伝え活用されました。エルサレムを意味する平安京は、その技術が生かされて造られました。

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