狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

大和の中央政権に対する播磨人の反骨精神・・・「播磨国風土記―古代からのメッセージ」を読んで

2012-11-25 16:26:13 | 歴史・伝統・文化
 播磨人に元々在る、「気概」・「気骨」・「反骨精神」が解る次の本を読みました。
 「播磨国風土記―古代からのメッセージ」(監修:上田正昭氏、編集:播磨学研究所、出版社:神戸新聞総合出版センター 、出版日:1996/08) 
 古墳時代の4世紀前半頃までに大和政権が畿内に成立し、其の後に周辺地域を順に支配して統一していきました。其の後、飛鳥時代のA.D.645年に大化の改新があって現在まで続く日本の支配階級・権力者層が作られ、694年に藤原京へ遷都710年に平城京へ遷都して奈良時代になりました。そして、712年に古事記が編纂され、713年には風土記編纂命令が朝廷から地方の諸国に出され、715年に「播磨国風土記」が編纂され、720年には日本書紀が編纂されました。
 風土記編纂命令律令制度の基、行政の一環としての税制の基準を定める為に各国に出されたもので、其々の国の中の地名、地名の由来、昔話・伝説・神話、資源・産物、土地の状態を朝廷に報告させる為に編纂させた物です。現存する風土記は播磨国の他、出雲、常陸、豊後、肥前の五つが写本の形で残っています。其々の特徴として、常陸や九州の豊後・肥前は中央系で大和政権が地方の在地の勢力を征伐した事、出雲は在地系で中央の征伐に関しては全く触れていません。播磨の場合は中央系と在地系が半々に書かれています。大化の改新で中央集権化された律令制度の基、皇族・豪族等の私有地・私有民を公地・公民化し、それらを管理する為に五畿七道を定めて交通を整備し、地方を国・郡・里と分け、里の中に50戸戸毎に戸籍を持たせました。班田収授法によって豪族への土地の集中を防ぎ、公民に最低生活を保障し、国と地方の政府の税収を確保しました。公民は米や特産品等の物納と、兵役・雑役等の労役重い税を負わされました。しかし、平安時代の925年に風土記編纂督促命令が出されている事から、税負担を初めとして余り詳しく中央に報告したくない、中央に余り従いたくないと言う様な事から、其の頃でも未だ風土記の提出を拒んでいた国が存在した事が解ります。
 記紀は中央政権の権力者の都合の良い様に編纂されましたが、播磨国に関わる神話・伝承は余り書かれていません。出雲国風土記は在地の神話のみを記し、また播磨国風土記においては記紀神話に登場しない土着・在地の「伊和大神」が記されています。伊和大神は出雲大社の大国主命(葦原志許乎)の兄だとされています。在地の伊和大神は、九州から東遷して来た新羅の王子の天日楯(アメノヒボコ)と何回も戦って勝利した事が記されています。天日楯は其の後、近江、若狭と移って、但馬の出石に納まります。伊和族は出雲系の民族でした。3~4世紀頃に最も勢力を誇った伊和族は、宍禾郡(宍粟郡)一宮を根拠地として海岸部の播磨平野の方まで勢力を拡大し、餝磨郡(飾磨)・揖保郡・宍禾郡(宍粟)・讃容郡(佐用)・神前郡(神崎)・託賀郡(多可)に登場します。播磨には山陽道が通って、畿内・播磨・出雲を結び、又畿内・播磨・九州を結んでいた為に、国内での移動や渡来人の移動によって数々の文化や産物、技術が入ってきました。
 出雲人の相撲の野見宿禰がおり、現在の龍野に葬られていますが、その子孫に土師氏、その末裔に菅原氏、大江氏、秋篠氏がいます。土師氏は皇族の葬祭を司り、埴輪や古墳を作りました。大和政権の支配地が広がる事に伴って前方後円墳が各地に作られましたが、揖保川上流の宍禾郡や千種川上流の讃容郡(佐用郡)には4世紀末~5世紀初めに作られた前方後円墳が在ります。それまで抵抗・反抗していた土着の伊和族が大和政権に其の頃支配され、在地の豪族では無く畿内から派遣された中央の者が行政を執り、その者が其の墓に葬られた事が解ります。
 伊和族は宍禾郡・讃容郡にて古くから力を持って大和政権と対抗し抵抗・反抗を続けた為に、其の後、宍禾郡・讃容郡には重い税が課されました。藤原京や平城京からは宍禾郡・讃容郡からの税や貢ぎ物の記された荷札である木簡が大量に発見されている事から、大和政権からの圧政があった事が解ります5世紀中頃に21代雄略天皇は地域国家連合体であった国家を大和王権に臣従させて中央集権を進めるために、最大の地域政権の一つで大和政権に対抗し得る勢力を持った吉備(岡山県)に対して反乱鎮圧の名目で屈服を迫り、播磨の加古川の西まで勢力を伸ばした事もある其の勢力を削減していき、飛鳥時代には備前・備中・備後、のち奈良時代に備前から美作分割しました。 
 千種川沿い、揖保川沿いは砂鉄が多く産出し、製鉄・鍛冶が盛んでした。其の鉄製の武器や農具により勢力を持ちました。隣の吉備国も製鉄が盛んでした。因みに、製塩も播磨国と吉備国共に盛んでした。
 加古川以西が反天皇・反朝廷であった事に対し、加古川以東は親朝廷でありました。土着・在地系に対する中央権力播磨国神話に対する記紀系列神話でありました。播磨人の気概・気骨・反骨精神が伺えます。   
 15代応神天皇の父で日本武尊の子の14代仲哀天皇が亡くなった時に、その妻の神功皇后印南郡の伊保山(高砂市)に棺を納めるのに良いと見定められたと書かれていますが、仲哀天皇の在位は2世紀最後とされています。現在の仲哀天皇陵は岡ミサンザイ古墳(大阪府藤井寺市)と一応されています。後年になってからそちらの大きな天皇陵としての古墳に移したのかもしれません。明石郡の五色塚古墳も同様にして後年に作られましたが、結局誰も葬られていません。其の後に、伊保山の麓の石の宝殿の石は石棺として作られ様としたらしいですが、これは聖徳太子の時代に弓削氏との関わりの深い物部守屋が作ったとされていますが、聖徳太子が摂政となったのが593年で物部守屋が其の前の587年に亡くなっている為に矛盾が有ります。神話は書いてある事を鵜呑みには出来ませんが、其の当時の背景は知る事が出来ます。
 播磨国には12の郡が存在していましたが、明石郡は2,3か所のみ記載され、赤穂郡に関しては全く書かれていません。隣の備前に含まれていたのではないかとも言われています。聖徳太子の側近であった秦河勝が、622年の聖徳太子の死後に政権を握った蘇我氏から逃れる為に赤穂の坂越まで来て647年に大避神社を建て、千種川沿いを上流に向かって開発を進めていきました。大化の改新後に蘇我氏が滅んで藤原氏系となり、元々中央の支配層にいた秦氏が開発を進めた事で、税の負担等が優遇されていたのではないかと思います。
 
播磨国風土記―古代からのメッセージ播磨国風土記―古代からのメッセージ価格:¥ 1,835(税込)発売日:1996-08



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